ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
明日から夏休み、つまり今日は終業式や。うちの組長のお嬢が通う小学校の話やけどな。
俺は花隈涼二。焔硝組で若頭をやらしてもろてる。
午前十一時すぎ。組の事務所で仕事をしとったら、ドアがぎぃっと開いた。クーラーの効いた部屋に、外の熱気が流れ込んでくる。
まっさきに目に入ったんは、しおれた青い朝顔の花やった。それから可愛らしい白い熊と女の子のアップリケがしてある、ファミリアの手さげが見えた。
「花ちゃーん。もうムリだよぉ」
涙声で現れたんは、焔硝月葉やった。組長の一人娘や。
長いさらりとした黒髪を、今日はポニーテールにしてる。黒目がちの大きな目が、俺のいつも座ってる席を見つめてくる。
「なんやお嬢。汗だくやんか」
デスクから離れてお嬢のもとに行くと、朝顔と手提げだけやのうて、絵の具のセットが入ったケースと家庭科の道具が入ったカバンまで持ってる。
「お嬢。俺は、こういう荷物は毎日ちょっとずつ持って帰るように言いましたよね」
自分でも声が低うなったんが分かる。
ふと窓ガラスに映った自分の姿が目に入った。スーツの上は脱いでシャツとネクタイやけど。前髪を後ろに撫でつけて、三白眼の目は鋭い。
そして俺の前で、しゅんとうなだれるお嬢は、明らかに可哀想に見える。
「涼二さんひっどー」
「お嬢を泣かさんといてくださいよ。俺ら、オヤジに怒られますやんか」
外野がうるさい。お前らはお嬢とあんまり関わりないやろけど。俺は、お嬢の世話係にして婚約者なんや。お嬢は小学六年生で十二歳やから、十七歳も離れとうけど。
「荷物を持って帰らないといけないって、分かってたけど。忘れてたの……ごめんなさい」
「うっ」
「それに、朝顔の観察をするのは一年生なんだけど。種が余ったから、園芸部で育てることになっちゃって」
素直に謝られ、事情も聴いて。俺は言葉を詰まらせた。
けど、担任の先生かて、荷物を分散して持って帰るように声をかけとったはずや。
「車で学校まで迎えに行くってゆうたやないですか」
「目立つからイヤ」
ふいっとお嬢は横を向いた。
「あと、わたしは月葉だから。お嬢っていうのやめてほしいの」
「ほな、俺のことも花ちゃんって呼ぶんはやめてもらいましょか」
むっとした表情で、お嬢が俺を見あげてくる。
別に睨まれたって、怖いことあらへん。お嬢は、よちよち歩きを始めた頃から、俺の後を追いかけてきてたんやから。
寝られへんゆうてぐずってたら、俺がミッフィーちゃんのガラガラ(ラトルっていうらしいわ)で機嫌を取ったったし。
新しいワンピースを着たら、まっさきに俺に見せに来てたもんなぁ。
――みて、はなちゃん。おはながついてるのよ。
マーガレットのアップリケがスカート部分にいくつもついたワンピースで、三歳やったお嬢はくるりとまわった。
――おはながたくさんで、はなちゃんのおなまえといっしょなの。
――俺と一緒なんがええんですか?
――うん。つきは、はなちゃんのことだーいすき。
俺のスーツを掴んで、きらっきらの瞳で見あげてくるお嬢がまぶしくて。
あかん。思いだしたら涙がにじんでくる。
幼かったお嬢は、俺以外には懐かへんかったから。そのせいでオヤジが「花ちゃんにやったら、月葉を任せられるわ」と許嫁になったんや。そんなんで娘の結婚相手を決めてええんやろか、と突っこみたくなったけど。
まぁええ。俺以上にお嬢のことを分かったげる男は出てこぉへんと思うから。
クーラーの風が直接あたってしもたんか、お嬢が小さくくしゃみをした。
「こっち来ぃ。お嬢」
俺はお嬢を事務所の奥の方にある来客用の革張りのソファー移動させた。夏風邪なんかひいたら長引くからな。
スーツの上を脱いで、お嬢の肩にはおらせる。
俺は背が高い方やから、細身のお嬢の体がすっぽりと包まれる。
「花ちゃんの匂いがする。いいにおーい」
くんくんとお嬢が、俺のスーツの襟の辺りをかいでいる。ちょっと気恥ずかしい。俺自身をかがれてるわけでもないのに。
「シトラスとグリーンの香りですよ」
「月葉にも、花ちゃんの匂いが移っちゃうね」
俺は天井をあおいで瞼を閉じた。腕を組み、あえて難しい表情を浮かべる。
あかん。可愛すぎて顔がにやけてしまう。
この気持ちはなんなんやろ。たとえ相手が許嫁でも、子ども相手に恋であるはずがない。保護者の気分なんやろか。
けど、三歳の頃のお嬢に感じる気持ちと、今のお嬢に感じる気持ちは、ちょっとつける名前が違う気がする。よう説明できへんけど。
「月葉さん。ジュース飲みますか? 缶のままで申し訳ないですけど」
弟分の泉が、お嬢に声をかけた。泉は俺みたいな三白眼とちごて、甘い感じの顔立ちや。女性にも人気がある。
