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悠久の時を超えて  作者: 大門太郎
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豊臣財宝

およそ政治家というものは、


社会の動きを指導しょうとして、


多くの場合、事実そのものにひきずられていく。


アンドレ・モ-ロア




第1章  偶 然


2018年(平成27年)6月初めての日曜日、朝からさわやかな風が吹き抜けていく。人間や草花や木々も生き生きとしている。

動物達も活発に動く時期でもある。

春は、多種多様の花が咲き春爛漫であった。新緑も芽吹き、寒くもなく暑くもなく、特に人間にとっては、心身ともに躍動する季節でもある。


大門次郎は、いつものように午前6時に目を覚ました。

起きてから冷蔵庫の冷水を取り、コップ一杯飲んで、脳細胞を起す。そしてリビングのソファ-に座り、しばらくゆっくりしてから、コ-ヒ-を飲みながら新聞を開き、政治、経済、スポ-ツ、社会面と見て、最後に株式欄に目を移す。

株式には、わずかな資金ではあるが、購入している銘柄の動向をチェックする。株は無理をせずに脳の活性化を図る程度の範囲で楽しんでいる。


7時からは、1週間に1~2回、家から5分程の所にある貸し農園に行って、野菜の水やりと成長度合いを見ながら、軽く手入れをする。10坪ほどの畑には、季節ごとの野菜を植えている。5坪には、今は、夏野菜のキュウリ、ナス、トマト、オクラ、ピ-マン、そしてバジルにモロヘイヤなどを植え、半分の5坪には棚を作り、今年もゴ-ヤ-とミニ冬瓜を植えた。夏になると棚いっぱいに2種類の野菜が入り交えて繁殖し、それぞれに実が棚からぶら下がる。

多種の野菜を植えているが、野菜作りも容易なことではない。

野菜作りの基本は、土作りから始まる。一にも二にも土作りが重要であると教えられた。肥料入れ、そして水やりや雑草取り、防虫ネットでの害虫及び鳥害(カラスは何でも食べるトマト、キュウリ、ナス、トウモロコシなど、秋になるとヒヨドリの大群が来て、ブロッコリ-の葉っぱを食べ尽す)対策など、いろいろと手間をかけないと育たない。貸し農園は、JAから借りて、家庭菜園を始めた。

当初は、試行錯誤の連続であった。むしろ失敗する確率が高かった。

大門は、家庭菜園の本を購入して参考にした。又、以前から農園を借りている人達に、いろいろと聞たり教えられた。

それから、JA大阪から「農作物づくり」の本が贈られてきて、これらの本なども参考にして、野菜作りをしたら、野菜が育成したと言っても過言ではない。

素人には、本当にありがたい隣人であり本であった。

大門は、畑を耕し、種をまき、芽が出て育てる楽しみと、それらの野菜が収穫できる喜びを感じていた。

畑作業は、もっぱら土曜日か日曜日の早朝や夕方にする。

貸し農園は、約100坪の土地に10坪ずつ区分され、8人の借主がいる。

それぞれに精魂込めて、野菜作りをしている。人それぞれに自分の野菜に愛情を注ぎ、懸命に育てているのである。



大門は、2015年3月に定年退職を迎えた。

退職金の一部で、家をリニュ-アルすることを計画していた。

家も古くなると、あちらこちらが傷んでくる。必要経費が出るものである。

大門が30代の頃、知人の依頼もあって、果樹園畑を購入した。

所有者が高齢で畑をやっていけないというので、その果樹園畑が購入できたのである。

その翌年に、宅地造成申請手続きを市役所に提出したが、畑から宅地申請して、許可が下りるまでには、2年以上はかかるという。

当時は、法律とは、そんなものであろうかと思った。



退職後に学校のボイラ-担当の仕事をしている。

夏場(7月~9月)と冬場(12月~2月)の各3ヶ月間で、年6ヶ月の勤務である。

家から車で10分ほどの所にある学校に勤めていた。

畑から帰ってきて朝食をとり、8時には出勤する。これが朝の日課である。

サラリ-マン時代に取った、ボイラ-技士(2級)の資格が生かされた。

職場は、10帖ほどのコントロ-ル室と2教室ほどの広さのボイラ-室に分かれる。部屋に入ったら、直ぐに、吸気と排気ボタンのスイッチを入れる。

外の新鮮な空気を取り入れ、室内のよどんだ空気を、外部へ排気することから始める。

ボイラ-室は、大きな機械がいくつもある。ガス冷温水発生機と冷却水ポンプ機、冷暖房送風機、冷温水ポンプ機等それぞれ各2台ずつ設置されている。

その他にもCPA操作盤などがある。

コントロ-ル室とボイラ-室とは、出入り扉以外は、ガラスで遮断されていた。

コントロ-ル室には、動力、低圧、高圧の各監視盤があり、その他に空調監視盤などがあった。

仕事は、コントロ-ル室のボタン操作と、ガス冷温水発生機の運転操作である。

ボイラ-を炊いたら、本館棟と教室棟や特別棟への冷暖房を入れる。その後は、1時間単位で各デ-タ-を記録する。

30項目程ある計器を、正確に空調設備運転管理日報に記録する。それが主な仕事である。

学校が創立されて100年、冷暖房設備が設置されてから65年が経過しているという。機械設備も古く老朽化に伴い、機械の一部が腐食していて、そこから水漏れを起している。それに機械の錆びた臭いと湿度が高い為、カビ臭ささには、いささか閉口していた。

各機械も二回目の更新時期に来ていると学校の技術担当者はいう。

大門には、環境がどうであれ、仕事が出来る喜びと半年間という願ってもない仕事に感謝した。

時間的にも、趣味のハイキングや石の収集及び家庭菜園にも、時間が取れることに恵まれていると感じていた。

勤務日以外で、自由に時間が作れる仕事を望んでいたので、願ったり叶ったりであった。



大門は、サラリ-マン時代から休みになると、健康管理のためにハイキングや半年に1回は、原石や石などの収集に、近郊の山々を歩いていた。

ある年、兵庫県豊岡市の山中で珍しい石を見つけた。

☆緑色で模様が無数に入っている。家に帰って調べてみたらマラカイト(孔雀石)であった。豊岡市は、玄武岩でも知られている。

 それがきっかけで、原石探しにも興味をもったのである。

但し、趣味の域を出ず、決してのめり込むという事もなかった。

 これまでに30数年かけて原石3個を見つけただけである。

☆ロ-ドナイト----ピンク色で石の中に黒の模様が入っている。

☆オパ-ル-----うすい半透明の石の中に金色が無数に入っている。そして模様のきれいな石や珍しい石も集めた。それらの原石や石を磨き、収集ケ-スに陳列して、眺めて楽しんでいる。



6月7日(日)の天気予報は、気温26.0℃、天気は終日曇り、降水確率は0%である。2日前に小雨が1時間程降った。

大門は、前日から原石探しの予定を立てて、「七つ道具」の一つ一つを再確認した。

折りたたみ式ピッケル、岩石用ハンマ-、タガネ、ナタにジャックナイフ、懐中電灯、ル-ぺ、地図とコンパス、赤のマジックペン、ロ-プ、小さなバ-ル、メジャ-、折りたたみ式スコップ、そして手帳にペン、石のミニ図鑑などである。

さらに、デジタルカメラに包帯と軟膏、そして服装は、登山をするような重装備である。

頑丈な皮の手袋に、靴はトレッキングシュ-ズ、そして目を保護するゴ-グルにヘルメット等を準備した。



今日は、家から12kmほど離れた近郊の清川の上流を目指し、川の水源あたりに目標を定めた。

そして出発当日に1日分の食料、飲み水などをリュックに詰め込こんだ。

前日には、行き先を地図に印を入れ、それを必ず妻の恵美子に渡して、家を出るのである。それが習慣であった。

恵美子は、いつものように------。

「あなた気をつけて下さいね。2日前に雨が降って、岩場も滑りやすくなっていると思います。又、山に入ると地盤が緩んでいる所もあるかも知れませんから、くれぐれも注意してね」

「大丈夫だよ。注意して行くから」

「携帯は、充電しましたか。何かあったら必ず連絡して下さいね」

「心配しなくていいよ。じゃ、行って来るよ」

と言って家を出たのである。



大門は、初めは川沿いの道を歩いていたが、途中で道が無くなっているので、川の方へ下り川の端道をゆっくりと歩いた。

さらに進むと川の端道はなくなり深みがあって歩くことが出来ず、また川沿いの細い道に戻り、そこを進んだ。道と言っても雑草に覆われていて、道なのか獣道なのかの判別もつかないほどであった。

道は、人工的に作られたようだ。昔の人が山に入って、薪を取るために作ったか、荷物を運ぶために作られたかのようにも思えた。

大門は、ナタを取り出して、道に覆いかぶさっている小枝や雑草を切りながら前へ進む。しかし道が所々無くなっている。それも不思議に思った。

途中で、何度も川沿いの道と川の端道を、登ったり下ったりしながら3時間半もかかって、ようやく水源の所までたどり着いた。

そこには、2つの岩あり、その隙間から湧水が出ている。

ここの山一帯は、あちらこちらに岩石が突き出ていた。

大門は、少し休憩し、早速付近の岩壁から、めぼしい岩を落とし、それを割って調べた。しかし原石らしき物は見つからない。今度は、川の中の岩を割って、調べたが何も出なかった。1時間ほど探したが、成果はなにも無かったのである。

