第2章
第2章 雷 鳴
大門次郎は、今、鹿児島行きの飛行機の中にいた。
飛行機の窓から見える空は、真っ青である。雲も遥か遠く下の方にある。
どこまでも広がる青い水平線を見ていると、アメリカNASA宇宙センタ-の宇宙映像がダブり、一瞬ではあるが宇宙旅行をしているような錯覚になる。
今年も親友に会うために、鹿児島に向かっていた。
機内は、いつもの光景と変わらない。機内に取り付けられたラジオをイヤホンで聴く人、雑誌や新聞を読む人々など、乗客は、それぞれに機中で過ごしている。いや、その表現よりも、時間を潰していると、言った方が正しいのかも知れない。
親友の岡本博之とは、40年来の付き合いをしている。
彼は、愛媛県出身で性格の良い男であった。
大阪の製紙加工会社に、二人とも学校を卒業して22歳で同時に入社した。
会社は、レジスタ-の記録紙とコンピュタ-の算光紙の製造販売をしていた。
大阪で3年間、営業の仕事をして、お互いに競い合い、励ましながら働いた。
そして二人は、同時に九州担当の営業マンになった。
大門の担当地域は、福岡県、熊本県、佐賀県、長崎県であった。岡本は、福岡県北九州市、大分県、宮崎県、鹿児島県の担当となった。
会社の方針は、5年後に福岡営業所を設立するとのことで、月の内20日間は、九州で働き、あとの10日間は、大阪での仕事と生活の日々を送った。
本社では、月初の定例営業会議の資料作りや旅費清算業務、次の出張準備や、その他の業務に時間を取られた。
出張中の営業日報は、その日の内に、会社にFAXする決まりで、各地の会社指定宿からFAXをしていた。
九州での営業では、大門と岡本は、常に連絡を取り合い、情報交換した。
福岡市の指定宿は、二人が月に1度同宿することができたので、リフレッシュタイムが取れた。
博多の中洲にあるおでん専門店で、二人で酒を酌み交わし、楽しい時間を過ごすのである。その店のおでんの具材はどれも美味しく、大門は、中でも大根が好きであった。白い太丸切りした大根は、全体に味が染み込み、柔らかくて口の中に入れるととろけた。
二人は、いつものパ-タンで、指定宿の近くのスナックでカラオケを3~5曲程度、歌って終わるのである。
九州を担当して、ちょうど5年が過ぎた頃、嵐が突然やってきた。3月5日の定例営業会議の後に社長から、
「4月1日をもって、当社が大手レジスタ-会社に吸収合併されることになりました」
との報告があった。それからの社内は、てんやわんやの騒動になった。リストラがあるとか、いろいろな雑音が聞こえてきたのである。
「火の気のないところに煙は立たず」の諺通り、3月中旬からレジスタ-会社の人事部長と課長が来て、次々にリストラに該当する社員を呼び出した。
大門も岡本も例外ではなかった。250名いた社員の半数近くがリストラされた。
中小企業の運命は、厳しくて、はかないものである。
大門は、大阪で再就職した。岡本は、鹿児島に彼女ができたと言って、鹿児島県に移って、再就職したのである。
二人は、それぞれ別々の道を歩むことになったが、前の同僚として、又、親友として、若い時から岡本を「岡ちゃん」と呼び大門を「大ちゃん」と呼び合う仲であった。それ以来のつき合いが続いている。
飛行機は、定刻通り鹿児島空港に着いた。岡本は、空港の待合室で待っていた。
大門が来ると、
「やあ、久しぶり、元気?」
「まあ、相変わらずだ」
二人は簡単な挨拶を交わして、空港から九州自動車道で鹿児島市内に車を走らせた。そして市内の天文館へ向かい、行きつけの小料理屋に入った。
これまで2年に1度は、会っていた。
今回は、岡本から鹿児島でゴルフをしようとの連絡があり、大門は、仕事が休みになった10月初めに来たのである。
二人は、酒を飲みながら料理を食べた。
会えば会ったで、とりとめもない話題に花を咲かせ、そして昔懐かしい若き時の九州での営業時代の話に落ち着くのである。
「今度、急用が出来て2ヶ月ぐらい、田舎へ帰らなければならない」
大門は、自然に帰省の話を切り出した。
「奥さんも一緒に帰るの?」
「いや、一人で行くことにしたよ」
「ああ、そう」
岡本は相槌を打ったが、それ以上の事は聞かなかった。
大門は、心の許しあえる友がいることに感謝した。
岡本も同じ心境であったと感じていた。
二人の交友は、大阪と鹿児島の距離を近づけていた。
それは二つの共通点を共有していたからである。
ともに妻が鹿児島出身であることと、お互いの心の中には、絶対に入らないという暗黙の了解があった。
真の友人とは、そういうものかも知れない。
大阪と鹿児島で交互に会って、親交を深め合ってきたのである。
大門が鹿児島に来る楽しみは、もう一つの理由があった。
それは恵美子の故郷でもあったからである。
恵美子の実家は、南九州市知覧にあり、岡本と鹿児島で会う時は、必ず知覧に立ち寄っていた。しかし妻の両親が亡くなってからは、ここ数年は行っていない。
二人がその小料理屋を出たのは、午後9時を回っていた。
大門は、予約を入れていた天文館公園の横にあるシティホテル天文館に向かった。
岡本は、運転代行を呼んで、自分の家に帰って行った。
翌日は、鹿児島ゴルフカントリ-で一日を楽しく過ごした。
大門は、その日の最終便で大阪に帰ったのである。
大門次郎が大阪に住んでから、早いもので51年になる。その間、田舎へ帰ったのは三度である。
すっかり大阪に馴染み、生活基盤も築づいていた。
恵美子と結婚し子供も生まれ、一般市民として生活を送っている。
「住めば都」というけれど、次郎も大阪の北摂に住み、生活環境や自然景観そして交通の利便性にも恵まれて、人並みの満足感を抱いていた。
次郎は、長女が三歳になったので、田舎の祖父母や親兄弟に初孫を合わせる為、家族で帰省することにしたのである。
長女の加奈に、
「田舎のお爺ちゃんやお婆ちゃんに会いに行こうね」
恵美子が話しかけると、今まで元気に、はしゃいでいた加奈は,急に黙ってしまった。どうも行きたくない素振りだった。
「加奈ちゃん飛行機に乗って行くのよ」と言っても反応がない。どうしたんだろう。加奈ちゃんは元気がない。子供なら喜ぶはずだが、むしろ意気消沈している。恵美子が、
「加奈ちゃんどうしたの」
と声をかけても返事もしなかった。今の今まで部屋中を駆けずり回って、楽しくしていた娘の様子をみた恵美子は、
「体調が悪いのかしら」
と話しかけてきた。次郎も理解できなかった。
「行きたくないの」と娘の加奈は、はっきりと言う。
田舎には、一度も行ったことがないのに娘の加奈は、
「どうしても行きたくない」
と再三にわたり、母親に訴えるのである。
次郎は、三歳の娘がこれほどまでに意思表示をするのには、驚きと同時に不可解であった。
三人は家を出て、大阪伊丹空港に向かった。
家から空港までは、バスと電車を乗り継いで1時間余りかかる。娘の様子が少しおかしいので、タクシ-を呼んだ。
そのタクシ-の中でも一言もしゃべらない。
「加奈ちゃんは、マ-ブルチョコが好きだよね。空港に着いたら買おうね」
と恵美子が娘を慰めようと、言葉をかけるが返事がなかった。
空港について、娘にマ-ブルチョコを渡すと2~3個口の中へ入れたら、
「加奈は、もういらない。欲しくないの」
次郎も恵美子も戸惑った。娘は、飛行機の中では、直ぐ寝てしまった。
しばらくすると、娘の体中にジンマシンができた。恵美子は驚き、今までマ-ブルを食べても、一度も体調の変化は、見られなかった。
飛行機は、那覇空港に到着し、空港から外に出ると8月の太陽は、肌を刺すような暑さだ。
早速、空港内でレンタカ-を借りて田舎へ向う。
国道58号線を走り実家を目指した。
空港から実家までは、車で約1時間である。
実家の近くの隣村が見えてきた。近くまで行くと前方に小さい川がある。
そこまで来ると川が溢れていて、国道の橋の上も海水が流れている。
津波が来たのであろうか。山の方から強い勢いで海水が海へ流れていた。海水は引くところであった。
