表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/100

第84話 動き出す世界 21

 ルカの肩に、ケイの前脚が一瞬だけ触れた。


 押し返すでも抱き寄せるでもない。


 ただ「そこから動くな」という、体温より冷たい命令だった。


 次の瞬間、TYPE-Σ3がケイの視覚から消えた。


 ケイの視覚が翻弄されたためであった。


 実体はそこにいる。


 ただ、超高速の移動と停止を繰り返すせいで、空間に「残り」が生まれる。


 残像が、まだそこにいると思わせる。


 残像が、もういないと嘘をつく。


 残像が、攻撃の方向まで勝手に作り替える。


 ケイはもう一度、踏み込んだ。


 踏み込みの途中で、Σ3の影が三つに割れ、四つに増えた。足を出した先で、床が爆ぜる。


 コンクリが砕け、鉄骨が鳴った。


「くっ……」


 声が漏れた瞬間に、右肩が焼けるように痛んだ。遅れて熱風が来る。


 衝撃で肺が潰れ、息が細くなる。だが倒れない。倒れたら、ルカまで届く。


 Σ3の停止は、秒の十分の一にも満たない。


 だが、その停止の"癖"があった。


 機械は完璧を演じるが、完璧を維持するために必ず同じ呼吸をする。


 停止直前、わずかに重量が沈む。


 床に伝わる。


 微震動。


 人間なら聞き逃す。


 獣なら拾う。


 暴獣ケイは耳ではなく、足裏でそれを拾った。


 残像に眼をくれてやるな。床に問いかけろ。


 次にΣ3が止まる場所は、床が先に知っている。


 ケイは左右に振られた視界を捨て、真っ直ぐ前に走った。


 走った先に"いるはずのない空白"があった。


 残像の合間、未来の穴だ。


 空白が、突然、硬い塊になった。


 Σ3の装甲が、ケイの鼻先で現れた。


 金属の匂い。


 熱とオイルと、わずかに甘い冷却触媒の臭い。


 ケイは笑った。


 喉の奥で乾いた笑いが鳴った。


「見つけた」


 跳んだ。


 人間の跳躍ではない。


 ただの獣の跳躍でもない。


 ケイの研ぎ澄まされた遺伝子と執念を一緒くたにした、乱暴な飛翔だ。


 ケイの前脚がΣ3の肩関節に絡み、後脚が背中に巻きつく。


 Σ3が反射的に振り落としに入ったが、その瞬間が命取りになる。


 一瞬の間Σ3の動きが止まった。


 止まった"その瞬間"だけは、残像が嘘をつけない。


 ケイは背部を取った。


 硬い背中の中央。


 装甲の隙間に、冷却回路のラインが走っている。


 熱を逃がし、心臓部を守るための脈管だ。


 そこを齧れば、この怪物は自分の熱で死ぬ。


 ケイは口を開いた。


 歯が白く光った。


 牙というほど獣じみたものではない。


 だが人間の歯でもない。


 噛むために整えられた、兵器の歯牙だ。


 ガリ、と音がした。


 金属が歯に当たり、次いで柔らかい素材が裂ける感触。


 冷媒が、霧になって噴き出した。


 背部から白煙が上がる。


 蒸気ではない。冷却剤と熱気が混ざってできた、白い怒りだ。


 Σ3が、甲高く呻いた。


 呻きが機械音に変わり、機械音が悲鳴に変わった。


 全身の回路がオーバーヒートする。


 装甲の継ぎ目が赤く染まり、熱で空気が揺らぐ。


 残像現象は、今度は"熱の亡霊"として周囲に漂った。


 ケイは歯を食いしばり、さらに深く噛み込んだ。


 冷却ラインの向こう側、心臓部へ――。


 Σ3の動きが乱れる。


 超高速の制御が崩れ、停止が長くなる。


 残像が減り、代わりに現実の姿をさらけ出す時間が増えた。


 現実はいつも残酷だ。


 そのときだった。


 遠く離れた武器商人たちの観察室。


 強化ガラス越しに並んで座る、武器商人たちの前で、モニターが一斉に瞬いた。


 Σ3のヘッドカメラ映像。


 ケイの背中越しに見えていた世界が、突然、黒く塗りつぶされた。


 ブラックアウト。


 音声も途切れ、ただノイズが短く走って沈黙した。


 観察室に、空調の風の音だけが残る。


 バルツェクは椅子を蹴った。


 金属製の脚が床を擦り、嫌な音が立った。


 拳がコンソールに叩きつけられ、警告灯が一つ、二つと赤く点いた。


 「ふざけるな……! あれは"商品"だぞ!」


 商品。


 人を殺すための機械を、パンのように数えて売る連中の言葉だ。


 だが、その言葉の奥にあるのは誇りでも理念でもない。単純な損失への恐怖だけだ。


 その横で、高官がゆっくり立ち上がった。背筋が伸びている。


 失望を隠す必要がない立場の人間の姿勢だった。


「商談は中止だ。NASAの装備としてTYPE-Σは採用できない」


 声は低く、乾いていた。


 唾を飲む必要のない声だ。


 バルツェクが慌てて何か言いかけたが、高官は手を上げて止める。


「残像? ブラックアウト? この程度の制御もできん兵器に、うちの予算は回せない。見せ物としては面白いが、戦場は映画館ではない」


 皮肉が、刃物のように刺さる。


 バルツェクの顔が歪んだ。


 怒りに震えるというより、悔しさが筋肉を痙攣させている。


 高官は振り返らないまま歩き出した。


 随行員が慌てて後ろにつき、扉が開き、閉まる。重い扉が閉まった音が、商談の終わりをきっぱり告げた。


 観察室に残ったのは、赤い警告灯の点滅と、バルツェクの荒い呼吸だけだった。


 外では、白煙の向こうでΣ3が崩れ始めている。


 熱に負けた回路が自分の理性を失い、理性を失った機械はただの鉄屑になる。


 ケイは背中から飛び降り、ルカのほうを振り向いた。


 煙の中でも、ルカの輪郭だけは見えた。小さく、震えている。だが立っている。


 ケイは一歩だけ近づき、短くルカの脳に伝達信号を送った。


「終わった。生きてるな」


 ルカがうなずいた。言葉にならない声が喉で跳ねる。


 ケイは、笑いそうになってやめた。


 ここで笑うと、たぶん自分が一番壊れる。


 代わりに、ほんの少し前脚をすくめた。


 煙が薄れ、崩れたΣ3の残骸が現れた。黒く焦げ、まだ熱を吐いている。


 べルリンでは、バルツェクが拳を握り、爪が掌に食い込むほどの力で震えているだろう。


 ルカはそれを想像して、やっと少しだけ口元を歪めた。


 敗北の味は、冷媒より苦い。

 

 しかも、よく冷える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