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第一話_社畜、それは生きている心地がしない

朝の五時――空はまだ夜の名残を引きずったまま、街の輪郭を灰色に染めている。

スマホのアラームが鳴るより先に、神崎優人かんざき ゆうとは目を開けた。

というより、眠った感覚がない。

意識を失うようにしてソファに倒れ込み、気づけばまた朝が来ていた。それだけだ。

「……ああ、腰が……」

背中がバキバキと音を立て、首筋には鈍い痛み。シャツのまま寝ていたせいで、汗が冷えて肌に貼りついている。気だるい体を無理やり起こし、乱れたスラックスを直す。

キッチンの冷蔵庫を開けると、目に飛び込んでくるのはコンビニの栄養ドリンクと、賞味期限が数日前に切れたヨーグルト。

選択肢は、ひとつしかなかった。

ゴクリ、と音を立てて茶色の瓶をあおる。甘ったるくて妙にケミカルな味が喉を通るたび、胃が反応するかのようにきしんだ。

「さて……戦場に、行きますか」

誰に聞かせるでもない独り言を呟いて、スーツに袖を通す。

鏡に映る自分の顔は、目の下に濃く浮かぶクマと、乾いた笑み。

まるで他人のようだ。


***


始発の電車。立ちっぱなしの満員車両。

吊り革にしがみつきながら、優人はスマホの画面を眺めるふりをして、目を閉じた。

周囲にいるのは、同じようなスーツ姿の男たち。

表情はない。目に光もない。誰も彼もが、ただ「運ばれて」いるだけだった。

――俺たち、家畜かよ。

ふと浮かんだ自嘲に、唇の端がわずかに持ち上がる。

だが、その笑みは一瞬で消えた。

到着した駅のホームに立つと、既に太陽が顔を出し始めていた。

その暖かさも、今の優人には届かない。


***


「神崎くん、昨日のプレゼン資料、やっぱり修正お願い。午前中までに」

「あとさ、来週のクライアント用の提案書も進めといてくれる? できれば今日中にドラフト見たいな~」

「了解しました」

目の前に立つ課長の無茶振りにも、反論はしない。というより、“できない”。

ここでは『NO』と言った瞬間に“評価が下がる”というルールが、空気のように存在していた。

デスクに戻り、パソコンを起動。メールチェック、昨日の対応漏れ、今日のタスク、上司のメモ、急ぎの案件、電話、Slack通知、後輩の質問、ミスの尻拭い――

目まぐるしく脳がフル回転する。

だが、手を止めると焦燥感に襲われる。

「昼休憩って、都市伝説なんじゃね?」

呟きながら、デスクの下でコンビニのパンをかじる。

トイレにこもって一息つく暇すら、贅沢に思える世界だった。

気がつけば時刻はすでに午後八時。

定時? そんなのとっくに過ぎてる。

この会社では、夜十時を超えてからが“本番”だ。


***


窓の外に広がる夜景は、眩しいほどに輝いていた。

だが、神崎優人の目には、それすらも“虚構”に映る。

同僚は一人、また一人と会社を辞めていく。

原因はメンタル。あるいは身体。あるいは、両方。

でも、優人は残った。

「逃げ方を知らないだけ」と、自分ではわかっている。

それでも、ここを去る勇気も、きっかけもなかった。

――気がつけば、人生の目標も、夢も、感情すらも、どこかに置き忘れてしまった。

キーボードを打つ指が止まる。

「……俺、いつまでこんな生活続けるんだろ」

口から漏れた言葉に、答える者はいない。

残業の蛍光灯だけが、無言で優人を照らしていた。


***


「ねえ神崎くん、隣の席の田所くん……昨日から来てないけど、何か聞いてる?」

「……いえ、何も」

出社して10分後、人事の女性にそう声をかけられた。

田所は二つ隣の席で、年下ながらも真面目な男だった。

ミスをすればすぐ謝り、残業も文句ひとつ言わず、いつも遅くまで残っていた。

だが、ある日を境に、ふらりと姿を消した。

「LIMEも既読にならないの。なんか、ヤバい感じじゃないかなって……」

「……そうですね」

優人は言葉を濁す。

思い返せば、数日前。彼がぽつりと漏らした言葉が、耳に残っていた。

『最近、夜になると変な夢見るんですよ。ずっと上司に詰められてるやつ……もう、起きても疲れてて』

そのときは笑って流していた。