川幅は、たった1.5m程の距離が海水の勢いが凄く、前へ進めない。車はそこで立ち往生した。
「地震があって津波が来たんだろうか?」
と次郎は、車のラジオの音量を上げて、チャンネルをあちらこちら回し、地震や津波情報に注意したが、そのような情報は流れていない。
「田舎へ来るなという警告なのか?」
次郎は、一瞬軽い冗談を口にしたが、娘の体調面と精神面、そして目の前に起こっている事態を考えると、そう受け取らざるを得なかった。
ここまで来るのに、5~6ヶ所の橋を渡ってきたが何の変化もなかった。津波が来ていたら、これまでの川もそのような状況にあったはずだ。ここだけが異常な光景であった。
そこから、また今来た道を10kmほど逆戻りして、迂回道路を回って、国道58号線に戻った。時間も経って、3人共へとへとに疲れていた。
特に、娘の加奈は、恵美子の腕の中でぐったりしている。
隣村に着いたのは、午後7時を過ぎていた。そこから実家までは、車で5分程度である。
実家に着くと祖母(後妻)とお袋が「お帰り」と温かく迎えてくれた。特に、祖母は喜んでくれた。次郎がおばあちゃん子であったこともあり、嫁とひ孫を心待ちに待っていたのだった。
その夜、午後8時ごろ次郎は、食事も取らずに加奈が寝たので、恵美子と二人でス-パ-のある町まで買い物に出かけた。
二人とも疲れてはいたが、加奈が食欲もなく、そのまま寝たので果物を買いに出かけたのである。
買い物に往復の時間も入れて30分以上もかかったので、娘のことが気になり、急いで実家に帰った。
恵美子が娘の寝ていた部屋に行くと、娘の加奈は、母親の気配で急に泣き出した。尋常でない泣き方である。あやしても泣き止まない。
何かに怯えているような異様な状況であった。
恵美子は、直ぐに娘の加奈を抱きしめて、外に止めていた車の中に連れて行った。
「よしよし、どうしたの、怖い夢でも見たの」
恵美子があやすが火のついたように泣き叫ぶだけである。
恵美子は、娘を体の上に乗せ、助手席のシ-トを倒して、いたわる様に加奈を優しくあやす。
30~40分も泣いただろうか。しばらくして恵美子の胸の上ですやすやと寝ていた。母親の胸で安心したのであろう。
「どうしたことだろう。娘がこれほどまでに怯えるとは」
次郎は、理解に苦しんだ。
その夜は、親子三人で車の中で一夜を明かした。
大門は、翌朝になっても娘の恐怖心に満ちた泣き方を思い出し、違和感を抱かずにはおれなかった。
「何があるというのだ。三歳の子供が震え慄くほどの恐怖とは何か?」
翌日になっても、加奈は元気がない。
次郎は、近くの海に連れて行くことにした。
少しでも、気分を落ちつかせようと考えたからである。
車で10分くらいの所にある大浜の海に、親子三人で出かけた。娘はしばらく砂浜で遊んで気分を紛らわせていたが、直ぐに、
「お家に帰りたい。お家に帰りたい」
と言い出したのである。
「おばあちゃんの家に帰ろうね」
恵美子が言うと加奈は、
「あすこの家はいや。いやや。早く自分の家に帰りたいの」
母親に強く訴えるのである。
「パパ、自分のお家にへ帰りたいの。加奈はね、自分のお家に帰りたいの、ママも一緒に」
再三にわたって、意思表示をして訴えてきた。
「加奈ちゃん分かった。明日になったら大阪に帰ろうね」
と諭しても
「自分のお家に、今日帰りたいの。ねえ、早く帰ろうよ」
三歳の子がそれほどまでに、はっきりと実家への拒絶反応を示すことにも、次郎は、再び驚かされたのである。
子供は、子供なりに強く何かを感じたのであろう。
恵美子と相談し、明日大阪に帰ることにした。
その日の夜は、実家には泊まらず、親子三人で恩納村のリゾ-トホテルに泊まった。加奈は、ホテルの食事は、楽しそうに食べていた。
その夜は、午後9時には、母親の腕の中で安心したように眠っていた。
翌日、帰りの飛行機の中では、加奈もようやく元気を取り戻して、恵美子と話していた。
恵美子は恵美子なりに、田舎では一言も言わなかったが------
「あなたの実家は、異様な雰囲気がしたのよ」
それ以上の事は、口には出さなかったが、何かを感じ取っていたのである。
「悪かった。申し訳ない」
次郎は、恵美子と娘の加奈に心から謝った。
「何かがある。それは何か?」
次郎が里帰りをして感じた違和感であった。
大阪に帰ってきてからは、娘の加奈も1週間ほどで、本当に元気な姿になった。次郎も恵美子も安心した。
ある夜のこと、次郎が娘と風呂に入っていると、
「パパ、加奈はね、二度とあそこの田舎へは、行きたくないの」
「加奈はね、最初から行きたくなかったの」
「ごめんね、加奈ちゃん。もう行かないようにするから」
「約束よ、パパ、指きりげんましよう」
「指きりげんま、嘘ついたらハリ千本のます。指きった」
と言って、加奈は明るい声で笑っていた。
娘は風呂から出ると、早速、恵美子に
「ママ、パパがね約束してくれたの。二度とあそこの田舎へ行かないって。指きりげんましたの」
恵美子は、娘の体を拭きながら、
「そう、それは良かったね。加奈ちゃん」
母娘の微笑ましい姿に、次郎は、家族はすばらしいと思った。
家族愛とは、そういうものと改めて感じたのであった。
次郎は、「真の原因とは何か」を確認する為に、今度は、一人で田舎へ行く計画を立てたのである。
10年ぶりの里帰りとなる。
「今度の里帰りは、沖縄で2ヶ月間アルバイトをすると思う」
と恵美子に要点のみを話すと、
「何で今更、沖縄で仕事なの?こちらで探したら」と不機嫌な顔をした。
次郎も本当の目的も言えず、恵美子の気持ちも分らないではなかった。
大義名分のみを話し、真実を話さないほど辛いものはない。
10月1日、伊丹空港発沖縄行き、午前11時00分発の飛行機に乗った。飛行機は、1時間ほどして、鹿児島を過ぎて種子島上空にさしかかった頃、
「乗客の皆様今日は、こちらは機長のヤマシタコウヘイです。本日は、全日空105便をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。当機は、只今、種子島上空を通過中です。高度は32000フィ-ト(約9700m)、速度は850km/hで飛行中です。本日の沖縄到着時刻は、定刻の13時15分の予定です。
気象庁の予報によりますと、沖縄地方の天気は、晴れで気温は28度です。どうぞ到着時間まで機内でゆっくりとおくつろぎ下さい。ありがとうございました」
と機長のアナウンスが流れた。
それから1時間後、飛行機は、沖縄への着陸態勢に入った。同時に機内の液晶テレビに、その模様が映し出される。定刻通りに沖縄に到着した。
次郎は、レンタカ-を借りて、車を走らせた。午後3時には、実家に着いた。
「お帰り」と玄関を入ると、お袋と妹の幸子が迎えてくれた。
次郎は、早速ご先祖様の仏壇に線香を立てて両手を合わせた。
「食事は、まだでしょう。準備しているのよ。前もって連絡があったのでス-パ-まで買出しに行ったの」
と妹がいう。
「いつ、東京から帰って来たんだ」
「もう6ヶ月前よ」
「それじゃあ、東京を引き上げてきたわけ」
「そう、お袋も歳だし、介護の為に里帰りしたの」
確かに、お袋は93歳で介護を必要としていた。
次郎が妹と会うのは、40年振りである。それだけの年数が疎遠になっていると兄妹は、そう会話があるものではない。当たり障りの無い話になる。
妹については、兄弟より少し情報が入っていたので遠慮がちになった。二人の間の空気は、微妙であった。
その日の夜は、午後10時まで実家にいて、石川市のビジネスホテルに泊まることにした。
次郎が帰ろうとすると、
「なんで家があるのに、ホテルに泊まるの?」
お袋も妹も言う。
「明日、石川で仕事があるから」
口実を作り実家を出た。どうしても実家に泊まる気になれなかったのである。
次郎は、兄弟の紹介で浦添市伊祖にある親戚の自動車会社で、2ヶ月間という約束で、アルバイトをすることにした。
敢えて、仕事に就いたのは、目的があったからである。その間、2週間に1度は、日帰りで実家に行った。
