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善の裏。悪の横。  作者: 犬と猫
1/5

前編 その一


 暗い、暗い、暗い。


 何も見えない。何も聞こえない。


 どこなの?


 怖い、怖い、怖い。


 誰か、助けて。


 私の声を聞いて────。


    ・


「アンさん、あの、一つ、お願いが………」赤色の髪を持つ少女───ヌヌは、自分の住む館に設けられた従者室に顔を出した。


 文字通り、ドアを開けて、顔だけを覗かせたのである。

 従者室には、白の髪を長くまっすぐに伸ばすメイド長───アン、黒い髪をポニーテールで束ねる執事───ロネス、他にメイドとフットマンが数名いる。彼らは思い思いに寛ぎ、テーブルにはボードゲームや菓子、ソファには可愛らしいクッション(メイドが持ってきたのだろうか)が適当に置かれていた。

 従者の待機する部屋は別にあるので、ここはさしずめ従者たちの自由室になっているのだろう。

 楽しそうな雰囲気が伝わってきて、羨ましいな、とヌヌは思った。


「お嬢様、このような場所に来てはなりません」アンはスッと背筋を伸ばして、凛とした表情で言う。「それで、お願いとは?」そう聞きながら、他の従者たちに片付けろとジェスチャーで伝えた。


「あ、あのっ、皆さんそのままで………」


「お嬢様。お願いとは? もうこんな時間です。お早めに」アンは語尾を強めた。


 結局、従者たちもヌヌの言葉を聞き入れずに片付けを始める。

 ヌヌは軽く混乱していた。リラックスしていた従者たちに申し訳ないし、何よりアンが怖い。せっかく自室で意気込んでから来たのに、彼女を目の前に構えると気圧されてしまう。

 獅子に睨まれる子犬の気分だった。断っておくと、アンには怒鳴られたことも、暴力を振るわれたこともない。

 理由のない恐怖を感じるのは何故だろうと、ヌヌは現実逃避のために考える。そして、こういう時に限って、答えは早く見付かる。

 理由のない恐怖とは、きっと本能だ。


「お嬢様、起きてますか?」


「お、起きてますごめんない」意図せず、声が大きくなる。この勢いに乗せて本題を言おう、とヌヌは反射的に考えた。「わっ、わたし、剣を学びたいんですっ」


「なりません」アンは即答する。「詳しい話は明日伺いますので、今日はもうお休みください」


 アンが聡明な女性だと、ヌヌは知っている。彼女は今、駄目と言ったのに明日聞くと言った。つまり、誤魔化そうとしているのだ。

 こっちを子供だと思っているのだ。


「もう、子供じゃ………、子供じゃないんですっ」アンは、地面に言葉を叩きつけるように叫んだ。


「では、ご学友はできましたか?」


「で、でき………てません、けど」


 けど、と言葉を切ったが、ヌヌはそれ以上続く言葉を見付けられなかった。もう無理だなと思い、全身の力を抜く。

 何も言わずに引き下がり、ドアを閉めた。

 アンの言いたいことは理解できた。アンは、頭ごなしに否定するような人じゃない。友達云々(うんぬん)はどうでもよく、弱点を突かれたときのヌヌの対応を見ていたのだろう。


「子供、なのかな………」


 ヌヌは独り呟き、静かに廊下を歩いて、自室に戻った。十五歳、もうすぐ十六歳になる。

 大人になりたい年頃だ。


   ・


「ロネス」ヌヌが出ていってすぐ、アンは執事の名を呼んだ。


「ん?」ロネスは微笑む。


 わかってるときの顔だ、とアンは思った。ロネスは、アンがこれから言うことを理解している。この場に二人しかいなかったなら、彼は「了解」と言って部屋を出ていっただろう。聞き返したのは、他の従者たちに伝える手間を、問答という形で省くためだ。