「いいの? ありがとう。泉さん」
「俺のことも、ちゃんづけで呼んでくれてええんですよ?」
にっこりと泉が微笑む。お嬢は小首をかしげた。
「そんな失礼なことはできませんよ。だって、わたしは来年は中学生ですもん」
「えー? 寂しいこと言わんといてほしいですわ。若頭のことは『花ちゃん』って呼んでるやないですか」
ぷしゅっと音を立てて、泉が缶のタブを開けた。俺はさっと冷えた缶を奪い、グラスに透明なジュースを注ぐ。
しゅわしゅわと音を立てて、炭酸の泡が消えていく。
「若頭、ひどいやないですか。俺が月葉さんに渡そうと思てたのに」
「外やない限りは、缶からじかに飲むようなことはお嬢はせぇへん」
俺からグラスを受けとると、お嬢は「泉さんも花ちゃんもありがとう」と柔らかな声で言った。
「ちゃん」付けで呼んでもらえるんは、俺だけなんや。その事実が、心のなかで軽やかに跳ねてる。
たったそれだけのことやのに。さっきまで「ちゃん」をつけんといてくださいって言うてたのに。自分でも現金なもんやと思う。
俺はオヤジと呼んでるの家の離れに住んどう。ほんまは近くにマンションを借りとったんやけど。お嬢が小さいときに、俺を探しに家を出たことがあった。
確か五歳くらいやったかな。
この辺は高級住宅街で、焔硝組は大正時代から存在してる組や。地域の皆さんの相談事に乗ることも多くて、行政がなんもしてくれへん時は焔硝組を頼れって言われてたほどらしい。
まぁ、その時代には、当然やけど俺はまだ生まれてへんねんけど。
せやからヤクザの娘が一人で歩いとっても、そないに問題はない。
問題は、よその組がアホなことを考えてお嬢を誘拐せぇへんかということや。
小学校が夏休みに入って、数日経った。
お嬢が学校から持って帰って来た朝顔は、今朝もすがすがしい青い花を咲かせてる。
銀いぶしの瓦屋根の、広い日本建築の家は庭も広うて。小さかった頃のお嬢が素足で遊べるように、庭の一部には芝が青々と茂ってる。
部屋住みといわれる若手は、本部に詰めとうから。俺みたいに、組長の家に住んでる奴はうちの組にはおらへん。
「あ、おはよう。花ちゃん」
縁側に座って、足をぷらぷらさせながらお嬢が明るく声をかけてくる。
腕時計を見ると、まだ七時前や。
「おはようさんです。お嬢、こないにはようから、何をしてはるんや?」
「読書感想文の本を読んでるの」
真面目やなぁ。朝食もまだやろに。見ればミヒャエル・エンデの『モモ』やった。
こないだまで絵本を読んでたと思てたのに。大きなったなぁ。
「お嬢。朝はまだやろ? 姐さんはどないしはったんや?」
「ママ? あのね、ご飯を食べてからウォーキングに行ったよ。パパと一緒に」
「健康的な組やで」
パタン、と本を閉じてお嬢が立ちあがる。沓脱石においてあるサンダルを履いて、庭に降りてきた。頭の上の方で結んでるポニーテールが、元気に跳ねる。
「朝ごはんね、花ちゃんと一緒に食べようと思って待ってたの」
「せやったんか。昨夜の内に教えてくれとったら、もっと早よ来たんやけど」
俺はお嬢の頭にぽんぽんと手を置いた。
「ふふ」とお嬢が嬉しそうに笑う。
「花ちゃんは、そうやって前髪を下ろしていた方がいいね」
「そうやろか? ちょっと威厳が足りへんから、オールバックにしてるんやけど」
「月葉は、今の花ちゃんの方が好きだよ」
たまにお嬢の一人称が「わたし」から「月葉」になる時がある。
それが俺の前だけやったらええのに、と思うんは我儘やろか。
涼しいうちに水をあげたんか、朝顔の葉からは水のしずくが落ちとった。
広い食堂には、通いのお手伝いさんが作ってくれた朝食が置いてあった。
朝は和食が多いけど、今日はクロワッサンと目玉焼きにウィンナー。それからおしゃれにザクロの実を散らしたサラダやった。
「きれいね、まるで宝石みたい」
ザクロの粒をスプーンに集めては、お嬢は目を輝かせてる。
テーブルを挟んで向かいの席に座った俺は「ガーネットを柘榴石ともいうから、あながち間違いでもあらへんな」と答えた。
女の子は、きらきらしたもんが好きやな。
「そういえば明日ね。パパが水族館に連れて行ってくれるんだって」
「そら、ええですね」
ぱりっと焼けたクロワッサンを手でちぎる。食べると、バターの風味が口に広がった。
「花ちゃんはおみやげ、何がいい?」
「買うてきてくれるんですか? 別に気にせんでもええのに」
明日は俺も休みやから、お嬢をどっかに連れていったろかと思てたんやけど。
まぁ、親子の休日の邪魔をしたらあかんしな。
しゃあないな。一人で映画でも見に行くか。けど、今は何を上映しとんやろ。
アニメはよう分からんし、アクション映画はそれほど好きでもないし、ホラーも苦手。インド映画?