お昼に恵美子の作ったおにぎりを食べて、川辺の小石の上に大の字になって寝た。森林浴でマイナスイオンを体いっぱい浴びて休息をとった。

そろそろ帰ろうかと思って、リュックを担ぎ、ふと川右手を見ると20mほど下の山のふもとに、木々の間から岩壁が見える。何もないかも知れないが登ってみようと、そこの川辺の近くまで下った。

上を見ると12~13度程の傾斜になっている。

大門は、その傾斜を岩に足をかけて、木を掴んだりしながら登り始めた。

雨上がりの斜面は、少しぬめっていて、滑りやすくなっているので慎重に登ることにした。

20mほど登ったところで、突然に足を滑らせて、下へズド-ンと活きよいよく滑り落ちた。滑り落ちていく途中で、岩に両足の靴が思い切り激突した。

その瞬間、その岩が浮き上がり、下に転がり落ちていく。

大門は、岩が取れた穴に、落ちてしまったのである。

腰を強打し、脳震盪も起していた。

どれぐらいの時間が過ぎただろうか。

大門が意識を戻すと、木箱のような物の上にいるようだ。それにしても手足や体中が痛い。

「ああ助かった。本当に良かった。しかし危なかった」

気を取り直して、自分の置かれている状況を確かめた。

一瞬「墓の中に落ちたのかも知れない」と思った。

周囲を見ると、落ちた穴の直径は50cmぐらいで、木箱の上から地上までは、1.5m程はある。

穴から光が入っているので、懐中電灯は必要なかった。しかし穴の奥は、どうなっているのか、懐中電灯で照らすと、ずっと奥まで木箱が並んでいる。

どれぐらい奥まで続いているのか分からない。

「まさか共同墓地では------?」

恐怖心と不安で頭の中は、少々混乱していた。

とにかく、ここを出なければと思い、ピッケルの頭にロ-プを巻きつけ、強く縛り、落ちた穴から思い切って地上に投げた。2回ほど投げて、ようやく地上に届いた。

ロ-プを引いて、地上に引っかかったのを確かめてから、そのロ-プを掴まえて、外に出ることが出来たのである。

「ああ、助かった。本当に良かった。死ぬかと思った」

大門は、外に出たとたんに、そこにヘナヘナと座り込んだ。

同時に、体中の痛みがさらに強く感じられた。

しばらくは放心状態で、どれぐらいそこに座っていたかも分からない。

時計を見ると、午後3時30分をさしている。そうすると穴に落ちて脳震盪で意識がなかったのは、約1時間ぐらいである。

穴に落ちなければ、そのまま川まで落ちて、石に頭を打って、死んでいたところであった。

「運が良かった。本当に助かったんだ」

しばらくしてから大門は、携帯を取り出して恵美子に電話した。

「もしもし、帰りは少し遅くなるから心配しなくていいよ」

「どうしたの、何かあったの?」

「なんでもないよ。溝に落ちたけど心配いらないから」

「怪我はなかったの」

「手足を少しすりむいただけで、大したことはない」

「それならいいですけど。気をつけて、帰ってきて下さいね」

それから大門は、穴をふさぐ為に周囲を見渡し、そして適当な石がないかを探した。ちょうど2mぐらい離れた所に、平たい岩を見つけた。

大門は、痛い体を引きずりながら、そこまで行き、ツルハシとスコップで岩の周囲を掘り起こし、少しずつ動かした。

岩は、斜め横上にあったので、下の方へそして穴の方へと少しずつ移動させた。

岩は、ちょうど穴を塞ぐには、適当な大きさだった。

さらに、その岩の周囲に小枝を並べ、そして雑草や枯葉などを置いた。

自然な状態に見えるようにしたのである。

大門は、帰りの道すがら------。

あの穴は何だろう。箱は何のために、同じような箱がいくつもあった。

不思議だ。気がついた時は、てっきり「棺桶の上」に落ちたかと思った。

いつか日を改めて、確認しようと心に決めたのである。



あの事故から1ヶ月ほど過ぎてから、同じ夢を見るようになった。鎧兜をつけた武将が夢に現れる。顔は見えないが鎧兜は、はっきりと見える。

時には、夢でうなされることもあり、飛び起きることもあった。又、ある時は、武将が枕元に現れたという錯覚に陥ることもあった。

「何故、同じ夢ばかり見るのであろう」

内心は、穏やかではなかった。

もう一度、現場に行って、確かめると同時に線香を立てて、供養しなければと考えたのである。





8月初旬、大門は七つ道具に縄ハシゴを購入し、線香と塩を持って、清川の水源を目指した。草木には、強い緑色の葉に成長していて、山道を歩いていても、真夏ながらも木陰があり、街中よりも2~3度ほど気温が下がっている体感がある。それでも蒸し暑さには変わりはなかった。

川の流れも真夏の様相である。川沿いの道と川の端道を歩いていると川の流れが気持ちを少し涼しくした。川の小魚も踊り、カニも川の中の岩で楽しんでいるように思えた。

目的の場所に着いて、今度は滑り落ちないように、木にロ-プを結んで体の安全ベルトに通し、万全を期して、ゆっくりゆっくりと登った。

穴のある所に着いて、枯れ草や小枝を取り除き、そして穴の石を横にずらした。

穴が完全に開くと、入り口の周囲には、四角のような岩があり、その上にずり落ちた岩があったのだ。

以前は気にもしなかったが、いや、気が動転していて、入り口の形状も見えなかったというのが正確であろう。大門は、穴の入り口に線香を立て、盛り塩をして、両手を合わせた。

しばらくして、近くの木に縄ハシゴをしっかりと結び、それを穴の中へ垂らした。

縄ハシゴを両手で掴み、右足そして左足とハシゴを一歩一歩と降りた。

穴の中に入って木箱を再確認すると------。

一つの箱の大きさは、横は約70cm、縦50cm、高さ30cmぐらいはある。

木箱の上ブタ四隅に、文様の入った金具が取り付けられていた。

そして箱の横には、家紋らしき紋様が刻印されている。

大門は、拳で木箱をコンコンと叩いてみた。

その時である。穴の奥の方20mぐらい離れた所に、人の気配が感じられた。

突然に------。

「そこにいるのは誰じゃ」

という声に、大門は、腰を抜かさんばかりに驚いた。心臓がパクパクと強く鼓動し、いまにも倒れそうになるほどの衝撃を受けたのである。

洞窟の奥の声の方を見ると、そこには、夢に現れた鎧兜を着けた武将が立っている。

顔は分からないが夢の人物像と同じである。鎧兜の形も同じであった。

その姿を見て、大門は、少しは気持ちも落ち着いたが------

こんな所に武将が立っていること自体信じ難たかった。

亡霊か、幻覚か、その光景を見て、我を取り戻すのに数十秒かかった。

大門は、直ぐには言葉が出ず、口をもぐもぐさせていたが、気を取り直して、

「私、私は------大門、大門次郎と申します」

大門は、すごく動揺していた。

突然、そのような場面に出会ったら、誰でもが驚き、狼狽するであろう。

「なぜ、そちはここにいるのじゃ」

「はい、この山の上に登って、原石を探していたのですが、足を滑らせて、この穴に落ちてしまいました」

「ここに何しに来たのじゃ」

「はい、ここに来ましたのは、穴の中を確かめるためです」

「ここは、わしのものじゃ」

「恐れ入りますが、どちら様でしょうか」

大門が恐る恐る尋ねると、

「わしは、豊臣秀吉じゃ」

「太閤様でいらっしゃいますか」

「そうじゃ」

「太閤様、箱の中身は、何でございましょうか」

「そちには、関係のないことじゃ。ここの事は、全て忘れることじゃよ。そして直ぐ帰ることじゃ」

大門は、ここから生きて帰れるのか、殺されるかも知れないという恐怖心と戦いながら、知りたいという好奇心もあった。

しかし生きて帰れる保証もないので、勇気を出して、再び聞いてみた。

「太閤様、箱の中身を教えて頂だけませんでしょうか」

しばらく沈黙が続き、重苦しい雰囲気の中にいた。

大門が少し体を動かすと、

「そこを動くでない。わしに近づいてもならぬ」

「太閤様、分かりました。動きません。また太閤様に近づきません」

大門は、直立不動のまま、石のように固まっていた。

しばらくすると、

「これらは、わしの息子の秀頼に残した財宝じゃ」

「太閤様の財宝ですか」

大門は、しばらく考えたてから------。

「太閤様、この財宝をこのまま、ここに埋もれさせているのは、勿体ないことでございます。ぜひ世の中のために、この財宝を生かして使うべきではないでしょうか」

と問いかけた。さらに続けて、

「太閤様の意の通りに生かします。どうかお考えて頂けませんでしょうか?」

しばらく沈黙が続いた後-----。

「あい、分かった。それほどまで言うのであれば考えてみようぞ」

「ありがたきお言葉、心から感謝申し上げます」

「但し、今日の出来事は、他言してはならぬぞ。そちの妻にも話すでないぞ。万一、他言したならば、そちは死ぬることになるじゃろう」

「決して、他言は致しません」

「それじゃ、日を改めてここに参られよ。その時に、わしの考えを伝えようぞ」

「ありがとうございます。太閤様」

大門がそう言い終ると、太閤秀吉の姿は消えていた。

大門は、縄ハシゴを伝い地上に出た。

「ああ、良かった。助かった。生かされたのだ。」

殺されるかも知れない恐怖にかられながら、今の出来事は、夢か幻か現実かのギャップに戸惑っていた。

早速、穴を元通りに塞ぎ、そこを降りて帰り道を急いだ。



それからの大門は、豊臣秀吉のことについて、少しでも情報を集めるようと、図書館に行った。

太閤様と話するにしても、相手のことを何も知らないでは、失礼にあたるので事前に調べることにしたのである。

豊臣秀吉については、学校で日本史を学び又、映画やテレビで観て、一般的な知識はあるものと思っていたが、文献を調べれば調べるほど奥が深く、大門の知識は、軽薄なものであると気づかされた。そして、時間もかかり、図書館に通い詰めの日々が続いた。

