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第82話 動き出す世界 19

 ルカが、囁いた。


「……背中。熱が、鳴ってる」


 見えない男が、弱点を言う。


 ロータは、白い泡の向こうの影へ踏み込んだ。


 胸が痛い。


 肩が熱い。


 足がもつれる。


 それでも――一一歩だけ、迎える。


 消火器の底を、棍棒みたいに振り抜いた。


 狙いは顔ではない。


 狙いは、背中の“嘘をつけない場所”、冷却回路。


 ゴン。


 鈍い音。


 泡の中で、Σ-3の体が、ほんの僅か沈む。


 その僅かな沈みが、次の刃の角度を狂わせた。


 ロータは刃を紙一重で躱した。


「今よ!」


 イザベルが叫んだ。


 叫びながら、彼女は医療用の金属スタンドを引き寄せた。


 点滴台だ。


 平和な道具だ。


 平和な道具でも、戦場では凶器になる。


 イザベルは点滴台を、Σ-3の背へ突き立てた。


 刺さるわけがない。


 だが――無理やり“押し込む”。


 背面パネルの隙間へ、金属が噛んだ。


 そこに泡が入り込む。


 冷却回路が、咳き込む。


 Σ-3の動きが、また遅れた。


 遅れた。


 たった、それだけ。


 だがその“たった”を積み上げるために、ヘルマンは廊下で全身の骨を軋ませていた。


 廊下では、二体のΣ、1と2号機が、ヘルマンを抱え込んでいる。


 拘束。固定。圧殺。


 工程の名がついている殺し方。


 ヘルマンの肋骨が鳴った。


 笑い声ではない。


 骨が砕ける時の悲鳴だ。


「……いい音だ」


 ヘルマンが低く言った。


 冗談ではない。


 痛い音を聞けるうちは、まだ計算ができる。


 そのとき。


 ビルの外壁が、ドン、と揺れた。


 続けて、ドン、ドン、と雑な振動が来る。


 規則性がない。


 品がない。


 だが――人間となった騎士達の味方だ。


 ズルロイの重武装バイクが、外で吠えている。


 “無音”を汚している。


 ヘルマンは、その汚れを嗅いだような気がした。


 Σの完璧が、ほんの僅か崩れる匂い。


「……助けが来たな」


 言った瞬間、ヘルマンは拘束しているΣの腕を、逆に抱き込んだ。


 抱き込むのは優しいからじゃない。

 

 容赦なく折るためだ。


 関節角度。


 熱の筋。


 床の振動。


 全部、計算ずく。


 ヘルマンの拳が、背面の熱へ叩き込まれた。


 ゴン。


 ベルリンの別荘のモニターに映った白が、また乱れた。


 泡の白ではない。


 内部エラーの白だ。


 NSPA高官が喉を鳴らす。


「……商品が壊れるぞ?」


 バルツェクは言った。


「壊れる前に、壊させない」


 誰の味方の言葉か分からない。


 この男は、言葉すら売り物にする。


 同時刻。


 ナマズ・ビル正面玄関。


 黒い重武装バイクが、歩道に突っ込むように止まった。


 運転席から降りたウクライナ人の男。


 ワジキ。


 無感情の目。


 だが、その奥に――昔亡くした妹の幻の声が、まだ針みたいに刺さっている。


 後部座席から、ユリアが降りた。


「地獄の戦場になってしまった……ナマズ・ビル」


 彼女は、見上げた。


 高層の闇。


 その闇の中で、四騎士が削られている。


 ワジキが短く言った。


「行く」


 ユリアは頷き、カードキーを差し出した。


「武器庫のロックも、内線も、私が開ける」


 ワジキはカードを受け取らない。


 受け取る代わりに、指を一本立てた。


「守るのは、あんたがやれ」


 それは命令じゃない。


 この男なりの、唯一の“配慮”だった。


 背後で、部下の兵士たちがバイクを降りる。


 二十ミリ機関砲の砲身が夜気を吸う。


 東京の夜景に、不似合いな火薬と金属の匂い。


 ユリアは思った。


 この世界は、悪意でできている。


 だが悪意を止めるのは、だいたい――一番悪そうな顔をした救世主だ。


 ワジキの横顔をみてそう感じた。


 五十七階。


 泡の中で、Σ-3の刃が、今度はルカへ伸びた。


 ロータが、身体ごと割り込んだ。


 遅い。


 だが、遅いからこそ――人間の形のまま飛び込める。


 刃が、ロータの脇腹を裂いた。


 熱い。


 ロータは歯を食いしばり、笑いそうになった。


 いい気分だと言った口が、今は最悪を噛んでいる。


 だが、最悪でも――ここで倒れたら終わる。


 その瞬間。


 廊下側の壁が、ドン、と震えた。


 扉ではない。


 壁そのものが“殴られた”振動。


 Σ-3の頭が、僅かに動く。


 外の雑音。


 そして――


 治療室の入口の闇が、獣臭で染まった。


 低い唸り。


 言葉にならない、怒りの呼吸。


 ケイが来た。


 柴犬の形をした暴獣が。


 ロータという人間が守ろうとしている“ルカという人間”を、犬獣が守りに来た。


 泡の白の向こうで、ケイの目だけが光った。


 それは、夜の中で一番、無垢で正直な光だった。


 殺戮ショウの客席へ――


 今度は泥じゃない。


 牙が飛ぶ。

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