妹は、お袋の世話でも介護士をしのぐほどよく面倒を見ていた。次郎は、お袋によく言ったものです。
「これだけ至れり尽くせり世話をされて幸せだね」と。
お袋も喜んでいた。
お袋は、高齢ではあるが、耳が少し聞こえ難くいことと、右足が不自由な以外は、いたって健康で「ボケ」もなく会話も正常である。兄の一郎もお袋は「120歳まで大丈夫だ」と言い切るほどである。
沖縄の高齢者が健康で長生きする秘訣は、県民の周知の事実である。
月日も流れて2ヶ月が過ぎた。アルバイトを切り上げて、大阪へ帰る準備をし、浦添市にあるビジネスホテルにチェックアウトを連絡するところであった。
そこに突然、妹が死んだという知らせが入ったのである。
次郎は、その知らせを知った瞬間、
「またしても妹か。何故なんだ」と叫んでいた。
驚くこともなく、悲しみもなく、ただ怒りだけが込み上げた。
早速、すぐ下の弟の三郎に、妹の死を知らせ、午後3時に待ち合わせをして、三郎の車で浦添総合病院に検査入院していたお袋を迎え、三人で田舎へ飛んで帰った。
お袋は、歳だから幸子の死は、家に着いたら話そうと三郎とは、相談していた。
実家に近づいた頃、
「幸子が今朝、死んだよ」
三郎が後部座席に座っていたお袋に告げると、
「あい、なんで」の一言であった。
その一言に全ての意味が凝縮されていた。
「どうして?、なぜ死んだの。なんで親よりも早く死なねばならないのか」
93歳のお袋の悲しみは、察するに余りあるものであった。
お袋は、通夜そして告別式と気丈に弔問客に応対していた。
初七日も終わると、お袋の悲しみと悔しさは、日増しに強くなっていった。
「なぜ死んだのか。なぜ死なねばならない。自殺したのか」沖縄の方言で再三にわたって、兄の一郎と次郎に言った。
兄は急用ができて那覇に帰ったので、次郎は二日間、実家に泊まることになった。こなん時だから、お袋一人にすることもできず、勇気を出して泊まることにしたのである。
その夜も次の夜も「なぜ死んだのか」と繰り返し繰り返し同じことを言う。
お袋は、納得がいかなかったのである。当然であろう。過去に4人の娘を亡くしており、最後まで生き残っていた幸子までもが死んだのである。
次郎は、お袋の心痛は、痛いほど分っていた。
夜中の3時ごろ起きてきて、幸子の位牌の前に座り、線香をあげて、娘の位牌に向かって「どうして、なぜ死んだのか。教えて」と手を合わせながら一人で語りかけるのであった。次郎は、いたたまれず飛び起きて、お袋に、
「幸子は、自殺ではない、殺されたんだ」
ときっぱりと言った。
「なぜ遺書もあるのに自殺じゃないの、誰に殺されたの」
「マブヤ-に殺されたんだ」=怨霊のことを沖縄の方言でマブヤ-という。
「マブヤ-てどいうこと、どうして」
と聞くので、次郎はお袋に確かめた。
「祖父やオヤジは、真面目に生きてきたか?」
「二人とも真面目に生きてきたよ。なんの問題もなかったよ」
「オヤジは、戦争中に女の子を殺したことは?」
「父親は、戦争には行ったけど、憲兵隊長だったので、人殺しはしていない。一度も戦場には行かなかった」という。
「そしたら、なぜ内の家系は、女の子ばかり死ぬんだ」
「なぜなんだ」
次郎は、怒りを抑えきれずお袋に迫った。
「先祖になにか不足の事態があったのではないか?」
とお袋を問いただしたのである。
今から105年前-------。
「実は、祖父が40歳になったころ、大阪府吹田市にあるアサヒビ-ル工場に4年契約の期間工として出稼ぎに行った。その間に、先妻に不幸な出来事が起こり、子供を身もごった。
産まれたのは、女の子であった。
先妻は、その女の子を抱いて、隣村の男の家に行って、この子を引き取って育ててほしいと哀願したのであるが聞き入れてもら得なかった。
「私は、どうなっても構わない。また死んでもいいから、この子供だけは、助けてほしい」
とお願いしたのである。
男は、「わしも子供が5人もいるから引き取れない」という。
女は、「あんたの責任だよ。あんたが悪いのよ。この子だけは------」と絶叫したのである。
夫からビ-ル工場の期間工として、4年間の仕事を終えて、2週間後に帰るとの電報が届いた。
それから1週間後に、その女の子は、病死したという。
そして夫があと数時間したら、家に帰って来るという時に、その先妻も心臓発作で急死したのである。悲劇という以外に言葉はない。
次郎は、お袋の昔の出来事を聞いて------。
「その女の子の墓は、どこにあるの?」
「調べたけれど分らないよ」
「その女の子のマブヤ-が妹達を殺したのだ」
次郎は、お袋にそう再び断言したのである。
又、その子の供養をしないと、子供や孫や子々孫々まで影響が及んではいけないとお袋に話した。
過去に、4人の妹達が不慮の事故死で、三歳までに死んでいた。今回の幸子の死である。
高齢のお袋が一人娘と言ってもいい、幸子(享年51歳)が死んで再び悲しんだ。
妹達5人は全員が死んで、男兄弟5人は、全員生きている。
次郎は、お袋の悲しみや苦しみ、そして悔しさは、いかばかりかと慰める言葉も見つからなかった。
次郎は、後日、兄一郎と弟三郎にその事実を話した。
「二人が信じるか否かは自由だけど、事実を受け止め、我々の時代に、その女の子の墓を探して供養するべきである」
二人とも初めて知る事実であった。
妹の四十九日も終わってから、老いたる母は、次郎に、
「自殺ではなく、幸子は、死ぬことが分っていたんだね」
お袋がこだわったのは、遺書が三通(母親、兄、娘)と自分の身の回りの物を整理していた。
お袋と幸子の一人娘に渡すべき預金通帳と印鑑なども、きちんと分けて、仏壇の上に置いていたのである。
母親へ
「これまでの感謝の言葉と世話が出来なくてごめんなさい」と書かれていた。
兄へ
「母親の世話を宜しくお願いします」
娘へ
「母娘で会話し、ショッピングを楽しみ、ともに食事をしたかった。それができなくて残念です」
次郎は、最後にお袋に言った。
「幸子は、死ぬことが分っていたから、遺書を書き、全てを整理して天国へ行ったのだ」
琉球大学医学部付属病院での司法解剖の結果は、薬物等の検出はなかったとの事であった。
マブヤ-に殺された妹達の冥福を祈るのみである。
沖縄には、昔から小さい子供や孫達がころんで、怪我をして泣いていると、オジイ-やオバア-が飛んできて、ころんだ子供や孫の頭をなでながら「マブヤ-マブヤ-飛んでいけ、飛んでいけ」と声をかけて、子供を慰めたものである。
その子供は、オバア-のその声としぐさで、安心して泣き止んだ。
昔から沖縄の先人達の「生活の知恵」から生まれたものであるが、近代文明の発達した今日では、そのような風習は、無くなりつつあるのかも知れない。
しかし、人間の生活の知恵は、変わることはないであろう。
マブヤ-とは、人間の魂の問題であり、霊の問題だからである。
沖縄県は、昔、琉球国として1429年~1879年までの450年間、独立した国であった。1872年に明治政府により琉球藩となり、薩摩藩(島津藩主)の支配下となる。
1879年に廃藩置県が発令されて、藩がなくなり、沖縄県となったのである。
1941年~1945年の3年9ヶ月間は、太平洋戦争時代である。
戦後になると沖縄県は、1945年~1972年の27年間、アメリカによる統治領となる。さらに今日でも、在日米軍施設の約74.7%が沖縄に集中しているのである。
大門が高校3年生の時、友人と読谷村の米軍基地前のバス停で待ち合わせをしていた。ちょうど午後6時ごろバス停で待っていると二人の米軍人が職務を終えて帰るところであった。
二人とも軍服を着ていて、その左ポケットの上にUS. ARMY(合衆国陸軍)と書かれていた。
ちなみにネ-ビー( NAVY)は海軍、エア-フォ-ス(AIR FORCE)は空軍です。
大門は、米軍人と三人になったので思い切って聞いてみた。
Excuse me(失礼ですが)
Where do you come from(お国はどちらですか?)
