影恐怖症【影に囚われる】
忘れもしない、あれは私が6歳の少年時代のことだった。
チラチラと、雪が舞い出した11月の終わりごろだと憶えている。私は父から譲り受けたハーモニカを吹きながら歩いていた。
フォスターの『金髪のジェニー』がお気に入りのナンバーだった。
もっともレパートリーはそれしか知らなかったのだ。子どもには難度の高い曲であるから、流れるようなメロディは望むべくもなく、たどたどしい演奏にすぎなかったけれど……。
当時、豪雪地帯で知られる日本海側の片田舎で暮らしていた私は、家族には内緒で、裏山にある寂れた洋館へ出かけたのだった。
寒さのせいでろくに外出もできず、自宅で暇を持て余しているのに嫌気がさし、男児特有のほんの気まぐれで屋敷へ足を運んだ。今思い起こせば、まるでなにかに誘われたのかもしれない。
蔦のからまった厳つい建物は、無人となって数え切れぬほどの歳月を耐えてきたにちがいない。
威風堂々たる鋭い切妻破風は健在だった。黄色いモルタルを吹き付けた外壁はところどころ朽ちていたのに、一枚すら破れていない出窓と、2階の張り出したバルコニーが印象的な一軒家だった。
同世代の子どもたちの間では、もっぱら怪異が現れると噂される廃屋だった。四半世紀ほどの昔、家主は明治から続く事業に失敗し、家族もろとも命を絶ったと伝えられていたが、本当かどうか。
いくら6歳の少年といえども、廃墟に足を踏み入れるのはいけないルールぐらい知っていたので、無謀なことをするつもりはなかったのだが……。
とはいえ、当時の私の心情からすれば、好奇心が勝ったにちがいあるまい。館内に入らずとも、中を見てみたい衝動にかられたのだ。
ハーモニカを片手に吹きながら、背伸びして、出窓の向こうをのぞき込もうとした。
ところが、いくつも長方形の窓はどれも曇りガラスに阻まれ、まるっきり中を見透かすことができない。
せっかく森の奥まで遠征にきたのだから、なにか退屈しのぎの遊びがしたいと思った。
曇りガラスには、くっきりと私の黒い影が映り込んでいる。
音もなく雪が降りしきる曇天のなか、私は手をあげたり、頭を傾げたり、首をふったりと、他愛もない仕草をしたものだ。ガラスに映る自分の影と戯れるわけである。
しばらく一人遊びし、そろそろ飽きてきたころだった。
――おかしい。
ガラス窓に映るシルエットの動きに、微妙なズレを感じたのだ。
偶さか眼の錯覚ではあるまいかと、試しに手をかざした。
けれど、さっきまで忠実に私の動きを寸分の狂いもなく同調していた影が、ワンテンポ遅れるような気がする……。
ありえないことが起きた。
影は手をかざさなくなったのだ。
それどころか、頭を斜めにかまえ、いかにも傲慢なそぶりで私を見つめ返してくるではないか。
そのうち私の分身が、反対側の手をあげ、ぴたりとガラスに手をつけた。
気が動顛し、なす術もなく、私自身の影がひとりでに動くのを見守るしかない。
相手は身を乗り出し、両手を窓につけた。真っ黒な顔をこちらに向けてくるのだから肝をつぶさずにはいられない。
あたかも館内から、外にいる私に向かって何者かと確かめるような動作――。
全身総毛立つ思いにかられた。
私自身の影と戯れているつもりだったのに、どうやら姿恰好そっくりの男児に、まねっこ遊びをされていたらしい。
けれど、洋館の外観の傷み具合を見るにつけ、人が住んでいないであろうことは、当時の私にも明白。
ありえない。
このままでは命に係わると思い、とっさに逃げ出した。
あまりの恐ろしさに、ハーモニカを洋館の前に落としてしまった。
それどころではない。影法師が館内から出てきたらと思うと、気が気じゃなかった。
どこをどう走ったか。
やっとのことで家にたどり着いた私は、家族にさえ異様な体験を打ち明けず、布団にもぐり込んだ。
結局、あれはなんだったのか――今もって謎に包まれている。
じきに親の都合で、この地を離れることになった。
私たち一家はその後、西日本の内陸部に転居した。日々の生活に追われるうちに、洋館であった異様な記憶も、しだいに薄れていった。