時には、インタ-ネットで調べたりもした。

秀吉に関することは、できるだけ情報を集めたのである。

人物像、性格、物事の視点、戦略の立て方、戦国時代を生き抜く知恵、大阪城、家紋(五七の桐)の意味、豊臣秀吉の鎧兜---特に兜の形状の意図など。

豊臣家の財宝については、どの文献にも数行程度記載されていたが、埋蔵場所の特定には、仮説的な記録しかなかった。



文献やインタ-ネットなどによると「豊臣家の埋蔵金」伝説について、次のように書かれている。

豊臣秀吉の財宝は、慶長3年(1598年)夏、兵庫県猪名川町の多田銀山の坑道内に埋蔵されているという説がある。

天正長大判4億5000万両、金塊3万貫(約112.5トン)と言われている。現在の貨幣価値に換算すると22兆円以上という。

その銀山は、財宝埋蔵後に閉鎖されたと記されている。


豊臣方が敗れて多田銀山も徳川幕府の手に落ちた。

幕府は、必死になって銀山の埋蔵金を探したが見つからなかったとも記されている。

日本の三大埋蔵金は、豊臣埋蔵金、徳川埋蔵金、結城家埋蔵金といわれている。

江戸時代から今日まで、宝探しのマニアは、幾多と出ているが誰も見つけてはいない。

日本では、発見された埋蔵金は、遺失物として国に没収されるのである。

それでも名声のために、宝探しをしているマニアがあとを絶たないという。

ある日、東西新聞に「秀吉埋蔵金ロボ迫る」という見出しで、記事が掲載された。秀吉の埋蔵金伝説が残る「宝の山」の調査に乗り出す。

多田銀山の坑道をロボットで調査するというのである。

それほどまでに財宝探しには、興味をそそられるのである。



大門は、心の準備だけは怠らないようにした。

「矢は、放たれたのだ」

もう、後ずさりはできない。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているのだ。しからば前に進むしか道はない。

大門が図書館通いやインタ-ネットに夢中になっているので恵美子が

「あなた、図書館やパソコンで何を調べているの」

「原石について調べているんだよ」

「珍しいわね、あまり熱心でなかったのに、何か特別な原石でも見つけたの?」

「いや、そうでもないが------」

「それにしても、清川に登ってから、口数は少なく、何かに取りつかれたように思えるけど」

「なにも心配しなくていいよ」

大門は、なんとなくその場を取りつくろった。

そうこうしている内に1ヶ月余りが過ぎた。

そのころからまた夢枕に、鎧兜を着けた太閤様が現れた。

太閤様がお呼びになっているのだ。

大門は、再び太閤様と対面するにしても、今度は、よほどの決意で望まなければならない。太閤様がどのような決断を成されるのか。それに対して、どう答えるのか、自分の意見と勇気を持たねばならない。


大門は、準備万端整えて、午前10時に清川の水源へ出発した。

川沿いの道は、前回草木がおい茂り、道を塞いでいたので、

草木を切っては進み、川の端道を歩いたりして、目的地に着いたが、今回はところどころの草木を切って進めた。 

大門は、道々の途中、太閤様は現れるのであろうか。ぜひ、太閤様のご意志を確認しなければならないと、独り言をいいながらも、期待と不安が交差していた。

目的地に着いて、大門は、縄ハシゴから穴の中へゆっくりと降りた。

「太閤様、大門次郎でございます。只今参りました」

と声を出すと、

「分かっておる。わしはここにいるのじゃ」

大門が穴の奥の方を見ると、今度は、太閤様が椅子に座り、左手はひざに置き、右手には扇子を持って顔をこちらに向けていた。相変わらず顔は分からない。

「わしの財宝を世の中の為に、役立てたいと言うのじゃな」

「はい、太閤様その通りでございます」

「どのように役立てると言うのじゃ」

「太閤様もご存知の通り、わが国で1000年に一度と言われる大震災が起こりました。

4年前の2011年3月11日に発生した東日本大震災です。

東北3県(宮城、茨城、福島)及びその他も含めて、大地震や大津波で、死者15.891人、行方不明者2.584人そして震災関連死は3.194人の人々が亡くなりました。

又、家や田畑が流され、そして地域産業、農畜産、漁業などに大きな被害を被っています。そして震災直後の避難者は、43万人以上にものぼりました。

さらに、福島県では、東京電力福島第一原子発電所の原発事故により、多くの人々も避難生活を余儀なくされています。

当時は、日本は【国難の時】と言われていました。

太閤様の財宝で、大震災や原発事故の被災者への助成がでればと考えます。

又、日本の政治が弱い事象(身体障害者、交通事故遺児、特定難病者、介護福祉、小児がん、児童施設入居児童への教育資金、その他)の人々への助成などに使わせて頂きたいのです。

大震災の復旧、復興は、あくまでも国の責任です。その不足を少しでも補いたく考えます」

「あい、分かった」

「ありがとうございます」

「そちは、わしの意志通りに実行すると申したな」

「はい、その通りでございます」

「改めて、そちの心の中を確かめるが今の言葉に偽りはないのじゃな」

「はい、決して嘘、偽りはございません」

「あい、分かった」

「太閤様、ありがとうございます」

「しからば、わしの11ヶ条を申し渡す。必ず守るのじゃ」

「太閤様、暫くお待ち下さい。太閤様の申し渡しを私の手帳に書きとめます」と言って大門は自分の着ているライフジャケットから手帳を取り出した。

「太閤様お願い致します」



其の1、わしの財宝を全て、世の中の為、国民の為に使うべ

    し。       

其の2、国に渡してはならぬ。

今の日本の政治は三流国(?)だ。わしの財宝を国に渡すことは、政治家がますます働かなくなる。国政に携わるものが多すぎるのじゃ。

其の3、財宝の使い道と金額は、毎月1回新聞で国民に公表すべし。

其の4、そちは、この財宝について、1円たりとも使ってはならぬ。

其の5、そちが使える金は、財宝の金利のみじゃ。

其の6、この財宝を今後20年間かけて消化すべし。

其の7、国、県、各市町村のスタッフと協力し、国の隅々の国民にまで、事由により助成すべし。

其の8、そちのスタッフを集め、助成する対象について、よく調査し、吟味して決定すべし。

其の9、その為に、会社を作っても、利益は上げてはならぬ。

其の10、そちは、この件に関して、表に出てはならぬぞ。

其の11、これらの件について、一つでも約束を破れば、そちの命はないじゃろう。


大門は、手帳に太閤様の11ヶ条を一語一句も違うことなく書きとめた。

太閤様が条件を語り終わった後、手帳に書きとめた申し渡しを復唱した。

「太閤様、これで宜しいでしょうか?」

「その通りじゃ、約束を破るでないぞ」

「太閤様、分かりました。肝に銘じて約束は守ります。但し、太閤様、今の日本の法律では、財宝は遺失物として、国が没収することになっております」

「分かっておる。国が没収すると言うならば、この財宝を絶対に公表してはならぬ」

「太閤様のこの莫大な財宝を国の為、国民の為に生かさないことは、勿体ないことでございます。

この財宝を役立たせるならば、400年余りの歳月を経た今、再び豊臣秀吉公の名声を高めることになりましょう」

「しからばどうすればよいのじゃ」

「太閤様が政治に携わるものが多すぎると申されました。それでしたら次のようなご提案を申し上げます。今、国でも国会議員数や公務員の削減など検討されていますが、遅遅として結論が出ません。さらに、都道府県議員や各市町村議員数の削減も国と交渉しましょう。

政治に携わる者から率先して、その見本を国民に示し、痛みが分かれば国民の為に、今以上に働くことでしょう。

それらの条件が解決した場合は、財宝の5分の1を国に献上するという事では、如何でしょうか」

「しからば、その条件が叶わぬときはどうするのじゃ」

「その時は、太閤様の財宝は、永遠に公表することはありません」

「約束は守れるか」

「太閤様、私も死ぬのは嫌でございます。天地神明にかけて必ず守ります」

「あい、分かった。そちに任せようぞ」

「太閤様、ありがとうございます。最後に、もう一つお願いがございます」

「それはなんじゃ」

「はい、太閤様の財宝であるという証拠がほしいのです。政府と交渉するにも証拠がなければなりません」

「ほほ、それで」

「一番小さい金塊1個と、大判1枚に小判1枚を預からせて下さい。必ずお返し致します」

「あい、分かった。そちが今立っている横の箱より8番目の箱と20番目の千両箱、そして50番目の小箱から持っていかれよ」

そう言い終わると太閤秀吉の姿が消えていた。

しばらくして大門は、

「太閤様、ここの写真を撮らせて下さい」

と呼びかけたが返事はなかった。

国と交渉するにしても、現場写真も必要だから、大門は、覚悟の上で写真を撮った。

大門は、3つの財宝を持って穴を出て、元通りに穴を塞さいだ。金塊を見ると豊臣家の刻印が押されていた。



数日後、大門はこれまでの出来事を思い出していた。

穴は、自然に出来た洞窟であった。

入口付近のみが人の手で、岩を組み立てて、塞いであった。

洞窟の中の広さは、幅3m、高さは約2.5~3m、奥行き50mぐらいはあっただろうか。

洞窟の底は、財宝を置くために、小石が敷き詰められて、平坦になっていた。

さらに、奥の方は、空洞のような所もあり、そこは天井も高かった。

大門が山から滑り落ちた時に、両足の靴で思い切り激突し岩は、入口を塞ぐために組み立てられた一番上のものであろう。

400年余り前は、洞窟の入口も土の中だったのだろう。

数百年の間に、この地方でも幾多の地震が発生している。

近年では、1946年に昭和南海地震、1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生、震度7,3の地震で多くの被害をもたらした。この地域も震度5強の揺れであった。