We come from the United States of America。
(アメリカ合衆国です)
What part of the United States are you from?
(アメリカはどちらのご出身ですか?)
Texas
California
さらに大門は、続けて聞いてみた。
Have you impressino in Okinawa?
(沖縄についての印象はどうですか?
I live on island(私は島の頂上に住んでいる)
Me Too I thought so(私も同感だ、そう思っている)
大門は、沖縄はすばらしいとかきれいな海、青い空などの賛辞の言葉を期待したのだが、島のテッペンに住んでいるとの答えには、ユ-モアがあり真実だろう。
日本の国土面積の4倍もあるテキサスと広大なカリフォルニアから来た二人には、沖縄は点の島であろう。
地図上でも点の小さい沖縄が米軍の極東最大の基地でもある。
ちょうどその時、先方からバスがやってきたので別れの挨拶をした。
Thank you very mach
Not at all
それから暫くして友人が来たことを思い出す。
山城家の先祖の悲劇は、戦前の出来事であった。
次郎は、兄に先妻の件について、調べてほしいと依頼したのである。
「そんな馬鹿な事があるか。上辺でだけで物いうな」
と怒った。
「しからば、叔母さんだけでもいいから確認してほしい」
次郎は強く要望したのである。
数日後、兄は、叔母を訪ねた。
「昔のことをほじくり返してどうするの」
叔母に一括されたという。
次郎は、その話を聞いて、女の子が産まれたのは、事実だったのだと確信を持たのである。
「昔のことだから仕方がなかったのであろう」
弟の三郎は、軽く受け流す。
「沖縄には、霊媒師がいるではないか。一度、有名なユタに相談してみたら」
と次郎が進言しても返事がなかった。
次郎が沖縄を離れる時がきた。「真の原因」は、つかめたが心は重たかった。
娘の加奈が三歳の時に、恐怖に慄いたのも理解ができた。
これからが問題である。
先祖の不幸な出来事を、どんなことがあっても解決しなければと決意し、大阪行きの飛行機に乗った。
次郎は、大阪に帰って、我が家に帰って来たら、心が少し落ち着いた。
「あなた、ご苦労様でした。大変でしたね。疲れたでしょう。妹さんも若いのに残念でしたね」
恵美子が言ったので、
「人間の運命だから仕方ないよ。はかないものだ。人間は、願わくば、子供が結婚し、孫の顔も見て死ねたら、それに越したことはないが、そうはいかないのが人生なのかも知れない」
「幸子さんも51歳だったんですね。まだ若いのに、ご冥福を祈ります」
恵美子には、妹の死因について、電話で病死(急性心不全)と伝えていた。
次郎が沖縄から帰ってきてから3ヶ月が過ぎた。
沖縄でのいろいろな出来事を考えた。
マブヤ-は、妹達を殺しただけではなく、兄弟の子供にも魔の手を向けた。
兄一郎の娘、千恵子は男兄弟三人にもまれ、ガッツのある気の強い女の子に育った。千恵子は、年頃になり彼氏ができ、結納も交わし、準備万端整えて、あと1週間後に、結婚式を挙げる予定であった。
ある日、彼女の運転する車でドライブに出かけた。マブヤ-は、千恵子に襲いかかったのである。車は雨の中でスリップして、川の堤防に前方から激突し、助手席に乗っていた婚約者は、心臓破裂で即死した。
千恵子を殺そうとしたが、彼女の強い精神力に負け、その代わりに、婚約者の男性を殺してしまったのである。
彼女は、瀕死の重症を負ったが怪我ですんだ。
マブヤ-は、それでも終わらなかった。さらに3年後、今度は、一郎の次男が車の助手席に乗っていて、会社の先輩が運転していた車が事故を起し、次男も心臓破裂で即死した。
マブヤ-は、よその男性を殺した代償として、次男を殺したのであろう。
次郎は、大阪に帰ってきてからも、それらの事実を重ね合わせるにつけて、どんな事があっても、これ以上の犠牲者を出さないよう、解決の糸口を探そうと一郎と三郎に手紙を書いた。
兄へ、三郎へ
5人の妹達がなぜ死んだのか。
オジイ-の前妻が不幸な出来事があり、女の子を産んだことは、幸子が死んだ後に話したことですが、改めて手紙を書きます。
我が家系で、なぜ妹達だけが死ぬのか、又、なぜ交通事故死するのかを考えるべきです。
これ以上犠牲者を出さない為にも、その女の子のお墓を見つけて、掘り起こして、骨を拾い上げ、丁寧に供養をして、先祖の墓に納骨することだと思います。
そうでない限り、その女の子の魂は、落ち着かないことでしょう。これ以上、兄弟の子供や孫まで、影響がが及んではいけないと思う。
兄貴は、家長として、その件を解決する責務があります。
兄貴と三郎でよく相談して、それを解決するようお願いします。
二人に手紙を出してから3週間後に電話を入れた。
「先祖の件は、解決した方が良いと思う。女の子のお墓を捜してほしい」
兄一郎に話すと
「馬鹿なこと言うな。根拠もない事を言うな」
と怒り出した。さらに-----。
「おまえは、大阪に住んでいて関係のない人間だ。今後その件について、一言も口に出すな。関与するな」
電話口で怒鳴りまくった。
次郎は、兄の気持ちも分らん訳ではなかった。そのような事実を認めたくなかったのである。
三郎は、「一度ユタに相談してみるよ」と言って電話を切った。
二人に手紙を出してから1ヶ月後、兄嫁の洋子さんに電話を入れたのである。
ただ兄は、傲慢で人の意見を聞かない。常に唯我独尊的な言動である。周囲の人間は、たまったものではない。
兄嫁とは、幸子の告別式に来ていたので挨拶した程度であった。
「もしもし、次郎ですけど、ご無沙汰しております。お元気ですか」
「ああ、次郎さん。元気、この間は、実家に泊まったの」
「ホテルに泊まりました」
そう告げると、
「そうなの、私もあなたがたの実家には、怖くて泊まれないの」と洋子さんは言う。
「今日、電話入れましたのは、先祖の件で------」
と伝えると兄嫁の洋子さんは、
「私もその件は、知っています」
と答える。次郎は、やはり兄嫁は知っていたのだ。
「私が言うのもおこがましいとは思いますが、子供や孫を守ることができるのは、母親の愛だと思います。次男の剛の死を無駄にしないようにして下さい」
「あなた方の先祖に問題があったからなの」
兄嫁はずばりと指摘した。
「その件の解決の為に、兄貴と三郎と三人で話し合いをしました。又、二人には手紙も出しました」
次郎は、そう伝えた。
「その件は、いつか解決しなければと私も思っています」
洋子さんも言う。
次郎は、その答えを聞いて、問題は兄貴だと、のど元まで言葉が出たが、飲み込んだ。
「その件について、機会をみて主人と三郎さんと三人で話をしてみたい」
兄嫁は言うので、
「洋子さんには、ご迷惑はかけられません。その件は、私達男兄弟で解決すべき問題です」
と丁寧に断った。
これまでの異次元的な現象と妹達や孫の死は、全てマブヤ-の成せることであると思っていた。
【悪いことをすれば、必ず天罰が下る】とは、古より伝えられている。
祖父の先妻を二度にわたって犯した隣村の男の長男が、戦後、大人になり、結婚した。
女の子を授かった。その女の子が三歳になった時、男の長男は、気が狂いだし、妻と子供を殺して、自分も鎌で腹を切り死んだという。
静かな農村で起きた惨劇として、当時の新聞にも載ったと次郎は聞かされた。
次郎が沖縄から帰ってきて6ヶ月が過ぎたが、心は晴れない。どうも一郎も三郎も先祖の件は、軽く受け流しているようだ。いや、根拠のないことだと拒絶しているのである。
近代文明の発達した現代でも、科学では、証明できないこともある。それは、人間の【霊】の問題である。
次郎は、沖縄に住む兄弟の気持ちを尊重しなければならないが、先祖の不幸な出来事で死んだ女の子の墓を、どうしても見つけて解決したいと思った。
その女の子の魂が迷わないように、その解決する糸口を見つける為に、7月に青森県に行くことにしたのである。
