Moonlight & Starlight
月が天高く昇る頃、僕はいつも決まった場所、古びた木造アパートの屋上に腰を下ろす。ひんやりとした夜風が頬を撫で、遠くで車のクラクションが微かに聞こえるけれど、見上げる夜空の壮大な景色は、そんな寒さを忘れさせてくれる。特に今夜は、満月がひときわ大きく、乳白色の優しい光を地上に注いでいた。
僕には、ずっと前から忘れられない人がいる。高校時代、同じクラスだった彼女――名を呼ぶことさえ恐れ多い、僕にとっての**「高嶺の花」**だった。透き通るような白い肌に、吸い込まれそうな深い青色の瞳。図書館で難しい本を読み解く時の、思案に満ちた真剣な横顔。けれど、友人と談笑する時には、花が綻ぶような無邪気な笑顔を見せる。その知性と優しさ、そして何より人を惹きつける輝きに、僕は抗えなかった。彼女の周りにはいつも人だかりができていて、僕のような平凡な男子が話しかけることさえ憚られる、そんな存在だった。卒業して数年経った今でも、彼女の面影は時折、鮮やかに心に蘇る。あの時、一歩踏み出す勇気が僕にあれば、何かが変わっただろうか。そんな後悔にも似た切なさが、夜ごと僕を窓辺へと誘う。
今夜も、満月を見上げていると、ふと、その柔らかな光の中に、彼女の姿が重なった気がした。あの透明感のある白い肌、憂いを帯びた青い瞳……まさか、そんなはずはないのに。しかし、心臓がトクン、と大きく跳ねた。いつもと同じ夜空なのに、なぜか今夜は、星々の瞬きがより強く、月の光が脈打つように感じられたのだ。
目を凝らして見つめていると、月の光がまるで生き物のように揺らめき始めた。光の粒子が、細い螺旋を描きながら一点に集まっていく。微かな、しかし確かに心に響く、鈴のような音が聞こえた気がした。それは、この世のものとは思えない、澄み切った旋律で、僕の孤独な胸にそっと触れるようだった。そして、光の中心から、ぼんやりとした人影がゆっくりと、しかし確かな輪郭を伴って現れたのだ。
それは、信じられないほど美しい女性だった。長く流れる銀色の髪は月光を吸い込み、星屑を散りばめたように微かに輝いている。風もないのに、彼女の髪はふわりと宙に浮き、純白の衣の裾が、月のオーラを纏って揺れる。そして何よりも、その瞳の色が――あの日の彼女と同じ、深く、澄んだ青色をしていたのだ。儚げな微笑み、どこか遠くを見つめる憂いを秘めた眼差し。まさしく、僕が心の中でずっと想い続けてきた、彼女の面影そのものだった。
月のプリンセス――。言葉にならない声が、喉の奥で詰まった。これは夢なのだろうか。それとも、僕の抑えきれない恋心と後悔が、夜空に幻影を見せているのだろうか。混乱しながらも、僕は抗いようのない力で、ただその光景に見入っていた。
プリンセスは、静かに僕を見下ろしているように感じた。その瞳は、確かに僕と目が合っている。そして、その表情には、誰にも理解されない、深い孤独が滲み出ているようだった。まるで、遠い場所でただ一人、**「誰かに気づいてほしい」**と願っているかのようだ。彼女がそっと、ゆっくりと右手をこちらに差し伸べた。その指先から放たれる淡い光が、僕の胸に触れる――そんな錯覚に囚われるほど、彼女の存在は鮮烈だった。
夜風が少し強くなった。ひんやりとしたその匂いの中に、かすかに、甘く澄んだ香りが混じっているような気がした。見上げれば、満月は変わらず優しく光を放っている。けれど、その光の中に見た幻影は、僕の心に深く刻まれた。それは、届かないと分かっていても、どうしても手を伸ばしてしまう、眩しすぎるほどの憧れの象徴。そして、僕がずっと忘れられずにいた、大切な人の面影だった。
僕は、ただ、手を伸ばしたまま、その夜空の光を見つめ続けた。