いっそ、でかいサメが出てくる映画でもええな。お嬢が一緒やったら、パニック映画は選ばへんのやけど。どうせ一人やし。
「サメのぬいぐるみなんか、どうかな?」
心を読まれたんかと思て、ぎょっとした。
「ええ年した大人が、ぬいぐるみもあらへんでしょ」
「それもそっかぁ」
お嬢は目玉焼きの黄身だけを残して、白身をナイフとフォークで切っていた。最後のお取り置きなんかな?
「まぁ、楽しんできてください」
「ほんとは電車で行きたかったんだけど。車の方が安全だって、パパが言うから」
「オヤジはお嬢のパパであって、組長でもあるから。電車は難しいでしょ」
「そうだよね」と、お嬢は眉を下げて笑う。
俺は、お嬢のその表情が苦手や。
もっと小さい頃は、屈託のない笑顔ばっかりやったのに。
二年前に、よその組のチンピラに拉致られてから、お嬢はなんかを諦めることが多なった。
ふつうの子どもみたいな自由さとか、我儘とか。
港の倉庫に俺が助けに行って、犯人をボコボコにして事なきを得たのに。お嬢の心の柔らかい純真な部分は、ずっと傷ついたままなんかもしれへん。
せやからよけいに、俺以外の奴ではお嬢のほんまの気持ちを分かってあげられへんのとちゃうやろか。そう思てる。
◇◇◇
翌日の土曜日。お嬢がオヤジさんと水族館に行く朝は、それはもう見事なくらいに晴れとった。
庭に植えられたひまわりは、朝の澄んだ陽ざしを存分に浴びて伸びている。
昨日は、夕方の天気予報はいろんな局に目を通し。関西に高気圧が張り出してるんを確認し、挙句の果てにはお天気アプリで降水予報まで調べてしもた。
「まぁ。車での移動やし、関係あらへんねんけど」
歯磨きをしながら、鏡に映る自分の姿を見る。
前髪を下ろした顔は、やっぱりちょっと幼く見える。
「涼二さん、ちょっといいかしら」
組長の妻である姐さんが、離れまでやって来た。タオルで顔を拭きながら、俺は渡り廊下へと出る。
「どないかしはったんですか?」
「それがね。うちの人が風邪をひいてしまって」
姐さんは口ごもった。あ、これはあかんと俺は察した。
お嬢は、オヤジさんと水族館に行くんを楽しみにしとったのに。
「プロポリスも風邪薬もビタミンCも飲ませたから、今日一日休んでいれば治るとは思うんだけど」
「姐さんが水族館に連れて行ったったらええやないですか。月葉さんも喜びますよ」
「それが、私も先約があるのよ。どうしても抜けられなくて」
ちょいちょい、と姐さんに手招きされて。俺は渡り廊下を進んだ。タオルを手に持たままなんを、母屋についてから気づいた。
今朝もお嬢は縁側におった。
体育座りって言うんか、ひざを抱えて座ってる。心なしか、背中に力がない。
これは、しょげてる時の態勢や。
俺は持っていたタオルを三角にして、角を二か所つまんで耳にした。
「つーきはちゃん。どないしたん?」
かなり高い声で話しかけながら、タオルでつくったウサギをお嬢の前に出す。
「つきはちゃんの、可愛いお顔がみたいなぁ」
「……見せない」
お? 手ごわいな。お嬢が三歳の頃は、これで一発解決やったのに。
「べつにパパが風邪をひいたのは、しょうがないと思うの。しんどいだろうし、わたしだってムリは言わないよ。でも……」
「せやなぁ。理解はしとっても、感情では納得できへんこともあるよなぁ」
ほどいたタオルを、お嬢の頭にぱさっとかぶせる。
「平気。ちゃんとパパの前ではいい子にしてるから」
タオルの陰からこぼれた声は、か細かった。俺は縁側に腰を下ろして、お嬢のうすい左肩に手をかけて、体を引き寄せる。
「お嬢が我慢するのん、オヤジさんは望んでへんと思うで。そら、我儘を言いたない気持ちは分かるけど」
「でも風邪をひいてるパパを困らせたくないし。別の日っていっても、今日だけが、パパに予定がない日だったから」
「優しい子やな。お嬢は」
俺の言葉に、一瞬お嬢は目を大きく見開いた。けど、すぐにタオルの両端で顔を隠してしまう。
「優しくないもん。こうして、拗ねてるもん」
「拗ねれるんは、子どもの特権でしょ。いじけた部分を見せてくれるんが、俺だけって言うんは、正直うれしいで」
お嬢が頭からタオルを外した。となりに座る俺の顔をじぃっと見つめてる。
「どうして花ちゃんにだけ、素直じゃない自分を見せられるんだろ」