これらの地震で、洞窟の入口を塞ぐ為に、組み立てられた一番上の岩の間に亀裂が入り、そこの部分が少しずつズレたのであろう。

長年の歳月を経て、地表も風雨にさらされ、時には、台風や豪雨などで少しずつ土が流され、地表に表れたと考えられる。

東日本大震災は、近畿地方でも震度3~4の揺れがあった。

その地震によっても落ちた岩は、さらに亀裂が広がって、ズレていたのであろう。

洞窟の中の箱は、二重に積み上げられた箇所もあった。

奥の方には、千両箱も並べられ、さらにその奥には、金銀などの装飾品?の入ったと思われるような大型の箱もあった。

それらの箱類が、洞窟の6割ほどを占めていたように思った。

莫大な財宝であろう。豊臣秀吉も考えたものだ。

財宝は、兵庫県猪名川町の多田銀山の坑道内に埋蔵したとの戦略を立てて、実際には、ここの地に埋蔵したのだ。だから秀吉の死後、徳川幕府が懸命になって多田銀山を探しても見つからなかったのである。

多田銀山の閉山も秀吉の戦略のひとつであったのであろう。

但し、この埋蔵地より約1km離れた所にあった温泉の出ていた湯治場を秀吉が閉鎖したというのは、確かかも知れない。



大門は、その湯治場のあったという場所を確認したいという強い衝動にかられた。

数日後、湯治場が所在していた南村山村役場の観光課へ電話を入れてアポイントをとった。

約束の日時に原石探しの道具と装備で村役場を訪ねた。

村役場の観光課へ行くと担当の原田主査が資料を準備していた。それは村の編纂史である。

用件は電話で伝えていた。

その編纂史に湯治場のあったという記載ぺ-ジを開き、村の地図を広げて、その場所を教えてくれた。

「その場所は、村の南東にある山辺集落から約500mの麓にあります。そこの村道からさらに林道に入り10分ほど登ると左側に湯治場のあった石碑が建っている」と詳細に教えてくれた。

「その場所に行くのであればくれぐれも注意するように、そこは数百年前の昔のことだから森になっていて、草木が覆い茂っていますよ」と原田主査は忠告してくれた。

「大門さんの携帯番号を教えて下さい」

大門は、番号を教えると同時に役場の電話番号を携帯に登録した。そして主査にお礼を言って、村役場をあとにした。


大門は、山辺の集落に入り、そこのお年寄りに湯治場があったという場所を再確認すると、

「この道を真直ぐに行きなさると、左手に林道の入り口があるがやなあ」と親切に教えてくれた。

大門は、林道を歩いて目的の石碑を探した。

自然の石で作られた石碑は、1.20mぐらいの高さで古びていてコケが全面に生えていた。

石碑には「山辺湯治場の跡」と刻まれている。

そこは森と一体化していて、湯治場のあった形態跡を見つけることは容易ではなかった。

石碑の建っているところから周辺を探し、らしき形態を発見したのである。

4帖ほどの大きな平たい岩があり、周囲には建て屋の土台らしき石もあった。その平たい岩の周辺には、大きな楠木や松などの大木が覆い茂っていた。

「やはりあったのだ。当時、湯治場は存在していたのだ」

と大門は声に出した。

大門は、そこの地形を見て、「今でも地下500~600mもボ-リングすれば、温泉が湧き出る可能性があるかも知れない」

と独り言を言ったのである。



大門の頭の中は、これからの言動について考えていた。

慎重の上にも慎重で、石橋を叩いてでも渡らなければならないと。

太閤様との約束を間違えば命取りになるのだ。

あれから2週間が過ぎた。大門は、敢えて駅前まで出て、公衆電話ボックスに入った。

テレホンカ-ドを3枚準備して、新聞社に電話を入れたのである。

「もしもし、東西新聞社ですか」

「はい、東西新聞社でございます。ご用件を受け承ります」

新聞社の交換手の丁寧な言葉が電話口から聞こえてくる。

「もしもし、私は大門次郎と申します。恐れ入りますが社会部か報道部につないで頂けませんか」

「どのようなご用件でしょうか」

「昔の武将の財宝を発見しましたので、お知らせするため電話しました」

「証拠は、おありでしょうか」

「はい、証拠がありますので、ぜひ社会部か報道部につないで頂きたいのです」

「かしこまりました。それでは、しばらくお待ち下さい」

30秒ほど待たされてから、

「もしもし、こちらは社会部です」

という女性の声が聞こえてきた。

大門は、幸運だった。直接、社会部につながったのだ。

一般の情報は、どこの新聞社であっても、読者サ-ビス室かオピニオン室などのお客様専用窓口に電話を回されると聞いていた。新聞社には、それなりのル-ルがあるのだろう。

「どういうご用件ですか」

「交換手にもお話し致しましたが、財宝を見つけたものですから」

大門が言うや否や、

「もう一度、詳しくお話下さい」

「豊臣秀吉の財宝を発見しましたのでお電話しました」

詳細に繰り返し話をした。

「証拠は、あるんですか」

「はい」

「それでは、どこかの鑑定士に鑑定をしてもらってから、その鑑定書と一緒に社会部に送って下さい」

と文きり口調で話すので、

「恐れ入りますが、あなた様のお名前を教えて下さい」

聞き返すと、

「社会部に送って頂だいたら分かります」

事務的な受け答えに、大門は少し怒りを覚えた。相手にすれば偽情報かもしれないと、疑われても仕方がなかった。

突然、財宝を見つけたと言われても、信用できなかったのであろう。

大門は、冷静になって------。

「お名前だけでも教えて頂けませんか。私は、直接お渡ししたいのです」

再度告げると------。

「鈴木 愛です」と教えてくれた。

「鈴木さん、後日又電話致します」

と伝えて大門は、受話器を置いた。

大門が公衆電話を使ったのは、それなりの考えがあっての事であった。


9月には、台風18号が愛知県に上陸し、日本海に抜けた。

その影響で北関東から東北にかけて記録的な豪雨になった。

茨城県常総市では、鬼怒川の堤防が決壊して濁流が住宅に流れ込んだ。大水害を被ったのである。テレビでその様子を見ていると4年前の東日本大震災の津波の光景と重なる。

どうして被害が出る前に過去の教訓が生かされないのかと思う。


11月は、さわやかな秋晴れが続いた。

秋の風景が身近に感じられるのである。秋の姿が山の樹木、そして庭のモミジや街路樹のイチョウ並木もれぞれに紅葉していた。


日本人は、自然災害に対して、過去から学び日ごろから避難訓練をしてその心構えもできているはずなのに突然に起こる地震や豪雨等による災害から身を守れない場合がある。

2011年9月、台風12号で奈良県の豪雨による土石流の災害や2013年10月台風26号で伊豆大島(東京都大島町)では、記録的な集中豪雨によって、火山灰の混ざった土石流が発生して、甚大な災害を被ったのである。そして2014年8月に広島県でも豪雨による山崩れで多くの尊い人命を失った。

今年も地球温暖化の影響なのか?、単なる異常気象であろうか?。それにしても、自然の美しさと怖さを改めて知らされるのである。

マスコミの表現は、

地震列島日本、台風銀座日本、土砂災害国日本、火山列島日本である。

まさに自然災害列島日本である。




ここで福島の原発事故に関して見ますと、

東日本大震災から2年半が過ぎた時点でも、まだガレキの処理も完全には終わっていなかった。福島県の放射能汚染水や除染土処理も進まない現状であった。更に、それらの最終処分地も決まらない。

