第13話 阿羅業神醫 2
澱んだ風が頬を叩いた。
阿羅業は足を止めた。
風の流れに混じった"薬物"の匂いを感じた。
微かに甘い。
だが、鼻腔を刺すほど鋭い。
「……アルカロイド系か。いや、違う……これはセボフルランか」
煉脈連が使う、"生体を動けなくする前段階の気体"。
闇の監視者がじっと背中を見つめているのが感じてとれた。
阿羅業はゆっくりと白衣の袖をまくった。
追跡者の影に、阿羅業は声をかけた。
「……出て来い、煉脈連の手先ども。草葉の影に隠れる癖は昔のままだな。へたくそな追跡はやめろ。俺は逃げもかくれもしねえ」
返事はなかった。
しかし、風が"逆流"した。
次の瞬間――。
植え込みの奥から四つの影が飛び出した。
黒衣・無音・無表情。
煉脈連の臓器回収人、当然回収対象には、臓器摘出前の提供者も含まれる。
彼等は通常、銃火器の類は持たない。
強力な体術を会得しているために、凶器は必要ないからだ。
連中は、臓器が傷つかぬよう、本来は"素手で殺す"。
阿羅業は、煙草の箱をそっと後方へ投げた。
それだけで動きが起きた。
四人のうち二人が反応し、
そちらへ一瞬、視線が移ったのだ。
「立ち居振る舞いが……ずいぶんと粗雑になったな、煉脈連。下っ端の動きに品がない」
次の瞬間、阿羅業は地面を蹴った。
走らない。
跳ばない。
ただ、一歩。
最初の一人の喉元に、阿羅業の指が五本、迷いなく吸い込まれるように入る。
くにゃり、と輪状軟骨の軋む音。男は声を出すいとまもなく崩れる。
二人目が後ろから腕を回そうとする。
阿羅業は軽く腰をずらす。
手術の際、助手がライトを調整するときのような自然な動き。
空を切った腕に、阿羅業の肘がねじ込まれる。
肩関節の鈍い破裂音。
肩が逆向きに折れ、ひん曲がる。
三人目がナイフを持ち出した。
臓器を傷つけずに急所を狙うための、特製の薄刃。
刃が阿羅業の頬へ走る――
だが阿羅業は目すら細めず、指二本で刃をつまんだ。
鋼を、指で……。
「……この程度の刃物で、俺を何とかできると思ったか?甘すぎるぜ」
ナイフの持ち手の男がひるんだ瞬間、阿羅業の膝がそのみぞおちに突き刺さった。
三人目が沈む。
残った最後の一人は、後退しながら無言で注射筒を取り出した。
煉脈連が使う即効型筋弛緩性神経毒だ。
阿羅業は一歩も動かない。
「それを使えば……臓器に毒が残る。二次利用が出来なくなるぞ。オーガン・リーパーとしては失格だな、お前は」
刺客は迷わずシリンジを投げつけた。
それは空中で弧を描き――
阿羅業の掌に吸い取られるように収まった。
彼はそれを確認し、軽く指で潰した。
カチィ、と小さな破裂音。
砕けて床に落ちたシリンジから、毒が地面に、じわりと広がった。
刺客は慌てて腰を引いた。
阿羅業は冷たい声で言った。
「……毒の臭いごときで動揺するとは、安い訓練を受けていたもんだな」
男が震えた。
そして、走った。
逃げるつもりだった。
だが背後から無音で、もう一つ別の影が追いかけてきた。
彼の前に、黒い影が割り込んで滑るように降り立った。
街灯に照らされた。長いコート。
顔半分を覆う黒布。
目だけが、異様に澄んでいる。
しなやかな牝豹のような女。
彼女は逃げる男の首筋に二本の指を触れ――ただ触れただけで、男は崩れた。
まるで糸が切れた操り人形のように。