 わかってしまう自分と、見透かすようなロネスに、アンは訳もなく苛立ちを覚えた。


「あの子に剣を持たせてあげて」


 アンとロネスだけでなく、従者は、ヌヌのことを「あの子」と呼ぶ。敬遠してるわけではなく、むしろ逆だ。親しみを込めている。


「いいのかい?」ロネスはまた微笑んだ。ポニーテールが少し揺れる。


「泣かなかったから、とりあえず及第点」アンは、さっさと行け、とロネスに手で伝えた。


 彼は肩を竦めてから、部屋を出ていく。他の従者たちは片付けを終え、またボードゲームを始めていた。少し散らかっていたので、ヌヌの訪問はちょうど良かった。


「ねぇ」アンは、不特定の従者を呼ぶ。「ロネスの微笑み、どう思う?」


「質問が曖昧すぎてお答えしかねます」すぐに、一人のメイドが反応する。


「ごめん」アンは、ストレートに物事をいう人が好きだった。故に、このメイドに好感を持てた。「見透かされている感じがして苛つかない?」


「わかりません。ロネスさんは、アンさんにしかあの微笑みを向けませんから。私たちには、その、もっと、事務的と言いますか、社交辞令的な笑顔しか見せません」


 メイドが周りを見る。他の従者、特にメイドは深く頷いていた。アンは、ロネスはフットマンに社交辞令の笑顔も向けていないのかと思ったが、自分は一切笑顔を見せたことがないので、その思考を忘却の彼方へ捨てた。

 それから、アンは答えたメイドの方を見る。すでにボードゲーム───チェスに(いそ)しんでいた。


「ねぇ」今度は、しっかりそのメイドを見ながら呼び掛ける。「それ終わったら、私ともやってくれる?」


「わかりました」メイドは答える。「チェック」それから間を置かずに、彼女は言う。「アンさん、終わらせました」


 面白い人だな、とアンは思った。見た目からして、同い年くらいだろう。こういう人を見ると、アンはすぐに機嫌が良くなる。単純な人間だという自覚もあった。

 今なら、ロネスの微笑みを受け入れられる気がする。


   ・


「お嬢様、入ってもよろしいですか?」


 自室のドアの向こうからロネスの声が聞こえて、ヌヌはベッドの上で跳ねた。ついさっき、従者室で顔を合わせたばかりだが、予想外の訪問にはいつも驚く。


「ど、どうぞ」ヌヌは、ベッドの上で正座した。


「失礼します。お嬢様、どうかお静かに」ロネスは人差し指を口元に立てながら入ってくる。手には、一本の剣が握られていた。


 ヌヌが想像していた剣とは違い、片刃で反った作りになっている。刀、というやつだろうか。


「あ、あの、それは?」ヌヌは期待しつつ、平然を保って質問する。多分、保てていないが。


「刀です。お嬢様にはお似合いかと思いまして」ロネスは微笑む。


「ありがとうございますっ。でも、アンさんにばれたら………」


「平気ですよ。アンに言われて持ってきたんですから。アンは、言葉と内心と顔と行動が一致しないのでございます。ええもう、どんなカラクリなのか」ロネスはわざとらしく首を振り、大きくため息を付いた。「ですが、どれかは本音です。どうか嫌いにならないでください」


「わたし、好きですよ。アンさんのこと」その言葉は、自分でも驚くほどスルリと喉を通った。きっと本音だったからだろう。


「それは何よりです。では、刀をどうぞ」


 ロネスから刀を受け取り、彼の言われた通りに構えた。想像より重くなかったが、これを振り回すことを思うと、憂鬱になる程度には重みを感じる。


「お嬢様、なぜ、突然剣を習いたいと? 騎士団に不満でも? それとも、魔物が怖いのですか?」


「えと、どちらも違います」ヌヌはそこで言葉を止めた。これから言うことが、おかしいと自覚しているからだ。「ま、魔王と、話したいんです。そのためには、強くないと、いけないかなって」