政府は、一体全体何をしているのだろう。

大震災が起こってからの2年間の当時の政権と日本の政治には、国民全体が失望しているように思われた。

福島にある東京電力の原発事故も幾多の課題と問題点をかかえて4年がたった。

ロシアのチェルノブイリの原発事故と同じ大災害である。

避難住民の苦しみや生活不安、そしていつ自分の故郷に帰れるかも分からない焦燥感は、心の重荷となっているだろう。それでも被災者は、前に進まねばならないのです。

放射能汚染で避難を余儀なくされた福島の人々は-----。

故郷を追われ、そして住み慣れた我が家を失って「帰りたいけど帰れない」という悲痛な叫びは、ノルウェ-の画家ムンクの「叫び」の絵画と大門の頭の中でダブル。

現実に当事者でなければ分からない、苦しみと将来への不安など計り知れないものがあろう。


さらに、福島県の漁業従事者は、原発事故により海も魚も放射能汚染で漁も出来ない。漁師がテレビのインタ-ビュ-で

「船はあっても海にも出られず、宝の持ち腐れだ」と答えていた。その言葉で終わりではないはずです。

漁業補償があったとしても漁師は、海に出て自分の力で魚を取り、収入を得ることこそ生き甲斐であり喜びでしょう。

仕事がない、仕事が出来ないほど辛いものはないと思う。

福島の海と魚から放射能汚染が消えるのは何時の日か?。

20年先か、40年後か、それまで漁業従事者は、どのように過ごすのでしょう。

いくら金があっても日々の生活態度が最も大切です。

人間は、働くと、働かないとでは10年先には、心も体も早く年を取るという。

福島の海の汚染がなくなり、漁師が一日も早く漁に出られることを祈ってやまない。



近代文明のエネルギ-革命の申し子とも表現される「原子力発電」は、世界の国々で国策として推進されてきた。日本もそうであった。

日本の原子力発電所は、地震や津波にも耐え得る「安全神話」が生まれた。しかしながら今回の東日本大震災で、その安全神話は崩壊したのである。

地震、大津波、そして想定外の事故も起きて、三つの要素が絡み合って、東京電力福島第一原子力発電所の1号機から3号機まで水素爆発を起して、放射能汚染が広がったのである。

福島原発の完全なる収束と廃炉には、40年以上かかるという。

ロシアのチェルノブイリ原発事故(1986年4月)から30年経過しても収束には至っていないという現実である。

日本は地震大国、今一度立ち止まって、原発を考え直す時であろう。

使用済み放射性廃棄物(核のゴミ)の最終保管場所も決まらない。

専門家は、日本の地層から考えて、核のゴミの保管場所は、困難だろうと指摘している。

日本は、どう政治判断をするのだろうか?。



地震の少ないドイツでさえ原発の使用済み放射性廃棄物「核のゴミ」の保管処理を考え、また万が一の事故等による放射能汚染からドイツ国民を守る為に、2022年までに脱原発を世界に発信したのである。

ドイツでは、原発の代替として、従来の火力、水力発電に加え天然ガス及び再生可能エネルギ-(太陽光発電、風力発電、地熱発電など)対策を推進しているという。


原発事故後2年半に幾多の問題が起きた。福島の漁業関係者を失望させる事故が起きたのである。放射能汚染水貯蔵タンクから600tの汚染水が地下に流れたことが発覚した。

福島の漁師は、いつの日にか漁に戻れると考え、船の手入れや網の修理、そして船具なども丁寧に保全に努めていた。

そこに放射能汚染水漏れが発生したのである。

原発の専門家は、「汚染水は、地下水に伝わり、やがて海に流れて海洋汚染になるだろう」と指摘した。

福島の漁業関係者は、失望し愕然としたことであろう。

その怒りは、どこにぶつければよいのか?。

当事者の心境は、「言葉を失った」ことでしょう。



世界に脱原発を発信したドイツのメルケル首相は、2013年9月2日(月)の朝日新聞の夕刊に「脱原発は正しかった。福島見て確信」の見出しで次のように語っている。

『ドイツのメルケル首相は1日、22日の総選挙に向けたテレビ討論で、東京電力福島第一原発の放射能汚染水漏れを念頭に「最近の福島についての議論を見てドイツの脱原発の決定は正しかったと改めて確信している」と述べた』との記事が掲載されていた。



汚染水漏れの件で政府は、「東電任せにせず、政府が全面的に責任を持って対応を考える」と安倍首相は見解を述べた。

大震災が起こってから2年後に安倍政権が誕生したのである。

安倍政権になってからは、国民の目に政治が少し見えるようになってきた。しかしながら発足された政府の決断が遅すぎるのか?、妥当なタイミングで「政府が責任を持つ」と述べたのかは、国民の判断に委ねよう。


一度(原子炉の爆発)あることは、二度目(放射能汚染)があった。

二度あることは、三度目もあるともいう。

三度目は汚染水漏れです。

四度目は絶対に起きてはいけない。又、決して起してはならないのです。その為にも国と東電が一体となって、いかなることでも直ぐ対応することを願うのみです。

放射能を侮ってはいけない。

その汚染水漏れも最小限にブロックして、被災者のみならず国民にも「安全と安心」のクレジットを与えることです。

東日本大震災の被災者の人々は言うに及ばず、特に福島県の原発避難者には、国と東電が最大の気配りが必要です。


大震災から4年がたった時点でも避難者は23万人もいるのです。福島県の内堀雅雄知事は、東北大のシンポジウムで「自宅で暮らせない人が11万9千人いる。残念ながら福島県の復興には時間がかかる」と訴えている。その中でも原発避難者は8万人もいるのです。

避難先の仮設住宅やみなし住宅及び災害公営住宅(復興住宅)

で暮らす被災者の「心のケア-」が最も大切だと思う。

高い給料をもらっている多くの政治家は何を思う。




本章に戻しますと、

大門は、豊臣家の財宝が、被災者に役立てればと考えるも、それも政府との交渉如何であり、陽の目を見るかは、かいもく見当もつかなかった。

新聞社に電話を入れてから1週間が過ぎた。

12月の初めごろ東西新聞社社会部に、再び電話を入れた。

「大門と申しますが、鈴木愛さんをお願いします」

「鈴木は、今、席を外していますが、どういうご用件ですか」

電話を取った女性が確認してきた。

「先般、話をしました財宝の件で電話しました」

「お客様の電話番号を教えて下さい。鈴木の方から連絡させますので」

と聞いてきたので、

「私の方から改めて電話致します。鈴木さんに電話があったということだけお伝えして下さい」

と言って大門は、電話を切った。



それから、また1週間後に社会部へに再び電話を入れた。

今度は、鈴木さんが電話口に出た。開口一番

「財宝は、本物でしょうね」

彼女の語気がきつかった。

「本物かどうか、鈴木さんにも確認してもらいたいのです」

「豊臣の財宝って、何があるのですか?」

「3kgの金塊と大判1枚に小判1枚です」

「それじゃ、その財宝を当社に送ってもらえますか」

「鈴木さん、申し訳ありませんが、送ることは出来ません。直接お渡ししたいのです」

「いつごろになりますか。私も忙しいものですから。大門さんの電話番号を教えて下さい」

「それは出来ませんのでご理解ください。その意図は、あとで必ずご理解いただけると思います」

相手は、まだ信用していないのだ。それは無理なからぬことであり、身も知らずの人間から、財宝だと言われても、偽物かもしれないと、疑うのも当然であろう。

「鈴木さん、お忙しいところ時間を取ってもらって有難うございます。次回は、必ず現物をお見せできると思います。

またお電話します。今日は、これで失礼致します」と言って大門は、静かに受話器を置いた。



2016年1月中旬、大門は新聞社に電話を入れた。

間隔をあけて電話したのは、大門は、自分の心を確認する為に、敢えてそうしたのである。

「もしもし、鈴木愛さんですか、大門です。あけましておめでとうございます。今年もお世話になります。どうぞ宜しくお願い致します」と新年の挨拶をした。

「大門さん、今度は、財宝を見せて頂だけるのですね」

彼女は、単刀直入に聞いてきた。

「はい、お見せできます」

「どこで、いつごろですか」

「鈴木さんのご都合の良い日時に、御社に持参いたします」

彼女は「しばらくお待ち下さい」と言って、手帳の日程表を確認しているようであった。

「お待たせいたしました。本日、午後3時に時間がとれますので、当社1階のロビ-でお待ちしております」

「分りました。本日の午後3時ですね」と再確認した。

「鈴木さん、2~3お願いがありますが聞いて頂けますか」

「なんでしょうか。お願いの内容にもよりますが------」

「財宝は本物です。御社の方でも鑑定をして頂だき、ご確認して下さい。その為に、その財宝を1ヶ月余り、鈴木さんにお預け致しますので、預かり書を発行して頂だけませんか。

