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善の裏。悪の横。  作者: 犬と猫
2/5

前編 その二


 白い髪。


 白い笛。


 奏でるは私、安らぐはあなた。


 あぁ。やっぱりそうだ。


 やっと会えたね、お姉ちゃん(・・・・・)


    ・


 自分の槍を手に入れてから三ヶ月後の朝、ヌヌは義勇兵団本部に来ていた。外見も中も年期が入っているが、かなり立派な建物だ。室内では義勇兵であろう人々が備え付けられたテーブルに集団で固まっており、一番奥に四つの受付があった。

 ヌヌの隣には、義勇兵らしい格好をしたアンとロネスがいる。しかし、二人とも武器は持っていない。

 一方のヌヌは、下は膝まで、腕は手首まで隠れる茶色い外套(がいとう)を身に(まと)い、背中には二本に割った黒い槍を背負っている。もちろん、あの口元を隠す狐のお面や付け毛も装着済みだ。


「おい、あれ………」


 本部に入ったときから、そんな声が所々から聞こえてきた。彼らの目線は、全てアンとロネスに注がれている。

 しかし二人は気にする様子なく、とある受付の前まで移動した。ヌヌはその後ろを金魚のフンのように付いている。


「ランク七、推薦受検。推薦者はランク九が一人、ランク八が一人」アンは答える。


「受検者と推薦者お名前を」


「受検者はヌヌ。推薦者は、アンとロネス」


 アンとロネスが銀色の首飾りを見せると、本部全体がざわついた。

 彼らの、アンたちを見る目に敵意を感じる。右腕に力を込めながら、ゆっくりとお面に触れる。お面の位置がずれていたのではなく、より素早く槍を抜けるようにするためだ。

 見知らぬ人の敵意でも物怖じしなくなったのは、アンたちに『道場破り』をやらされたお陰だろう。しかもランテンザールク家の騎士団の道場に、毎日だ。

 もちろん匿名だったので、最初のうちはかなり怖かった。しかしいつからか、楽しめるくらいの精神力が付いたのだ。

 最終日に、自分が次期当主のヌヌであるとネタばらししたときの彼らの顔は、今でも忘れられない。


「本当にアンとロネスなのか?」一番近くのテーブルに座っていたうちの一人が口を開いた。テーブルには三人ほど座っていて、口を開いた男が一番大きい。


「試してみる?」アンが挑発的に聞いた。そして、目線が一瞬だけ動く。「やっぱいい。ランク六なんて」


 アンはきっとら彼が首に下げている銀色の首飾りを見たのだろう。ヌヌには全く見えないが、彼女は読み取れたらしい。


「あんたはもう、ここの王様じゃねぇ」最初に口を開いた男が立ち上がり、同じテーブルに付いていた二人も後に続いた。


 ロネスが一歩前に出る。

 いつの間にか本部は静まっていて、今から殺し合いが始まるような殺伐とした空気に包まれる。しかし、慌てる人は誰もいない。

 修羅場慣れ、というやつだろうか。


「あっれぇ? 何かいるなぁ? アハッ」


 入口の方から甲高い女の声がしたと思うと、二十人余りがゾロゾロと入ってきた。

 先ほど声を上げた女性は、ピンク色の短い髪を持ち、腰には一本の細剣があった。隣には長身の強面な男性がいて、彼は身の丈ほどの大剣を背負っている。赤系統のバンダナを額に巻いていて、灰色の髪がそこから漏れていた。

 二十人ほどの集団は、その二人を先頭にアンたちの方へまっすぐ向かってきた。


「パーミニャ」アンは呟いた。目線からして、ピンク髪の女性の名前だろう。


「やっぱりアンじゃん、何しに来たの? もうあんたの居場所は無いよ? アハッ」パーミニャは、ロネスの後ろにいるアンへ覗き込むような視線を向ける。


 ロネスは何も言わずに一歩引いた。アンとパーミニャの間には、何か因縁があるのかもしれない。


「序列二位が何か?」アンが吐き捨てるように返す。


「アハッ。今はアタシが一位なの」パーミニャは、ニヤリ、と意地悪そうな笑みを作る。


「あそう。私が抜けたお陰で一位になれておめでとう。で、どう? 私が座ったあとの、一位の椅子の座り心地は?」アンは無表情で続ける。「大したことないでしょう? そんなのに必死になってた自分が馬鹿だって気付いた?」


 こんなアンは見たことがない。ヌヌは、どこか達観しながらそう思った。これは夢だ、と言われれば信じてしまうだろう。それほど、今のアンは現実離れしていた。

 わかりやすく言えば、怖い、だ。


「ほんっと、いいよなァ」パーミニャは眉間に皺を寄せ、額に青筋を浮かばせる。「努力しなくても何でも手に入るやつはさァ。そう思うだろ? クソ冷徹女」


「あなた、他人を(ひが)むようになったの? そんなんだからいつまでも汚い猫(ダーティーキャット)と呼ばれる」


「テメェ以外から呼ばれてねェよ」


 パーミニャが剣に手を掛ける────刹那(せつな)────彼女の剣は宙を舞って、後方の床に刺さった。

 ヌヌには、状況が全く理解できなかった。

 パーミニャは腕を振り上げていて、手にあるはずの剣が後方の床に突き刺さっている。

 アンは左腕をまっすぐ伸ばして、肩の高さまで上げていた。

 パーミニャが抜刀して、アンがそれを素手で払ったのだろうか。信じられないが、現状からはその答えしか浮かばない。

 双方の動きが全く見えなかった。

 ヌヌは唖然として動けない。これがランク九だと、見せつけられているようだった。

 

「クッソ」パーミニャは、人を殺すのではないかというほど険しい形相になっていた。しかし、一回深呼吸を挟むと、何も言わずに床から剣を抜いて本部を出ていく。


 一拍置いて、外から「クソッ!」と大声が聞こえてくる。何となく、ヌヌは彼女に対して悪い印象を受けなかった。


「アン、ロネス、久しぶり、だな。狐の少女は、初顔、か。オレは、タイッグだ」パーミニャの隣に立っていた長身の男───タイッグは、そう言いながら他の二十人に解散しろとジェスチャーで伝える。


 二十人は黙って従い、この場を全員が去った。まだどこか空気は重いが、さっきまでの物々しい雰囲気はなかった。

 どうやら、彼は温厚な性格らしい。


「ヌヌさん、こちらへ」受付がヌヌを呼ぶ。


 こんなに早く受けれるのかと少し驚いたが、家を出たときから覚悟は決まっている。問題ない。

 ヌヌはアンとロネス、そしてタイッグに頭を下げてから受付についていく。

 検定は単純で、現役のランク七の義勇兵五人と戦い、合否を判断される。とアンから聞いた。彼女も何度か試験官をやったことがあるらしい。

 こんなに早く受けれるということは、暇なのだろうか。ヌヌはそんなことを考えながら、会場に向かった。


    ・


 本部の一番端のテーブルに、アンたち三人は腰を下ろした。タイッグが、今の義勇兵について色々教えてくれると言ったからだ。


「ヌヌの試験は早く終わるだろうから、私たちがいた頃と変わった点だけを簡潔に話して」アンが言う。簡潔という言葉を抜きにしても、どうせタイッグは最低限のことしか話さない。彼は、そういう男だ。


「上位層が、半分に減った。今は、二十一人だ」


「さっきいた奴らだけってこと?」


「そう、だ。それから、上位層は団結、したな。お前たちがいた頃のように、魔物に会うまで、ひたすら罵り合うことは、なくなった」


「あぁ、それで皆仲良く歩いてたんだね。タイッグの命令にも素直に聞いてたし」ロネスが言った。メイドやフットマンから優しいと称させる彼も、義勇兵時代の口の悪さは酷かった。もちろん、プライベートでは別だったが。


「団結して何が生まれた? 何がなくなった?」アンが聞く。


「価値のあるものは、何も、生まれていない。活気と、競争が、なくなった」タイッグの表情は、どこか悲しそうに見えた。「オレは、昔の方が、好きだ。罵り合っていようとも、戦いになれば、互いを、信じていた」


「本音で話すことが重要だと、私はずっと言ってきた」


「ああ、お前が、正しい。パーミニャも、わかっている。だからこそ、あいつは────」


「余計なこと言うなよ、タイッグ」パーミニャだった。タイッグの背後に、いつの間にか彼女が立っていた。


「パーミニャ。あなたが一位なら、全てあなたのせい」アンは彼女を睨みながら言う。


「口喧嘩しに戻ってきたんじゃねーの。話し合いしに来たんだ。挑発すんな」


 パーミニャの言葉に、アンは少なからず失望を覚えた。義勇兵同士の話し合いなど、口喧嘩以外でどうやれと言うのか。

 義勇兵とは、命のやり取りをする職だ。相手に譲歩する余裕など無い。自分の主張を曲げれば、それは迷いに繋がり、最後には死を招く。


「何もわかってない」アンは極力感情を抑えたが、帰って逆効果かもしれないとも思った。「義勇兵は、騎士団みたいに比較的安全な地域を巡回する仕事じゃない。一歩踏み間違えれば、一手読み違えば、死に直結する。それなのに、口喧嘩をしない? 何を言ってるの? 味方に気を使って、自分が死ぬ。それで満足するの?」


「黙れってんだ、逃げた奴が」


 パーミニャは拳を握っていた。怒りを抑えているらしい。ただ暴れるしか能のなかったパーミニャが、感情を抑えている。

 アンが彼女を評価していた点は、感情が(たかぶ)っている時の勢いの良さだ。


「一位を手に入れたら、次は優越感でも欲しくなった? 皆からおだてられて、褒められたくなった?」アンは、自分の声が大きくなっていることに気付く。しかしロネスが止めないのであれば、それは彼からのゴーサインだ。「さっき言ったことをもう一度言う。一位の椅子の座り心地はどう?」