「そら……」
言いかけた言葉を、俺は飲みこむ。
口にはできへんよな。お嬢は俺のことが好きで、一番に信頼してるから。両親よりも親しくて、近いから。遠慮がないやなんて。
自分の頭に浮かんだ言葉に、俺は顔が熱なるのを感じた。
「たいへん。花ちゃん、顔が赤いわ」
「いや、すぐに戻りますから」
「どうしよう。花ちゃんまで風邪を引いちゃったのかな。ママに頼んで、お薬をもらってくるね」
お嬢の小さい手が、俺のおでこに触れる。ひんやりとした感触が心地よい。
ほんまに困るねん。
まだ恋がどういうもんかも分かってへんのに。大人にはまだまだ遠い年齢やのに。
好きという言葉を使わんでも、俺のことを好きでしゃあないって全身でぶつかってくるから。
もっと年齢が近かったら。いっそ俺が子どもやったら。もしくはお嬢が大人やったら。
胸の奥に炭酸の泡が連なるみたいに、生まれてくるこの気持ちを、押し殺さんでもええのに。
婚約者っていう立場はもろてる。お嬢の隣にいる権利もある。
けど、どないもできへん。俺はええ年の大人やから。
「あ、顔色が戻ったよ」
「せやから、平気やゆうたでしょ」
こくりとうなずいて、お嬢は納得した。
「水族館やけど、俺と行きますか? なんやったら電車で行ってもええですよ」
「いいの?」
ぱぁぁぁっと、お嬢が花が開いたような鮮やかな笑顔になる。
この愛らしい笑顔が、俺にだけ向けられるものなんやから。
まぁ、ええか。
◇◇◇
普通電車しか停まらへん駅やから、下りの電車を、駅のホームで何本か見送った。「冷房の効いてるホームの待合室で座っとき」ってゆうたのに。お嬢は行き過ぎる特急や急行を見送ってる。
風が起こるたびに、淡い水色と白のストライプのワンピースの裾がひらめいてる。白い丸襟に、麦わら帽子という絵にかいたような清々しい姿や。
「あかんて、熱中症になったらどないするん」
俺は、黒い日傘をお嬢に差しかけた。さすがにネクタイ姿っていう訳にもいかへんから。今日はTシャツの上にリネンのジャケットをはおってる。
サングラスはどないしよかと思たんやけど。ホームの照り返しがきついから、色の薄いのんをつけてきた。
電車を待ってる女性が何人か、俺の方をちらっと見ては目を逸らす。
きっと清楚なお嬢と、胡散臭い俺との組み合わせがおかしいんやろな。うう、人さらいやないです。
「ね? 花ちゃん。わたしの言ったとおりでしょ?」
「なにがですか?」
ホームの丸印の位置に並んだお嬢が、俺を見あげてきた。なんでか知らんけど、顔が誇らしそうや。
「花ちゃんはね、前髪を下ろしたら、すっごくかっこいいのよ」
「チャラないですか?」
「ほら、あっちのお姉さんも、上りホームのお姉さんも。花ちゃんのことを見てるでしょ」
お嬢がうれしそうに眩しい笑顔を見せた。
「人相が悪い男が、小学生と一緒やから見られてるんとちゃうやろか」
「ちがうよ。花ちゃんは素敵よ。月葉が保証する」
真剣な言葉には力がある。俺は頬が染まるのを感じた。
そっか。俺は、お嬢にとっては素敵なんやな。
水族館までは普通電車で三駅や。俺らはロングシートに並んで座った。
乗ってる時間は十分程度やのに。いつもの車やのうて、わざわざ電車っていうとこが、いかにもお出かけっぽい。
二駅過ぎたところで、車窓から見える家と家の間に海が見え隠れした。
お嬢はふり返って、窓の外を眺めてる。
「わくわくするね、花ちゃん」
「もうすぐ家並みが切れますよ。目の前が海になります」
「ほら」と指さすのと同時に、視界が青に染まった。海の青と空の青。どっちも似てるけど、ちょっと違う。きらきらの光が海面に反射して。いくつものウィンドサーフィンのセイルが、蝶の翅のように見えた。
沖を行く客船が小さく見える。
「わぁ、海に行きたいね。花ちゃん」
「お嬢。泳げるんですか?」
たしか、二十五メートルがぎりぎりで。去年は、夏休み中に学校のプールに呼び出されとったんやなかったっけ。
「あのね、海辺とかプールサイドのチェアーに横になって、カクテル? っていうのを飲むの。ブルーハワイってかき氷だけだと思ってたけど。お酒でもあるんでしょ」
「酒はまだ早いなぁ」
「でも、パイナップルとかチェリーが飾ってあるカクテルって可愛いし」
