第85話 動き出す世界 22
ナマズ・ビルの内部は、冷えきったた水槽みたいに静かだった。
静かすぎて、逆に"誰かが息を殺している"のが分かる。
ワジキは、正面玄関を使わなかった。
隠れた英雄は玄関から入らない。
ましてや"守るための殺し屋"は。
非常階段――。
無人のコンクリートの喉。
サービスダクト――。
つまりは、建物の腸。
彼はその二つを、迷いなく選んだ。
階段を上がる足音は小さい。
だが、消えてはいない。
消さない。
ここで消すべきなのは自分の足音じゃない。
敵の"完璧"さ。
折り返しの踊り場。
手すりを掴む指が、ほんの一瞬だけ軋んだ。
赫骨化の、金属がこすれるような音。
だがワジキは顔色ひとつ変えない。
五十七階。
空気が違う。
乾いている。整いすぎている。
"無音が鎬を削るフロア"だ。
廊下の奥で、鈍い衝撃が連続していた。
人間が殴られる音ではない。
人間が"壁"になって、暴走する機械を止めようとしている音だ。
ヘルマン。
ワジキは、そこで初めて歩調を変えた。
走らない。
跳ばない。
"入る"のではなく、"突っ込む"。
廊下へ出た瞬間、視界の端に二体の影がいた。
Σ-1、Σ-2。
戦闘的合理性の塊。
プログラムされた工程で、容赦なく正確に対象を殺す連中。
ヘルマンの背に張りつき、喉元に、関節に、最短の工程手順を流し込もうとしていた。
ワジキは言葉を捨てたまま、体をぶつけた。
ドン――。
拳ではない。
銃でもない。
体重そのもの。
肉と骨と、異形の関節で作った"壁"が、二体の工程の間に割り込む。
Σ-1の肘がわずかにずれ、Σ-2の足首の体勢補正が遅れる。
その遅れは、時計の針で測れば一瞬だ。
だが戦闘の現場では、無間の命の長さ。
ヘルマンの息が、初めて少しだけ荒くなった。
「……来たか、兄弟」
褒め言葉ではない。
確認だ。合流だ。
戦場の挨拶だ。
ワジキは短く頷いた。
そして、Σ-1の背面を見た。
熱の筋。
冷却循環の逃げ道。嘘をつけない場所。
だが、噛むのはまだだ。
彼の役目は"倒す"ではない。
いまは――空間を守るために、押さえる。
ワジキはΣ-2の腕を抱え込み、抱えたまま壁へ叩きつけた。
叩きつけても、Σは悲鳴を上げない。
悲鳴を上げたのは、壁のほうだった。
コンクリが、絶叫をあげる。
それでいい。
"綺麗な戦闘"は、買い手のものだ。
現場は汚れていい。
少々汚れていたほうが、人間は生きる。
*
同じころ――
別の侵入者による浸食が始まっていた。
ユリアは廊下に立った瞬間、見たのは壁に掛かったナマズ・ビルを制御している液晶パネルの盤面だ。
照明の濃淡。
空調の流れ。
扉の開閉圧。
スプリンクラーの配管。
医療ガスの供給ライン。
電源区画の系統図。
医師は人体を見る。
だが今夜の敵は、人体より先に"環境"を殺しに来ている。
なら環境を治療するしかない。
ユリアは端末に指を走らせた。
迷いはなかった。迷えば誰かが死ぬ。
最初に――スプリンクラー。
天井のスプリンクラーが、いきなり開いた。
乾いた廊下に人工の雨が降る。
水は敵味方を選ばない。
だが"無音"だけは確実に殺す。
Σの足元の補正が乱れる。
外装に水滴が乗り、光学視界が曇る。
床の摩擦係数が変わり、最短が微妙に最短ではなくなる。
次に――医療ガス遮断。
配管の制御バルブを落とす。
治療室に流れていた"麻酔を装った殺し"のルートを、先に潰す。
呼吸は命だ。
四騎士の呼吸を奪う道具を、こちらが取り上げる。
最後に――電源区画の切替。
真っ暗にしない。
TYPE-Σが必要とする"正確な情報"だけを奪う。
均質な暗さを崩し、影を増やす。
影が増えれば、TYPE-Σの読みは鈍り、ヘルマンの読みは鋭くなる。
ヘルマンは影で戦う。
機械は影で迷う。
廊下の空気が、目に見えて"汚染された"。
それは、命をつなぐための清浄化だった。
ユリアは、治療室のリモートカメラを見やった。
中ではルカが横たわっている。
視界を失いながら、それでも"来ない音"で世界を読んでいる男。
その治療が始まれば、装置は最も脆い瞬間に入る。
敵はそこを狙う。
だからここで――目的を一本にする必要があった。
ユリアは、声を張らなかった。
声を張れば、言葉が熱になる。熱は判断を濁らせる。
彼女は、医者の声で宣言した。
「ルカの治療は継続します」
廊下にいる全員の呼吸が、同じ一拍で止まった。
その一拍の後、空気が変わる。
戦う理由が、一本になる。
敵を倒すためじゃない。
勝つためでもない。
――ルカを生かす。
その一本が通った瞬間、現場は強くなる。
不思議なほど、強くなる。
ユリアは続けた。
「治療の間、ルカを守る。守り切る。退かない。それが今夜の"作戦"です」
誰も反論しなかった。
ヘルマンは目を細めたまま、拳を握り直した。
ワジキは無言で、Σ-1の肩関節を押さえ込み、さらに壁に押し付けた。
ロータは血の滲む腕を押さえながら、扉の前で立ち続けた。
イザベルはルカの頭上を覆い、母親みたいな姿勢で動かなかった。
ユリアは、最後に小さく息を吐いた。
医療は、奇跡じゃない。
手順だ。
手順を守るためには、時に――拳が必要になる。
そして今夜は、最悪な形をした拳が、ちゃんとここにいる。
廊下の雨の中、Σ-1がわずかに姿勢を乱した。
その"間"が来た。
ワジキの目が、背面の熱の筋を捉える。
ヘルマンの拳が、そこへ行く。
ユリアの指が、さらに電源を揺らし、"最短"を鈍らせる。
この場の誰も、英雄になろうとしていない。
ただ、ひとつの命を、今日まで運ぶために動いている。
殺戮ショウの客席は、遠い。
だが、ここで起きているのは見せ物じゃない。
ルカの命を、命の側へ引き戻す作業だ。
雨が落ちる。
水滴が、血を薄める。
そして薄められた血の中で、人間の意志だけが濃くなる。
――治療は、止まらない。
――だから、守りも止まらない。