「うるせェよ、マジで」


「固くて冷たくて仕方がないでしょう? それが当たり前。だってその椅子は、作り替えるためにあるから。それに気付いてないあなたは、一位の器じゃない。大体────」


 アンは袖を引っ張られる感覚を覚えて、言葉を止めた。チラリと下を見ると、犯人はロネスだった。ストップ、と言いたいのだろう。

 消化不良が否めなかったが、アンはゆっくりと腰を下ろした。周りの義勇兵たちの視線を集めていたが、そんなことはどうでも良かった。


「パーミニャ。あなたは忘れてるかもしれないけど、あなたのランク九検定の試験官は私だった。あのときのあなたは、どこに行ったの?」


 返事がない。アンは顔を上げる。

 パーミニャが、何故か、泣きそうな表情をしていた。


     ・


 忘れてるわけない、とパーミニャは思う。あの検定のことは、きっと一生忘れない。


 ランク九検定は、他とは違い、三日かけて行われる。その最終日、合否を発表の時、一緒のテーブルを囲う試験官のうちの四人から「惜しいが不合格だ」と言われた。

 最初に思い付いた言葉は、やっぱり、だった。何となく予想していた。友人や仲間には「余裕だ」と言いふらしていたが、自分の力ぐらい見積もれる。ただちょっと、どんなもんかと受けてみただけなのだ。

 だからと言って、悲しくないわけじゃないけど。


「私は合格にさせたい」


 その言葉に、思わず、「え」と声にならない声が漏れた。顔を上げると、最年少で序列一位になったアンが、そう言ってくれたのだとわかった。


「ガッサル、サーラ、イリィヌ、ニスベルト」アンは、他の試験官たちの名を順番に呼ぶ。「あなたたちは、いつか彼女に抜かれる。だから合格にした方がいい」


 何が「だから」なのかパーミニャにはわからなかった。抜かれると言われたら、普通、不合格にさせたがるだろう。

 しかし、パーミニャの考えに反して、試験官たちは渋々といった様子で「合格にする」と言ったのだ。


「なんで?」パーミニャは率直に聞く。もちろん、アンへの質問だ。


「あなたの身体能力や頭脳は、感情の起伏を影響を直に受けてる。目の前で小魚が自然死したというだけで全ての能力が落ちた」


 パーミニャは思わず(うつむ)く。その自覚があったからだ。しかし、ノる時とノらない時の場合分けができないのだ。この検定中は、ほとんどノれていなかった。


「でも、他殺された場合は全ての能力が飛躍的に上がってる。この雑なデータだけで予想するなら」アンはそこで言葉を止めて、しばらく一枚の紙と睨めっこする。五分ほどして、顔を上げた。「四年」


「いや何が?」この人マイペースだな、とパーミニャは思う。


「四年で、序列二位になれると思う」



 あの時の言葉より嬉しいものはなかった。フレンドリーくらいしか取り柄がなく、能力も平均より少し高いだけの中途半端な凡人だったのに、アンは期待してくれたのだ。

 しかもその言葉通り、四年で序列二位になれた。

 どうせなら一位を目指そう。そんな大それたことを思いながら、パーミニャはアンに勝負を挑み続けた。彼女も、嫌な顔せず付き合ってくれた。

 アンと剣を交え、罵り合ってるときだけが、対等な気がして嬉しかった。

 アンを尊敬できない理由は、パーミニャにはなかった。そして、彼女も自分を可愛がってくれていると思っていた。


 しかし、アンは忽然と姿を消した。


 ショックだったが、あの人なら戻ってくると信じた。それまでは、序列二位である自分が義勇兵を支えるんだと心に決めた。

 だが、パーミニャの想いの強さに比例するかのように、上位層を中心に義勇兵の数は減っていった。

 あれだけ罵り合って、騒いで、歩けなくなるまで魔物狩って、たまに肩を組んで笑い合っていた皆も、次第に口数と笑顔が減っていった。

 どうにかしないとアンが戻ってきたときに失望してしまう。パーミニャは空回りしてることを自覚しつつ、色んなことをやった。


『皆、バーベキューでもするか』


『歌でも歌おう。勝手に気持ちが上がる』


『喧嘩か? 待てって。困ったらときはまずアタシに相談しろよ』


 仮とは言え序列一位の自分が弱いところを見せてはいけないと、相棒のタイッグにも頼らずやってきた。アンがそうだったからだ。頑張っていれば、彼女のように、周りが勝手に手を差し伸べてくれるようなリーダーになれると思った。

 失敗しても、恥をかいても、今が耐えるときだと言い聞かせてやってきた。

 そんなことを繰り返していたら、いつからか、アンを憎むようになっていた。元凶はあの女だと、そう思うと楽になれた。


『で、どう? 私が座ったあとの、一位の椅子の座り心地は?』


『他人を(ひが)むようになったの?』


汚い猫(ダーティーキャット)


 久しぶりに会えたのに嬉しくなかった。

 やっと本音で罵り合えると思ったのに、あの時のような、対等であることを感じられる妙な心地良さがなかった。

 パーミニャは察した。

 自分たちは、わかり合えていなかったのだ。

 自分だけが、わかりたいという願望を押し付けていただけなのだ。


「あのときのあなたは、どこに行ったの?」


 アンが言う。その言葉が全てだと思った。

 アンが求めていたのは、彼女を尊敬する私でもなく、序列二位の私でもなく、義勇兵を支えようとする私でもなく、ずっと昔の私だった。

 自分が情けなくて仕方なかった。

 情けなくて、情けなくて、情けなくて────。


「………アン。アタシは、あんたを心の底から尊敬してた」


 ────消えてしまいたかった。



─────────────────



『美しい白い髪だ』


『でも、この子は………』


『平気だよ、僕に考えがあるんだ』


    ・


 パーミニャが泣くところを初めて見た。

 人が、自らの首に刃を刺すところを初めて見た。


「アン。朝食、持ってきたよ」ロネスが、館のアンの部屋に入ってくる。パンとベーコンと卵焼き、それから野菜のジュース。いつもより軽めの朝食だ。「昨日、寝てないの?」


「………ロネスはどうして普通なの?」


 パーミニャが自殺未遂(・・)をしたのは昨日だ。アンには、ランク七に合格したというヌヌを祝うことすらできなかった。


「平気じゃないよ。ただ、アンの方がパーミニャを大切に思ってただけだ。だから悲しんでる」


「多分、私が間違ってた」


 パーミニャは最後、「尊敬してた」と言った。彼女の自殺未遂には、自分が関係しているのだ。

 辿っていくとやはり、黙って義勇兵を辞めたことが原因ではないかと考えてしまう。

 パーミニャがそこまで信頼を置いてくれてると、アンは考えもしてなかった。彼女が序列二位になった時点で、"一人の強い義勇兵"として見るようになったのだ。

 彼女が一位の座を奪おうと剣を向けてきた時も、期待していた新人を相手にする、と言うより、倒すべき敵として認識していた。

 それが、一人前になった義勇兵への、アンなりのリスペクトだった。


「私は何もわかってなかった」


「自分を責めても意味がない」


 ロネスの言葉は、アンの耳に届いていない。


「ロネス、正直に答えて。私は、間違ってたの? 黙って辞めるべきじゃなかった?」


「あの時、おれも黙って辞めることに賛成した。もし間違いだったなら、二人ともに責任がある」


 ロネスが曖昧な答えを言うときは、質問に肯定的な意見を持ってるときだ。つまり、彼も間違いだったと思ってるということだ。

 アンは何故か、苛立ちを覚えた。


「じゃあ言えば良かったの? 魔物に負けて怪我をしたから引退するって」そんなこと、義勇兵たちの前で言えるわけがない。アンは、やはり今でもそう思う。「私が、魔物に負けて、怪我して、引退するなんて、あっちゃいけない。序列一位は、常に強くなくちゃいけない………!」


「それでパーミニャが死んでも?」ロネスの口調は厳しい。


 だが、今のアンには丁度良かった。もっと責めてほしいくらいだった。誰が悪いかわからないからこそ、アンは苛立ち、混乱し、不用意に周りに迷惑をかけている。

 悪いのが自分だという結論でも、結論があるだけましだ。


 ────姉さん、助けて。


 自分は何を言っているのだろうと、アンは思った。いや、心のなかで呟いただけで、言葉にしてなかったかもしれない。

 それでも、混乱してることは確かだ。

 アンに、姉はいない。一人っ子だ。

 親もいなくて、ずっとロネスと一緒に────。


(子供だけで? どうやって生きて────)


 七歳で義勇兵になった。ロネスも一緒だった。

 ロネスと会ったのは五歳の時だ。確か家の庭で────。


(家? 七歳までの私は────)


『アーン! お母様が呼んでるわ。本を読んでくれるってよー』


 背の低い少女。

 白い髪。

 高そうな服。

 上品な喋り方。

 私だ。


 私が私の名前を呼んでる。いるはずのない母が本を読んでくれる。


 いや、この少女は私じゃない。


 私にそっくりな私じゃない私が私の名前を呼んで、いるはずのない母が本を読んでくれる。


 いるはずのない母が、本を読んでくれる。


 アンは誰かをアンと呼ぶ。


 アンは誰かにアンと呼ばれる。


 昨日見た夢をふと思い出したときのような、曖昧な光景が脳裏に浮かび、すぐに消えた。

 それがひたすら繰り返される。どこか既視感のある声や話、景色が、激流に揉まれる水のように押し寄せて、思い出そうとすると、誰もいない池のような静けさを取り戻す。

 声が出せない。体が動かない。アンはかろうじて動く目を利用し、ロネスを見た。

 彼は、何かを悟っているようだった。


   ・


 パーミニャが自殺した翌日ということもあってか、義勇兵団本部に人は疎らだった。受付も、若い一人しかいなかった。

 ヌヌは、誰よりも早く魔物狩りを始めた。ランク七を獲得したので、まずはランク五の義勇兵でも入れるエリアに足を踏み入れていた。

 探索を始めて二時間くらいだろうか。魔物はいない。

 ヌヌは地図を出して、自分の位置を確認する。いつの間にか、ランク六の地域に入っていた。

 もうランク七の地域を目指そう、とヌヌは心のなかで宣言する。携帯できる食料をウエストバッグに入れてきたので、今日は日が暮れるまで戦える。

 そのための体力は、アンの修行で得た。

 ヌヌは早足に歩きながら、パーミニャのことを思い出す。とは言っても、姿と声以外ほとんど知らない(昨晩ロネスから少し話は聞いたが)。

 だからこそ、ヌヌは今日この地に足を踏み入れた。友人や仲間が自殺すれば、誰でも落ち込む。特に今義勇兵をやっている人たちは、残った(・・・)人たちだ。パーミニャというリーダーに付いていくと決めた人たちだ。どこか、変な気負いしてる人だっているかもしれない。