「………なぜ?」


「絵本の世界でも、小説の世界でも、この世界でも、魔王は悪の象徴です。でも、本物を見た人はいません」


 魔物を()べるのが魔王という根拠のない常識が、まるで物理法則のように信じられている。ヌヌにとって、それは魔物よりも恐ろしく感じられた。


「面白い考えを持っていますね」ロネスは、困ったように頭を掻く。「しかし、ランテンザールク家の長女がそれを言うと、面倒が起きそうですね」


 ヌヌのフルネームは、ヌヌ・アーナ・カウグスト・ランテンザールクである。

 王族がいないこの国には、三大貴族が存在する。その内の一つが、ランテンザールク家だ。三つの貴族がスポンサーとなり、騎士団を運営している。

 騎士団(義勇兵もだが)は、日々魔物から市民を守っている。故にランテンザールク家ら三大貴族は、魔物や魔王という悪に対して、正義の象徴なのだ。

 ロネスが苦い顔をする理由はそこにある。魔王自体を否定しては、騎士団の存在意義が揺らいでしまう。


「わかってます。だから、まだロネスさんにしか言ってません」


「アンにも言ってみては? 彼女はそういう質問や疑問でも冷静に対応してくれますよ」


 アンのことなのに、ロネスは断言するように言った。前々から気になっていたが、アンとロネスはどういう関係なのだろうか。半年前に従者としてこの館にやって来て、すぐにメイドの長、そして執事(バトラー)になった。現在の年齢は、二十代前半と言われている。

 しかし、ヌヌが驚いたのはそこではない。彼らが従者の長となると決定したとき、ほとんど反発がなかったことだ。


「そうですね。アンさんにも聞いてみます」


 ヌヌがそう答えると、ロネスは嬉しそうに微笑んだ。大人びてる彼にしては、子供っぽくて可愛い笑顔だった。

 何故か顔が熱くなって、思わず(うつむ)く。自分への笑顔でないことは理解している。これは条件反射なのだ。


「剣の話、おれの方からアンに推薦しときますね。お嬢様」


 ロネスは、ヌヌに刀を預けたまま部屋を出ていった。

 ヌヌは、何となく周りを確認してから、刀を(さや)からゆっくりと抜く。すると、一枚の紙がヒラヒラと舞い落ちてきた。それを拾うと、小さな文字で、持ち方が詳しく書かれていた。ロネスの仕業だろう。


「ありがとうございます」


 そう呟いてから、ヌヌは少しだけ振ってみた。自分で言うのもおかしいが、運動神経はある方だと思っている。しかし、この鉄の棒を振るには筋力が足りない。武器を持つと強くなった気になるが、自分を過信するほど愚かではない。

 それにしても、この武器は騎士団の使用している物とは異なる。ロネスは、どこから持ってきたのだろうか。


   ・


 アンは、まだ従者室にいた。思いのほかチェスが盛り上がっているのだ。

 今、アンは四つのボードを周りに置いて、同時に四人を相手にしていた。いや、相手は一つのボードに二、三人で固まっているので、実質十人ほどを相手取ってることになる。


「アン」


「あとにして」アンは反射的にそう返事してから、ロネスの声だと気付いた。「ごめん、ロネス。ありがとう」顔を上げて、彼に言う。


「いいよ。気にしないで。応援してる」ロネスはアンの頭の上から、戦況を覗きこんだ。「一番左、アンがかなり押してるね。助けようかな」


「応援してるってあなたの言葉、私の聞き間違い?」アンは、真ん中二つのチェスボードの自分の駒を同時に移動させ、一番右のボードへ視線を移した。


 ロネスの言ったように、アンにとって、一番左が最も優勢だった。故に、彼が助っ人に入ってしまうと、面倒になるのだ。いや、強がっていても仕方がない。ロネスが相手となると、いくら優勢とはいえ、負ける可能性が出てくる。


「アン、後で話があるんだ。できれば、二人きりで」


「急ぎ?」


「うん」


「じゃあ私を助けて。右二つ、よろしく」アンは右のボードを指差してから、さっさと左のボードへ移った。


 それから十分で、四つとも決着が付いた。どれもアンとロネスの勝利だった。途中から任されて綺麗に勝ったロネスを、アンは心のなかで褒めた。

 死んでも口にしないが、アンは、自分のパートナーとして彼以上の人間は存在しないと思っている。彼より優秀な人は、たくさん見たことがある。だが、やはりアンにとって、ロネスは最良のパートナーなのだ。

 なぜなら価値観の合うから。これが何よりも大切だと、アンは常々思っていた。


   ・


「それで、話って?」従者のいなくなった従者室で、アンはロネスに聞いた。


 部屋の照明は半分ほど付けられ、音はほとんどない。静かなバーのような雰囲気に包まれていた。

 アンもロネスも、すでに制服を解いている。他の従者とは違い、二人はこの館に住み込みで働いているのだ。部屋は従者室の隣の二部屋、従者室とは直接繋がっている部屋に住んでいる。