そして、その財宝を必ず返却をお願いします。お約束して頂だけますか」

「当然のことです。お約束します」

「ありがとうございます」

さらに、

「それから、私は、直接、鈴木さんにお会いすることは出来ません。誠に申し訳ありませんが、私の代理の者に鈴木さんを訪ねさせます。宜しく対応をお願い致します」

「大門さんは、何故来ないのですか?。直接お会いして、財宝の件を詳しくお聞きしたいのです」

鈴木さんの指摘も当然であった。

「私もできればそうしたいのですが、事情がありまして会えないのです。失礼とは思いますが、私の代理の者に財宝を持参させますのでご理解下さい。

代理の者は、オシで耳も聞こえず、言葉も話せません。その代わり言葉を書いた画用紙を持って行かせます。

彼は、身長は1m70cm、体重70kgの体格で、首から顔写真入の身分証を下げています。

名前は『木下謙蔵』と申します。年齢は65歳です。

本人には、十分に教えておりますが、お互いに初対面となりますので、合言葉を決めておきましょう。

鈴木さんが「富士山」私の代理は「阿蘇山」としましょう。ご不満かもしれませんが、どうぞ対応して頂だきますよう宜しくお願い致します」

彼女は、電話の向こうで納得がいかない様子であった。電話口でしばらく沈黙していた。

「それから、その財宝が本物だと判明しても、時期が来るまで決して公表しないで下さい。お約束して頂だけますか」

「約束します。それではお待ちしていますので、失礼します」

そう言って、彼女は電話を切ったのである。


大門は、太閤様との約束通り、表に出ることは出来ないので、変装しなければならない。その為に2ヶ月前から準備をした。

阪急電車梅田駅近くにある上田学園梅田校に通い、手話を学び、又、実際に聾唖者の身のこなし方や行動の仕方についても、学校の先生からいろいろと教えられた。

そして、新聞社に行く当日、変装用のカツラをかぶり、口ひげを整え、紺のワイシャツに紺のネクタイを結び、背広を着て、新聞社のある大阪市北区へ向かったのである。

大阪駅からタクシ-に乗り、午後2時50分に新聞社へ着いた。

23階建てのビルは、大きくて近代的な建物であった。

大門は、入り口で警備員に呼び止められたが、直ぐに画用紙を見せると受付へと案内された。

そこで案内係りの女性に画用紙を開いて、書いた言葉を見せた。

<本日、午後3時に社会部の鈴木愛様と会う約束をしています。アポイントを取っております>

受付係りの女性は、画用紙に書いた内容と身分証明書と名前を確認すると、社会部の鈴木さんに連絡を取ってくれた。

建物の中は、清潔な受付けカウンタ-などが整然と配置されていた。

今度は、受付係りが1階のロビ-へ案内してくれた。

1階のフロア-は、あちらこちらに、色とりどりの花と大小の観葉植物の鉢植えがあった。みごとな胡蝶蘭とカサブランカには、目を奪われた。

カサブランカの花は、フロア-の入り口付近にあり、その甘い香りが漂よっている。

それらの花や観葉植物の配置にも気配りが感じられた。

さながらミニ植物園の雰囲気である。そこは癒しの空間も演出されていた。

又、1階のフロア-は、広く中央に来客用のテ-ブルと椅子があり、それらが20席程度あった。その周囲には「L」字型に肘掛ソファ-が並んでいる。

通路を挟んで奥の方には、商談用のブ-スがいくつもあった。

そのブ-スからは、人の出入りがあった。

受付係りは、大門を出入り口近くのテ-ブルに案内して、

「ここで、しばらくお待ち下さい」

係りの女性は、一礼して立ち去った。


しばらくして、上司らしい男性と女性が現れた。

二人とも首からは、顔写真入の入館証を下げていた。

男性は、社会部 前田総一郎

女性は、社会部 鈴木 愛

大門は、立って一礼した。それから三人は、テ-ブルを囲んで座り、大門は2枚目の画用紙を開いた。

「あなた様は、鈴木愛さんですか、合言葉をお願いします」

と書かれた画用紙を見せた。

大門は、入館証で鈴木さんと一目瞭然に認識できたが、合言葉を確かめるために、敢えて、画用紙を見せたのである。

彼女は、代理がオシで話せないことを知っていたので、紙とボ-ルペンを用意して来ていた。そうでなくても商談する場合は、メモ用紙等は、用意するのが自然である。その紙に-----

「私が鈴木愛です。合言葉は、富士山です」

大門は、「阿蘇山」と書いた画用紙を見せた。

上司らしい男性は、ガセネタかも知れないと、彼女の護衛に来ているようでもあった。

鈴木さんは、やはり新聞社の社員だけあって、スタイルもよく、長身で知的美人である。又、黒のス-ツ姿がよく似合っている。典型的なキャリアウ-マンだ。

彼女は、自信に満ち溢れているように感じられた。

鈴木さんが「財宝は、ご持参して頂だけましたか」と紙に書いたので------。

大門は、カバンから布に包んだ3つの財宝を出し、1個ずつ丁寧にゆっくりと開いた。それらを見た二人は、少し驚きを見せたが、直ぐに平静さを保ち、手に取りながら確認し合っていた。

金塊の家紋の刻印と大判を再確認し、上司らしい男性が鈴木さんに合図地を打つのが分った。

彼女は、紙に「この財宝を預からせて頂だきますが宜しいですか」と書いたので、大門は、「お手数ですが、預かり書を発行して頂だけますか」と書いた画用紙を開いた。

彼女が紙に「預かり書」を書き始めた。



大門 次郎 殿          2016年1月20日


預かり書


豊臣家の財宝(金塊3kg、大判1枚、小判1枚)を確かに預かりました。

これらの財宝は、2016年2月25日迄に必ず返却することをお約束します。

会社名   東西新聞株式会社

所 属   社会部

氏 名   鈴木 愛              印


預かり書は、簡潔明瞭で大門は納得した。鈴木さんは、頭が良くクレイバ-な女性だ。


大門は、さらに次の画用紙を開いて相手に見せた。

「この現場の写真を取らせて下さい」

二人は、少々不機嫌な顔になったが了解したので、カバンからデジカメを取り出し、財宝と二人の顔がはっきりと分るように写真を撮った。

そして、次の画用紙を開いた。

「鈴木さん、財宝の場所の写真は撮っています。洞窟の中に並べられた財宝箱の様子と、それらの数量を推測に値する写真です。それを見れば莫大な財宝であることが分ります。機会が来ましたら、御社と鈴木さんにお見せできればと考えております」

彼女は、直ぐ紙に、「ぜひ、お見せ下さい」と書いた。

「後日、その機会が来ることを望んでいます」

と書いた画用紙を開いた。


大門は、最後に「お世話になりました。今後とも宜しくお願いいたします」と書いた画用紙を閉じたのである。

大門は、木下謙蔵になりきって、用件を無事済ました。

新聞社を出たのは、午後4時を回っていた。

大門は、帰りの電車の中で、これで第一歩を踏み出したのだという安堵の気持ちがあった。

これから結論が出るまで、時間がかかるかも知れないが、最後まで諦めずに進めるのだと決意を新たにした。

《これからが真剣勝負だ》と大門は心の中で叫んだ。



新聞社に協力をお願いしなければならないこともある。

東西新聞社グ-ルプは、一般紙にスポ-ツ新聞、雑誌社そしてテレビ局にラジオ局、FM放送などを持つマスメディア企業である。

新聞社や鈴木さんの力を借りなければならないことは、百も承知であった。

大門一人の力では、どうにもならい問題だからである。


さらに2週間後、大門は、新聞社の鈴木さんに電話を入れた。

「鈴木さんに手紙を出しますので、読んで頂きたいのです。私のこれまでの言動がご理解頂だけると思います」

そう告げた。

大門は、太閤秀吉の申し渡し11ヶ条を書面にして、鈴木さんに郵送した。

その中でも特に、財宝を遺失物として国が没収しないことと、

政治家や各地方議員及び公務員の削減を条件に、財宝の5分の1を国に献上することについて、政府との交渉をお願いする旨、書き添えたのである。




東日本大震災の被災者にとって、6度目のクリスマスや正月を迎えた。

11月中旬ごろから、街はクリスマスム-ド一色である。

街のあちらこちらにクリスマスツリ-が飾られ、夜になるとそのイルミネションが鮮やかな光を放つ。

百貨店や商店街は、クリスマス商戦で賑わい、ジングルベルの音楽が流れ、人々の購買心理を刺激する。

しかしながら、未曾有の大震災にあった東北の被災者やその子供達は、この5年間心から喜んでクリスマスを迎えられたのであろうか。又、毎年の新年は、新しい気持ちで迎えられたのであろうか。



大門は、東西新聞社に再度電話を入れた。

「社会部の鈴木愛さんをお願いします。大門と申します」

告げると

「交換手は、大門さんですね、直ぐに連絡を取りますので、しばらくお待ち下さい」

以前とは、うってかわって、さらに丁寧な対応に変わった。

大門は、瞬時に、財宝が本物であることが分かったのだと直感した。

電話口に出たのは、男性である。

「もしもし、大門さんですね。私は鈴木の上司で前田だといいます。

お預かりしました財宝は、本物であることが判明しました。

就きましては、大門さんのご都合の良い日時に、鈴木と3人でお会いしたいのですが、いろいろとご確認したい事もありますので」と電話口で話したので-----。

「折角ですが、今は、お会いすることが出来ません。いずれその機会がきましたら会えるかも知れません」

「ぜひともお会いして、財宝について、詳しくお聞かせ下さい。取材をさせて頂だきたいのです」

半ば強引にお願いしてきたが大門は-----。

「その機会が来ることを私も望んでおります。但し、今は、ご期待に添いかねます」

と丁寧にお断りしてから------。

「恐れ入りますが、鈴木さんに替わって頂けませんでしょうか」

と伝えると、しばらくしてから彼女が電話口に出たので、預けた財宝の返却をお願いした。

その日時を確認した後、また代理の山下を行かせることを彼女に告げると-----。

「大門さん、預かりました財宝を鑑定士と専門家に依頼しましたところ、豊臣家の財宝と分りました。

この件について、お会いして取材をさせて頂だきたいのです」

「今は、できません。あなたの上司の前田さんからもご依頼がありましたが、お断りさせて頂きました。いずれ機会がきましたら、こちらの方から鈴木さんや御社にご協力をお願いすると思います」