 しかしヌヌは違う。昨日初めて会って、話もしなかった。あっちはヌヌの名前すら知らないだろう。

 薄情かもしれないが、パーミニャの自殺は、ヌヌの心情に何の影響も及ぼしていない。

 全員が止まっている。今、強くならずに、いつランク九の人々に追い付けと言うのか。昨日の、パーミニャの目にも止まらぬ抜刀、それを素手で弾いたアン。

 ヌヌが目指しているのはあそこだ。そして、魔王との対話だ。


「このお面、こもるなぁ………」ヌヌが呟く。


 後ろの茂みが音を鳴らした。

 ヌヌは槍の片割れを素早く抜いた。背後へ振り上げながら身体の向きを変え、茂みからの間合いを二歩分だけ延ばす。

 現れたのは、うさぎのような小さい魔物だった。もっと大きくて不気味なのを想像していたが、こういうのもいるんだなと思う。動物のうさぎと違う点は、顔が怖いことだろうか。威嚇(いかく)した犬のような見た目をしている。


「ヴッ、ヴッ、ヴッ」その魔物が鳴き、ゆっくりとヌヌに迫ってきた。


 だが、途中で止まる。後ろを振り返り、慌てた様子で、ヌヌから見て右方向へ走っていく。

 跳ねないのか。そう思ったとき、茂みから青い何かが音もなく現れ、うさぎの魔物に衝突する。うさぎの魔物は弾き飛ばされ、大木にぶつかり絶命した。

 青い何か───水色の斑点模様が背中付近に適当に配置され、毛の生えておらず、肌は全体的に青色。体長はヌヌの二倍、三メートル近くある───は、ノシノシと四足歩行でうさぎの魔物に近付き、一口で平らげる。その後ろ姿は、トラにそっくりだった。そして、食料が足りないとばかりに首をこちらに向けてきた。

 口が、膨れ上がっているように大きい。顔の半分が口で、鼻の穴も目立つ。目は細く、耳も小さい。もちろん、顔にも毛は一切生えていない。


「ケケッ」青いトラの魔物が鳴く。


 ヌヌは我に帰った。後ろに跳びながら、もう一方の片割れを抜き、接続して槍を作る。この動作は一秒足らずでできるようになった。

 槍を両手に持ち、体勢を低くして構える。

 トラの魔物も、さらに目を細くして睨んできた。ヌヌは視線を交えて逸らさず、足を引きずるように移動して間合いを調整する。

 まだ、攻めない。


『もし時間に余裕があったら、相手のことを観察して。攻撃手段は何か。皮膚は、目は、鼻は、耳は、口は、どこを頼っているのか。

 そして考えて。人は、後頭部が最も無防備。魔物も同じ。どこかに、弱点があるはず』


 アンの言葉だ。彼女は剣を取らない代わりに、様々な知識を与えてくれた。

 ヌヌは改めて目の前の敵を観察する。この魔物の攻撃手段は、爪と牙。毛が生えてないということは、保護保温が必要ないということ。即ち、皮膚が厚い可能性が高い。

 ちょっとやそっとの攻撃じゃ効かないかもしれない。それに、うさぎの魔物を狩った動きからして、スピードもある。

 何の前触れもなく、トラの魔物が飛びかかってきた。

 しかし、すでに十メートルほど間合いは確保している。ヌヌは、これから行う一連の動作を頭で素早く整理した。それから大きく一歩踏み出し、槍のリーチを目一杯利用して、トラの魔物の横腹を叩くように斬りつける。

 体が太いという印象を受けなかったので、もしかしたら弾き飛ばせると踏んでいた。しかし、以外に体重がある。いや、踏ん張る力が強い。

 何より、なぜ斬れない。皮膚が厚いのではなく、硬い。それも、刃が通らないくらいに。


「チッ………!」ヌヌは大きく後ろに退きながら、槍を引っ込める。そのとき、トラの魔物の顔に刃をかす(・・)らせた。


 そのまま後ろに生えていた木を蹴り、別の木に槍を差して、とりあえず上を目指す。当てずっぽうの軽業(かるわざ)だったが、地上五メートルほどの木の枝に乗ることができた。

 ヌヌは、トラの魔物の横腹と頬を見た。横腹に傷は入っている。しかし血は出ていない。一方の頬からは、血が垂れていた。

 やはり、顔の皮膚は体のそれのように厚くも硬くもないらしい。

 他に皮膚が厚くないと予想されるのは、関節裏。そして口の中だ。

 トラの魔物は、顔を頻繁に動かし、鼻をピクつかせながらゆっくり近付いてくる。見た目通り、嗅覚が優れているのだろう。

 そしてあの細い目、睨み合ったときは若干細めていた。今もその時のままで、閉じた貝のような印象を受ける。

 目は退化(と言うには条件が足りないが)したと捉えていいだろうか。

 考えていると、トラの魔物はすでにヌヌのいる木の真下に来ていた。閉じた貝の目と大きな鼻の穴が、こっちに向いている。

 登ってこないのを見て、ヌヌは確信した。こいつは目が悪い。嗅覚に優れているだけでは、木には登れない。

 ヌヌは、口だけお面の五分の一の値段で買った茶色い外套を脱ぎ、それを広げて真下に落とす。

 トラの魔物は、ヌヌが降りてきたと思ったのか、その場で体勢を低くした。

 奴が外套を被る。混乱したかのように首を激しく動かし始めた。だが、外套を振り払えていない。

 ヌヌは勢いを付けて飛び降りる。奴の顔の位置は把握できる。槍の刃の付いた隅っこギリギリを両手で握り、身体を空中で一回転させた。


「フッ………!」回転の勢いを殺すことなく、奴の顔目掛けて槍を降り下ろす。


 骨が(くだ)けるような、潰れるような、そんな嫌な感覚で手に伝わって来たところで槍を手を離す。した地面との距離は一メートルもない。


(間に合えっ………!)


ヌヌは地面に衝突すると同時に身体を回転させて、勢いを逃がす。

 問題なく成功した、と喜ぶ前に、まだ宙にあった槍を掴む。魔物にかけた外套の血に濡れている部分、即ち、骨を砕いた部分に向けて刃を突き刺した。

 体重をかけて一呼吸の間押し付け、それから素早く抜いて振り回す。血を飛ばすためだ。それから槍を割って、背中に戻した。

 外套のそとに見える魔物の足は、痙攣していた。この布の下は見たくもない。


「一、二、三、………三回?」ヌヌはその場を後にしながら、指折りに数える。「いっぱい回ったなぁ」


 向かう先はもちろん、ランク七の地域だ。


    ・


 その日、ヌヌは昼を食べてすぐに引き返した。トラの魔物を倒してから四時間ほど歩いた後のことだった。理由は単純で、魔物に遭遇する気がしなかったからである。

 確か本部の二階に、義勇兵が書いた魔物についての本や伝記があったはずなので、まずはそっちを読もうと思った。


『本部の図書館? あぁ、司書と話をするために結構行ってた。えっ、ロネス、あそこで毎日本読んでたの? あそこの本って意味あるの?』


 というアンの言葉を信用して、行くという選択肢を早々に排除していたが、毎日通っていたロネスを信用すれば良かった。

 それに、百聞は一見にしかず、である。


    ・


 本部の二階に進むと、まず目の前に受付が現れた。受付と言っても仕切りがあるわけじゃなく、通路の横にカウンターが付いているだけだ。

 故に図書館の内部は、二階に上がればすぐ見ることができた。ここから観察できる範囲で言うなら、誰もいない。ズラリと並んだ本棚だけが、どこか寂しそうに(たたず)んでいる。


「そこのお嬢さん、ここは義勇兵だけが入れる場所ですよ」受付の女性が声をかけてくる。


 彼女は、ロネスのような柔らかい声だった。真っ黒の長袖にロングスカートで、頭から顔にかけて黒いベールに包まれている。耳には緑色の宝石の付いたイヤリングがあった。そこ以外、全くと言っていいほど肌が見えない。

 高嶺の花のような上品さが漂う、ヌヌの好きなファッションだった。ヌヌ自身の装備も、肌の露出は少ない。


「お嬢さん、迷子ですか?」


「あっ、いえ」ヌヌはそう返事をしてから、彼女に見とれていたことに気付く。この女性の雰囲気は、義勇兵団本部に置いておくには良い意味で向いていない。「わたし、義勇兵です」控え目に銀の首飾りを見せる。


「失礼しました。初めてのご利用で?」


「はい。あの、司書の方とかっていらっしゃいますか?」ヌヌはカウンターの前まで移動した。


「わたくしが司書にございます。お探しの本は?」


「あ、ご、ごめんなさい」ヌヌは慌てて頭を下げる。そう言えば、この女性は何歳なのだろうか。十代後半と言われても、四十代と言われても、納得してしまう気がする。「あの、魔物の生息域に関する本を捜してまして………」


「ランク七ですと、F-2あたりの本棚がベストだと思います。F-1にはランク六のものがあります」


 ランク七という言葉を聞いて、ベールで顔を隠しているが、この人はちゃんとこちらが見えていたんだな、と思う。


「案内しましょうか?」司書が聞く。


「い、いえ。自分で探します」ヌヌはそう言って彼女の前を通りすぎ、図書館の中に入った。


 棚の配置は長方形の格子状になっていて、ぎっしり本が詰まっていたり、またスカスカだったりしている。分野ごとに分けてているのだろう。棚は奥へ進むほど詰まっていて、多分、入り口付近で人が密集しないためだ、とヌヌは予想した。

