なろう系の定義を太郎系アニメとそれに類似する作品群として、なぜなろう系だけ特に注目して嫌う人がいるか
さて、ほかのエッセイで作者にとってのなろう系の定義をハッキリ表明せずに、主張を展開してるという指摘をもらったので、エッセイ上でのなろう系の定義をしましょう。
実際問題としては”あなたがなろう系と思う作品が、なろう系です”というのが現状だとは思います。
とはいえエッセイ的に”良くたたかれているなろう系”というのは、いわゆる太郎系アニメである「スマホ太郎」「デスマ次郎」「百錬三郎」「孫四郎」「ありふれ五郎」と呼ばれる作品たちとそれに類似した作品ということになるのですけどね。
でまあ、なぜなろう系だけ特に注目して嫌う人がいるかなのですが。
結局のところ”主人公を含めてか登場人物に人間性を感じない上に、設定だけに頼ったご都合主義が目につきすぎる”からじゃないかなと。
なろう系主人公って結局、ドラえもんの道具を自分の力と勘違いして、勉強も努力もしないで、調子に乗り続けて、しかもなんもしっぺ返しも受けないし、なぜか周りからもち上げられつづける”のび太”だと思うんですよね。
じゃなければ、聖闘士星矢の蟹座のゴールド聖闘士である、デスマスクが、なぜかチョロインにまとわりつかれて、持ち上げられているとかかな。
結局、感情や人間味、個性の希薄な主人公が、特に目的も意味もなく、なぜか飛ばされた異世界を徘徊して、一応大義名分は作ってみるけど、その時の気分でやりたいことをやるだけ。
しかも自分の強さを自覚しておらず、一方的ないじめに似たような行動もよくやる。
さらには主人公が目的としてハーレムを作ることをちゃんと考えて行動して、その努力の結果ハーレムができるならともかく、都合よくハーレムを作りたいがためのシーンの繰り返しが、結構気に入らない人が多いのでしょう。
あとアニメだと地の文での説明がないので、設定うんぬんが分かりずらいというのもありそうです。
結局は強いという設定の主人公が、可愛いという設定の女の子たちに、露骨に好き好きという態度をとられている様子を、何も難しいことを考えずに気軽な気持ちで見たり読んだりすることができるのを、楽しいとみるか、気持ち悪いとみるかということなのかなと思います。
話の構造自体はハリウッドのアクションやラブロマンスと、実は大差ないんですけどね。