何気に海外のリゾートを想定してるって、本人は気づいてへんのやろな。
「そういうカクテルは見た目は可愛いし、甘くしてあるから飲みやすいけど。アルコールの度数が高いから。大人になっても、俺以外とは飲まん方がええで」
「なんで? 少しだけなら大丈夫なんでしょ?」
「うっ」
澄んだ瞳で問われて、俺は言葉に詰まった。
言えるわけあらへんやんか。初恋もまだの子ぉやで。意識が飛ぶくらい飲まされて、危険な目に遭うやなんて。想像するのもイヤやし、口にするんもイヤや。
「あんな、よその男は怖いねん。どんなにお嬢に優しくても、実際はどうか分からへんねんで」
「怒られるってこと?」
怒られて、涙を浮かべるくらいならまだマシや。まぁ、お嬢を泣かす奴は俺が許さへんねんけど。
「よく分からないけど。花ちゃんと一緒だったらいいのね」
「そうそう。ええ子やから、俺の言うことを聞いといてください」
「じゃあ大人になったら、ビーチでカクテルを飲むの。花ちゃんと一緒よ。約束ね」
お嬢は小指を差しだしてきた。
普通電車でよかった。一駅目で、ほとんどの人が特急や急行に乗り換えたから、車内は俺らしかおらへん。
俺の小指に、お嬢が細い小指を絡ませて「ゆびきりげんまん、ね」と微笑む。
カクテルかぁ。
夏やったらライチとグレープフルーツのチャイナブルーとか、ミントたっぷりのモヒートとか。爽快なジンフィズとか。
あ、でも。ノンアルのカクテルのほうがええかな。
まあ、あと十年近く先のことやけど。
「お嬢は、早よ大人になりたいん?」
「そうよ」と、何を当たり前のことを? とばかりにお嬢がうなずいた。
子どもの時間は貴重なんやから。なんも急がんでもと思うけど。
「だって、花ちゃんにふさわしい大人の女性になりたいんだもの」
離れていくお嬢の小指を、俺の小指が再びとらえた。無意識やった。
カタン、カタタンと線路の継ぎ目の音が聞こえる。
「花ちゃん?」
「いや、なんでもありません。指切りげんまん、な」
「二度目だよ?」
お嬢が小首をかしげる。
二度目でもええんです。何度でも約束するんです。
◇◇◇
海の近くの水族館は、水の匂いがした。
水槽の水と、潮風の匂いが混じっている。
入ってすぐの巨大な水槽で泳ぐ魚の群れを見ては、お嬢は目を輝かせてる。
夏休みで、しかも土曜日ということもあって親子連れが多い。お嬢が迷子にならんように、俺は彼女と手をつないだ。
「子どもみたい。恥ずかしいよ」
「小学生は子どもです。子ども料金で入ったやないですか」
「そうだけど」と、お嬢は口を尖らせた。
まぁ、しゃあないよな。小学六年生くらいで、大人と手をつないでる子はおらへんもんな。
けど、俺と出かけてるのに、大切なお嬢に何かあったらオヤジに申し訳が立たん。
俺の大きい手の中に、お嬢の小さい手がすっぽりと包まれる。
ピアノを習てるからやろか。去年よりも、お嬢の指は長くなってる気がした。
館内は暗く、少しひんやりとしてた。俺はサングラスを外してTシャツの首のとこにひっかける。
白くてぼんやりとしたクラゲの水槽の前で、お嬢は立ちどまった。
「クラゲってきれいね」
「そうですか? 俺はガキの時に、海でクラゲに刺された記憶のほうが強いわ。知ってますか? クラゲの足がちぎれても、しばらくは刺すんですよ。まーぁ、皮膚が赤なって痛かったわ」
当時のことを思いだして、俺は眉をしかめた。
お嬢は怖なったんか、すぐにクラゲの水槽から離れる。
水族館は不思議や。そこに海があるのに、陸の上に魚やらを棲まわせてんのやから。
「見て見て、花ちゃん。すっごい足が長いカニ」「出てこないねー、チンアナゴ」「真っ青な小魚。きれいねー」と、水槽ごとにお嬢は目を輝かせてる。
気になる魚がいると、俺の手をぐいぐいと引っぱって。しゃあないから、俺は早足でついていったるんや。
風邪を引いてしもたオヤジには申し訳ないけど。今日はお嬢とこうして出かけることができて、感謝やな。
ペンギンやアシカを見ながら通路を進んでた時、俺は足を止めた。
『カワウソと握手できます』と書いた紙が貼ってある。
先着順やけど。ちょうど受付が始まったばっかりなんか、俺とお嬢は参加することができた。
「こんな小さな穴から手だけ、出すのね」
