フレンドシップ
藤くんと可奈子
念の為にもう一度公園のベンチを確認する。
「やっぱりいないよな」
待ち合わせは16時。とっくに時間は過ぎていた。
藤くんはため息をつく。
街灯の明かりがポツポツとともり始める。
紙袋に入れられたケーキが右手に重い。
このまま時計を眺めていても仕方がないことは分かっているつもりなのに、袋の中で溶けかけた保冷剤と目を合わせることしかできないでいる。
ーーーーー
「あたしもう行くね?」
制服を着た可奈子はいつも笑っていた。怒っているところや、泣いているところをこれまでの人生で見たことがなかった。
だから無表情のまま告げられたセリフには温度がなかった。
相手を思いやる温かさとか、軽蔑する冷たさとか、そういったこととは無縁の、どこか遠くに向けて放たれた言葉がたまたま自分と可奈子のあいだに降ってきたような奇妙な感覚を憶えたのだった。
わけもないのに夜空を見上げて月を仰いだ。
どこかの宇宙船の信号が月面に反射して藤くんの鼓膜を意図せず引っ掻いたかのような居心地の悪さにたまらず身震いする。
ぷしゅう、と間抜けなサウンドとともに可奈子の乗った電車が少しずつスピードを上げて藤くんの立っている場所から離れていく。
駅のホームの端っこは雨に濡れて黒くなっていた。
ーーーーー
「藤くんはさ、もう志望校は決めたの?」
「そっちは?一人暮らししたいって言ってなかったっけ」
「ふふ、質問で返さないでよ。あたしは大学の近くにお祖母ちゃんの家があるから、初めのうちはそこから通おうと思ってるよ」
奨学金の説明会で貰ったパンフレットを二人でめくりながら、放課後の教室に残っている。
ホワイトボードの落書きは二日前からそのままに、窓からの西陽に照らされてコントラストがやけにはっきりとしている。
「おれさ」
うん?と目を細めて可奈子は耳を傾ける。
可奈子の右耳にはほくろがある。左の眼尻にも小さいのがついている。
こめかみには幼少期の火傷の跡がうっすらと色づいていて、藤くんは触れたい衝動を抑える。
「地元で働くよ」
「そうなんだ」
言い切る前に可奈子の声が被さった。
「知ってたのか」
「うん。お母さんから聞いた」
「そうか」
次の模試は来週か。藤くんは前回の結果で初めて可奈子に点数を抜かれた。でもそれは勉強を怠ったからではない。可奈子が頑張っているからだ。しかし受験を諦めたからと思われるんだろうか、などと物思いにふける。
グラウンドでサッカー部の笛が鳴る。可奈子は黙ったまま下を向いている。
ーーーーー
久しぶりのファミレスは新メニューができていた。
季節のパフェには種類があって、栗とグレープ、そして売り切れのドラゴンフルーツ。
「コーラで合ってる?」
詩穂はグラスを二つ持ってきた。右手にコーラ、左手にメロンソーダ。
「合ってる」
藤くんはストローを挿したものの飲まない。志穂が座るまで待つ。グラスの氷がカランと傾く。
「次の休みはどこに行く?祝日もあるから遠出するのはどうかな」
「あー、会社に休み取れるか聞いてみるよ」
夜勤のシフトを思い浮かべながら藤くんは手帳のカレンダーに「志穂」と書き込んでいく。
頼んだドリアが運ばれてくる。はふはふしながら志穂がチーズたっぷりのそれを頬張る。
「この前ウチの職場に橘さん来たよ?」
シャープペンシルの先端がパキッと折れた。藤くんは手帳を閉じて前を向く。志穂の真っ直ぐな視線とぶつかる。
「なんか家の事情でたまに帰省しているんだって、んで、買い物しに寄ったんだってさ」
冷めたドリアにうまったエビをフォークでつついて志穂はそう言った。
びっしり結露したグラスの中でコーラの上澄みが薄まっている。藤くんは底の濃い部分をストローで啜る。
「なんか連絡取ってる?」
志穂がさりげなく呟く。いや、全く。と藤くんは首を横に振る。
「なんで?」
と藤くんは続けて尋ねる。
「藤くんは元気にしてる?って、橘さんに聞かれたから。そんなこと本人に直接聞けばいいのにって思っただけ」