 色々あって、二人は館内でもかなりの自由を約束されていた。例えば、ヌヌの両親、国内の最大権力保持者に文句を言っても罰はない。


「あの子のことだけど、剣を教えて上げてもいいと思うな」


 アンは何も答えず、ロネスの次の言葉を待つ。彼が結論から話すときは、考えやデータをしっかり持っている証拠だ。


「運動神経はあるし、頭もいい。何よりアンに似てる」


「………今なんて?」


「アンに似てる」


「ちょっと、初めてあなたに失望しそうなんだけど」


「明日、もしかしたらあの子が来るかもしれない。話を聞いてあげて」ロネスは立ち上がり、自室へのドアに手を掛ける。「価値観の一致。おれなんかより、アンにはあの子の方がお似合いだと思うよ」


「頷かないから」


「明日、また話そう。それじゃあ、お休み」


 ロネスがいなくなり、アンは一人ソファに深く腰掛けた。テーブルの裏にある隠れた収納スペースを開けて、葉巻とマッチ棒を取り出す。そして葉巻に火を付け、ゆっくりと吸う。

 ロネスは知っているが、従者や館の人間は、アンが喫煙しているとは知らない。当然だ。この館は禁煙である。


「あの子が、私に………」


 似てると思ったことは一度もない。ロネスがそんなことを言う(ニュアンスも含めて)のも初めてだった。剣を持っていったときに、何か話したのだろう。時間からして、そんなに長い会話はしていないはずだ。

 面白い、とアンは思った。


「………っ」


 不意に、肩の古傷が、痺れるように痛んだ。

 

   ・


「アンっ、さん、お話があります」翌日の夜、ヌヌは再び従者室に訪れた。


 部屋がまた軽く散らかっているが、アンも他の従者も、特に反応を示さない。二日目にして、強がるのを止めたらしい。


「お嬢様、こちらへ」アンは、自室にヌヌを案内する。


 用件を話していないのに、とヌヌは思ったが、ロネスの気遣いがあったのだろうと結論付けた。

 アンの部屋は整頓されていて、家具はベッド、机、椅子しかなく、インテリアと呼べるものは一切置かれていなかった。家具の色も、部屋の床や壁と同じ濃い茶色で、まるでその色しかない世界に迷い込んだような錯覚にすら襲われる。


「お嬢様。話があることは、ロネスから聞いています」


 部屋に見とれていたヌヌは、アンの声で我に帰り、部屋で必死に考えてきた文章を頭のなかで復唱した。

 それから小さい深呼吸を挟み、口を開く。


「やっぱり、剣を習いたいと思います。り、理由は………」ヌヌは言葉を切る。意図せず、次の言葉が喉に詰まってしまった。走った後のように汗が出てきて、動悸も耳の裏からはっきり伝わってくる。「り、理由は、その………」


「お嬢様、諦めてください」


 アンの言葉に、ヌヌは顔を見上げた。低身長のヌヌにとって、彼女はいつも以上に大きく写った。


「待っ────」


「物事に取り組む上で大切なことは、諦めることです」アンは、ヌヌの口の前で人差し指を立てながら、語り始める。「一番大切なもののために、二番目は諦めてください。自力でどうしようもないことは、諦めてください」


「わっ、わたしには、剣ができないと言いたいんですか………?」ヌヌは初めて、アンに怒りを覚えた。声が震えていると自分でもわかる。怒りで震えるということを、体感する日が来るとは思ってもみなかった。「確かに昨日初めて剣を握りました。誰かを殴ったりしたこともありません。喧嘩もしたことありません。口喧嘩すらありません」


「いえ。そうじゃな────」


「わたしは弱虫です、泣き虫です! でもっ、じゃあ、弱い人は強くなろうとしちゃいけませんか?」ヌヌは、今までつっかえていた物を全て剥ぎ取るように言葉を吐いた。「ここばかりは、アンさん相手でも、譲りたくありません」


 生まれて初めて人を睨んだ。アンは「子犬が見つめてくる」くらいにしか思ってないかもしれない。むしろ、逆に、ヌヌは膝が震えるくらい怯えていた。


「………諦めろ、と言ったのはですね」アンは、間を開けてから、再度語り始める。「『お嬢様は、結局、今、ここで、剣を学びたい理由を私に言わなくてはなりません。だから早くしろ』という意味です。意思や情熱の話はしてません。伝わってきましたけど」