「カワウソは可愛い顔をしてるけど、凶暴なとこもあるっていいますからね。この小さい穴やったら、指を噛まれることもないんでしょう」
「噛むの?」
お嬢の声は、脅えた様子でかすれていた。
「花ちゃん、お先にどうぞ」
「いやいや。レディーファーストですよ」
先を譲ったっても、お嬢は俺の後に並んだ。背中にぴったりとくっついて、絶対に俺よりも先にいこうとはせぇへん。
しゃあないから、俺は先にコツメカワウソっていうのんを握手をした。
透明なアクリルの壁に開けられた穴から、指をちょっとだけ入れる。
すこし生臭いような水の匂いがして、それはもう小さな茶色い指が、俺の人さし指に触れた。
「うわっ。なんや、これ」
濡れた真っ黒な目が、俺を見つめてくる。可愛い。そう、可愛いや。
「花ちゃん。目がきらきらしてるよ」
「そんなん、サングラス越しで分からへんでしょ」
「暗いからって、さっき外してたよ」
お嬢に冷静に指摘されて、俺は言葉に詰まってしまった。
「お嬢。俺は気づきました」
「うん?」
カワウソとの握手を、お嬢に譲る。指先だけに湿り気が残っとった。
お嬢は慎重に、カワウソと指と指を合わせてる。なんか古い映画で、こんなんあったよな。あれは宇宙人とやったっけ。指先が光ったり、宇宙人を自転車の前かごに乗せて空を飛んでいくん。
「どうやら俺は可愛いのが好きみたいです」
「このカワウソとか?」
「はい」
「ネコとか?」
こくりと俺はうなずいた。
立ちあがったお嬢が、俺を見あげてくる。
「花ちゃんは、他にはどんなのが好きなの? わたしはねー、とかげが好きなの」
トカゲ? あんなにゅるっとした爬虫類が、お嬢は好きなん? 気持ち悪ないんやろか。
「せやったら、爬虫類のとこに行きましょか。イグアナとかおると思いますよ」
「うーん、そうじゃなくて」
お嬢が言うには、トカゲやけど恐竜の生き残りの子ぉで。海のすみっこに暮らすお母さん恐竜と離れて、トカゲの偽物とばれんように暮らすキャラらしい。
ややこしい。
「花ちゃんは?」
「俺の好きなのですか? そんなん決まっとうやないですか」
「お」と言いかけて、開きかけた口を閉じる。
「えー、教えてよ」
俺はお嬢に背中を向けた。リネンのジャケットのすそを、お嬢がくいっと引っ張る。
なんでやろ。後ろを向くことができへん。
いや、赤ん坊の頃から知っとうお嬢のことは大好きやで。そんなん当たり前のことやん。
これまでやったら、いくらでも口にできてたのに。
ここが外やからやろか。人がぎょうさんおるからやろか。それともこれがデートやからやろか。
「え? デート?」
いやいやいや。俺は今日はオヤジの代わりの保護者や。なんぼ婚約者同士とゆうても、相手は小学生やで。
いや、小学生は「可愛い」で合ってるやん。
でも俺みたいなええ年のヤクザもんが口にしたら、犯罪のにおいがする……気がする。
「うん。デーツはおいしいよね」
「へ?」
お嬢の言葉に、俺はふり返ってしもた。
「ほら、ドバイで売ってたの。デーツにチョコがかかってたでしょ。甘すぎって思ってたけど。久しぶりに食べたくなっちゃった」
「そうそう、デーツ」
俺はへらっと笑った。確かに甘すぎなんやけど。ここは乗っかっといた方がよさそうや。
甘いものは嫌いやないけど。デーツにチョコはやりすぎや。とくにホワイトチョコな。
うかつに好きなもんをごまかしたことを、俺は後になって悔いた。
数か月後、海外に行ったオヤジの土産で、大量のデーツをもらってしもたからや。それもさらに甘々のホワイトチョコのやつ。
◇◇◇
館内を見終えて、お嬢も歩き疲れたやろ。俺らは水族館のカフェで休むことにした。
いちばん大きい水槽のそばにあるから、カフェ全体が水の青に染まって見える。
まるで海のなかを漂うような不思議な気分や。
「あのね、パフェ食べてもいい?」
「ええで。どれがええん?」
テーブルをはさんだ向かいの席で、お嬢がメニューを熱心に見つめてる。
どっかの水族館で、砂から何匹も体を出すチンアナゴを模したのパフェや、ほんまのイワシを使ったパフェを出しとったけど。
ここは、そういう趣味の悪いのんは置いてなさそうや。
俺はコーヒーを、お嬢は桃のパフェを選んだ。
「おいしい」
運ばれてきたパフェは、グラスが白く見えるほどに冷えてる。ひとくち食べて、お嬢は柔らかに目を細めた。
