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第83話 動き出す世界 20

 ワジキは、目の前に聳えるナマズ・ビルを見上げた。


 窓の灯りは静かだ。


 ズルロイ兵が叫ぶ。


「侵入経路は!?」


 ワジキは答えない。


 答える代わりに、拳を握った。


 その拳の関節から、かすかに金属の軋みが鳴る。


 赫骨化セラミクロナイゼーションで強化された拳の音だ。


「……ここは"無音"だ」


 ワジキが低く言った。


「だから、けがしてやる」


 次の瞬間。


 重戦闘バイクの二十ミリ砲が、空へ向けて短く吠えた。


 ドン、ドン、ドン――!


 撃つのは壁を貫くためじゃない。


 "揺らす"ためだ。


 完璧に音を殺して人を狩るTYPE-Σの連中に、雑音の泥を浴びせる。


 *   *


 ナマズ・ビル五十七階。


 廊下の空気が、変質した。


 ビルの骨格に、雑な振動が入ってきたのだ。


 ヘルマンは、その崩れを"皮膚の裏側"で聞いた。


 骨伝導の波形が、乱れる。


「……いい、これは味方の咆哮だ」


 拘束していたΣ-2の腕が、ほんのわずか遅れた。


 わずかに遅れた――それだけだったが。ヘルマンにとっては"扉一枚ぶん"の隙間だった。


 彼は、息を吐いた。


 肋骨が軋む。痛みが、神経を白く照らす。


 痛みは、味方だ。


 人間に戻るための、いやらしい証拠。


 ヘルマンは、自らを拘束したΣ2の腕に自分の体重を預けた。


 預けたまま、沈む。


 沈んで――跳ねた。


 関節ではない。


  "空間"を折る動きだった。


 Σ-2の腕が外れ、ヘルマンの肩が自由になる。


 その瞬間、彼は拳を、Σ-1の背面の冷却パネルへ叩き込んだ。


 ゴン――!


 硬いのに、どこか生々しい手応え。


 機械のくせに、臓腑があるみたいな反発。


 Σ-1の姿勢補正が乱れた。


 乱れたのは一瞬。


 だが一瞬あれば、ヘルマンは神に喧嘩を売れる。


 TYPE-Σの連携が、微妙に噛み合わなくなる。


 三体が"ひとつの動物"だったはずが、いまは"躾けの悪い三匹の下等生物"になっている。


 その乱れが、治療室へも伝播した。


 暴獣ジェノ・ケルベロス。


 ケイは、見ていた。


 人間となったイザベルの守る姿。


 人間となったロータの震え。


 人間になりつつあるルカの感じる恐怖。


 ――守れ。


 獣の喉の奥から、言葉にならない声が出た。


 吠えではない。祈りに近い。


 ケイが跳んだ。


 Σ-3の体動軌道に、真正面から体を叩きつける。


 ドン――ッ!


 初めて、廊下に"敵同士がぶつかる音"が響いた。


 冷たくて嫌な音。


 だが、今夜はその嫌な音が、命を繋いでいる。


 *   *


 ベルリン郊外。


 バルツェク邸会議室。


 コーヒーの匂いだけが人間を主張している場所。


 TYPE-Σ3のヘッドカメラモニターが一瞬乱れた。


 映像が揺れる。


 "完璧な商品映像"が汚されている。


 NSPA高官の眉が動く。


「……何だ、このノイズは」


 バルツェクは、グラスの縁を撫でたまま言った。


「ノイズではない。――演出だ」


「演出?」


「抵抗が入ると、場は盛り上がる。場が盛り上がると買い手は燃える」


 バルツェクは笑わない目で言った。


「人間はね、"敵を圧倒して勝つ戦争"より、"揉め続ける戦争"が好きなんだ」


 世界中のいたるところで、兵器商人たちがこの画面に顔を寄せて闘いを見守っている。


 命の値札は、今夜も更新される。


 だが。


 ナマズ・ビルの五十七階では、更新されているのは値札じゃない。


 "人間になる"という四騎士の決意のほうだ。


 扉が割れる。


 廊下が割れる。


 獣が跳ぶ。


 拳が鳴る。


 そして、無音の殺戮ショウに――泥のような汚い侵入者の雑音が、混じり始めた。


 殺戮ショウの客席は、遠い。


 だが泥は届く。


 届かせるために、彼らは今夜ナマズ・ビルに潜入する。

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