 アンの言葉が耳に届いたが、ヌヌは呆然としていた。そして、自分の自分の意思とは関係なく、先ほどの行動が脳内でリピートされる。

全身が熱くなった。


「………………い、一回、部屋、出てもいいですか?」


「もう顔真っ赤なので、やめた方がいいかと」アンが目を逸らした。


 彼女なりの気遣いなのか、滑稽(こっけい)過ぎて見ていられなかったのか、ヌヌには判断が付かない。それでも、人のいないところで大声で叫びたいという気持ちははっきりしていた。

 消えてしまいたい。ヌヌは、人生で初めてそう思う。

 昨日今日で初めてをたくさん経験している気がする。にも関わらず、嬉しさも充実感も一切なかった。


   ・


 ヌヌが怒りを放出してから少し経ち、現在、彼女は落ち着きを取り戻してベッドに座っていた。

 アンもその横に腰かけている。アンは、ヌヌの怒りを見て安心した。何とも言いがたいが、溜め込みすぎる子ではないと知れてホッとした、という感覚が一番近いかもしれない。


「お嬢様、そろそろお話を」


「あ、はい」ヌヌは返事をしてから、一呼吸挟む。「あの、わたし、魔王と話したいんです。そのために、強くなりたくて」


 アンは、ようやくロネスの言葉の意味を理解できた。ヌヌがアンに似ている、というやつだ。

 昔、まだ二人が幼かった頃、アンはロネスにこう言ったことがある。


『悪が一つだとわかりやすい。だから皆、理由もなく魔王を恨む』


 お互い五、六歳の時だった。言ったアン本人も、今の今まで忘れていた。ロネスはよく覚えていたものだ。

 そして、まだ言葉は続く。


『魔物が人を襲った記録は、二十年前が最後。騎士団や義勇兵は、毎月何人か死んでるけど、全員、魔物の領地で死んでる。魔王に関しては、何の情報もない』


 この時、アンは最後まで言わなかった。本当は『魔王がいるなら会ってみたい』と言いたかったのだが、そう、誰かが近付いてきたせいで言えなかったのだ。

 それでも、ロネスはアンの心を察していたらしい。


「あの、アンさん………?」


「強くなければ、全て負け犬の遠吠えです」アンは語る。ヌヌに、そして、昔の自分に伝えるように。「強く、なければ………」


 アンはポケットからとある首飾りを出した。鉄の薄くて小さな板の付いた、金属の首飾りだ。その板には、『九』と数字が記してある。

 それは、義勇兵の階級を示すものだった。一から九まで階級が存在し、一が最も低く、九は最上位だ。


「私は、魔王に会えなかった」アンは、首飾りをしまう。ヌヌに対して、敬語を使わなかった。義勇兵に身分差はない。「でも、声だけは聞けた」


「え? 魔物って喋れ────」


「ヌヌ。魔王に対して敵意を持ってないのなら………」


 アンはそこで言葉を切る。意図的ではなかった。なぜか、自分でも次の言葉がわからなかったのだ。

 ヌヌが首を傾げている。その顔は、幼い頃の誰かと重なってる気がした。


─────────────────



 何か聞こえる。


 やっと誰かが来てくれた。


 私はここにいる。


 助けて。


 早く。


 早く────。


    ・


「────腰、もう少し落として」


「────爪先の向き、それだと次の動作へ移行するとき効率が悪い」


「────腕、最初より下がってる。それだと敵に()められる」


 ヌヌは、剣を習いたいと話して以来、アンとロネスから指導を受けていた。もう、かれこれ一ヶ月になる。ヌヌは十六の誕生日を迎えたばかりだった。

 最初の一日は素振りだったが、それ以降はひたすら実戦形式だ。ロネスがヌヌの相手をし、一歩離れて見るアンがヌヌにアドバイスをする。そんなスタイルだった。

 ヌヌが最も心配していた両親への説得は、アンがものの十分で終わらせてしまった。剣術の修行は、勉学の合間を縫う、のではなく、学校を長期休養して家庭教師を付けた。

 剣術を習う合間に勉学をする、というのが、ヌヌのなかで最もしっくりくる表現だ。


「ロネス、今の剣の払い方、雑」


「え、おれも注意されるんだ」ロネスの剣が止まった。


「あなたが剣を止めてどうするの? まぁ、いい。休憩」


「はいっ」ヌヌは返事をしてから、ただっ広い裏庭の中心に座った。思わず息が漏れる。