「おいしいですか。そら、よかったです」
「花ちゃんが作ってくれるお菓子もおいしいよ」
突然褒められて、俺は瞬きをくり返した。
「ほら、アイスとか。杏仁豆腐とか、ルバーブのカスタードパイとか、ピーカンナッツとフランジパーヌのタルトとか」
「よう、そんな難しい名前を覚えてるなぁ」
「うん。だって花ちゃんのお菓子、月葉は大好きだもん」
弾んだ声で言われて。俺は、顔が熱くなるのを感じた。
せや。お嬢が喜ぶために、俺はパイ料理の分厚い本を買って、作ったんや。
キッチンを粉だらけにして、オヤジに「なんや、自分で店でも開くんか」と呆れられながらも。
ただお嬢の嬉しそうな顔が見たくて。
なんやろう、この気持ち。餌付けっていうんは絶対にちゃうけど。父性ともちごて、けど恋でもない。
「愛なんかな」
「なあに?」
「いや、次はアプフェルシュトゥルーデルでも作ろかな、と思て」
「あぷ? なに?」
お嬢が首をかしげる。
「文字が透けるくらい薄い生地で、リンゴを巻いた焼き菓子ですよ。生クリームを添えるんです。オーストリアの菓子ですね」
淡々と説明すると、お嬢が目を輝かせた。
よかった。話を逸らすことができた。俺は内心ほっとした。
生クリームと桃をスプーンですくいながら、お嬢が「あぷなんとか、楽しみ」と弾んだ声を上げた。
水族館を出た俺らは、浜へと向かった。
さっきまでうす暗い場所にいたせいか、目が眩むほどに太陽がまぶしい。砂浜の白さが際だって見える。
俺はサングラスをかけ、お嬢には日傘をさしかけた。
ビーチではパラソルが立てられて、ぎょうさんの人が海に入ってる。賑やかな音楽が流れ、椅子とテーブルを外に置いたビーチハウスが並んでる。白を基調としたり、黒い建物やったり。どこも妙にオシャレや。
「あかん。俺、浦島太郎さんや」
子どもの頃に、このビーチに泳ぎに来たことがあったけど。その頃は、いかにもな古臭い海の家が並んでたもんや。浮き輪が吊るして売ってあって、かき氷やラーメンの幟が立ってたのに。
「あかんなぁ。ビーチハウスまでは視野に入れてへんかった。いっそ海岸近くの土地を買うて、駐車場にして。そこから客をビーチハウスに誘導したら、ええ稼ぎになるんとちゃうやろか。確か、海の家を使うんも利用料を払たはずやし。シャワーを設置して、水だけやのうてお湯も出るようにしたら……」
独り言を呟いていると、背中をつつかれた。日傘の端から顔を上げて、お嬢が俺を見つめてた。
「花ちゃん、お仕事のことを考えてる」
「はは、つい。仕事熱心やから」
「ダメだよ。今日は月葉とデートなんだから」
ぷうっとお嬢が頬を膨らませた。
もしかして、水族館でデートをデーツとごまかしたんを、お嬢は気づいとったんやろか。
ビーチサンダルやないのに、砂浜を歩くと、靴の中に砂が入った。
日傘を差したお嬢は、燦燦と降りそそぐ容赦のない陽射しの下でも、影のなかにおる。
地面を這うように葉を広げたハマヒルガオが、淡いピンクの花を咲かせてる。
人のざわめきも、店から流れる音楽も、どこか遠くに感じられた。
「あれぇ? 花隈さんじゃないですかぁ」
背後から声をかけられて、自分がぼうっとしとったことに気づいた。
「もう、ぜんぜん店に来てくれないんだから。顔を忘れちゃうところだったわ」
俺に声をかけてきたのは、クラブで働いとう女性やった。
名前は覚えてへん。弟分の付き合いで、何回か店に行ったことがある程度やったから。
生白い肌に、白いビキニやから。全体的にぼやけて見える。
「いや、ここで営業されても困るんやけど」
俺は、お嬢の方に目を向けながら一歩下がった。
「あら。花隈さんったら、子ども連れなんだ。へーぇ、姪っ子さん?」
急に女が、俺の腕に手を絡めてきた。
「かわいそーぉ。せっかくのお休みなんでしょ。子守りを押しつけられてるの?」
「別に子守りやないし、姪っ子でもない」
「ねぇ、そこの君。もう四年生か五年生くらいなんでしょ? 家にはひとりで帰れるわよね」
でかい胸が、俺の腕に押しつけられる。海に似合わん、きつい香水のにおいがした。
こいつ、人の話をぜんぜん聞いてへん。
「ジブン、客と一緒に来てんねんやろ。さっさと戻りぃや」