やがて私は成人し、あの日のことを忘れていたのだが……。
◆◆◆◆◆
知らず知らずのうちに私の心に病魔は広がっていた。ちょうどレントゲンに映る癌の影のように、私の精神を侵していたようだ。
妻との確執やら、仕事による重圧にまいり、しだいに自身の影に怯えるようになったのである。
太陽や照明によって地面に紡ぎ出される影が、いつか別の人格となり、私から分離し、反抗してくるのではないかと、そんな気がしてくるのだ。
むろん、健常者からすれば強迫観念にすぎないだろう。じっさいに影が襲いかかってきたわけではないのだし……。眼の端に影が入るたび、チリチリと神経に障り、無視できないほどの恐れを抱くのだった。
さすがに深刻な精神に追いつめられ、私は家族との距離をおき、仕事まで休職しなければならなくなった。
生活密着度からすれば、光あるところに影が生じるわけで、避けては通れるべくもない。
言わずもがな、影とは、物体などによって光が遮られる結果、できる暗い領域のことをさす。
物理的に影を見ずして、またそれを遠ざけて生活することは不可能である。よほど暗闇で、手探りで生きるでもないかぎりだ。炭鉱作業員でさえカンテラを使うわけだから、そうもいくまい。
しかしながら、峠はなんとか越したつもりだった。
クリニックの先生と話し合い、1年にわたり、投薬治療と併用しながら暴露療法に取り組んだ。暴露療法とは不安障害の際に使われる精神療法であり、なんらかの恐怖症を訴えている患者は不安の要素となるものと立ち向い、乗り越えることをいう。
そして暴露療法は、最後の仕上げにかかろうとしていた。
影恐怖症の元凶ともいえるあの洋館へ足を運ぶしかない。
あえてあの曇りガラスに映る自身の影と対峙し、しょせんは少年時代の臆病な心が作り出した幻影にすぎないと、自分の眼で確認することで、恐れを克服できると主治医は請け合ってくれた。私とて、心の均衡を回復できると信じて疑わなかった。
とはいえ患者によっては、元凶となるものに向き合うにはPTSDが甦り、またぞろ精神をやられかねない。
否、今度こそ、私は逃げはしない。立ち向かうべきだと思った。
◆◆◆◆◆
そんなわけで30年ぶりに、ふたたびこの地へ戻ってきた。
またしても季節は冬だった。わずかばかりの雪がちらつくだけで、淡い青空が広がり、太陽も姿を見せていた。たった1人で森の奥へ分け入るのに迷いはなかった。
さらに年月を重ねた洋館は、時が止まったかのような外観をとどめたまま、墓標のように佇んでいた。
あの日と同じく、出窓の前に立つ。そして曇りガラスに自身の姿を映そうとした。
まさか、こんなことになろうとは。
太陽の位置はちょうど私の真後ろだ。当時と同じく、曇りガラスに私の分身が映って然るべきなのに、ガラスにはなにも映らない。
雲が太陽にかかり、光の弱まったせいじゃないか?
私は奇異に思い、ふり返ったときだった。
どこからともなく、ハーモニカのスローな曲が聴こえてきた。
ひどく聞き憶えのある抒情的な音色……。
まさか、私が子どものときのお気に入りの曲、『金髪のジェニー』ではないか。
森の周囲には民家はなく、ましてや雪が踝まで埋まるほどの季節に、森の奥へハーモニカを吹きにくる物好きなど、誰がいるものか――。
ふいに、私は左に眼をやった。視界の端に、なにやら気配を感じた。
1階に八角形のサンルームがあり、真上にバルコニーが大きく張り出している。
その手すりに、前のめりでもたれかかる恰好で、小さな人影が立っていた。両手でなにかを咥える仕草で、こちらを見おろしている。
私は眼を凝らしながら近づいた。足もとで新雪を踏み砕く音がキュッキュッと鳴る。
小さな子どもと思しいシルエット。
よく見ればおかしい。太陽の位置は左斜め上から射しており、ああもくっきりとした影法師になるわけがないのだ。
烏のように真っ黒な影は手すりに寄りかかり、銀色の楽器で、別離したかつての恋人への郷愁を奏でながら、私を見おろしている。
あの翳った少年のシルエットに見憶えがあった。
――あれこそ、在りし日の私自身の影ではないか。