 ここまで詳しく観察できるのは、誰もいないからである。


 ヌヌは司書の方へ振り返った。「やっぱり、あの、案内、してください」


「はい。喜んで」司書は立ち上がり、自分に付いてくるよう促す。


 ヌヌは彼女の背中を追った。彼女は背筋がまっすぐで、堂々としているのに、(しと)やかなで上品な雰囲気を放っている。


「見ての通り、ここには滅多に人が来ません。特に今は、パーミニャのこともありますから。以前まで、毎日来る男の子がいたんですが………」


 ロネスのことだな、とアンは確信した。しかし、ロネスを男の子扱いとは。しかも、パーミニャのことも呼び捨てにしている。


「ここです」


「あ、ありがとうございます。あの、良かったら、もう少しお話を聞かせてもらっていいですか?」ヌヌは勇気を振り絞ったのに、噛まずに言えた。


「それは、暇なわたくしへの気遣いですか?」


「いいえ。司書さんに、興味が湧きました」嘘ではなかった。一目惚れ、というやつだ。格好を見て好きになって、何気ない振る舞いを見て一層好きになった。


「わたくしは話すことも本を読むことも好きです。長くなりますよ」


「お、お手柔らかに………」


 ベールの中で、司書が微笑んでる気がした。


    ・


 司書の話は長かった。ほとんど魔物についての話だったが、彼女が五十代という情報も手に入れた。役に立つかは知らない。

 役に立ちそうは情報としては、


・魔物の容姿に共通性はない。(ある一種を除いて)

・生殖方法は不明。起源も不明。

・魔物の森と呼ばれるエリア(所謂(いわゆる)、義勇兵たちの仕事場)を深く行けば行くほど魔物は強力になる。最深エリアはランク九と八が担当し、彼らは担当地域の魔物を狩るだけでなく、エリア拡張もしてるだとか。

・それぞれのエリアまで行ける安全ルートがあるらしい。(合格したときに教えてほしかった)

・魔王に関する記述は全くない。(つまり、アンは情報を提供していないのだ)


 ヌヌは、借りた一冊の分厚い本を、自室で読んでいた。本というより、図鑑である。同じ地域における、魔物の容姿の移り変わりをまとめたものだ。イラストと地図付きで、司書からオススメされた。これを書いたのは、引退した義勇兵たちらしい。

 しかし、役には立たなそうだった。どんな見た目ならどういう戦い方をすればいいか、それが載っていないからである。


「司書さんにもっと詳しく要望を伝えれば良かったな………」


 魔物について詳しく載っている本、としか言わなかったのは自分だ。また司書に頼るのは忍びない。

 アンかロネスに聞こう。ヌヌはそう考え、本をベッドに放り、ドアノブに手の掛けた。

 そこで、やっぱりやめよう、と思い返す。


『アンさんって何でもできますよね。あ、いや、ひ、皮肉とかじゃ、ないんです』


『………何でもできるかは知らないけど、まぁ、何にでも挑戦してきたのは確か』


 挑戦。そう言うと少し違うが、統一性がないなら正解もない。あるのは最良だけ。では、他人の決めた最良は、ヌヌにとっての最良か。それは違う。例えば武器、ヌヌにとっての最良は槍で、ロネスは二刀流だ。

 魔物に話を戻すと、自分で図鑑を眺めて、最良の戦略を考えればいいのではないだろうか。

 人の答えに納得できないなら、自分で答えを作る(・・)。そう、作るのだ。探すんじゃない。

 ヌヌは、自分の思考に満足した。

 いつかアンに聞いてもらおう。そう思った。


    ・


 次の日、ヌヌは図書館に寄ってから狩りに向かった。図鑑を返すためである。もちろん一晩で全て読み終えるこたはできなかったが、魔物の容姿に共通性がなくとも、似ているものは多い。まず似ているものだけをグループ分けし、最も魔物の数が多かったグループ上位五つ、それだけの対策を考えた。

 机上の空論であるものもいくつかある、と自覚していた。


『自分にできることを考えながら行動するのは当たり前。

 だから、自分にできるかも(・・)しれないことも、日頃から考えるようにして』


『そ、それは、迷いを生んだりしませんか?』


『いい質問。だけどそれを生まないために、"できること"と"できるかもしれないこと"を線引きしてる。

 後者を考える理由はわかる?』


『………………今後のため?』


『答えを曖昧にして逃げた? でも正解。できるかもしれないと考えるのは、つまり、目標みたいなものだから』


 アンの言葉そのままの通りだ。昨晩考えた机上の空論は、ヌヌの目標である。その中でも、まだ人には言えないな、と思うものが一つだけあった。

 それは、魔嗤邏(ましら)と呼ばれる魔物を倒すことだ。

 魔嗤邏は、最深エリアに入ることの許された上位層の義勇兵───ランク八と九の義勇兵をここ一年だけで十人以上殺した、最強の魔物である。

 しかし、名前を与えられたのは強いからではない。複数体居るからだ。魔物で唯一、共通性を持つ種なのだ。


    ・


「つっかれたぁ」ヌヌは、義勇兵団本部に設置されたベンチに深く腰掛けた。


 現在午後六時、そろそろ日が暮れる。しかし、ヌヌはまだ帰らない。ここから二時間、司書と話すか、本を読むか、どちらかを行う。つまり、図書館に寄っていくのだ。

 狩りをしてから図書館へ立ち寄る。この生活を始めたのが、義勇兵になって二日目のことである。それから二週間近く経過した。

 生活のリズムだけでなく、この疲労感との向き合い方にも慣れた。食べて運動して、食べて運動して、食べて頭を使って、寝る。それだけだ。適度な疲労は、睡眠の質を上げる。

 ヌヌは天井を見上げて目を瞑った。義勇兵になってから、いや、なろうと決めてから、自分自身かなり変化したと思う。

 物怖じが減り、頭を使うようになり、身体も思うように動かせるようになった。これらは得たものだ。

 学校を辞めた。多分、知識という意味で頭は悪くなった。それに、同級生と団結して何かを為すことをしなくなったので、少し寂しい(友達はいなかったけど)。これは失ったものだ。

 しかし、アンやロネスと笑い合えるようになり、武器屋の店主(三日に一度の頻度で、槍を見てもらっている)や司書とも仲が深まった。

 でも最近、アンたちとは────。


「ヌヌ、話、いいか」


 自分の名前が呼ばれ、ヌヌは目を開く。以前なら驚いて飛び上がっていたところだ。

 ヌヌの前には、タイッグが立っていた。大きいせいで、威圧感が凄い。


「どういう系統の話でしょうか?」断るつもりはないが、一応聞く。


「パーミニャの、ことだ」


「場所は?」


「ここで、いい」


「わかりました」


 ヌヌがそう返事をすると、タイッグは隣に腰を下ろした。座っても、大きい。毎日何をたべているのだろうか。

 食事に誘ってみようか、とちょっとだけ真剣に考える。


「パーミニャは、目を、覚ましていない。怪我はもう、平気なはずだ」


 話すのが下手だな、とヌヌは思う。


「眠りから覚めたくないという、精神的な影響、かもしれないと、医者は、言っていた」


「アンさんは連れてこれませんよ」ヌヌは小声で言う。精神的という単語で、タイッグがこの話をしてきたのはアンを見舞いに来させるためだ、と予想したからである。「あの人もパーミニャさんの自殺で落ち込んでいて、今はちょっと」


「………そうか」タイッグは少し肩を落とした。「ならば、もう一つの話に、移ろう」


「もう一つ?」


「最近、頑張っている、らしいな」


「働かない人が多いので。義勇兵はランクに応じた固定給なのに」ヌヌは少し厳しく言った。


 パーミニャが動けないので、現在の序列トップはタイッグだ。

 今の彼の心中を察せないほど幼稚じゃないが、働いてない人に「頑張ってるね」と言われると腹が立つ。


「返す、言葉もない」


「言葉は要りません」行動で示せ。アンの教えだ。


「オレも、そろそろ、戻る、か」


「え、あ、それは、早いのでは………?」タイッグの言葉が予想外で、ヌヌは軽く面を食らった。


「お前は、オレに、何を、させたいんだ?」


「少しでも気がかりなら、パーミニャさんの側にいてあげるべきだと思います」


「………そう、だろうか」


 タイッグが悩む理由を、ヌヌは何となく想像できた。

 パーミニャが心配で側にいたい。

 彼女のために自分にできることはないから、義勇兵として魔物を狩りたい。

 この二つの感情がせめぎ合っているのだろう。ヌヌには、どちらも正解に思える。どちらを選択するかは、人それぞれだ。

 しかしヌヌなら、後者を選択するだろう。一昔前なら、確実に前者だった。

 いや、自分のことはどうでもいい、とヌヌは素早く思考を入れ換える。


「タイッグさんは、パーミニャさんが好きですか?」


「………………」


 タイッグは答えなかった。この場合の沈黙は、肯定とは取れない。


「あの、時間、割いてもらえますか?」


「? どれくらい、だ」


「タイッグさんの食事量によります」ヌヌはそう言って立ち上がった。


    ・


「お前は、どうやって、食べるつもりなんだ」四角いテーブル席の向かいに座るタイッグが問いかけてきた。


 ヌヌは司書に、今日は用事があると伝えてから、タイッグと共に本部を離れ、パーミニャが入院する病院のすぐ近くにある高級なレストランに来ていた。全て個室の店だ。支払いは無理にヌヌにしてもらった。

 もちろん、ヌヌは口だけのお面を付けている。


「外さない、のか? 食べれないぞ」


「わたしのことは、他言無用でお願いします」ヌヌは、お面と髪の付け毛を取った。タイッグに言われたからでも、食事をするためでもない。"交渉"の一つの手段として、自身の身分を活用させるためだ。「わたしはヌヌ。ランテンザールク家の次期当主、ヌヌです」