けれど今思えば、それは“限界”のサインだったのかもしれない。

だが、誰も止められなかった。優人も、そうだった。

「この会社、ほんとにおかしいですよね。誰も何も言えないし、辞めた人の話も、すぐ“無かったこと”になるし」

そう漏らすのは、新卒で入ったばかりの後輩、村井だった。

今朝、目の下に濃いクマを浮かべながら、明らかに情緒不安定な様子で出社してきた。

「自分、先月までは“成長できる職場だ”とか思ってたんすよ。でも今は、何のために働いてるのか、もう……」

彼の言葉に、優人はうなずくことしかできなかった。

わかる。

痛いほどわかる。

この会社にいると、人は“壊れる”。

心も、身体も、夢も、全部。


***


「神崎くん、さっきの件、もう進んでる? あと、昨日の見積もり資料、やり直しね。クライアント、また条件変わったって」

「了解しました」

「あと、明日の会議、プレゼンお願い。今夜中にスライド作っておいてくれる?」

「……はい」

今日だけで何度目の「はい」だろう。

気づけば、右手が震えていた。マウスの操作がうまくいかず、同じファイルを何度も開いて閉じている。

深呼吸。深呼吸。

だが、肺に入る空気すら、どこか重たい。

PC画面のブルーライトが、頭に直接刺さるような痛みをもたらす。

肩が凝りすぎて感覚がない。腰はずっと痺れている。

なのに、止まれない。止まったら、“死ぬ”気がする。

いや、もう“生きている”とも言えないのかもしれない。


***


その日の深夜、オフィスに残るのは数人だけだった。

キーボードの音、コピー機のうなり、遠くで鳴る電話のコール音。

それらが不協和音のように耳にまとわりつく。

ディスプレイの中で光るExcel表の数字を見ていると、自分が“なんのためにこれをしているのか”が分からなくなる。

「働いた分だけ報われる」

そんな言葉を信じて、大学を卒業し、社会に出た。

だが、現実は違った。

頑張れば頑張るほど、業務が増え、期待が重くなり、評価は「当然」とされる。

手を抜けば叩かれ、弱音を吐けば「甘え」と言われる。

気がつけば、何かに“期待”することすらなくなっていた。

「……なんで、俺だけは、辞めずに残ってるんだろうな……」

深夜0時を回ったオフィスで、優人は独り言のように呟いた。

すぐ隣のデスクでは、後輩の村井がぐったりと椅子に沈んでいる。

もはや仕事の手も止まり、虚空を見つめていた。

「これが、“社会”ってやつですかね……」

彼の呟きが、異様に重たく響いた。

それでも優人は、今日も席を立てない。

“そういう人間”に、なってしまったから。

望んだわけでも、選んだわけでもない。

ただ――

逃げ方を、知らなかった。


***


午前2時。

オフィスの蛍光灯は、依然として容赦なく頭上から降り注いでいた。

もう、時間の感覚なんてとうに失われていた。

神崎優人は、モニターの前で黙々とExcelとPowerPointを交互に開き、グラフを調整し、数字を並べ替え、上司の指示に応えるべく資料を作り直していた。

集中している……ように見えて、その実、頭の中ではずっと“何か”がざわついていた。

(……さっき、何やってたんだっけ?)

目の前にあるファイル名すら、思い出せない。

タスク管理アプリも、ToDoリストも、メモ帳も、全てがぐちゃぐちゃ。

「効率よく回す」なんて理想論は、もうここにはない。

ただ、タスクの波に呑まれ、泳ぎ続けるだけ。

止まったら――死ぬ。

そんな妄想めいた感覚が、いつしか常識にすり替わっていた。

「神崎くん、お疲れ様。俺、先に上がるわ。……あんまり無理すんなよ」

先輩の山田さんが、重い足取りで立ち上がる。

その顔にはもう、輝きはなかった。

「……。お疲れです。」

優人は、そう口にしたものの、顔を上げることすらしなかった。

体を動かすのが、もう“面倒”だったからだ。


***


一瞬、ふっと視界が白くなった。

「……あれ?」

気づけば、モニターの光が滲んで見える。

目を擦っても、焦点が合わない。

呼吸が浅い。

喉が焼けるように熱い。

鼓動がやたらと速くて、けれど手足は妙に冷たい。

(……寝てないせいか?)