「当社でお役に立つことでしたら、お手伝いさせて頂きます」

「ありがとうございます」

「大門さん、この件は、当社に優先的に取材をさせて頂きたいのですが、お願いできますか」

「分かりました。御社以外の新聞社やテレビ局及び雑誌社には、この財宝の情報を先には提供しません。お約束します」



約束の1ヶ月余り後、大門は木下として新聞社に出向き、預かり書と交換に豊臣秀吉の財宝を受け取った。

それから数日後、大門は、清川に登りその財宝を元のあった場所に戻したのである。

清川に登りながら感ずることは、川添えの道が所々なくなっているのは、豊臣秀吉が財宝を埋蔵した後、敢えて道を壊したのであろうと思った。

川の端道が進めるところは、道を壊し、進めない場所は、道を残したのである。

秀吉は、財宝が発見されないように、そこまで計算をして徹底したのであろう。頭の良さが光る。



東西新聞社の鈴木さんに依頼した政府との交渉期日が過ぎたので、大門は、電話を入れた。

「もしもし、大門次郎ですが、鈴木さんをお願いします」

「もしもし、鈴木ですが、ご無沙汰しております。しばらくぶりです。ご依頼しました件について、進展はありましたでしょうか」

と確認すると、

「結論から申し上げますと、今の日本の法律では、財宝は遺失物として、国が没収することになります」

「政府と交渉しました結果ですか?」

「はい、そうです。文部科学省の外局である文化庁の財宝等の取り扱い担当責任者にお会いして確認致しました」

「それでは、国会議員数等の削減についてはどうですか?」

「その件についても、2016年2月19日安倍首相は、衆議院の議員定数を10削減すると明言したが実施されていないとのことです」

「そうですか、分かりました」

大門は、さらに彼女に一言だけお話させて下さいとお願いした。

「鈴木さんもご存知だと思いますが、今の国会議員は、多いとは思いませんか。日本とアメリカを比較してもお分りになると思います。

日本の人口は、1億2600万人に対して、国会議員は732人です。アメリカの人口は、3億2100万人に対して、国会議員は535人ですよ。人口割合から見ても、いかに日本の国会議員が多いか、お分りになると思います」

大門の話が終わると、彼女は間一髪入れずに------。

「その事は、十分に知っております」と口調がきつかった。

「大門さん、欧州の国会議員数は、イギリスでは1050人、フランス898人、ドイツ755人と日本よりも多いいですよ」。

「しかし、イギリスとフランスでは国会議員数は多くても、地方議員は、奉仕活動ですよ」と大門は切り返した。

「分かっていますよ」

「失礼しました。釈迦に説法でしたね------」

電話口の向こうで、彼女は少し怒っている様子であった。

無理なからぬこと。新聞社の社会部は、毎日の出来事を記事にしなければならない。政治の知識もあるでしょう。国会議員数についても、又、諸外国の情報も把握していたのである。

メディアの仕事に従事している人間ならば、それぐらいの知識は、常識の範囲であろう。ましてや、社会部所属である。

「大したものだ」

大門は感心した。

「鈴木さん、財宝の件は、これで終わりにしましょう」

そう言い終わると彼女は、直ぐに次の提案をしてきた。

「大門さん、財宝について、もっと詳しく教えて頂だけませんか。また、財宝のあった現場の写真を見せて下さい。どれくらいの財宝なのかも推測できれば政府と強く交渉できます」

「お気持ちは分かりますが、今の法律が変わらない限り、答えは決まっていることです」

「大門さんは、財宝をどうされようとしているのですか」

「太閤様のご意志通りに致します」

「勿体ないことですね」

「私も同感です。鈴木さんも書面でお渡ししました豊臣秀吉の11ヶ条と追記の内容を読まれたことと思います。

私の一存では、どうすることも出来ないのです」

「理解しております」

「太閤様のご意志に背いた場合、私の身が危険です。私も死にたくはありませんからね」

「大門さんが慎重に事を運ぶお気持ちは分ります。又、当社で写真を撮られたことも理解できました」

そう言い終えてから、彼女は、一度会いたいという気持ちを伝えてきたが、大門は丁寧に断った。

電話を切ろうとすると、彼女はさらに、

「大門さん、当社に来ました代理の木下さんは、あなただったんでしょう。手話や態度がぎこちなかったですよ」

女性の感度は鋭い。それについて大門は答えなかった。

さらに彼女は続けた。

「大門さん、いい難くいことですが、今の法律では、財宝等を発見した場合、7日以内に警察に届けることになっています。それができなければ隠匿罪に問われ、犯罪者扱いになるのです」

「私もその件は、弁護士に相談して、十分に理解しております。お気遣いありがとうございます。再度申し上げますが太閤様のご意志なのです」

さらに大門は、最後のお礼を言った。

「御社と鈴木さんには、大変お世話になりました。これまでの政府との交渉などに、ご苦労をお掛けしまして、心から感謝申し上げます。又、ご期待に添えなくて、誠に申し訳なく思っております。どうかご理解、ご了承頂けますようお願い致します。これで失礼致します」

東西新聞社と彼女にしても、財宝の場所と財宝の実態を確認して、記事にしたかったであろう。

彼女もスク-プを取り逃がした悔しさとジレンマは、最後の電話の話し方でも手に取るように分った。

大門も本当に残念無念であった。



大門は、豊臣家の財宝が生かされ、東日本大震災の被災者に役立てればと考えていた。

新聞報道によると被災者の救済について、国が7割補償、あとの3割は、個人負担になるという。3割の個人負担は、大変だろうと思う。

漁業に従事している漁師が働き盛りであっても、いまさら何百万円や何千万円と借金して、船などを購入して、再活動するにしても躊躇するであろう。

農畜産業や商業や会社であっても、再建するにも厳しい現実に違いない。

震災前は、70~80歳でも現役で働いていた人達も、再び働きたくても金銭的にも年齢的にも諦めの心境になることだろう。

だからこそ、豊臣の財宝が生かされ、被災者の為に、少しでも助成できればと考えたのである。

東北の人は、忍耐強いと言われるが、被災者の現実は、厳しいものがあろう。

仮設住宅住まいや、故郷を離れて生活しなければならない人々の忍耐にも限界がある。

特に、心の痛みは、計り知れないものがあろう。

被災者の悲しみや苦しみ、そしてやるせなさは、どこへぶつければよいのか。それらを乗り越えて前に進まなけならない。

人間は、現実から逃げだすわけにはいかないのです。

しからば過去に立ち止まるのではなく、勇気をもって前に進まなければならない。



国民は、近年になって二つの大震災を経験した。

日本にとって、それは何を意味するのであろうか。

1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神、淡路大震災では、

地震の恐怖と街を焼き尽くした大火災で6.434人の尊い人命を失った。

そして国民の心の傷が癒されないままに2011年(平成23年)

3月11日に東日本大震災が発生したのです。

今度は地震と大津波の恐怖です。

1995年以降、M7クラス以上の地震は、日本各地で12回も発生しているのです。



ここで再度、東日本大震災について述べます。

特に、原子力発電所の推進(再稼働)する場合は、地震を視点として、今一度立ち止まって考える必要があるのです。

そして国全体の防災対策も同様です。

更に、大震災を詳しく記録して、何十年経っても風化させてはならないのです。


東日本大震災で、被災された人々は、長年に渡って築き上げた物を、一瞬にして失った。かけがえのない家族や親戚そして隣人や友人、又、財産や思い出さえも失った人も多いでしょう。

又、家や田畑、畜産に漁業、その他の地域産業や商店、会社なども消滅した。

人々の「生きがい」さえも奪ったのである。

人間の生きがいは、働くことであり、家族との語らいや、仲間や隣人との付き合い。そして仲間と飲んで食べて語り合い、また明日から仕事をする。

そこに人間の生きがいがあると思う。

生きがいを奪われた被災地の人々の心の厳しさは、言葉では表現できないものであろう。

厳しい現実を受け止め、乗り越えていかねばならないのです。


被災者は、震災後をどのように生きていくのか、又、どう生活するかによって、その人の運命が左右される。

阪神淡路大震災後の震災関連死者は、919人であった。

東日本大震災後の震災関連死者は、3194人で行方不明者数を上回っているのです。

震災から生き延びた人々がなぜ関連死するのであろうか。

次のような要素によることが大きな原因だと思う。

1、急激な生活環境の変化。

2、家族や近隣住民、友人、知人、そして仕事仲間との別れ。

3、仮設住宅での気苦労からくる心身の不調。

その他にも多種多様な原因があるだろうが大きく分けて3点であろう。

震災前は、大きな家に住み子供や孫たちと生活し、ペットをかわいがり自由に生きてきたと思う。

その自由が奪われ、時間と空間が制約された。

被災者は、震災後の避難所生活そして仮設住宅、更に災害公営住宅(復興住宅)へと生活の場所を移していく。それらの過程でストレスから人間の心は少しずつ変化を起こしていく。

心の病や体調不良となり被災者を苦しめるのです。

折角助かった命を自ら失うのです。

関連死は65歳以上が大半だという。

「生きるということは、こんなにも苦しいものなのか」

と感じた人もいたでしょう。

東日本大震災から4年がたった時点で安倍首相は『これからは、被災者の心のケア-に注力する』と発言した。

震災関連死を知るたびに日本は、広い意味での福祉国家でないことを痛感する。

東日本大震災から4年、朝日新聞の見出しは、「復興カタチは見えた でも」である。

「でも」は、まだまだいろいろな課題や問題点が残っていることを示唆しているのである。



日本国憲法 第1章第1条に「天皇は日本国の象徴でり、日本国民統合の象徴である」と定められている。

天皇陛下は、常に国を思い、国民の幸せと平和を願い、温かい言葉や励ましの言葉を述べられています。

天皇、皇后両陛下は、東日本大震災の被災者へのいたわりの言葉や励ましの言葉だけではなく、実際に避難所(体育館など)や仮設住宅などをご訪問されて、被災者を激励されました。