志穂は最後のひとくちを綺麗に平らげてレシートを掴んで立ち上がる。
「あ、今日はここで大丈夫だから。じゃあね」
送っていこうとする藤くんをよそに、振り返ることなく歩いていく志穂の背中を駐車場で見送る。
しばらくボーっとしてから藤くんは手帳を取り出して車内灯をつける。
明日の欄には昔書いた文字がしっかりと刻まれている。
ボールペンの筆圧は高校当時の勢いを藤くんに思い出させる。
何年も先まで予定表のその日付だけは印がついている。
ーーーーー
翌朝ベッドから飛び起きてスマホの通知を確認する。
一件通知が光っている。
早番だから昼過ぎには会社を出れるだろう。
藤くんは作業着に着替え、タバコに火を付ける。
アパートの換気扇に煙が吸い込まれていく。
窓からは灰色の雲に覆われた街が見える。
運転してからも、信号で停まるたびにスマホを手に取る。
誰かからの連絡を待ちわびるなんていつぶりだろうか。
ワイパーがとめどない雨を切り裂く。
山際にわずかに太陽の気配が漏れている。街はまだ眠りこけている。
「晴れるといいな」
工場での作業中でも天気が好転することを祈っていた。
昼休憩のときには志穂から電話があったが出られなかった。かけ直したけれど通じなかったのでそのままにしておいた。
そんなときに事件は起きた。
余所見をしていたフォークリフトの爪が検品をしていた藤くんにぶつかった。
大したケガにはならなかったものの、労災ということで事情聴取や申請書の記入に予想外の時間が取られてしまった。
「病院まで運転していこうか?」
部長の申し出を断って急いで退勤したときにはもうすでに午後三時を回っていた。
迷った挙句、パティスリーでケーキだけは買うことにした。頭が回らずホールを選んだ。チョコレートは藤くんが子どものころ好きだった味だ。
思い出の公園までの道のりは混んでいた。
だいぶ晴れてきてはいるものの、サラリーマンや学生の送り迎えで車がごった返している。
やっとの思いで到着したが、ベンチはもぬけの殻だった。
「今日は17時の電車に乗るので、16時までなら都合がつきます」
駅の時刻表を検索し、送られてきたメッセージと見比べる。
まだ間に合う。
公園の駐車場へと駆け戻り車に乗り込む。藤くんは迷わず駅に向かう。
明るくなった夕方の西陽はかつて教室で語らったことをまぶたの裏によみがえらせる。
駐車禁止のロータリーに車を置き去りにして、ダッシュで改札へ向かう。右手がズキッと痛む。やっぱり病院行っておけば良かったな、なんて思っている暇はない。
上り線のホームに立つ。
「藤くん」
振り返ると怪訝そうにこちらを見上げる可奈子がいた。
青いスーツケースとよく似た色のワンピースを着て帽子を被っている。
可奈子のこめかみの火傷はファンデーションの下に隠されているのか綺麗さっぱりなくなっていた。
黙って紙袋を渡すと可奈子は目を丸くする。
「ケーキ?」
「誕生日だから」
「覚えててくれたんだ」
「ああ」
「しかもホールで?」
「その、双子の子どもたちも食べるかなって」
「まさか、まだ一歳。でもありがとう」
「そっかごめん」
そのまま藤くんと可奈子は互いに言葉を交わすこともなく立ちつくす。
アナウンスが鳴ってまもなくホームに電車が滑り込んで来る。
「ごめんねあんまり話せなくて」
可奈子がクシャッとはにかむ。藤くんは可奈子がようやく笑ったと気づかされる。
「あたしもう行くね?」
涼しい笑顔で電車に乗り込む可奈子に手を振って、藤くんは空を見上げる。
月に反射した可奈子のセリフはあのときみたいに藤くんのもとに戻ってこなかった。宙に舞ったきりどこかへ立ち消えてしまった。
今日は色々なことがあったはずなのに、まだ夜は続いているのが不思議でたまらない。いつの間にか右手の痛みはひいていて、電車のライトすら見えなくなった線路上には清々しいほどの星空と闇が横たわっていて。
(了)
友だちにすら戻れない。