大門は、伊丹空港発青森行の飛行機に乗り、青森空港に定刻通り到着した。空港から電車に乗り、むつ市にあるむつパ-クホテルに着いたのは、午後5時を回っていた。
次郎は、早速、ホテルに着いたことを恵美子に電話を入れた。
ここまで来るのに時間がかかった。
それは恵美子を説得するのに、時間がかかったのである。
次郎は、恵美子には田舎での出来事を一切話さなかった。
「なぜ青森県なの、何のために行くの、理由を教えて」
次郎に問いただす。
「少し調べたい事もあるし、情報収集に行くんだよ」
「青森県のどこへ行くの」
「下北半島にある、むつ市だよ」
と伝えると、恵美子は直感的に、
「あそこは、恐山のある所ね。何故?」と強く聞いてきた。
「勉強のためだよ。少しでも知識を吸収したいんだ」
恵美子は、理解ができないと、またも不機嫌な顔をした。
「そんな所に行く必要はないわ」と反対したのである。
次郎は、恵美子の気持ちも十分に理解していたが------。
「宗教は宗教。日本の祭事や風習、そして各地方の行事等を知ることは、大事なことだよ。宗教は、生きている人間がより幸せになること、人間らしく生きること、そして、死んだ後に、天国にいけるように願うことが宗教だと思う」
と恵美子を諭したのである。
「宗教では、解決できないこともある。特に死んだ人間の霊の問題は、現実社会で解決する方法を見つけねばならない」
と次郎は思っていた。
恐山寺へ行く目的を話せば、理解が得られるとも思わないし、その事は、話すべきではないと固い決意をしていた。
次郎は、翌日、むつ市からバスに乗り恐山に向かった。バスは約35分で恐山寺に着いた。
恐山寺では、7月20日~7月24日まで始まる大祭には、全国から多くの人々が参加するという。恐山寺の境内を一回りするには、約40分はかかるといわれる。
翌日、次郎が恐山の寺に行くと、広大な境内には、あちらこちらに多くの人達が集まっていた。
死者の霊と交信できるという霊場として有名なところだと聞いていたからである。
次郎は、早速、霊媒師のブ-ス前に並んだ。大勢の人々が並んでいた。40~50分待ちは、当然だと聞かされた。
ほとんどのイタコは、60歳以上の女性で、着物の上から白装束を着て、各ブ-スに座っていた。いよいよ次郎の番がきた。
「ご用件は何ですか?」
「先祖のことで確かめたいことがあって来ました」
「具体的にお話下さい」
「祖父の先妻で名前は、山城マツ子の霊を呼んでほしいのです。祖父が大阪に出稼ぎに行っている間に、何が起こったのか、知りたいのです」
次郎が言うとイタコは、長い数珠を首からかけて、両手でその数珠を持ち、後ろ向きに座り直し、祈りをささげた。しばらくするとイタコの口から、
「ああ、苦しい、悲しい出来事でのう、隣村の男に二度も襲われてのう」
「それからどうなりましたか」
次郎は問いかけた。
「苦しい。女の子が産まれたがのう」
「その子は、どうなったの?」
「病気で死んだがのう」
「その女の子の墓は、どこにあるのですか」
「う-ん、苦しい。夫が帰って来るまでと思って、屋敷の裏庭に埋めたがのう。どうか、その子を助けてやってほしい」
と言って、イタコは涙を流した。
やはり事実であったのだ。お袋の話も嘘ではなかった。
105年前の不幸な女の子の墓はなく、屋敷内の裏庭に埋められていたことが分っただけでも、次郎が恐山に来た甲斐があったと思った。
帰り道、1杯飲めば10年、2杯飲めば-----、3杯飲めば死ぬまで若返ると言い伝えられている、恐山街道の途中にある湧き水を飲んだ。
次郎は、帰りの飛行機の中で考えていた。
イタコがなぜ死んだ人の霊と交信できるのか、不思議であった。また、先祖の事がお袋から聞いていた事と、そう違うことなく知ることができて驚いた。
イタコの存在も科学では、証明できない一つかも知れない。
恐山の体験で、より確信が得られたが、兄弟を説得するには、時間が必要である。
兄弟は、先祖の件について、拒絶反応を示しているからである。
特に兄の一郎は、そのような事実を認めようとはしない。ましてやイタコの話しなどすると、頭から否定するであろう。迷信など全く受け付けないどころか、先祖の不幸な出来事など、認めたくないと強く思っているからである。
青森県に行く前は、イタコについて、次郎も半信半疑であった。死んだ人間の霊と話が出来るなんて、全く信用していなかったのである。
しかし、お袋の話したことと、そう違わない結果を知り再び驚いた。
次郎は、再度、沖縄のユタを訪ねて、どのような結果になるかを確かめたかった。その時は、一人ではなく、三郎か兄嫁に声をかけて、一緒に行かねばならない。ユタもイタコと同じような結果が出れば、時期とタイミングをみて、兄弟を説得するつもりである。
次郎が非科学的に見られるイタコやユタを訪ねたいのは、兄弟が生きている内に、不幸な女の子のことを解決しなければと考えた。何故ならば、その件で子供や孫達に、負担をかけたくなかったからである。
次郎は、田舎での幼年期や少年期時代を振りかえっていた。
楽しい記憶はなく、灰色の時代を過ごしてきた。
次郎が物心のついた小学3年生ごろからオヤジとは、そりが合わなかった。
「親子とはなんなんだ。父親とはなんなんだ」と常に考えていた。子供心にオヤジは、父親失格で人間としても認めたくなかった。20年前にオヤジは死んだ。
今にして思えば、オヤジもマブヤ-の精神的な犠牲者だったかも知れない。
田舎での想い出として、残っているのは、たった一つだけである。
次郎が小学5年生の時に宇宙人の子供を助けたことである。学校から帰ってきて、同級生の順一と家から800mほど離れた畑で、凧あげをして遊んでいた。
11月末ごろ農閑期で、畑には農作物もなく、畑で二人は、駆けずり回りながら凧あげに夢中になっていた。
次郎が凧糸を持ち、順一が凧を上にあげる役目であった。
次郎が「ヨ-イ、ドン」と声をかけて走り出す。風が少し吹いていたので2回目で凧は空へ上がった。
凧糸の長さが50mと書いていたので最後まで糸を使った。
二人は、交互に凧糸を引っ張ったり、緩めたりしながら凧を空高くあげた。
順一が凧を上げる番で次郎は畑のそりに立っていた。次郎の後ろは雑むらだった。凧が上がって15分ぐらいしたら次郎の後ろの草むらで「ドス-ン」という音がしたので次郎が振り返ってみると、そこには人間でもない、動物でもない、次郎は瞬間に「宇宙人だ。宇宙人が空から落ちてきた」と友達に叫んでいた。
順一も凧を上げるのを止めて、次郎の傍に来て「ほんと宇宙人だ」と言った。
次郎が「小さいからきっと宇宙人の子供だよ。凧が珍しくて空から落ちてきたんだよ」と言った。
二人でしばらく宇宙人を見ていた。よく見ると目はピンポン球の大きさで透き通るような黒目であった。頭は大きかった。
落ちた瞬間だから口から「ハァ-ハァ-」と激しく呼吸もしていた。
「宇宙人や-未知の生物や-、宇宙人の子供かも知れん?」
次郎はそう思った。
宇宙人の子供であるかどうかは、分らないが頭と胴体の長さから推測して足の長さを加味しても身長が 1mもなかったからである。
「あ-そうだ、あそこにいるおじさんに見てもらおう」と次郎が言った。
ちょうどその時、35mぐらい離れた畑の土手で、草刈の仕事をしていたおじさんに、二人は大声で、「おじさ-ん、おじさ-ん----空から変な物が落ちてきた」と大声で叫んだ。
二人が真剣な顔をして、二度も叫んだら、おじさんが二人の所にやって来て、その物体を見て、
「これは宇宙人の子供だから、しばらく休憩させてから、空に帰してあげなさい」
と言って、その場を立ち去ったのである。
二人は、どうしていいのか分らなかったが、最初に次郎が「かわいそうや、空に帰そう」
と言うと順一が「どうして空に帰す?」
「空に投げたらいいんだよ。とにかく空へ投げてみようか」
最初に次郎が宇宙人を抱っこした。
手で触ると軟体動物のようであった。ちょうど海のタコやイカのような感触である。