 実戦中、ヌヌはアンからの注意に返事をしない。アンから返事をするなと言われたのだ。前々から思っていたが、アンは面倒をひどく嫌う性格である。


「水飲んでくるよ」ロネスは建物の方に歩いていった。


「ランク三」ロネスが離れてから、アンが言う。「今のあなたと実力だと、そのくらい」


「三、ですか」未経験者が偉そうかもしれないが、ヌヌは低いと思ってしまった。


「ずっと言おうか迷ってたけど、ランク九になるには、正直、才能が必要」


 ヌヌは少し驚いた。アンの口から、才能とあうワードを初めて聞いたからだ。彼女は、そういうことに囚われない人だと思っていた。


「でも、確かに、こんなに強いロネスさんでもランク八ですからね………」


「違う。剣の才能じゃなくて、他の才能」


「他?」


「簡単な例だと、嗅覚や視覚や聴覚が超人並みに鋭いとか」アンは、建物から戻ってくるロネスの方を見る。「ロネスは、それがなかった。だから八で止まってる」


「あの、アンさんの、才能(・・)は………?」ヌヌは恐る恐る聞く。わけもなく緊張した。そのせいか、『才能』をまるで固有名詞のように使ってしまった。


「直感」アンはすぐに答える。


 意味がよくわからなかった。『才能』とは、案外呆気なくて曖昧なものなのかもしれない。

 そう思い、ヌヌは『才能』について考えるのをやめた。強くなることだけを考えよう。同時にいくつもの目標を達成できるほど、器用な人間じゃない。


「ロネスが戻ったら再開する。あと三ヶ月、その期間でランク七までは上げてみせる」


「わたし、上がります。絶対」


「今のあなた、結構かっこいい」アンは、低身長なヌヌの頭を撫でる。「一ヶ月で八までいった人もいる。あなたにできない理由はない」


 アンの言葉は素直に嬉しかった。だが、一つだけ気になってしまった。

 一ヶ月で八までいった人。それはアン自身のことではないだろうか。

 アンが剣を振っているところを見たことすらないのに、そう思った。


   ・


「私たちがもう少し工夫しないと、あの子はランク七まではいかない」


 その日の夜、誰もいなくなった従者室で、アンはロネスに言った。上げてみせる、と言った手前情けないが、ほとんど確信していた。

 とりあえず、実戦を繰り返すという自身の成功例に沿ってみたが、もう限界は見えた。そろそろ別のアプローチをしないと、負の連鎖に(おちい)る。


「今さらかもしれないけどさ、他の武器を試してみるとかは? ヌヌはどちらかと言えば筋肉質だ。槍も二刀流も、適性がないわけじゃないと思うな。アンは確か、一刀流、槍、二刀流の順番で網羅したっけ?」


 アンは、あまり乗り気になれなかった。工夫の仕方が露骨過ぎるからだ。余計なお世話かもしれないが、「向いてないから別の武器を薦められてる」とヌヌが劣等感を感じてしまう可能性もある。

 事実、今日、ランク三と言った時、彼女は少し落胆していた。


「ロネスは、どうして二刀流にしたの?」


 ロネスはアンと違い、最初から二刀流を選択していた。最初の武器に、スタンダードと言える一刀流を選択しなかったのだ。あの時、彼の頭を心配してしまった記憶が鮮明に残っている。


「二刀流にした理由? 言ってなかったっけ。かっこいいと思ったからだよ」


 あぁ、とアンは言葉では説明できないが、納得できた。そう、そうだ。物事を極める上での最短ルートは、好きになることだ。

 つまり、好きなものは極められる。


「ありがとう、ロネス」アンは礼を言ってから立ち上がり、自室のドアノブに手を掛ける。


「待って」


 ロネスに止められ振り返ると、彼は彼の部屋の方を指差していた。


「話でもあるの?」アンが聞く。


 ロネスは首を横に振り、無言で否定した。

 それで察した。この館に務め始めてから半年、一度も交わっていない。


「………却下」


 それでも、アンは否定する。これでもロネスが引かなかったら前向きに考えよう、という思いありきだ。

 ロネスは目線を斜め上に向け、何か考えている様子だった。アンの思っていた反応とは全く異なるものだ。何か考え違いをしたかと心のなかで焦るが、答えが出る前に彼の声が飛んでくる。