「………驚い、た。なぜ、貴族、が」タイッグは目を丸めたまま聞いてくる。いつも以上に歯切れが悪い。


「理由は、またいつかの機会に」ヌヌはタイッグを睨むように見つめた。これからの話が真剣なものだと、わからせるために。「わたしをランク八に推薦してください。それから、わたしと組んでください」


 タイッグは店内を見回す。「接待、か………?」


「そうです。この店では不満でしたか? 毎日奢りましょうか?」


「前半の要求は、理解できる。後半が、理解、できない」タイッグは、(なか)ばヌヌを無視した。


「下心です。変な意味じゃありませんよ。企みがあるだけです」


「企み?」


「義勇兵の活性化です。活性化と言っても、前の状態まで戻ればいい」


 現在、義勇兵が働かなすぎている。パーミニャた親しくなかった者も、きっと悲壮感のある雰囲気に当てられて、休んでいるかもしれない。司書もニュアンスをぼかしてそんなことを言っていた。

 誰か、影響のある人が必要だ。

 それがタイッグである。そして、「最近、頑張ってる、らしいな」という彼の発言と口振りからして、ヌヌも若干話題になっているのだろう。

 このチャンスは生かすしかない。


「パーミニャさんのことが拭えない気持ちも、狩りに戻りたいという気持ちもあるんしょう?」


 ヌヌの問いに、タイッグは答えない。


「どちらも正解だから悩んでる。決めかねている」


 タイッグは顎を少しだけ引いて頷いた。子供みたいだな、とヌヌは若干の親近感を抱く。


「ならば、わたしを言い訳に使ってください。狩りに出ましょう」


 この二週間でわかったことがある。同じエリアに複数人いた方が、魔物と出会う確率が高いのだ。魔物に人間を探知する能力があり、人数が多いとより探知できる、のかもしれない。

 つまり、人数が多いほど、ヌヌは経験値を積める。

 それに、この二週間で一度だけ他の義勇兵たちと協闘した。経験という意味で、あれは悪くない。そしてランク八になれば、ランク九とも協闘できる。上のレベルの人の戦い方を間近で見れるようになる。良いことばかりだ。

 現在、上位層がほとんど狩りに出ていないことを除けば、だが。

 そこはタイッグのネームバリューに頼るしかない。


「期限は設けません」


「え、?」


「この話が嫌でしたら、なかったことにしてくれて結構です」ヌヌは、タイッグのポカンとした顔に、思わず頬が緩んだ。「では、食事を楽しみましょう」


 一拍挟んでから、タイッグは息を吐くように一瞬だけ笑った。

 アンと違って笑えるのだな、とヌヌはアンにもタイッグにも失礼なことを考えて、また頬が緩んだ。


    ・


 接待(・・)から一週間、タイッグからの返事はないが、一度だけ言葉を交えた。なんと、わざわざランテンザールク家まで来て、あの食事代の半分のお金を返してきたのだ。

 最初は、誘いには乗れない、とぼかして言われたのだと思ったが、それは違うと否定された。そして、お金を受け取ってしまった。あの瞬間、接待の意味が消失した。

 今は夕暮れ時。ヌヌはランク七エリアを歩いている。今日はすでに二体狩っているので、もう上がろうとランク六エリア近くまで戻っていた。もちろん、まだ体力に余裕があるので、安全ルートではない。


 ────クククッ、クククッ。クククッ。


 どこからともなく、響いてきた。

 ヌヌは足を止めた。

 音の薄さ(・・)から、まだ遠いのがわかる。

 そして、この鳴き声は知っていた。


魔嗤邏(ましら)………!」


─────────────────


「ふー………」魔嗤邏(ましら)の声を聞いたヌヌは、まず大きく深呼吸した。


 ここはランク七エリアだ。魔嗤邏は上位層エリアにしかいないはず。

 聞き間違いかもしれない。ヌヌはそう考えつつ、割れた槍同士を接続して、その場にしゃがみこんだ。木々に囲まれた場所なのはラッキーだった。


 ────ククッ。クククッ。


 ヌヌの思惑を否定するようなタイミングで、再び声が聞こえてくる。しかも、さっきより近い。

 頬に汗が(したた)ってることに気付いて、新調したばかりの茶色い大きめの外套(がいとう)で拭った。そして、それを脱ぐ。

 動きが若干制限されるし、保護色でもないからだ。見付かった時のことを考えると、邪魔でしかない。

 ヌヌは周囲を見回してから、ゆっくりと移動を始めた。声の方向は掴めている。ランク六エリアの方へ向かえばいいはずだ。


「クククッ」


「っ!」ヌヌは寸前のところで声を飲み込む。


 すぐ近く、しかも、さっきとは違う方向から聞こえてきた。全く気配がない。いや、もうそれは些末(さまつ)だ。

 一つ、勘違いをしていた。恐らく、今ここにいる魔嗤邏は一体じゃない。


(何体いる? どこにいる?)


 それがわからないことには、ヌヌは動くことができない。

 どうすることもできず悩んでいると、不意に笛の音が耳に届いた。静かでゆったりとしており、聞いているだけで落ち着くような、そんな音色だった。


「もー。二人とも、ここは見回りゾーンじゃないから入っちゃだめなの」


 唐突に、女の人の透き通った声が、後方から飛んでくる。笛の音が止まったタイミングからして、彼女が演奏していたのだろう。

 ヌヌの地面に顔を付くほど体勢を低くし、声のするようを、茂みの陰から覗き込んだ。


「若いからしょうがないけど、今度からは気を付けてね」


 やはり、女の人だった。まっすぐな髪を肩まで伸ばしている、美しい女性だ。髪の色は白と言うより、クリーム色に近い。

 予想が付いていたが、その女性は魔嗤邏二体と話していた。

 魔嗤邏は、猿の胴体を引き伸ばして、腕を長くしたような見た目で、足は短く、やる気がなさそうに膝を曲げている。肩幅は大きく、骨盤は小さい。毛は明るい茶色だ。体長は二メートルほど、図鑑では、二メートルから三メートルと書いてあった。

 なるほど、とアンは思った。魔嗤邏の名前である。

 "魔"物で、"(わら)"うような鳴き声で、森を"(みまわ)"っている、(ましら)

 彼らは、上位層エリアを守るように歩き回っているのだ。それがここまで来てしまったのだろう。

 ここまでは、図鑑からの知識で(まかな)える。不明な点はない。


「じゃ、帰るよ」そう言う彼女を先頭に、魔嗤邏二体も最深エリアへ消えていく。


 この女性は、誰なんだ。


「─────────────、────」


 その彼女がまた何かを言っていた。しかし、聞き取れなかった。まぁ、どうでもいいことだろう。

 ヌヌは十分ほどそこにしゃがんだままでいて、彼女らは遠くに行くのを待った。動くのが怖かったというのもある。

 殺人魔物を、目の当たりにしたのだから。


「ふーっ」ヌヌは思い切り息を吐きながら立ち上がる。水中から出てきたような解放感を感じた。「………帰ろう」


『油断大敵』


 ヌヌがアンに座右の銘を聞いたとき、そう返ってきた。もうちょっと捻ったものを期待していたが、彼女にしては普通だったので印象に残っていた。

 なぜ今思い出したのだろう。

 突然、背後の空気が揺れた。


    ・


 タイッグは本部に顔を出していた。特に理由はない。ヌヌに会いにきたわけでもない。だが、ヌヌのことを考えていた。

 彼女に色々言われて「狩りに戻る」と言ったが、迷いを見抜かれ、逆に止められた。そして、スカウトされた。彼女はきっと、その場その場で思い付いたことを口にしていたのだろう。

 それにしては理にかなっていると後々思い、少し感心した。アンに鍛えられたのか、元々頭がいいのか。どちらにしても、今、彼女の頭の回転が早い。その結果さえされば、過程はどうでもいい。


「あの、タイッグさん。お話、いいッスか」上位層で最も若い男が、タイッグに話しかけてくる。


「どうした」


「義勇兵にランク七のダチがいるんスけど、ランク七エリアで魔嗤邏を見たって言うんスよ」


「何?」


 タイッグは背もたれから体を離す。昔、と言っても三年前だが、同じような話があった。そしてその時は、本当にランク七エリアに魔嗤邏を確認した。

 あれ以来、その例外は訪れていない。だが、あまり知られてないが、それ以前にもその例外は何度かあった。これは図書館の知識だ。


「今、ランク七エリアに、入ってる者は、いるのか?」タイッグが聞く。胸騒ぎがした。


「いや、今は皆やる気無いし………」男はそこで言葉を切って、斜め上を見た。「んー、いや、あの仮面の子はまだ入ってる時間ッスかね、多分。受付の人に聞けば────」


 男が言い終える前に、タイッグは椅子を蹴飛ばす勢いで飛び出した。テーブルに立て掛けていた大剣を背に装備し、ランク七エリアを目指す。


「もう日が暮れるッスよ!」


 後ろから男の声が飛んでくる。

 タイッグは無視して、まっすぐに走った。


    ・


 ヌヌは背後に気配を感じて、反射的に深くしゃがんだ。頭上を何かが通り抜け、横に立っていた木へ激突する。なんと、その木が折れて倒れた。

 ヌヌは自身最速のスピードで距離を取り、地面を削るようにして止まる。向かい合うと、そこには、魔嗤邏がやる気なさそうに立っていた。体長は二メートルほどで、さっき木を倒したであろう腕をダラリと下げている。地面に付きそうなほど長い。