そう思い、デスクに置いてあったエナジードリンクに手を伸ばす。

けれど、その缶は中途半端にぬるく、胃がそれを受け入れようとしなかった。

「……なんか、変だな」

声が、やけに遠い。

自分の口から出たはずなのに、まるで隣の誰かが喋ったかのような感覚に襲われる。

意識の中心が、どこか遠くにある。

自分が“自分でなくなっていく”感覚。

それでも、手はキーボードを打ち続けていた。

「提出……午前9時までに、修正……」

何度も繰り返す。呪文のように。

だって止まったら、怒鳴られる。責められる。評価が下がる。

――居場所が、なくなる。

それが怖かった。

(……俺は、何のために……)

思考が沈んでいく。

ただ働いて、耐えて、削って。

自分の時間も、感情も、夢も、全部“対価”として差し出してきた。

なのに――報われた記憶は、ひとつもない。

ふと、脳裏に高校時代の夢が浮かんだ。

「将来は、人の役に立てる仕事がしたい」

そんな理想を語っていた自分が、心底バカバカしく思えた。

今の俺は――ただの社畜だ。

そう、社畜。それも、限界ギリギリの。


***


「……ぐっ……」

突然、胸が締めつけられるような痛みに襲われた。

視界が揺れる。

身体が熱い。

鼓動が早すぎて、逆に“音”として聞こえてくる。

手元のキーボードが、遠く感じる。

「……やべ……」

椅子から立ち上がろうとするが、足がもつれて前のめりに崩れ落ちる。

床に手をついても、力が入らない。

「……っ、は、はあ……ッ」

呼吸ができない。

空気が肺に入ってこない。

誰か――助けて。

でも、周りに人はいない。

深夜のオフィスは、あまりにも静かだった。

机の上に置かれたスマホが震えていた。

きっと上司からの通知だ。

今となっては、どうでもよかった。

――ああ、俺、死ぬのかな。

ふと、そんな考えがよぎったとき、不思議と心が“軽く”なった。

もう、働かなくていい。

もう、頑張らなくていい。

もう、何も背負わなくていい。

それが、“安らぎ”にすら思えた。

(ごめんな、田所……やっと、気づいたよ)

最後に浮かんだのは、あの日消えた同僚の笑顔だった。

そして、神崎優人の意識は――そこで、闇に落ちた。


***


――何も、ない。

 神崎優人は、真っ白な空間に立っていた。いや、“立っている”という感覚すら曖昧だった。

 上下も左右もない。時間の流れも感じない。ただ、自分の存在だけが、そこに“浮いて”いる。

(……ここは……どこだ?)

 声を出したつもりなのに、音は返ってこない。口が動いている感覚すらないのに、不思議と“思考”だけははっきりしていた。

 そのとき、不意に――

「ふむ……また一人、魂が流れ着いたか」

 どこからともなく響いた声。だが、警戒心や不安はなかった。

 目の前に現れたのは、一人の老人だった。

 長い白髪に長衣をまとい、手には杖。深く静かな瞳は、こちらのすべてを見通しているようだった。

「誰……ですか」

「私はベルノア。世界の狭間で、迷える魂を導く者だ。俗に言う“大賢者”というやつだな」

「……大賢者?」

 ゲームや小説の中でよく聞いた単語。だが、現実味がまるでない。

 だが、ここ自体がすでに“現実”ではないのかもしれない――そんな気もしていた。

「君は、“限界”を超えてしまったのだよ。身体は壊れ、魂も擦り切れかけている」

「……やっぱり、俺、死んだのか」

「正確には、“瀬戸際”だ。完全に消えるか、それとも――新たな人生を歩むか」

 ベルノアが静かに右手を差し出す。

「選べ、神崎優人。このまま消えるもよし。だが、もし希望があるのなら――君にもう一度、生きる道を与えよう。今度は、異なる世界で」

 異世界――

 現実ではありえない単語に、優人は戸惑いながらも、どこか惹かれていた。

(働かなくていい世界……そんなの、あるのか?)