次郎が宇宙人を抱っこして、「空へ帰れ」と上に投げたが地面に落ちた、今度は順一が「空に帰れ」と叫びながら真上に投げた。
「ド-ン」とまたしても音を出して地面に落ちた。
宇宙人が次郎の目を見て、息も絶え絶えで、大きな丸い透きとうるような黒目が「助けてくれ」という眼差しで懇願しているように思えた。
次郎は、その宇宙人に向かって「助けてあげたいけど、どうして助けたらいいのか分からないんだよ」と声をかけた。
しばらくすると宇宙人の体は弱ってきて、頭から体中に赤紫色がピカ、ピカと変色して広がっていったのである。なんとか助けたいが、そのすべを知らない。
宇宙人は、「ア、ア、」とか言葉は発信しなかった。宇宙人には言葉がないのでしょう。
宇宙人は、電波でコミュニケーションをとっているのだろうと次郎はそう思った。
その時である。西の空から丸い円盤が二人の頭上、遥か遠くの上空に止まった。二人は同時に叫んだ。
「円盤だ。円盤だ」
「円盤が宇宙人を助けに来たんだ」
「そうだ、そうだ」
二人で叫んでいた。
その瞬間、円盤の中央部からピカッと光が出てきて、地上の二人の足元近くまで届いた。光の円柱である。
「その光の中へ入れてみよう」
と次郎は、宇宙人をまた抱っこして光の円柱の中心に置いた。
次郎も体全体にその光を浴びていた。
次郎が宇宙人を光の中に置いて、すぐに光の外へ出た瞬間に何千メ-トル上空の円盤に3~4秒ほどで中へ吸い込まれていったのである。
そして円盤は、宇宙人を助けると光を消して西の空へビュ-ンと飛んで消えた。
次郎達は、それまで宇宙人がいるとか、UFO(未確認飛行物体)とかの言葉さえ知らなかった。
次郎は、一瞬の出来事で、夢を見ているようであった。
二人とも未知なる遭遇と瞬間的な出来事に唖然としていたことを覚えている。
次郎は、自分の頬を摘んでみだが痛かった。不思議な体験であった。
「本当に、宇宙人はいるんだ」と思った。
次郎は、家に帰り早速、母親にその出来事を話すと、
「そんなものいないだろう」
と取り合わない。忙しく働いている母親にしたらそんな話に構っていられないと生返事をしたのであろう。
兄弟にその話をしも信用してもらえず、兄は、
「次郎、海で竜巻が起きて、海のタコが空に吸い上げられて、落ちてきたんであろう」
とからかわれた。「海のタコぐらい知っているわ」と喧嘩した。
弟も「宇宙人なんている訳ないよ」と言う始末である。
家族は信じなかったけれど「やはり宇宙人は、存在するのだ」
と次郎は独り言を口にした。
きっと草刈をしていたおじさんも家に帰って、家族に宇宙人の話をしたのであろうと想像した。
次郎は、小学5年生の絵日記に宇宙人とUFOのことを絵入りで自分の見た通り詳細に記録した。
次郎は、子供たちが中学生になったある夜、家族で食事をしながらテレビを観ていると、UFOと宇宙人論議の画面に映し出された。肯定派と否定派に別れ、その筋の専門家達は各自論を戦わしている。
イギリス、アメリカやメキシコなどで撮影されたUFOの映像や宇宙人らしき写真も映し出していた。
日本では、UFOが現れたという事で石川県昨市は、UFOの町として知られているという。
いずれにせよ、議論は続くが双方の主張は、平行線でテレビの結論は、優劣つけ難しとなった。次郎はテレビを観ながら、
「お父さんも小学生の頃、UFOと宇宙人を見たよ」
と話し始めると恵美子は、
「幻覚でも見たのでしょう」
「事実だよ」
「ああ、そうなの」
次郎が真顔で話すものだから、不思議だと言わんばかりの顔をして、
「きっと幻覚を見たんでしょうね」と再び幻覚という表現をした。
「いや、本当に宇宙人だったよ」
と繰り返したものだから、恵美子は軽く微笑んでいた。
中学生の娘の加奈は、
「お父さんが見たと言うのだからそうでしょう」
と軽く受け流された。
「信じることは良いことだ」
と息子の小学5年生の福太郎にもそう言われる始末である。
UFOを見た者は、宇宙人の存在を肯定し、見ない者は、否定するであろう。
次郎にとって、宇宙人との遭遇は、つい数日前のことのように鮮明に記憶が蘇る。
それらの存在は、紛れもない事実であると確信していた。
無限大の宇宙に、地球以外の星は、無数にあり、宇宙は未知の世界である。UFOと宇宙人が存在してもなんら不思議ではない。
宇宙旅行の時代だ。今は、ごく限られた人間(宇宙飛行士)が宇宙ステ-ション建設し宇宙でのいろいろな実験の為に行っているが、あと20~30年もすれば、一般の人々が自由に行けるようになるかも知れない。
そんな時代には、きっと国際宇宙ステ-ションからUFOや宇宙人に遭遇し、双方とも手を振って挨拶するだろう。
宇宙映画や漫画の世界では、30~50年先の未来が描かれているという。空想の世界は、無限大であろう。
宇宙戦争なんてあってはならない。宇宙人も平和を愛する心を持っていると思う。
何故なら、小学生の頃に遭遇したUFOや宇宙人は、次郎達に被害を与えなかったからである。
例えば、その当時、宇宙人の子供?をイジメたり、怪我でもさせていたならば、地球の人間を敵とみなして、次郎も順一も、もうこの世に生きてはいなかったであろう。
光線で子供?を助ける高性能の文明と科学力を持ち、二人が敵であると受け取られていたら、次郎も順一もUFOにさらわれていたかも知れない。
又、光線等の武器で、二人とも消滅させられていたことであろう。
次郎が青森から帰ってきてから半年が過ぎた。
2月の末、兄嫁の洋子さんから携帯に電話がかかってきた。
弟の三郎と会って先祖の件について、話したとの連絡であった。
「家庭を大事にしたいから、昔の話で呼び出さないでほしい」
三郎は、洋子さんにそう伝えたという。
次郎は、その話を聞いて、
「家族を大事にしたければこそ、解決すべき問題だ」
と洋子さんには話した。
「必ず、三郎にも分る時がきます。その時では、遅すぎるのです。時期が来るまで待ちましょう」
次郎は、洋子さんにそう話して受話器を静かに置いた。
「光陰矢の如し」という。月日の過ぎ去っていくのは早い。
次郎が沖縄から帰ってきて4年が過ぎた。日常生活は、平穏に静かに流れていく。このごろは恵美子と二人でよくドライブに行く。五月山公園や六甲山そして磯釣りや、温泉旅行など時間の許す限り行った。
五月山展望台の高台から眼下の夜景を見ていると、大門の家も高台にあるため、普段は見慣れていて、取り立てて表現することもないが、夫婦でゆっくりと眺めていると、市内の明かりが、一段と美しく映えているように感じられた。
晴れた日には、市街地の眺めも素晴らしい。右の方角には六甲山山麓、彼方には、明石海峡大橋と淡路島が見える。又、六甲山に登れば遥か遠くには、四国の山並みが望むことができる。又、左の方角には、生駒山麓や大阪の外れの岬町まで見えるのである。
五月山公園は、春には桜の花が咲き誇り、「花見」の見物客で賑わう。公園内の木々や草花は、新緑でまばゆく、夏には夏の顔、秋は紅葉、冬には冬の姿となる。春夏秋冬の風景は、人々に癒しと安らぎを与え、自然の美しさを奏でるのである。
今、私達の住んでいる地球は、温暖化現象や自然破壊そして自然生態系の変化と種々の問題を抱えている。
自然との調和を図り、生活することを望みつつ、人間がそれを壊しているのである。
恵美子と二人で、緑の森公園を散策するたびに「自然の良さ、美しさ」を改めて感じ、自然の姿のままに残したいと考えるのは、私達だけではないでしょう。
環境問題がクロ-ズアップされている今日、私達の身近な問題として、考えねばならないと二人で話し合った。
「天災は、忘れた頃にやってくる」という諺がある。
昔の人が歴史から学び、事実を知り、生活から体験した言葉であろう。
次郎の携帯に訃報の知らせが入った。
三郎の三男が急死したとのことである。成人式を終えたばかりの二十歳の若者である。
次郎は、言葉を失った。女の子のマブヤ-は、今も存在していたのだ。
次郎は、三郎の子供の通夜や告別式には行かなかったが、弔電だけを打った。その時に参列していたならば、自分の衝動を抑えられないと考えたからである。