「クククッ。クククッ」魔嗤邏が口を開けずに鳴いた。慌てたこちらを笑っているようだ。


「ふー………、ふー………」ヌヌはゆっくり呼吸することを意識しながら、体勢を低くして構える。


 魔嗤邏は人型で、ヌヌがそう最も相手にしてきたのはロネスと騎士団の団員たち。大丈夫。苦手なわけじゃない。むしろ得意な相手だ。


「ククッ」魔嗤邏は鳴きながら、ノロノロと近付いてくる。


 図鑑に書いてあった通り、彼らの動きは鈍い。ヌヌは同じような速度で、足を引きずりながら近付く。奴があと三歩近付いてきたら突っ込もうと、心のなかで決心した。

 一歩。ヌヌもジリジリ近付く。

 二歩。ビビるな。落ち着け。ここで戦わなければ、死ぬだけだ。わたしは、勝てる。

 三歩────。


「ん………ッ!」ヌヌは息を止めて、地面を思い切り蹴飛ばした。


 槍の刃が、魔嗤邏の腹目掛けて間合いを埋めていく。

 魔嗤邏は立ち止まった。そして、地面が凹むほど踏み込む。

 何をする気かヌヌにはわからなかったが、突っ込むことに迷いはなかった。間合いを半分ほど詰めたところで、さらに加速する。

 魔嗤邏まであと一メートル強。


(槍を突けば足りる。けど………)


 ヌヌは一瞬迷う。最初に対決した青いトラのことを思い出した。あいつは、皮膚が硬くて刃が通らなかった。


(あと一歩詰めてから、力一杯突こう)


 そう考えたとき、魔嗤邏が腕を伸ばして、こまのように回った。

 槍の刃が弾かれ、ヌヌは体勢を崩す。

 倒れないよう踏ん張ってから、顔を見上げる。目の前に魔嗤邏の腕が迫っていた。反射的に槍を動かし、直撃を防ぐ。

 が、ヌヌの想像を絶する腕力だった。


「え────」


 気付けば体が宙に浮いていた。受け身も取れず地面に叩きつけれ、転がって、木にぶつかり運良く止まる。

 体を起こそうとするが、上手く動かなかった。ふと自分の手を見て、こんな状況でも槍を手放さなかったことに少し感動する。


(まだ、まだ………)


 心のなかで呟く。

 相変わらず、魔嗤邏はノロノロ歩いていた。遠くに飛ばしてくれたことに感謝すべきだろうか。


「まだ、まだ………!」


 足りない。

 槍の腕も、タフさも、判断力も、思考の量も。

 それに、とヌヌはこれまでのことを思い返す。義勇兵になってからのことだ。辛いこともあった。嬉しいこともあった。どっちの方が多いとか、そんなのは関係ない。

 全部引っくるめて、刺激の多い日々だった。今まで全く縁の無かった充実を感じられる、そんな日々だった。

 楽しかったと、胸を張って言える。これは素敵なことだ。

 ここで死ぬなんて、そんな勿体ないこと、できるはずがない。

 死ぬにはまだ、人生が足りていない。


「まだ、終わらせない!」ヌヌは立ち上がる。


「クククッ」魔嗤邏が笑う。頬の筋肉を吊り上げていた。本当に笑っているようだ。気持ち悪い。


「いくぞ………!」ヌヌも頬を上げて、歯を見せて、眉間にしわを寄せて、無理やり笑ってみせる。そこで、自分が仮面を付けることを思い出した。「はっ」可笑しくて、本当に笑ってしまった。だが、おかげで気分が良い。


 この高揚感は嫌いじゃない。ヌヌはそんなことを考えてから、魔嗤邏のことへ頭をシフトする。

 彼はパワーがある。スピードもある。だが、一つ一つの動作のインターバルは長い。胴体に対して不釣り合いなほど小さい脚のせいだろう。

 ヌヌは魔嗤邏に向かって走る。彼は歩みを止め、やる気なさそうに構えた。

 連続攻撃は必要ない。ゆっくり攻めて、退いてを繰り返し、大きな隙を見付けて確実に突く。それで勝てるはずだ。

 思考に余裕が出てきた。冷静だ、と自分を鼓舞する。まずは攻めだ。先ほど失敗したが、奴のやり口は掴んだ。

 ヌヌは止まらずに魔嗤邏に突っ込み、彼が腕を大きく振り上げたところで素早く身を退いた。

 ちょっと逃げるのが早すぎたかな、と反省しつつ、大事を取って十メートルほど距離を置く。今になって、魔嗤邏が腕を降り下ろした。地面が砕ける。

 今になって、魔嗤邏が腕を降り下ろした。


(なぜ、降り下ろす動作をキャンセルしなかったの?)


 無駄な体力を使うだけだろうに。そこまで考える脳を持っていないのか。それとも、かわされたイライラをぶつけたのか。はたまた、目で捉えたものを認識するまでに時間がかかるのか。

 最後のは希望的憶測だ。だが、今挙げた三つの点は、どれも弱点になりうる。


「グ」魔嗤邏が低い声で鳴いたと思うと、地面に腕を付けて四つん這いになった。そして、腕の力を使って跳ぶ。


 地上五メートルほどの高さまで跳び、大きく手を広げた。もちろん、その目はヌヌを捉えていた。


「そんなのできるの」ヌヌは小声で叫びながら、前方、地面と魔嗤邏の充分に空いたスペースへ一歩踏み出す。


 が、そこで思い留まった。今、攻撃のチャンスではなかろうか。空中じゃ、身動きが取りにくい。

 ヌヌは斜め上から落ちてくる魔嗤邏を見上げた。まだ危険を犯す必要はない。安全に、少しでも良いからダメージを与える。


「グッグッグッ」魔嗤邏が力強く鳴く。


 ヌヌと彼の距離は一メートル。彼女は動いた。槍を背中に回して剣のように持ち、魔嗤邏の脚を目掛けて全身を使って降り下ろす。

 斬った感触が手のひらに伝わってきた。そのまま前方に一回転して、魔嗤邏の着地位置から距離を置いて素早く構える。

 ズン、と大きな音を立てて、魔嗤邏は両手片足で着地した。ヌヌが斬った方の足を宙に浮かせている。


「はぁ………はぁ………」ヌヌは目線を小まめに動かし、次の手を模索する。


 緊張のせいか、いつもより息が切れるのが早い。そろそろ決定打となる攻撃を与えないと、根比べで敗ける。

 まずは、と言うか、一から百まであの腕だ。あれを何とかしないことには、満足な攻撃すらできない。


『使い続けると物は壊れる。メンテナンスをすれば寿命を伸ばせる』


『アンさん。昼間から寝言────痛いっ』


『人間に最も身近で、あまりメンテナンスをしない物は何でしょう?』


『骨、ですか?』


『正解。メンテナンスは言い過ぎだけど、気を使うように。痛んだらすぐ言って』


『さっき叩かれた頭蓋骨が────痛いっ』


 ヌヌは目の前の敵に集中する。魔嗤邏は、体が大きい、脚が小さい上に今は片足、高く跳ねれる。そして、着地はあんな大きな音を立てるほど雑。

 さぞ、骨に負担が掛かるのではないだろうか。

 ここは森だ。背の高い木もたくさんある。


「空中戦、やったことある?」ヌヌは魔嗤邏に向かって首を傾げてから、石を拾い、近くの木々を蹴って登っていく。


 登りながら地上を観察すると、魔嗤邏はじっとしていた。ヌヌも地上十五メートルほどの場所で止まる。

 すると、魔嗤邏が跳ねてきた。


(まずは一回。これでできなかったら地上に戻ろう)


 ヌヌは木から飛び降りる。そして双方の距離が縮んだところで、真下から迫りくる魔嗤邏に向かって石を投げた。

 石は魔嗤邏の顔面に当たり、彼はそれに気を取られてる。

 ヌヌはその隙を槍で突いた。簡単な作戦だったが、刃は魔嗤邏の肩をかすめる。命中寸前のところをかわされた。


「グガァ………!」魔嗤邏が口を開いて絶叫した。


 ヌヌは槍を引き、魔嗤邏を踏み台に木へ跳び移る。

 魔嗤邏は空中で(もだ)えながらも、まるで猫のように、着地時には四つん這いの形に戻っていて、先ほどのように両手片足で着地した。また、大きな音を立てた。

 これを繰り返すというのが、ヌヌの作戦だった。魔嗤邏は空中戦が苦手らしい。ヌヌも得意ではないが、地上よりは勝機があると今の交じり合いでわかった。


(あの体格と下手な着地なら、いつか、手足が使い物にならなくなるはず)


 ヌヌは、今度は地上二十メートルほどの地点まで登った。

 魔嗤邏が跳ねてくる。

 戦法は地味だが勝てる。そんな予感がした。


    ・


 空中戦を始めて十分ほど経過した頃、魔嗤邏は跳ねるのを止め、木に登って応戦してきた。

 だが、ヌヌは戦法を変えなかった。魔嗤邏は体重が重すぎる故に、枝が折れて自滅することも多かったからだ。

 太い枝の根元に傷を付けて回り、自滅を誘発させながら魔嗤邏(・・・)落とし(・・・)を継続し、さらに十分が経過した。

 戦い始めてから数えると、もう四十五分は動き回っている。


「はぁ………はぁ………」ヌヌは枝の上に立ち、左手を幹に添え、呼吸を整える。


 魔嗤邏は、ついに跳んでこなくなった。地面に這いつくばるようにして、ヌヌをじっと睨んでいた。彼女の最初に傷付けた脚は、今も浮かせている。

 作戦成功と言っていい。

 ヌヌは地上五メートルほどの地点まで降り、枝の上で槍を構えた。


(勝てる。絶対)