なぜあの日、洋館の曇りガラスで怪異と出会い、影が反抗したのかは理由はわからない。
大人になった今なら、心を病んだ今ならばこそわかる。
この洋館に私は影を盗られたのだ。
影は囚われの身となり、以来、私は半身を失ったも同然だった。どうりで成人してからの私のそれは、薄い色をしていたはずだ。
己の影に怯えていたのは、私の思いちがいだったのかもしれない。
逃げまわったり、対決するどころか、むしろ私は、あの子を取り返さないといけない。
窓を破り、墓場みたいに暗く冷たい館内を進んで階段を見つけた。
一目散にのぼり、そして2階のバルコニーへ踏み込んだのだった。
そして手すりにもたれかかり、ハーモニカを吹く子どもの影と向き合った。
コールタールのように真っ黒な姿で、そのくせ銀色のハーモニカだけが鮮烈な色彩だった。
影法師は不定形で、雪空のもと、逃げ水のようにうねうねと揺れていた。
私が近づくと、それは片手で楽器を口にしたままバルコニーの奥へ遠ざかった。
逃がすまいと、私は両腕を広げ、一気につめ寄った。
ためらいもなく、影の肩に触れた。
瞬間、影は散り散りになった。炭の粉塵のようなものがバラまかれた。
とたん、私の意識もブレーカーを落としたみたいに遮断された。
真っ暗闇に閉ざされ、気を失った。
◆◆◆◆◆
冷たさも温かさ、喜びや苦痛すらない。
思考さえフラットだった。怒りも悲しみもなく、客観的に頭を働かせることができた。
気づけば私は屋内に佇み、出窓の外を眺めていた。
窓は透明なガラスだった。その薄板の向こうには侘しい庭園が広がり、雪が積もっていた。
ひたすら静かだった。耳鳴りがするほどの静寂。
私は田畑の案山子のように立ち尽くし、なにかを待っていた。
今の私はまさに蜘蛛だ。
網を張りめぐらせ、あとは身じろぎさえせず、待ち伏せするしかない。
ひどく長い間だったはずだ。時間の感覚すらなく、だからと言って苦行とも思わなかった。
そのときだった。
屋外でかすかな気配を察知した。
私は餓える心を抑えながら、獲物を捜した。
何者かが、森を突っ切り、この寂れた洋館にやってきたようだ。
下手くそなハーモニカの音色が聞こえた。
子どもか。
ハーモニカを片手に吹きながら敷地を横切り、窓越しに中をのぞき込んでくる。
最初はおっかなびっくりだったが、そのうち手をあげたり、頭を傾げたり、首をふったりと、大胆になってきた。
よもや館内に私が潜んでいようとは、夢にも思うまい。
脅かしてやろう。不法侵入に対する罰をくださねばなるまい。怖い目に遭うのも情操教育の一環というものだ。
子どもが動くのに合わせ、薄板越しにパントマイムをするかのごとく、まねっこしてやった。
ひとしきりシンクロしてやったあと、徐々にテンポをずらすだけだった。
どうやら相手は、異変に気づいたらしい。
手をかざし、鏡のように映るかどうか確かめているようだった。わざとまねをしなかったら効果てきめんだった。
私は斜にかまえ、いかにも傲慢なそぶりで見返してやった。
今度はこちらの番だ。窓にぴたりと張り付き、子どもとまったく異なる仕草をする。
泡を食ったらしく、悲鳴をあげて飛び退いた。
銀の楽器を放り出して、逃げていくではないか。
私はおかしくて笑った。しばらくすると空しくなった。
はてさて、私は誰だったか? なんてことだ、自分が何者かさえ憶えていないとは……。
そういえば、大広間の隅に姿見があった。
試しにそこに自分の姿を映してみる。
鏡には、子どもサイズの影法師だけが映っていた。
なんの感慨も湧かない。これが当たり前だったかのように、思考やら五感がフラットなのだ。
してみると、私はずっと前から影だったのかもしれない。
どうやらあの子は、戻ってくる気配もなかった。
私は出窓を開けると、身体を逆さにして乗り出し、雪上に置き去りにされたハーモニカを手に取った。
ひどく懐かしい品だと思った。
口につければ、自然と『金髪のジェニー』のメロディを再現することができた。
影を失ったあの少年は、これから先、いったいどうなるのだろうか?
了