四十九日に弟の家に行き、線香を立てて冥福を祈った。
次郎は、マブヤ-の件は、決して口には出さなかった。
三郎も分かる時が来るだろうと思ったからである。
若すぎる死、これからの人生というのに、親として何の為に、今まで育ててきたのかと残念に思い、悲しんだことだろう。
後日、三郎に死因を確認した。
三郎夫婦は共働きだったので、子供達(4人)は、小さい頃から鍵っ子同然であった。ただ兄弟4人(男三人と長女)がいたことが救いであったと言えよう。
死んだ三男の誠は、大学の授業が休みで、1人で家にいたようだ。長男、次男と長女は、それぞれ独立していた。
三男は、母親が仕事から帰ってくると死んでいたという。
孤独死同然である。司法解剖の結果、急性心臓マヒであった。
「息子は健康で心臓など悪くなかった」
と三郎は次郎に話した。
兄の一郎は、
「人間は、死んだら灰にしからならい。なんにもならないんだ」
妹の幸子が死んだ時も同じ事を言っていた。
確かに、人間は生きていればこそ、その価値はあるが、死んだら無である。
病死にせよ、事故死にせよ、我が子の死ほど痛ましいものはない。どこの親だって嘆き悲しむであろう。
ましてやお袋は、娘を全員失くしたのである。その悲しみは、いかばかりであっただろうか。
死せる者が、生きる者を支配する-----オ-ギュスト・コント
次郎は、那覇で一泊して大阪に帰ってきた。
「ご苦労様でした。成人式を迎えたばかりで、若いのに残念でしょうね。三郎さんも」
恵美子が言う。
「その子の運命だから仕方ないよ」
「幸子さんが死んで、ちょうど4年目なのね。今度は三郎さんの子供が死んで、あなたの兄弟の不幸は、これで終わってほしいと祈っているのよ」
恵美子は、寂しそうな顔をして言った。
次郎は、その晩10時半に床についたが、なかなか寝付かれなかった。頭の中は、いろいろな出来事が次から次へと、走馬灯のように浮かんでくる。
三郎の子供の通夜や告別式に行っていたら------
「私の言った事を解決していたら、殺されずにすんだんだ。又、家庭を大事にしたければこそ、問題を解決する行動をすべきだった。後悔しても始まらない。そして妹達が殺された事実を重く受け止めてほしかった」
そう言っていたかも知れない。
三郎も兄の一郎に対して、その件(ユタに相談)に関して、少し遠慮があったことも事実であろう。
先祖の不幸な女の子の埋められた場所を早く見つけて、骨を拾い上げ、丁寧に供養して、納骨してあげなければならない。今でも次郎の脳裏にその女の子が、
「早く見つけてほしい。早く助けてほしい」
と叫んでいるような錯覚にさえ陥る時もある。
その夜、次郎は、午前1時半になっても寝付けない。
自分の寝室の扉を開けると、隣室の恵美子の寝室も戸が開いた。
「どうしたの。寝られないの。精神的に疲れているのね」
「どうも寝られないんだ。少し疲れているようだ。コンビニまで行ってくるよ」
恵美子に声をかけて外に出た。
次郎は、コンビニで小さい紙パックの酒を2個買ってきて、それを飲んで寝た。
次郎は、三郎の子供が死んでから1周期の法事に行った。
早いもので、もう1年が過ぎたのだ。
翌日、三郎より電話がかかってきた。
「息子の法事に来てくれてありがとう。何日ぐらいいる予定?」
「予定はないけど2~3日したら帰ろうと思う」
次郎が答えると、
「ちょうど良かった。支障がなければ、一緒にユタの所まで行かないか?」
「三郎もその気になったのか。非科学的と思うかも知れないが、確かめるぐらいなら良いのではないか」
「私もユタは、あまり信用したくないけど、次郎兄の言っていた事が正しいか否かを知りたくてね」
三郎も自分の子供を亡くして初めて、心が動いたのだろう。
弟は、二日後の日曜日、午前11時にユタに連絡をとっているという。
次郎も青森県のイタコの答えとどう違うのか、又どのような答えを出すのかを知りたかった。
次郎は、イタコに逢ったことは、口に出さなかった。
約束の当日、二人でその家を訪ねた。
二人の順番が来て、ユタの前に座った瞬間に、
「先祖の件で来られたのですね」
「はい」
次郎と三郎は、同時に返事した。
「女の子の霊が見えます。その子を助けてあげてください。苦しんでいます」
「その子は、どこにいるのですか?」
次郎が聞くと、しばらく沈黙の後、
「屋敷内の北北東の地に埋められています。今、そこは家の奥の部屋となっており、その部屋の床下です」
ユタは二人に、そう告げた。次郎と三郎は、その家をあとにした。
「そんな事があるものか」
弟は疑心暗鬼になっていた。
「三郎、そっちも覚えているかも知れないが、私が小学3年生の時、元の家は古くて小さい家だった。それを取り壊して、今の大きな家になったんだ。
ユタのいう事は、本当か嘘かは分らないけど、私が兄貴と君に手紙で知らせた通り、その女の子を助けてあげるべきだ。ユタは、埋められている場所まで指摘したではないか。埋められた場所は、家が建て替える前は、裏庭であったんだ」
「そうなんだけど」
そう言ったまま三郎は、腑に落ちないという顔をした。
「迷信やユタなど、誰も信じたくないという心理は働くが、これも事情によっては、参考にすることも必要であろう。ましてや、先祖の悲劇のような場合は、現代科学では、解明できない人間の霊の問題だからである」
と次郎は伝えた。
三郎は、まだユタに関して、少しは許容できるが、兄の一郎は、全く受け付けない。次郎は、さらに弟に、
「これ以上、兄弟の中で犠牲者を出ないようにすべきだ。その件は、兄貴とよく相談し、解決するという行動を起すなら、私もまた沖縄に来るよ。男兄弟5人のみで解決することだ。
お袋も98歳で体は車椅子生活だが、頭は理解力、記憶力、表現力もまだ衰えていない。自分の意見もしっかり話すこともできている、頭脳は鮮明だ。お袋の元気な内に、6人で話し合うことにしよう」と三郎に伝えて別れた。
いよいよ兄弟で話し合う時が来たのである。
土曜日の午後8時に兄の家で、兄嫁とお袋と次郎、三郎と5人が揃った。四郎と五郎は、仕事の関係で来なかった。
早速、本題に入ったのである。
三郎がユタの所に次郎兄と二人で行って来たことを伝え、そこで聞いたいろいろな事実を話すと、
「ユタなど信用できん。馬鹿な事いうな」
兄の一郎は怒り出した。
「事実か否かを確かめることも必要だ」
と次郎は言って、さらに
「兄貴の現状を考えてほしい。自分の子供(次男の剛)が何故死んだのか、それに妹達がなぜ死んだのか」を。
次郎は、兄一郎もオヤジ同様に、マブヤ-の精神的犠牲者であ
ると思っていた。
何故ならば、家長であるものが、その不幸な女の子の事を解決できていないからである。
次郎は、冷静になって、兄を説得する以外に、道はないと考えて、少し時間をおいてから、この機会しかないと決意し話し始めた。
「段取りを話すから聞いてほしい。家の余分な建物は、全て取り壊そう。最後に奥の部屋のみを取り壊し、その場所を掘り起こしてみよう」
「お金はどうするんだ」
また顔を真っ赤にして語気を強めた。兄は、金銭的なことよりも、そのような行動を起こすことに、家長として拒絶反応を示したのである。
「お金は、兄弟5人で均等に負担すればいい」
「次郎、何も出なかったら、どう責任を取るつもりだ」
兄は、再び声を荒げて怒った。
「兄貴、そう言ってしまえば話は終わりになる。売り言葉に買い言葉となり、物事は進まない」
逆に、その女の子が出てきたら、兄貴はどう責任とるつもりだ。そうなるでしょう。兄弟5人が心を一つにして、その子を探したら結果はでると思う」
と言って、次郎は、さらに続けた。
「まず行動する前に分ってほしい。この件は、隣近所に絶対に知れてはいけない。その為には、大義名分を考えよう」
「どうするんだ」
と三郎が聞くから、
「空き家になるから、余分な建物は取り壊し、他人に貸すことにしょう」
次郎が提案したら兄も弟達も賛同した。
「家も住まなかったら、傷むだけだから、わしが借り手を探すよ」