 心のなかで笑う。

 油断はなかった。

 ただ、目の前の魔嗤邏に集中し過ぎていた。

 後方で空気が揺れる。

 さっき、似たような感覚を味わった。

 頭で、何が来るか瞬時に察する。

 でも、疲労と傷を(まと)った体は動かない。

 背後に首を向ける。

 背中に衝撃を受ける。

 一瞬記憶が飛んで、気付けば、視界が九十度回転していた。


「大丈夫? ま、私がやらせたんだけどさ」クリーム色の髪の女性が、ヌヌの前に立っていた。「あなたがいじめるせいだからね」


 女性はそう言って、笛を鳴らしながら後退する。入れ替わるように、三体の魔嗤邏ノロノロと歩いてきた。さっきまでヌヌと戦っていた魔嗤邏に加え、もう二体追加されている。

 ヌヌは、槍を支えに立ち上がった。右肩がひどく痛み、左手一本で槍を構える。

 視界が揺れ、足が覚束(おぼつか)ない。常に左右から頭を殴られているようだった。

 右肩の痛みは、時間と共に急激に増していく。


「ふふっ。小さいのに偉いと思うわ。何歳なのかしら?」笛から口を離し、女性が聞いてくる。


「………魔王、ですか………?」ヌヌは聞いた。なぜそう思ったのかわからなったし、考える余裕もなかった。


「正解よ、小人ちゃん。良くわかったわね。直感ってやつ?」女性はわざとらしく首を傾げる。一瞬だけ、少女のように見えた。


「………あなたに、会いに来ました」ヌヌは構えを解き、地面に槍を突く。血液が鉛になったように、身体が重かった。


 気付けば、魔嗤邏たちは歩みを止めていた。


「ふふっ。面白いことを言うのね。殺しに来た、でしょう?」


 女が笑った、気がした。視界がぼやけ始め、もう彼女の顔を捉えることすらできない。

 だが、ヌヌは倒れない。話したいことがたくさんあったが、叶いそうにない。今は、殺しに来たのではない、とだけでも伝えたかった。


「悪は………、自分で決めます………」ヌヌは、全身から力が抜けるのを感じた。視界が真っ白に埋め尽くされていく。


 ────あなたは悪じゃない。


    ・


「ヌヌ!!!」


 その叫び声で、ヌヌは一気に覚醒した。目を開け、視野に入る分だけの情報を脳みそに入れていく。

 目の前にいるのは三体の魔嗤邏、しかし動いていない。その奥に見えるのは、クリーム色の髪の女性。まだ視界がはっきりせず、表情は良く見えない。

 ヌヌから見て左、タイッグが走ってくるのも見て取れた。ヌヌの名前を叫んでいる。

 女性はそちらを一瞥(いちべつ)してから、小さく笛を鳴らし、魔嗤邏と共に背を向けて走り去っていく。


「わたしがっ………!」ヌヌは女性に叫ぶ。


 しかし、何を言おうとしたのか自分でもわからなかった。何かを伝えたいという意思だけが一人歩きし、泡のように消えていく。

 すぐに、女性は見えなくなった。消えてしまった。


「ヌヌ、無事か。どこが、痛む」タイッグは、普段より早口で言った。


「全身、痛いです」自分の状態を説明しなければならない状況が初めてで、ヌヌは少し混乱していた。一度呼吸を挟む。「えと、右肩です。意識はちゃんとしてます」


「そうか。本部の医務室に、向かうか? それとも、お前の家に、向かうか?」


「わたしの家で。できれば、誰とも、会いたくないです」


 弱い自分を見られたくない、とヌヌは思った。プライドの現れだろう。そう自己分析し、ちょっと嬉しくなる。

 自分が何かにプライドを持てることが、誇れるものを持てたことが、単純に嬉しかった。


「失礼、する」タイッグはそう言って、ヌヌをお姫様抱っこする。槍は彼が背負っていた。


「もう、日が暮れますね」


 空の半分は(こん)色で、少しの紫色を挟み、水色がグラデーションが間を調和して、オレンジ色が境界線を描く。

 森の木々が邪魔で、完全に堪能することはできなかった。

 それでも、忘れられない空模様だった。


「綺麗な空ですね」


「そう、だな」


 何だこの会話、とヌヌは心のなかで大笑いする。自分で話を振ったはずなのに、全然こんな話はしたくなかった。

 ただ誰かと話して、生きていることを実感したかった。そうじゃないと、"何か"が崩れてしまうそうだったから。


「わたし、魔嗤邏一体を倒す寸前まで追い込んだんです」


「お前は、良くやった」


「アンさんやロネスさんも褒めてくれるでしょうか。特に────、あ、いえ」無意識に口が動いていて、ヌヌは慌てて塞ぐ。


「特に、ロネスに、褒めてほしいのか?」タイッグは、珍しく微笑んでいた。しかしその表情には、こちらを馬鹿にするニュアンスも感じる。「あの人は、昔から、モテる」


「かっこいい、優しい、強い。欠点が見つかりません」ヌヌは開き直った。弱っているからかもしれないが、話し相手がタイッグだからかもしれないとも思う。


「褒めて、くれるさ」


「タイッグさんも館に入ってくださいね。証人です」


「冗談、か? 今の若い奴は、切り替えが、早い、な」


「本気ですよ」


「………」


 タイッグは、何も返してこなかった。その目に感情は見えない。彼は、アンの次にポーカーフェイスだ。


「な、何か、返してください」


「泣いて、いいぞ」タイッグはヌヌを片腕のみで支え、ウエストバッグから大きめのタオルを取り出す。それをヌヌの顔にかけた。「人の、いない道を、通る」


 ヌヌのなかで、"何か"が崩れた。


「怖、かった………。すごく、怖かったんです」


 ヌヌはタオルを握り、タイッグの胸に顔を(うず)める。


「………怖くて、怖くて、怖くて────」


 ヌヌは、何度もそう呟いた。

 呟く度に涙が溢れ、また、生きていると思えた。


─────────────────


 魔嗤邏 (ましら)との激闘を終えて二時間後、ヌヌはタイッグの家にいた。ベッドとテーブルと棚が一つの部屋に収まり、カウンターを隔てて台所がある。彼の家は質素なものだった。

 二人は、一度はランテンザールク家の館に帰った。そこでアンとロネスを驚かそうと、タイッグと共に、外からアンの部屋を覗いた。居なかったので、次にロネスの部屋を覗こうとした。


 すると、二人の嬌声(きょうせい)が聞こえてきた。アンが声を押し殺し、ロネスは感情的に甘言(かんげん)を連ねていた。


 生々しい声が、今もヌヌの耳に残っている。

 最近、アンの精神は不安定だった。不安なとき、人肌が恋しくなるのも理解できる。しかも、恋人同士一つ屋根の下。さらに、アンに気を使ってか、最近は従者室には誰もいない。

 原因(と言っても、自然の道理であるが)は色々重なっていた。

 ヌヌがロネスに抱いていた淡い気持ちも、辛い戦闘を終えて慰めて欲しいことも、彼らにはさっぱり関係ない。


「ごめんなさい」ヌヌは、タイッグのベッドを独り占めしていた。


「こんな時くらい、利己的でも、怒ったりしない」彼はテーブルで、包帯やら処置用の道具やらを調整している。ヌヌには背を向けていた。


 タイッグは、秘密を話してくれた。両親が他国の医者で、幼少期からひたすら座学を強制させられていたそうだ。いつも、同年代の遊ぶ姿を窓から眺めていたという。そして十二になる頃、家を逃げ出し、国を(また)いでここに来たらしい。

 この国では、他国出身の医者を認めていない。そのため、医者になるのをきっぱり諦め、体が大きいという理由だけで義勇兵を目指したそうだ。

 友達が一人もいなくて、家が金持ち。どこか似てる気がして、ヌヌは彼に親近感を抱いた。


「近いうちに、医者に、見てもらった方が、いい」タイッグがヌヌの方を向く。


「あそこには戻りたくありません」


「なら、オレの知り合いを、連れてくる。明日、いいか?」


「ごめんなさい。わがままですね、わたし」


「そんなこと、ない。それより、とりあえず、傷を、見たい」


 タイッグはヌヌから目を逸らさなかった。それで察した。彼は、服を脱げと言いたいらしい。


「すぐ済ませますね」ヌヌは、素早く上半身の装備を解く。この着脱にも最初は苦労したが、今はもう慣れた。


「少し、触る」


 タイッグは全く表情を変えずに、ヌヌの体を軽く調べた。ほんの一分である。背中や腕を重点が置かれていた。


「もう、いい。悪かった」タイッグは、またテーブルに向かい合う。「右の肩が、一番、酷い。他は、大したことない、はずだ。鍛えてるうちに、骨が、硬くなったんだろう」


「いつ復帰できますか?」ヌヌが、ずっと気になっていたことだった。


「無責任なことは、言えない。明日まで、待ってくれ」


 ヌヌが着替え終えたところで、タイッグがこちらに振り向いた。気配とかでわかるのだろうか、と少し驚く。

 そう言えば、彼はランク九だ。『才能』は何だろう。


「水、浴びるか? すぐ、そこが、川だ」


 耳を澄ますと、確かに水の音が聞こえてきた。これは川というより、滝の音だ。


「………あの、わたし、右利きなんです。手伝ってくれませんか」


「わかった。すまない」


「何がですか?」


「帰るのが、嫌なら、うちに来るか。と誘ったのはオレだ」


「決めたのはわたしです」


「かっこいい、な。お前は」


 それからヌヌたちは、滝の落下地点にできた池で、水を浴びて体を洗った。タオルで体を拭き終えると、タイッグが右腕を包帯や棒で固定してくれた。

 夕飯はタイッグが作ってくれて、ヌヌはありがたく頂いた。


「庶民の、ベッドでは、固いかも、しれないが、一晩だけ、我慢してくれ」タイッグはそう言って、ヌヌをベッドに寝転がらせた。彼は床である。


「あ、あの────」


 ヌヌが発言する前に、彼はランプの火を消す。


「タイッグさんもこっちで寝ませんか?」


 真っ暗な世界を、沈黙が包んだ。虫の声も聞こえず、月や星も顔を隠している。

 時間が無い(・・)。ヌヌはそんな印象を受けた。今ここに、時間は存在していない。だから光もなく、音もなく、返事もない。


「寝相が、悪いんだ」タイッグが沈黙を破った。時間が、その役割を取り戻す。「怪我した部分を、潰してしまう、かも、しれない」


「でも、これじゃわたし、自分が嫌いになりそうです」


「寝て起きれば、忘れている」


「タイッグさんがこっちに来るまで寝ません」


 大きな男のシルエットがのんびり動き出し、ヌヌの寝るベッドの前で腰を下ろした。そして、大きな手で彼女の小さな左手を握る。


「寝る、までだ。お姫様」


「この国に姫は────」ヌヌは玄関の方を見た。誰かが外にいる。


 タイッグも感じ取ったのか、すでに立ち膝で、逆手でナイフを握っていた。どこから出したのだろう。

 ここはあまり裕福とは言えない人々が集う居住区だ。しかし全員が働いているし、家庭を持つ者もいるので、貧民街のように治安が悪い訳じゃない。つまり、夜中に騒ぐ人はいない。

