第84話 動き出す世界 21
ルカの肩に、ケイの前脚が一瞬だけ触れた。
押し返すでも抱き寄せるでもない。
ただ「そこから動くな」という、体温より冷たい命令だった。
次の瞬間、TYPE-Σ3がケイの視覚から消えた。
ケイの視覚が翻弄されたためであった。
実体はそこにいる。
ただ、超高速の移動と停止を繰り返すせいで、空間に「残り」が生まれる。
残像が、まだそこにいると思わせる。
残像が、もういないと嘘をつく。
残像が、攻撃の方向まで勝手に作り替える。
ケイはもう一度、踏み込んだ。
踏み込みの途中で、Σ3の影が三つに割れ、四つに増えた。足を出した先で、床が爆ぜる。
コンクリが砕け、鉄骨が鳴った。
「くっ……」
声が漏れた瞬間に、右肩が焼けるように痛んだ。遅れて熱風が来る。
衝撃で肺が潰れ、息が細くなる。だが倒れない。倒れたら、ルカまで届く。
Σ3の停止は、秒の十分の一にも満たない。
だが、その停止の"癖"があった。
機械は完璧を演じるが、完璧を維持するために必ず同じ呼吸をする。
停止直前、わずかに重量が沈む。
床に伝わる。
微震動。
人間なら聞き逃す。
獣なら拾う。
暴獣ケイは耳ではなく、足裏でそれを拾った。
残像に眼をくれてやるな。床に問いかけろ。
次にΣ3が止まる場所は、床が先に知っている。
ケイは左右に振られた視界を捨て、真っ直ぐ前に走った。
走った先に"いるはずのない空白"があった。
残像の合間、未来の穴だ。
空白が、突然、硬い塊になった。
Σ3の装甲が、ケイの鼻先で現れた。
金属の匂い。
熱とオイルと、わずかに甘い冷却触媒の臭い。
ケイは笑った。
喉の奥で乾いた笑いが鳴った。
「見つけた」
跳んだ。
人間の跳躍ではない。
ただの獣の跳躍でもない。
ケイの研ぎ澄まされた遺伝子と執念を一緒くたにした、乱暴な飛翔だ。
ケイの前脚がΣ3の肩関節に絡み、後脚が背中に巻きつく。
Σ3が反射的に振り落としに入ったが、その瞬間が命取りになる。
一瞬の間Σ3の動きが止まった。
止まった"その瞬間"だけは、残像が嘘をつけない。
ケイは背部を取った。
硬い背中の中央。
装甲の隙間に、冷却回路のラインが走っている。
熱を逃がし、心臓部を守るための脈管だ。
そこを齧れば、この怪物は自分の熱で死ぬ。
ケイは口を開いた。
歯が白く光った。
牙というほど獣じみたものではない。
だが人間の歯でもない。
噛むために整えられた、兵器の歯牙だ。
ガリ、と音がした。
金属が歯に当たり、次いで柔らかい素材が裂ける感触。
冷媒が、霧になって噴き出した。
背部から白煙が上がる。
蒸気ではない。冷却剤と熱気が混ざってできた、白い怒りだ。
Σ3が、甲高く呻いた。
呻きが機械音に変わり、機械音が悲鳴に変わった。
全身の回路がオーバーヒートする。
装甲の継ぎ目が赤く染まり、熱で空気が揺らぐ。
残像現象は、今度は"熱の亡霊"として周囲に漂った。
ケイは歯を食いしばり、さらに深く噛み込んだ。
冷却ラインの向こう側、心臓部へ――。
Σ3の動きが乱れる。
超高速の制御が崩れ、停止が長くなる。
残像が減り、代わりに現実の姿をさらけ出す時間が増えた。
現実はいつも残酷だ。
そのときだった。
遠く離れた武器商人たちの観察室。
強化ガラス越しに並んで座る、武器商人たちの前で、モニターが一斉に瞬いた。
Σ3のヘッドカメラ映像。
ケイの背中越しに見えていた世界が、突然、黒く塗りつぶされた。
ブラックアウト。
音声も途切れ、ただノイズが短く走って沈黙した。
観察室に、空調の風の音だけが残る。
バルツェクは椅子を蹴った。
金属製の脚が床を擦り、嫌な音が立った。
拳がコンソールに叩きつけられ、警告灯が一つ、二つと赤く点いた。
「ふざけるな……! あれは"商品"だぞ!」
商品。
人を殺すための機械を、パンのように数えて売る連中の言葉だ。
だが、その言葉の奥にあるのは誇りでも理念でもない。単純な損失への恐怖だけだ。
その横で、高官がゆっくり立ち上がった。背筋が伸びている。
失望を隠す必要がない立場の人間の姿勢だった。
「商談は中止だ。NASAの装備としてTYPE-Σは採用できない」
声は低く、乾いていた。
唾を飲む必要のない声だ。
バルツェクが慌てて何か言いかけたが、高官は手を上げて止める。
「残像? ブラックアウト? この程度の制御もできん兵器に、うちの予算は回せない。見せ物としては面白いが、戦場は映画館ではない」
皮肉が、刃物のように刺さる。
バルツェクの顔が歪んだ。
怒りに震えるというより、悔しさが筋肉を痙攣させている。
高官は振り返らないまま歩き出した。
随行員が慌てて後ろにつき、扉が開き、閉まる。重い扉が閉まった音が、商談の終わりをきっぱり告げた。
観察室に残ったのは、赤い警告灯の点滅と、バルツェクの荒い呼吸だけだった。
外では、白煙の向こうでΣ3が崩れ始めている。
熱に負けた回路が自分の理性を失い、理性を失った機械はただの鉄屑になる。
ケイは背中から飛び降り、ルカのほうを振り向いた。
煙の中でも、ルカの輪郭だけは見えた。小さく、震えている。だが立っている。
ケイは一歩だけ近づき、短くルカの脳に伝達信号を送った。
「終わった。生きてるな」
ルカがうなずいた。言葉にならない声が喉で跳ねる。
ケイは、笑いそうになってやめた。
ここで笑うと、たぶん自分が一番壊れる。
代わりに、ほんの少し前脚をすくめた。
煙が薄れ、崩れたΣ3の残骸が現れた。黒く焦げ、まだ熱を吐いている。
べルリンでは、バルツェクが拳を握り、爪が掌に食い込むほどの力で震えているだろう。
ルカはそれを想像して、やっと少しだけ口元を歪めた。
敗北の味は、冷媒より苦い。
しかも、よく冷える。