被災者は、どんなに勇気づけられたことでしょう。

また、両殿下は、ご高齢にもかかわらず、被災地を何回となくご訪問され、犠牲者への祈りを捧げています。

更に、両陛下は、毎年3月11日におこなわれている東日本大震災犠牲者追悼式典にもご臨席され、哀悼の言葉を述べられ、ご冥福を祈っている。

大門は、両陛下の国民に対する心遣いには、ただ敬服するのみである。




2013年9月8日アルゼンチンのブエノス・アイレスでIOC(国際オリンピック委員会)総会が開催された。

2020年のオリンピックとパラオリンピックの開催地が東京に決定したのである。

日本にとって、スポ-ツ、文化、経済などへの波及効果は計り知れないものがあろう。

国民にとっては、喜ばしい限りである。

しかしながら一方、東日本大震災の被災者は、自分の故郷を追われ避難先や仮設住宅で生活している人々にとっては、同じ国のことでありながら、違った国の出来事(オリンピック開催地の東京決定)のような心境であろう。

国は、被災地の復旧、復興に全力をあげて取り組んでほしいと願うのは、大門一人ではないでしょう。


明るいニュ-スの1つとして、2013年11月宮城県仙台市に本拠地を持つ東北楽天ゴ-ルデンイ-グルスがプロ野球で日本一になったことです。

東北の人々に希望と勇気を与え、また、東日本大震災の被災者の皆さんは、励ましと元気そして生きる意欲をもらったことでしょう。

東北楽天の星野仙一監督は、優勝インタ-ビュ-で、

「私は、就任当時から、あの大震災で苦労なさっている皆さんを、ほんの少しでも癒してあげたい、と考えてこの3年間戦ってきました」とコメントした。星野監督の言葉が光る。


復旧さえもままならない現状(特に福島県の原発事故の放射能汚染水や除染土の処理など)ましてや復興には20数年以上もかかるかも知れない。

阪神淡路大震災の復興に20年もかかったのです。

時は流れて、復興した地域の我が家やに戻って来た時は、

「じいさんや、わしらも歳を取りすぎたのう」

「ばあさんや、わしらもあと何年生きられるかのう」

国民は、特に東北の被災者は、声を大にして叫びたかったであろう。

「もっと国民の為の政治を」と。


偶然が重なり、洞窟に埋蔵されていた財宝は発見されたが、

太閤様のご意志「世の中の為に、国民の為に」使うことができなかった。豊臣家の財宝は、永遠に世の中に出ることはないと大門は心に誓った。永遠に、そして永遠に------。

それから2ヶ月後(2016年4月末)近畿地方の一部地域に集中豪雨があった。

近畿地方全般的には、1日50mm前後の雨であったが------

大阪府の池田市、箕面市、豊能町と兵庫県の伊丹市、川西市、宝塚市の一帯は、1日100mm前後の少々激しい雨となった。

特に、その地域の一部山岳部のみに1日650mmを越える豪雨が2日間も続いた。

気象庁の観測によると、局地的なゲリラ豪雨であると報じた。

幸いにして、川の氾濫や土砂災害又は道路の決壊もなく、町や村にも被害はなかった。但し、山崩れが起きたとテレビのニュ-スで伝えている。

山崩れは、清川の水源あたりで、テレビで報道されていたので、大門は、その映像を注視した。

テレビ画面で見る限り、山は完全に動いていた。

全く元の姿を変えていたのである。

「これも豊臣秀吉の成せる業だろう」と大門は思った。

もはや豊臣家の財宝は、永遠に葬り去られたのである。

大門は、夢物語で終わることの悔しさと虚脱感だけが残った。



2016年3月11日に東日本大震災から5年が過ぎた。

そして、それから1ヶ月後の4月14日に熊本地震が発生したのである。

その特徴は、前震と本震が共にマグニチュ-ド7以上もあったことです。そして余震が1ヶ月間に1400回以上も記録したのです。

日本は地震大国であることを再認識し、地震ありきで国家建設をしなければならないと思う。




大門が今、痛切に感じることは、日本の政治改革である。

日本の政治は、三流国なのか?

大門は、そう思いたくなかった。

政治家の勉強不足が堅調に表れていると思う。

長きに渡る政党政治、派閥による党利党略、常に替わる首相や大臣、永田町の原理は、国民を置き去りにした?、政争の場にしか過ぎないのか?。

「国民の為の政治」を考えるならば、今こそ国政の抜本的な政治改革が必要であろう。



1、 首相の公選制である。

元首相の中曽根康弘や前東京都知事の石原慎太郎、そして元大阪市長の橋下徹などが提唱している国民投票による首相公選は、時代の流れが来るであろう。


2、 首相の任期は1期4年とする。2期まで継続可能とする。


3、 政党の代表者(首相候補者)の中から国民が首相を選ぶ。


4、政党の改革は、五政党に限定する。諸派、無所属の廃止。

同じ政党に属しながら主義主張や意見が違うからと言って離党し、新たな党を作るなど国民には理解できない。


5、 大臣の任期も4年間とする。大臣の任命には、2年間の副大臣を経験して、その資格を与えるようにする。


6、 選挙制度の改革

?、国会議員になる為には、都道府県議員や市町村議員を2期勤めた人に被選挙権を与える。又、地方自治長経験者や弁護士、医者、税理士、大学教授など、その他のスペシャリストにも被選挙権を与える。

誰でも国会議員になれるという現行法では、数だけ揃えれば良いということになり、誰でも国会議員となり、政治屋は多く生まれても、真の政治家は、少なくなるのではないか。

?、地方区で落選しても比例区で復活当選する制度の廃止。比例区で立候補する場合でも必ず地方区と同様に選挙活動をして、立候補者の政治信条と国会議員になって、どのように国民の為に働くかを知らせることが必要です。

山奥の仙人でも比例区に名前を載せるだけで当選するという制度の改善。


7、国会議員の定数------衆議院は、各都道府県から4人選出して188人とする。参議院は、各都道府県から人口割合50万人に一人で252人選出する。

合計440人の国会議員とする。

現在の日本とアメリカの国会議員数を比較しても、日本は人口当たり17.2万人に一人で、アメリカは、60万人に一人である。


8、国会議員の定年は、75歳とする。



日本の政治家は、みんな懸命に働いている。ただ国民には、それが見えないのです。

政治家は、国民の声を聞き、国の実態を知り、国の将来を考えて、「国の為、国民の為」に懸命なのである。しかしながら国難であっても、時間がかかるのは、国政の流れの中に、引きずられていくのであろうか。



日本には、多くの政治家がいた。明治時代の政治家で初代内閣総理大臣の伊藤博文や板垣退助、山縣有朋、大隈重信、西園寺公望、昭和になると犬養毅、吉田茂、鳩山一郎、岸信介、池田隼人、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘、平成では、小泉純一郎、中曽根内閣の官房長官であった後藤田正晴など、そして前東京都知事の石原慎太郎も真の政治家と言えよう。

更に、現首相の安倍晋三も立派な政治家である。

元大阪市長の橋下徹が真の政治家か否かは、20年後に評価されることであろう。

その他にも多くの政治家がいたことも事実である。又、現在でも国家、国民の為に働いている政治家も多いいことも事実であろう。


日本の政治は、官僚が動かしていると言われる。その通りだと国民の誰しもが思っていることだろう。

何故ならば、東日本大震災が起こった当時からの2年間の政権は、首相や大臣もコロコロ替わるし、派閥調整の為に勉強不足の議員が大臣になっても、官僚の言いなりであろう。官僚たちの能力が高いのも分る。

「どうせ直ぐ替わるから、その辺の棚に祭り上げとおけばよい」と心の中で笑っているかも知れない。

大臣も大臣で失言や暴言はいとまがない。

時には、わしは国会議員だと権力をかざして物をいい、暴君たらんとする者もいる呆れるばかりだ。

日本の首相や大臣が替わっても政治がゆっくりと前進していることが不思議でならない。しかしながら国際的視点に立つと日本の政治が三流国?であることに変わりはない。



城山三郎の「官僚たちの夏」新潮社発行の本の中に、

『おれたちは、国家に雇われている。大臣に雇われているわけじゃないんだ』(P8)という一説がある。

官僚たちは「天下国家を動かしているのは、俺たちだ」という高いプライドと自信に満ち溢れているのであろう。


イギリスの初の女性首相になった故マ-ガレット・サッチャ-は、保守党党首になってスコットランドでの初の基調演説で、

『官僚主義ばかりが幅をきかす社会は、国の富を食いつぶし、国家の存在すら危うくします』(P59)と講談社発行の「挑戦する女サッチャ-」に書かれている。

なぜ、政治家と官僚が協力し合い、異体同心で国民の為に働けないのであろうか。そこに日本の政治の問題点がある。


前東京都知事の石原慎太郎は、「アメリカ信仰をすてよ」光文社発行の本の中で、

『日本の首相を公選制にして、国民投票で選ばれることが望ましい。首相には大統領的な権限を与えて、官僚主導政治を根底からひっくり返すことである』(P195)

更に、次のようにも述べている。

『官主導の日本を変革するには、これしかないという意味で中曽根さんは、首相公選制をかねてから主唱していました。全国のあちこちに首相は国民投票で選ぼうという碑まで建てて。私は大賛成です』(P196)


安倍内閣になってからは、政治が少し落ち着いてきた。

しかし国民は、政治の変革を求め、日本が「真の独立国家」になる為に「憂国の志士」=(吉田茂や田中角栄のような気骨のある政治家)が現れるのを待ち望んでいるのです。

 


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