第86話 動き出す世界 23
天井のスプリンクラーの雨が、廊下を叩いていた。
水滴が、非常灯の薄い光を砕き、床に小さな星を散らす。
その星の上を、Σ1は足が滑らないように「補正」している――その補正の"間"が、いま夜のど真ん中に露出していた。
ヘルマンは、その間だけを見た。
見た、だけではない。嗅いだ。
熱の臭い。摩擦の臭い。わずかな焦げの臭い。
「……今だ」
声は小さい。
ヘルマンの拳が、Σ1の背面――"熱の筋"へ返った。
叩くのではない。押し潰す。
掌底で、循環の逃げ道を塞ぐ。
熱を閉じ込めるのは、銃で急所を撃ち抜くより残酷だ。
敵が自分の熱で死ぬ。
同時に、ワジキが動いた。
ワジキは"殴らない"。
彼は"噛む"。
抱え込んでいたΣ2の腕を、壁へ押し付けたまま、顔を寄せる。
顎が開き、歯が見えた。
人間の歯の並びじゃない。
戦場に合わせて整えられた噛み合わせ。
ガリ、と乾いた音。
雨音の中でも、それははっきりした。
冷却ラインに牙が立つ。
白い煙が、背中から吐き出される。
冷媒と熱気が混ざった、白い怒り。
Σ2が、初めて"嫌な動き"をした。
逃げるでもなく、反撃でもなく、ただ工程を「組み直す」ための微細な揺れ。
だが揺れは揺れだ。
完璧の側が揺れた瞬間、勝負は勝負になる。
「うるさいな……」
ロータが呟いた。
血が噴き出し続ける腕と右の脇腹を押さえながら、それでも立っている。
心臓がうるさい。雨も、機械も、全部うるさい。
うるさい世界の中で、まだ自分が呼吸しているのが腹立たしいほど分かる。
イザベルはルカの頭上を覆ったまま、龍雅を見た。
龍雅は頷く。
「治療、続行。止めない」
龍雅の指がx3000の端末のキーを叩く。
廊下の照明が、わずかに"ずれる"。
均質な暗さが崩れ、影が増える。
影が増えれば、ヘルマンが勝つ。
機械は影で迷う。
人間は影で生きる。
ユリアが、ビル空調のダンパーを切り替えた。
風向きが変わる。
無音が、ほんの一瞬「ひしゃげる」。
その瞬間に、Σのセンサー融合がズレる。
Σの世界の座標が0.2秒だけ狂う。
0.2秒あれば、人間は心臓を一拍打てる。
一拍打てれば、次へ進める。
ヘルマンが、床を叩いた。
ドン。
ワジキへの合図だ。
"ここで噛め"ではない。
"ここで生きろ"という合図。
ワジキが噛みついたまま、低く言った。
「……動くな」
命令の形をした救助。
Σ2の腕が、ワジキの胸をえぐるように押し返そうとしたが、押し返せない。
ワジキの胸は、押し返されるためにあるのではなく、押し返されないためにある。
背面から上がる白煙が濃くなる。
Σ2の動きが鈍る。
鈍ったものの作業は、"殺戮工程"から脱落する。
ヘルマンの拳が、もう一発、Σ1の背へ入った。
ゴン。
硬い手応え。
そして、確かな"間"。
Σ1が半歩、遅れた。
その半歩を、ヘルマンは見逃さない。
肘を入れる。
肩を入れる。
体重を、合理の中心へぶつける。
「……お前らの最短は、俺の患者には届かない」
言葉は珍しく長かった。
長い言葉が出るのは、怒りの時だ。
怒りは危険だ。だが今夜は、怒りが必要だった。
廊下の向こうで、治療装置の起動音が小さく立つ。
X3000の心臓が、再び回り始めた音。
ルカが、目を閉じたまま呟く。
「……治療、続いている」
その声が、全員の背骨を一本にした。
守る理由が、一本になる。
勝つためじゃない。
英雄になるためでもない。
ただ、治療を終わらせるためだ。
* *
ベルリン郊外。
白い会議室。
モニターの画面は、一枚、また一枚と黒くなっていた。
Σ3のヘッドカメラはすでにブラックアウト。
そして今、Σ2の送信も不安定になり、Σ1の映像には雨粒とノイズが混じり始める。
バルツェクの指が机を叩く。
叩くたびに、音が大きくなる。
怒りが増えるのではない。
"売り物が汚されている"という屈辱が、音量を上げている。
「……ふざけるな」
呟きが、喉から漏れた。
怒鳴るほどの余裕がない。
余裕がない商人は、いちばん危険だ。
背後では、さっきまで並んで座っていた高官の椅子は空っぽ。
NASAとの商談中止。立ち去った。
冷たい現実だけが残る。
バルツェクはモニターに向かって、歯を食いしばる。
"人間のノイズ"が、商品価値を殺す。
しかも、そのノイズが――医者の指と、獣の牙と、超神の拳でできている。
「……次を用意しろ」
誰に言ったのか分からない。
空気に命令しているような声だった。