「えーぇ。あんなジジイ、待たせといていいわよぉ。そうだ、花隈さんのこと『花ちゃん』って呼んでもいーい?」
甘ったるい声が、俺の耳もとで囁く。
日傘の下で、お嬢が傷ついた顔をしたんが分かった。竹でできた柄の部分を、両手できゅっと握りしめてる。
「花ちゃん。今夜、店に来てよ」
「行かへん」
べったりとした声に、肌を舐められた気がした。気持ち悪い。
女に「花ちゃん」と呼ばれるんが、こないにも寒気がするとは思わんかった。
「ちょっと、そこのあなた。いつまでいるの? 駅はあっちよ」
女は松林の向こうの通りを指さした。こいつは女の形をした夜や。
お嬢の足が、わずかに動く。
あかん。もう限界や。
「離せや。勝手に俺に触れてええって、誰が言うた」
俺の口から出てきた声は低く、凄味があった。女が喉の奥で短く「ひっ」と声を上げる。
「で……でも。子守りで疲れてるだろうから、あたしが癒してあげようと思って」
「しつこい」
俺は女の手を振りほどいた。握られてた腕が、じっとりと湿って気持ちが悪い。
お嬢の日傘が、砂浜に落ちる。
「わ、わたし。帰るから、平気だから」
背中を向けて、お嬢は走りだした。俺は日傘を拾い、お嬢を追いかける。
砂に足が取られて進みにくい。けど、それは相手も同じこと。
腕をのばして、お嬢の背後からウェストの部分を持ちあげる。
「きゃあ」
細い体は軽々と宙に浮いた。黒髪がなびいて、淡い水色と白のワンピースの裾がひらめく。
海から渡ってきた風に、ハマヒルガオがそよと揺れた。
「逃げたらあかんでしょ」
右腕にお嬢を座らせて、俺はため息をついた。彼女が三歳くらいの頃に、ようしてた格好や。お嬢自身も慣れたもんで、自然に俺の首に両腕をまわしている。
「迷子になったら、どないするん。人出も多いねんで」
「だって。花ちゃんに子守りをさせてしまったんだもの」
やっぱりそこか。
お嬢の声は、か細くて。強烈な日光に、今にも彼女ごと消えてしまいそうに思えた。眉を下げて、見るからにしょんぼりしている。
「俺は子守りや思てないですよ。もし子守りやったら、休日出勤の手当てを請求するし」
「でも、わたしと一緒じゃ楽しくないでしょ」
媚を売ってきたり、スキンシップと称してしなだれかかってくる店のおねーちゃんとおるのは、全然楽しいことあらへんのやけど。
けど、それは清らかなお嬢に聞かせる話やない。
「楽しいですよ」
「気をつかってるもん」
「つこてませんて」
俺の両頬を、お嬢が手で挟んだ。
「ちょっと困りますわ。こんな人前で」
なんでやろ。お嬢に対してやと、文句ですら声が明るくなるんが分かる。
「困らせてるの」
お嬢が俺のサングラスを外す。ちょっと唇を尖らせて、拗ねた顔が間近に見える。
「妬いてくれてるんですか? 光栄やわぁ。お嬢やから特別に、俺のほっぺたにちゅーしてもええですよ」
「ちゅ、ちゅー?」
お嬢の声が上ずった。
「ほら、日傘で隠しといたげますから。花ちゃんは、お嬢のもんですよ。昔も今も、これからもずっと」
真っ白と青の世界のなかで、俺ら二人を柔らかな影が包む。
ふわっと柔らかいもんが、俺の頬をかすめた。
波の音も松林を渡る風の音も、人のざわめきも、音楽も。全部の音が消えた。
お嬢の長い睫毛が、俺のひたいに触れる。
見れば、腕に抱きあげたままのお嬢が、顔どころか耳までも真っ赤に染めていた。
「えー、それだけですか?」
心の中は「うわー、うわー」って、中学生みたいに大騒ぎしてんのに。俺は大人やから、若頭やから。努めて冷静な声を出す。
こくこくと何度もうなずくお嬢は、すでに涙目や。
あんまりからかったらあかんな。
まだ小学生やもんな。
「お嬢。ついでにお願いがあるんです。俺のことを呼んでください」
「花ちゃん。でいいの?」
うんうん、と俺はうなずいた。お嬢の声で「花ちゃん」と呼ばれると、心が弾むんがわかる。
自分の中の、きれいな部分がきらきらと輝くんや。
いちばん大事な女の子にだけ許された呼び名は、特別やった。
「あの、花ちゃん」
「なんですか?」
「そろそろ地面に下してほしいの。さすがにいつまでも抱っこは、恥ずかしいんだけど」
うかがうように、お嬢が俺の顔を覗きこんでくる。
「いくらお嬢でも、その頼みは聞けません」
俺はにっこりと笑顔で、きっぱりと断った。
(了)