兄の一郎は、初めて理解を示したのである。そして次郎は、その作業手順を説明した。
「最初に、ツタで全体をおいかぶされている小屋を取り壊し、次に駐車場兼農機具小屋、その次に外にある倉庫、そして最後に母屋の奥の部屋を取り壊していく」
兼業農家であったので350坪の敷地に、母屋以外にそれぞれの建物があった。
「取り壊し作業は、遠い町のその専門業者に依頼しよう。
それらの作業が終わってから、3日後に指摘された場所の掘り起こしをしよう。掘り起しには、兄貴の知っている方で、二人手伝いをお願いしてほしい」
と次郎が話すと兄は了解した。
そしてお袋は「お前達に任すよ」と言うのが精一杯であった。
そしていよいよ儀式の日が来たのである。
三方をブル-シ-トで囲まれた中で、次郎がこの日の為に、坊さんに来てもらってお経を読んでもらった。初めに清めの塩をまき、酒と水を入れたコップを置いて、6人で線香を立てて手を合わせた。
次郎は、心の中で「どうか女の子の霊を落ち着いてほしい」
と祈った。
それから家長の一郎から軽くクワを入れて、次に次郎、三郎と続いた。そして、テントの外で待っていた二人の人夫を呼んで、掘り起こしを始めさせた。
「昔の女の力では、10~20cmの深さであろう。静かに注意深く掘るように」
兄一郎がお願いした。
105年前の昔のことだけに次郎は、内心、「女の子の骨は、見つかるであろうか?そして三歳児の骨は、風化していないだろうか?」という不安もあった。
されど2013年2月に500年前に土に埋められたイギリスの王様(リチャ-ド3世)の遺骨が完全な状態で発掘されている。
「この場所にその女の子が埋められているとすれば、必ず見つかるはずだ」と次郎は、自分に言い聞かした。
又、必ず見つけねばならないと心に誓ったのである。
30分も幅広く浅く掘り進んだだろうか、その時である、褐色というか黒茶けた布の小さな断片とビニ-ルらしき小さな切れ端が2~3枚見つかった。
とっさに次郎は、声を出して、
「そこはもっと注意して、ハンドスコップとハケで丁寧に進めてほしい」とお願いした。
やはり女の子は、埋められていたのだ。
兄一郎は、早速、五郎に隣町まで行って、大きい骨壷と位牌を買ってくるように依頼した。
そこからは兄弟三人で慎重に掘り進めた。
いたいけな三歳児の女の子の頭骨や胸部及び手足の小さな骨まで完全な状態で見つかったのである。
兄は、驚きを隠せなかった。弟も唖然として硬直していた。
兄弟5人とも驚愕し、言葉を失ったが、お袋だけは涙を流しながら、
「可愛そうに、ごめんね、ごめんね、ごめんね」
と震える手で合掌していた。
全ての骨をひとつずつ拾い上げて、骨を丁寧に水洗いして骨壷に入れることにした。
次郎は、頭骨もきれいに水洗いをして、タオルで拭きながら
「病気で死んだとはいえ、どんなに苦しかったことであろう。又、こんな所に一人で埋められ、どんなに寂しかったことだろう。これからは、女の子の魂がこの世で迷うことなく、天国に行ってほしい」と心の中で祈った。
そして肉体は風化して、土となった部分もビニ-ル袋に入れて骨壷に納めたのである。
それが済むと再びお酒で清め、水をまき、線香を立てて皆で手をわせた。
骨壷を家の中に移して、
「これからは、家長としての兄貴の役割だ」
と次郎は伝えた。
「形式的ではあるが6人でこの子の通夜、告別式そして初七日、四十九日の法事までやろう」
「位牌も必要だが名無しでは、可愛そうだから改めて名前をつけよう。
不幸なその女の子は、三歳までは生きていたと伝え聞いたが当然名前もあっただろう。しかしながら今は誰も名前を知らない。
次郎は「再度名前をつけよう。法華経より一文字とって【経子】と命名しよう」
と提案すると誰も異存はなかった。
早速、お坊さんに依頼し位牌に『山城経子』と書かせた。
2日目には兄嫁の洋子さんも加わった。
その日に、兄の頼んだ人夫に、山城家の墓の入り口を開けさせて、経子の骨を納骨したのである。
3日間で通夜から告別式、納骨、初七日そして四十九日の法事までを終えた。
「これからは、全てが落ち着いていくだろう。本当に見つかって良かった」
次郎は安堵した。
兄の一郎は、隣近所10軒を回り、
「長い間お世話になりました。実家は2週間程、空き家になりますが宜しくお願いします」
と挨拶したという。近所の人々からは、
「屋敷がすっきりしたね。それ以外に何かあったのか」
と聞かれたという。
お袋と洋子さんと兄弟5人揃って、三日間も実家に通っていたら、近所の人達から見て不思議がられても当然であろう。
そこは、兄の知恵で自然な受け答えをしたのである。
「先祖の墓にお別れの挨拶をしたと答え、又、実家は2週間後に那覇の織物職人に貸すことが決まったので、その節は、宜しくお願いします」
と挨拶して帰って来たという。
那覇市に帰ってきてからその翌日に、兄の家に同居しているお袋を訪ねて、別れの挨拶をした。
「ありがとう。大阪でも頑張るように」
老いたる母は言った。
「先祖の悲劇のようなことは、二度と起こってはいけない」と願いつつ次郎は、沖縄をあとにした。
次郎は、帰りの飛行機の中で、先祖の悲劇を思い出していた。
もし、祖父の先妻に事故が起きなかったら------。
もし、女の子が産まれていなかったら------。
もし、その子が病死しなかったら------。
もし、先妻が夫の帰ってくるまで、あと数時間生きていたら------。
と次郎の頭の中で「もし」が回転する。
戦前のことだから、中絶するすべも知らなかったのであろう。又、村や町には、そのような病院もなかったのかも知れない。
戦前に起こった事が、戦後になって8名が死んだ。
いや、殺されたという表現が正しいかも知れない。
雷が鳴くごとくに起こった山城家の悲運は、これで終わったのである。
今後は、子々孫々まで繁栄するよう願わずにはおられなかった。
今日、沖縄では、マブヤ-は風刺化され、漫画にもなりテレビ画面でも琉人マブヤ-としてユニ-クなキャラクタ-姿で現わされている。
子供達には、マブヤ-が怖いものではないという風潮になってきている。
2年後、お袋の満100歳の長寿祝いが11月の日曜日に、恩納村にあるANAインターコンチネンタル万座ビ-チリゾ-トホテルで開催された。
兄弟、その子供達や孫なども一同に会して、直系58人と子供や孫達の嫁の親族達も参加して、総勢115人で盛大に行われた。みんなで食事をしながら、琉球舞踊やマジックショ-、そして沖縄市の青年団によるエイサ-を観て、楽しく賑やかにお袋の長寿を祝ったのである。
「こんなに大勢の子供や孫達に囲まれて、祝ってくれてありがとう」
お袋は挨拶した。
食事をしなが観る琉球舞踊は、王朝時代の煌びやかな衣装に風格ある踊り、又、庶民の踊りに村祭りの踊り、そして快活な漁村の祭りなどの踊りが披露され、みんなの心を熱くした。
沖縄のエイサ-は、すばらしい。観る人に感動を与えてくれる。一糸乱れぬ太鼓のバチさばきと、集団による行動的な踊りは、観ている人の胸に太鼓の音が響き渡る。
熱い情熱と南国の太陽を象徴しているようにも思えた。
若い男女30名の勇壮な踊りには、参加者全員を魅了して、拍手喝さいであった。
沖縄のエイサ-は、郷土芸能として県民の誇りであろう。
マジックショ-は、子供や孫達が興味を持ってみて楽しんでいた。お袋は、食事や余興を1時間ぐらい楽しんだ後、眠たいと言ってホテルの部屋に戻った。それから子供や孫達のカラオケ大会があり、再度ホ-ル全体が盛り上がった。そしてお開きとなった。
その日は、参加者の内30名がホテルに泊まったのである。
5人の男兄弟は、お袋が喜んでくれたのは、なによりも嬉しかった。又、参加した全員がそう感じていたと思う。
それから2日後にお袋に会った。
「長寿祝い、ありがとう。本当に冥土のいい土産になったよ」
「お袋、元気で長生きしてね」
次郎と恵美子は、別れの挨拶をした。
それから8ヶ月後、お袋は天寿を全とうし天国に旅立った。