「……そこに、ブラック企業はないですか?」

 その質問に、ベルノアが珍しく吹き出した。

「少なくとも、ネクタイに縛られることはあるまい」

 優人は、はじめて小さく笑った。

「……じゃあ、お願いします。もう……このまま消えるよりは、マシです」

「うむ。それでこそ、魂が選ばれた意味がある。――目を覚ませ、神崎優人よ」

 ベルノアが杖を掲げた瞬間、真っ白だった空間にまばゆい光が差し込み、優人の身体を包み込んでいく――


***


「――おい。聞こえるか? おい、目を覚ませ」

……誰かの声がする。

耳元で、何かがざわついている。低く、穏やかで、それでいて力強い声。

まぶたが重い。

意識は、深い霧の中。

だが、確かに――自分は“生きている”。

「……っ、は……!」

神崎優人は、息を呑むようにして目を開いた。

視界に飛び込んできたのは――青空。

あの蛍光灯の白い光でもなければ、窓越しの灰色の都市でもない。

青くて、広くて、雲が流れていて。

風が肌を撫でる心地よさに、体が震えた。

「……え?」

上体を起こすと、そこは森の中だった。

木々のざわめき、鳥の鳴き声、どこか遠くで水のせせらぎ。

五感すべてが“自然”を感じさせていた。

そして目の前には、あの白い空間で出会った壮年の男――ベルノアが、こちらを覗き込んでいた。

「目覚めたか。ふむ、思ったより早かったな」

「……あなたは……ベルノアさん」

混乱の中でも、その名は自然と口をついて出た。

「そうだ。覚えていてくれて何よりだ。君の魂が完全に定着するまで少し時間がかかったが、無事成功したようだ」

「ここが……あの、“異世界”なんですね?」

「うむ。ここは〈エルネア大陸〉の北西、フォーラルの森の一角だ。いずれ君が暮らす場所の近くだよ」

“異世界”

その単語が、脳内で反響した。

ゲームの中の話だと思っていた。

ライトノベルでしか見たことなかった。

けれど、今目の前にある世界は――そうとしか説明がつかなかった。

(転生……俺、マジで……異世界に……?)

あまりに荒唐無稽な状況。

だが、何故か体の奥に芽生えたのは、“安堵”だった。

重たいスーツも、詰められる会議室も、終電の時間も、もうここには存在しない。

「……やっと……解放されたのか、俺……」

ポツリと漏れたその言葉に、ベルノアが小さく頷いた。

「第二の人生、存分に味わうがいい。君には“選ばれし者”としての資質がある」

「選ばれし……?」

「そのうちわかる。君には、特別なスキルが授けられているはずだ。さあ、自分のステータスを確認してみるといい」

「ステータス……?」

試しに心の中でそう念じると――

視界に、見慣れない“ウィンドウ”が浮かび上がった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【名前】神崎優人

【年齢】28

【種族】人間(転生者)

【称号】異界の目覚めし者

【スキル】

・人心掌握(Passive)

・業務改善(Active)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「……なんだよこれ……スキル?」