 タイッグが言っていた。


「じっと、していろ」タイッグはヌヌにナイフを渡し、自らは台所の包丁を持って、玄関の扉にそっと体を寄せた。


 ドアが叩かれる。決して、乱暴ではなかった。


「誰、だ?」タイッグが聞く。


「騎士団です。実は、お嬢様を探していまして」ドアの向こうから聞こえる声は丁寧な口調だったが、どこか苛立ちも感じ取れた。いや、焦りだろうか。「部屋を見せていただけないでしょうか?」


「無理だ。今、女がいる。お互い裸だ」タイッグはそう言ってからドアを少しだけ開け、ランク九と書かれた銀色の首飾りを見せた。「身分の証明、では、ないが………」


「失礼しました」騎士団の人は潔く去っていった。


「嘘が得意ですね」足音がなくなった頃、ヌヌが言う。


「裸、以外、本当のことだ」


 タイッグは再びベッドの前に座ると、ヌヌに渡したナイフをテーブルに移し、彼女の手を握った。


「寝ろ。起きてても、良いことが、ない」


「………はい」


 色々言いたいことがあったが、ヌヌは彼の言葉に従って目を閉じた。

 魔嗤邏の笑った顔や、あの生々しくて淫らな声が、脳内で勝手に再現される。軽いトラウマのようだった。

 耳を塞いで叫びたい。そんな衝動に駆られる。


「~~~~♪」


 突然、タイッグが小さな声で子守唄を口ずさむ。喋るのは下手なのに、歌が上手いとは。


(ずるいなぁ………)


 この日、ヌヌが最後に思ったことはそれだった。


     ・


「んっ………」


 うるさいほど眩しい光に、ヌヌは起こされた。目を開けると見覚えのない天井で、壁で、床で、ベッドで、一気に目が覚めた。

 それから、タイッグの家だということを思い出した。


「起きた、か。痛いところは、あるか」タイッグが聞いてきた。彼は台所に立って何かを調理している。


「右肩が痛い………です」目は覚めても体が覚醒し切っておらず、口調が定まらない。


「怪我、の、せいだ」


「左肩も少し………」


「それは、ベッドの、せいだ。悪かった」


「腰も痛い………」


「それも、ベッドのせい、だな」


「首も………」


「枕、のせい、かもしれない」


「全身が痛い………」


「それは筋肉痛、だ」


 なんだか変な会話で、ヌヌは思わず笑ってしまった。台所からいい匂いが漂ってくる。

 川で顔でも洗ってこよう、とベッドから降りて地面に足を付ける。決して寒くない朝だが、ヒンヤリしていて冷たかった。


「顔、洗って来ます」


 ヌヌがそう言うと、タイッグが黙ってタオルを貸してくれた。それを受け取り、恐る恐る外へ出る。

 まだ早朝だったが、人が疎らに歩いていた。働きにいく人たちだろう。ヌヌと見た目が変わらないほど小さな子供もいる。


「あら? タイッグさんのガールフレンドかしら? おはよう」


 突然、元気そうな老婆に話しかけられた。


「あ、お、おはようございますっ」ヌヌは深々と頭を下げる。タイッグが近所付き合いしてたことが驚きだ。


 老婆が去っていき、また違う人に話しかけられ、何とかして川に辿り着く。顔を洗い、口を(ゆす)いで、水面で寝癖をチェックした。ばっちりだ。

 タイッグの部屋に戻ると、テーブルに料理が並べられていた。トースト、卵焼き、ベーコン、サラダという品だった。

 ヌヌが普段食べている朝食と何ら変わらない。

 料理も学ぼうかな、とそんなことを考えつつ食事を楽しんだ。食べ終えた食器を運ぶことすら、タイッグに許されなかった。

 あの瞬間、もう怪我はしたくないと思った。


「医者と、あと、服も持ってくる。ずっと、装備じゃ、嫌だろう?」


「ありがとうございます」


「気に、するな」


 ヌヌはベッドに座ってボーッとする。いつもなら狩りの準備をしている時間である。

 狩りのことを考えると必然的に思い至ってしまうのが、魔王のこと、あのクリーム色の髪の女性のことだ。

 彼女が吹いていた笛。あの笛の音に魔嗤邏たちが従っているように思えた。というか、多分、正解だ。どういう風に作られた笛なのだろうか。そして、それを操る女は何者なのだろうか。魔王だと直感したが、容姿は人間にしか見えなかった。

 やはりもう一度会って話さないことには、何もわからない。ヌヌはそう思い、その思考を止めた。部屋を見回すと、二冊の本を見付ける。手に取って表紙を確認すると、『医学』『剣術』と書かれていた。

 『剣術』の方を手に残し、『医学』は元の場所に戻した。そしてベッドに座り、ペラペラ(めく)る。


(大剣の部分だけ、ボロボロ)


 タイッグにとって、この本が師匠なのだろう。人に教わらずに強くなれるのだな、と素直に驚いた。それから、自分は恵まれてるな、とも思う。

 ヌヌはしばらくその本を読んでいた。槍以外の項目もだ。魅力的な武器はたくさんあった。しかし、乗り換える気にはなれなかった。槍が扱いやすいことと、何より今の真っ黒なデザインが気に入っていたからである。


(男っぽいかな………?)


 ヌヌの人生で、その懸念は初めてだった。


    ・


 午前十時。ヌヌは、タイッグの連れてきた女性の医者に診てもらった。彼の信頼している人物ということで、付け毛も仮面もせず、名前もしっかり名乗った。だが、女性の医者は全く気にしていなかった。

 それから彼女が昔着ていたという服を貰い、今はそれを身に付けている。ヌヌには少し大きかった。

 すでに、女性の医者は帰った。服を無償でくれるあたり、優しい人という印象を受けたが、最後に「来てやったんだからカネ倍な」とタイッグからお金を徴収するように取ったのが衝撃的過ぎた。

 あとで返さなくては、とヌヌは思った。


「これから、どうする?」タイッグが言う。彼とはテーブルを挟んで対峙している。


「本部に住もうと考えています。給料は、全部本部で預かってもらっているので」


 本部の三階から五階は、義勇兵専用の寮になっている。しかしあまり人気はない。風呂はなく、台所は六階のを共有しなくてはならないからだ。部屋にはベッドと小さなテーブルしかないと、合格したときに説明された。おすすめしないとも言われた。

 また義勇兵は週給制で、本部を銀行代わりにすることもできた。ヌヌはその制度を目一杯活用して、一度も金を下ろしていなかった。第一、貴族のヌヌには必要ない。


「戻らない、のか?」


「もう、アンさんやロネスさんから学ぶことはありません」ヌヌははっきり言う。それは、強がりじゃなかった。「良い機会です。この前、わたしの弟が生まれたんです。長男がいれば、ランテンザールク家は何とかなるでしょう」


「お前は良くても、ランテンザールク家は、お前を、探すだろう。どうやって、誤魔化す、つもりだ?」


「世界を見てきます、という内容の手紙を置いてこようと思ってます。どうやってやるかは、考え中ですけど………」


「手紙を、ランテンザールク家に届けるのは、オレが、やろう。これでも、責任は、感じている」


「正直、助かります」ヌヌはタイッグに頭を下げた。


「手紙は、もう、書くか?」


「はい」


 タイッグは棚の引き出しから便箋を取り出し、ヌヌに渡す。「そこら辺を歩いているか、本部にいる。終わったら、呼んでくれ。お前と組む件、について、詳しく、話そう」


    ・


 昼過ぎ、タイッグはヌヌから預かった手紙を持ってランテンザールク家の敷地内に侵入していた。ヌヌから、手紙を届けてから組む件について話がしたい、と言われたからだ。

 タイッグが本部周辺を回った限りでは、騎士たちが未だにヌヌを探している様子だった。


(ここ、だな)


 昨晩覗いたアンの部屋の窓を、小さく叩く。それから二歩離れた死角に身を隠した。部屋の中にアン以外がいる場合にも備えて、念のためだ。

 窓はすぐに放たれ、アンが顔を出した。


「だれ? 今は私しかいない」


 流石だ。察しがいい、とタイッグは思う。ヌヌから「アンさんはちょっと、病んでます」と聞いたが、口調にそれは表れていない。


「オレ、だ」タイッグは姿を見せた。


「タイッグ。なに?」アンの顔色は明るかった。


「ヌヌから、手紙だ」タイッグは勿体ぶらずに預かりものを渡す。


「あなた、(そそのか)したの?」


「そんなのに、流される奴じゃ、ない」タイッグは(きびす)を返した。「お前たちは、悪くない」


 アンの反応を待たずに、タイッグはその場を離れる。すでに、ヌヌとパーミニャのことを考えていた。

 パーミニャとは相棒を解消する。彼女が起きないのは、彼女に問題があり、タイッグにはどうすることもできないと悟った。医者にも、はっきりそう言われた。

 彼女が起きたときのことは、起きたときに考える。楽観的かもしれないが、この場合においてそれは悪いことじゃない。

 ヌヌの誘いを延々と先延ばしすることの方が悪い気がする。


(………活気、か)


 接待(・・)を受けたとき、ヌヌが言っていた。義勇兵を活性化させたい、と。

 彼女の真意は不明だが、大いに同意できた。


『組織を上手く回すには本音が大切。相棒を組むなら価値観の一致が最も大切』


 いつか、アンが言っていた言葉だった。あの人は引退しても導いてくれる。どこまでも魅力的な人だ。



 ────自分の初恋が、あの人で良かった。



 その想いを噛みしめ、そして蓋をした。


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