第81話 動き出す世界 18
無音のはずの天井が、歯ぎしりをした。
震えは、外から来ていた。
規則性のない、がさつで雑な、野蛮な振動。
御子神剛の指示により、四騎士支援に駆けつけた、ズルロイ・メドベーチェの重武装バイクが、ナマズ・ビルの壁を叩いている。
ビルという巨大な骨に、拳で殴るみたいに振動を入れている。
その一瞬――刃が、鳴った。
キィ……。
それは音と呼べるほどのものではなかった。
だが、ルカの内耳には「世界が割れた音」に聞こえた。
「……今、鳴った」
目を閉じたまま、ルカが言った。
声が静かすぎて、逆に不気味であった。
ロータの喉が鳴った。
恐怖でも怒りでもない。
人間に戻った体が、必死に酸素を欲しがっているだけだ。
イザベルはルカを抱えたまま、耳だけを扉へ向けた。
x3000は、静かにルカの遺伝子を治し続けている。
扉の向こうに廊下がある。
廊下の向こうにいるのはヘルマン。
そして、その間にいるのは――三体のTYPE-Σ、戦闘を売り物にする商品。
人の命に値札をつけた、外道の商品だ。
「……来るわ」
イザベルが言った。
言葉は強い。
指先は震えている。
震えを隠さないで、守る。
ロータは扉の前に立った。
武器はない。
だが今夜、ロータが必要とするものは、刃じゃない。
――今となっては面倒くさい心臓と、面倒くさい覚悟。
廊下。
ヘルマンの背に二体がぶら下がっていた。
Σ-1とΣ-2。
重い。
だがその重さが、いまは“壁”になっている。
壁となっていることが、逆にルカを生かす結果になっている。
ヘルマンは、呼吸を吐いた。
肋骨が軋む。
痛い。
痛いことが分かるのは、まだ人間の側にいる証拠か。
そのとき、振動がもう一段、乱れた。
ドドド……。
床の奥から、巨大な太鼓の腹を叩くような衝撃。
完璧に整えられた無音の工程に、雑音が混じった。
Σ-1の足裏が、ほんの僅かに滑った。
完璧な歩幅が、完璧でなくなる。
ヘルマンの目が、冷えた火を灯す。
「……そこだ」
彼は、動けないまま動いた。
動けないなら、力づくで動かす。
背に張り付いたΣ-2の腕を、胸筋で噛むように挟み――体重ごと前へ落とした。
床へ。
ドン。
Σ-2の姿勢補正が遅れた。
その遅れが、ヘルマンにとっては一生分に値する時間だった。
ヘルマンは、背中を見せたまま――肘を、後ろへ叩き込んだ。
狙いは、背面の冷却パネル《熱の筋》。
嘘のつけない場所。
商品が商品たるための、泣き所でもある。
ゴン。
鈍い音。
その小さな音が、闘いを眺める、世界の武器商人の鼓膜を揺すぶった。
* *
ベルリン郊外。
白いLEDが灯る会議室。
ハンス・ゲオルグ・バルツェクは、グラスの縁を撫でる指を止めた。
モニターの隅で、想定外の数値が乱れいた。
「流体循環圧低下」「演算遅延」。
隣のNSPA高官が、眉をひそめた。
「……意外と弱いのか?」
バルツェクは、笑ってみせた。
笑いは商売の武器だ。
「実戦では誤差も、雑音がある。だからこそ、実戦で闘いを確認することに価値がある」
言いながら、内心では舌打ちしていた。
“映えない”。
映えない映像は、売れない。
そしてこれから、最悪に“映えないもの”が来る気配がした。
* *
ナマズ・ビル五十七階。
扉の上が、また鳴った。
今度は、はっきりと。
キィィ……。
ロータは、歯を食いしばった。
「……いい音じゃねえか」
自嘲の一言。
こんな場面で冗談を言うのは、臆病の証明じゃない。
“人間”の証明だ。
その瞬間――扉が、裂けた。
鍵が、常識を捨てた。
上部の金属が、薄い紙みたいに割れる。
そこから、影が滑り込む。
Σ-3。
人の形をした戦闘マシーン。
音も呼吸もない殺意を持つ。
だが今夜ばかりは、違った。
ワジキ達が建てる、ビル外の振動が、Σの完璧を薄く汚していた。
ほんの僅かだが、踏み込みに“躊躇の誤差”が生まれている。
ルカが、目を閉じたまま言った。
「ロータ……右。半歩。来る」
ロータは反射で右へずれた。
刃が空を切った。
空気が裂ける。
イザベルが息を呑んだ。
ロータの前胸部から鮮血が噴き出した
ロータの胸が痛む。
痛みが怖さを呼ぶ。
怖さが、怒りを呼ぶ。
怒りが、足を地面に縫い付けた。
「――病室だぞ」
ロータが言った。
相手に言ったのではない。
自分に言い聞かせた。
ここは戦場じゃない。
生き延びるための場所だ。
ロータは、扉脇の壁に手を伸ばした。
そこにあったのは、赤い筒。
消火器。
世界の終わりに、あまり似合わない道具。
ロータは、ピンを抜いた。
カチン。
小さな音。
だがその音が、今夜いちばん痛快だった。
「……真っ白な泥でも喰え」
ロータは噴射した。
消火剤の白い粉が、噴き上がる。
粉はΣ-3の顔面――ヘッドカメラを直撃した。
白が、レンズに貼りつく。
視界が曇る。
曇った映像が、そのままベルリンのモニターへ流れた。
殺戮ショウの客席に、白い泥が投げつけられた。
NSPA高官が、思わず声を上げた。
「何だ……これは!」
バルツェクの顔から、笑いが消えた。
だがナマズ・ビルの五十七階では――
その“映えない白”が、命の時間を買っていた。
イザベルがルカを抱えたまま、叫ぶ。
「ロータ、下がって!」
「無理だ!」
ロータは消火器を抱え直した。
こんなものは武器じゃない。
でも今夜だけは、大事な武器だった。
白い粉の中で、Σ-3の輪郭が揺らぐ。
完璧な殺戮のプログラムが、目詰まりを起こした。
その刹那――廊下の奥で、ヘルマンの低い声がした。
「ロータ……いい。よくやった」
誰を褒めたのか分からない。
褒める言葉に慣れていない男の声だった。
そして、ビルの外。
さらに乱暴な振動が近づいてくる。
ズルロイ・メドベーチェが来る。
ワジキが来る。
この場の“四騎士を死に誘う無音”を、徹底的に汚しに来る。
ルカ達が生きるために。
殺すためじゃない。
ルカ達を守るために。
白い泥が舞う中で、扉は完全に割れた。
次の瞬間――
誰かの命が、まだ“ここに残るか、消え去るか”が決まる。
命は、まだ奪わせない。