「性欲薄いって、言ったことあったよね?」ロネスは首を傾げた。トーンからして、皮肉じゃなくて確認だろう。「たまには一緒に寝ようと思っただけだよ。子供の頃みたいにさ」


 と言うことは、アンが何を考えたか、彼は察しているということだ。

 アンはしゃがみ込み、地面に転がっていたクッションを取って顔を隠した。二度目だった。顔が熱くなるほど恥ずかしい経験をしたのは、人生を通してもこれが二度目だ。

 彼が近付いてくる気配を感じる。そして、アンの目の前でしゃがんだのがわかった。


「引いた?」アンは、一番気になったことを聞く。一度目のときと同じだ。こんな恥ずかしい思いをするのは、決まってロネスの前である。


「引くわけない」ロネスが、クッションを握るアンの手に触れた。


「嘘。あなた、こういうの苦手でしょ」


「苦手じゃないよ。あんまり興味がないんだ」


「言い訳していい?」


「しなくていい。悪いことしてないんだし」


「部屋に戻っていい?」


「明日もおれと顔を合わせる。問題を先送りにするだけなんて、無駄なことだろう?」


「どうしたらいい?」


「顔、見せて」


「意地悪」


「見たら、すぐ抱きしめる」


 アンはしばらく迷ってから、クッションを手放した。眩しさに遅れて、ロネスの顔が視界に入る。

 彼はいつも通り柔らかい表情だった。何だか自分だけ空回りしてるみたいで(実際してるが)、アンはさらに恥ずかしくなる。すぐに、彼の胸に顔を(うず)めた。

 一拍だけ間を置いて、彼の腕が回される。普段より強い力で抱きしめられたが、今のアンにとっては心地良かった。


「自分が嫌になりそう」アンは、呟くように言う。


「それで何か減るんだったら、おれが埋めるよ」


 アンはロネスの背に腕を回し、彼を自分の方へ引き寄せるように抱き締めた。

 自分に足りないものを、埋めるように。


   ・


 翌朝、アンはロネスの部屋のベッドで目を覚ました。隣では、彼がまだ寝ている。

 アンの朝は、決まりより二時間ほど早い。ベースとなる睡眠量が人より少ないのだ。三時間から四時間の睡眠で充分と言えるほど取れる。それでも、今日は一際快眠だった。

 ふと窓を見ると、空は、濃い青と水色がグラデーションを奏でていて、地平線はほんの少しだけオレンジ色を帯びていた。雲は少ない。

 ロネスの寝顔を十秒ほど見てから、音と振動を立てぬように立ち上がり、そっとドアを開く。

 この時間の従者室は、深夜と同じくらい静かで、深夜より空気が軽い。もちろん誰もいないので、早起きした者だけがその空気を堪能(たんのう)できる。


 ────はずだった。


 ドアの向こうに広がっていた光景に、アンは目を丸める。

 誰もいないはずの部屋に、従者がたくさんいた。

 しかも部屋が片付けられており、彼らは何かの準備をしている様子だった。今日、館で何か予定が入っていたかと思い返すが、確実に何もない。では、彼らは何もやっているのだろうか。

 アンは問いかけようとしたが、できなかった。従者全員が動きを止め、アンをまじまじと見ていたからだ。


「おはようございます、アンさん。昨晩はお楽しみだったようで」いつかのチェスのときのメイドが声をかけてくる。声量には気を使っていた。確か、名前はリーランだ。「なるほどなるほど。ロネスさんへの誕生日サプライズを準備していましたが、なるほどなるほど、アンさんは大人ですね。プレゼントは一夜のお楽しみですか。なるほどなるほど」