そう呟いた優人の表情が、わずかに歪む。

“人心掌握”と“業務改善”。

ゲーム的な響きではある。だが、どこか現実的すぎる言葉。

まるで――

「……また、“仕事”させられるのか……?」

そう口にした自分に、自嘲の笑みが浮かぶ。

せっかく地獄から解放されたと思ったのに。

異世界ですら、“業務改善”というワードに追われるのか。

けれど、どこかで分かっていた。

俺は、逃げられない。

“働く”という呪いから。

それでも――

「……せめて、俺が生きやすい世界にしてやるよ」

ぼそりと呟いたその言葉に、森の風が答えるように吹き抜けた。


***


「――なるほど、スローライフを希望するわけか」

森の中の仮設小屋で、ベルノアが大きくうなずいた。

神崎優人は、その問いに頷き返す。

「ええ、もう働きたくないです。正直、“人の役に立つ”とか“社会に貢献”とか、そんな気持ちはもう……すり減って尽きました」

「うむ、よい。“働かざる者、癒やされず”とは、古の聖者の言葉じゃ」

「皮肉ですか、それ……」

小さく笑い合った二人の前に、一枚の地図が広げられた。

「この“リーフヴィレッジ”という田舎町がよい。魔物も少なく、のどかな土地だ。君のような転生者が定住するには理想的な場所だろう」

「それ、いいですね」

広い空、静かな村、そして労働とは無縁の生活。

そんな夢のような暮らしを思い描き、優人の口元が自然とほころぶ。

“スローライフ”――

かつて雑誌やネットで見たその言葉が、ようやく現実味を帯びてきた。

野菜を育てて、釣りでもして、昼間からハーブティーを飲んで昼寝とかしちゃって。

(それだよ、それがしたかったんだよ、俺は……!)

もはや転生者という重たい肩書すら、癒しのエッセンスにしか感じられなかった。

ベルノアは杖をトンと床に突き、呪文のように何かを唱える。

「では、私の転移魔法で君をリーフヴィレッジ近くの道沿いまで送ろう。そこから歩いて半日ほどの距離だ」

「助かります!」

優人は小さな荷物――というか、支給された簡易バッグひとつを肩にかけ、魔法陣の中央に立つ。

光が彼の足元を包み込み、浮遊感が身体を満たしていく。

「優人よ。二度目の人生、君自身の選んだ道を歩むがよい。……だが、“選ばれしスキル”は、君の魂に刻まれた意味だ。その使いどころは、君次第だ」

「わかってます。“また同じこと”は、繰り返しませんよ」

優人はそう答えると、笑った。

それは会社員時代に見せることのなかった、本物の笑顔だった。


***


リーフヴィレッジ――

緑豊かな谷間に広がる、小さな農村。

道沿いに立つ木製の看板には、可愛らしい手描きの文字でこう書かれていた。

《ようこそ、リーフヴィレッジへ》

「おお……いいじゃん、こういうの」

鳥のさえずり、花の香り、子供たちの笑い声。

“社畜の墓場”だった都会の片隅とは、何もかもが違う。

ここでなら、俺は――


***


「ようこそ。あなた、冒険者希望の方かしら?」

ふいに声をかけてきたのは、木造の建物――どう見てもギルドっぽい施設の前に立つ女性だった。

金髪に碧眼、端正な顔立ち。だが、その目の下には深いクマ。肩は落ち、明らかに疲れ切っている。

「いえ、俺は冒険者ってわけじゃ……」

「でしたら、こちらの受付へ。手続きだけでも済ませておくといいですよ。最近、ギルド規約がやたら厳しくなっていて……あ、申し訳ありません、次の方どうぞ!」

てきぱきと案内しながらも、明らかに余裕のない彼女の様子に、優人は違和感を覚える。

(……なんか、この空気、知ってるぞ)

視線を建物の中へと向ければ、そこには――

長蛇の列、怒鳴る上司、泣きながら書類をまとめる職員、無言でうなだれる冒険者たちの姿。

その全てが、優人の脳裏に“ある記憶”を呼び起こす。

――ブラック企業。

それは、地獄から解放されたはずの彼の前に、もう一度姿を現した。

(まさか……異世界に来てまでブラックって……そんな馬鹿な……!)

優人のスローライフ計画は、出鼻をくじかれる形で、あっさりと雲行きが怪しくなる。

そして、疲れ果てた受付嬢――エリーゼ・ルナフォードが、次の瞬間、ふらりとバランスを崩した。

「え――」

優人は、思わず駆け寄っていた。

手を伸ばし、彼女の体が倒れる前に、しっかりと受け止める。

「あ、ありがとうございます……」

その声は、震えていた。

ここに来る前の自分と、まったく同じように。

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