 その言葉で、アンは三つのことを察した。

 一つ、今日がロネスの誕生日であったこと。アンとロネスの間に、誕生日を祝う習慣がなかったので忘れていた。

 二つ、自分がロネスの部屋から出てきたこと。

 三つ、リーランにおちょくられていること。


「いいんじゃない?」それでも、アンはあまり怒りを感じなかった。「ロネス、喜ぶと思う。彼、祝われたことないから」


 義勇兵時代、友達はいなかったが仲間はいた。だが、アンとロネスは誰にも誕生日を伝えなかった。理由は単純で、面倒だったからだ。

 しかし今は、あの時ほど魔物との戦いが激甚(げきじん)しているわけではないし、第一ただの従者である。

 もしかしたら、ロネスが一緒に寝ようと言い出したのも、何か心境に変化があったからかもしれない。


「私、そういうのわからないから、今日は大人しくしてる」


 いつも大人しくしてるけど、と心のなかで自分に突っ込み、アンは自室のドアを開いた。


「ま、待ってください。アンさんにも協力してほしいんです」リーランが早口に言う。「おちょくったのは謝りますから」


 アンは振り返った。まだ、全員の視線がこちらに向いている。


「いや、怒ってない。さっきも言ったけど、誕生日を祝ったことないから、協力できない」


「そんな馬鹿な。アンさんとロネスさんって、生まれたときから十メートル以上離れたことないんでしょう?」


「なにそれ怖いんだけど」


 明確な疑問形ではなく、確認を取るような疑問形なのはなぜだろうか。

 仕事のときは別々になることもあるので、普通に十メートル以上離れているが。

 と、二つの疑問が一気に押し寄せてくる。こういう突拍子のない噂の出所は、この館では一つしかない。


「あの掲示板?」アンは聞く。


「はい」リーランは即座に答えた。


 あの掲示板とは、館の玄関、その真上の階に掛けられた連絡用の黒板のことである。

 四つの廊下の行き着く先がそこで、人通りも多いことから、そこに掛けられた。しかし、ある問題があったのだ。それは、黒板が大きすぎたこと。どんなに連絡事項があっても、半分も埋まらないのである。そのため、いつからか、丁度半分のところに縦の線を引かれ、左側が『真実の板』と言う名の嘘の板になったのである。

 アンが従者に就任したときから、すでにそこにあった。だが、それが生まれたエピソードも含め、その掲示板は有名だ。

 ソースがその掲示板となると、今リーランが言ったのは冗談だ。あれを信じる人はいない。


「協力、してもらえませんか?」


「………本当に祝ったことないから、何を協力していいのかわからない」


「それなら、私たちの質問に答えてくれれば結構です。私たちはロネスさんのことをよく知らないので」


「答えられることなら」


 アンは承諾した。しかし、ヌヌのこともあるので、こんなことをしてて良いのかという思いもある。

 ではなぜ承諾したのか、と自問する。答えはうっすらと理解できた。恐らく、抱きしめてくれたことへのお礼がしたかったのだ。


   ・


 朝の一悶着から一時間ほど経ち、アンは質問攻めから解放され、部屋の飾り付けを手伝っていた。

 従者たちは、この部屋を軽く飾り付けだけでなく、夜までにケーキを作るらしい。

 ケーキ作りの手伝いを申し込まれたが、断った。甘いものが苦手で、甘いものを作ったことがないからだ。断じて、料理全てができないわけではない。

 部屋の飾り付けは非常にシンプルで、イベントの日などにお店でやるような感じだった。明るい色の小物やパーティー用の尖った帽子が置かれ、テーブルクロス、ソファやクッションのカバーも一新し、位置も変えられている。

 館内にあるものだけで見繕(みつくろ)ったらしいが、一つだけ異質な存在感を放つものがある。美しい色の大きな魚が三匹入った、巨大な水槽だ。一体どこから持ってきたのだろうか。持ってきていいのだろうか。


「魚の餌もらってきましたー。とりあえず三ヶ月分」部屋に入ってきたフットマンの声が、アンの耳に届く。


 飼う気か、とアンは頭を抱えた。

 元々、アンがヌヌの両親を優しく(・・・)説得し、自由室としてここを解放してもらった。その頃は、一日に三人くらいしか寛ぎに来ず、隠れた休憩スペースといった立ち位置だった。にも関わらず、最近は毎日ほとんどの従者がここに足を運ぶ。従者専用の待機室は他にあるのに。

 そして今、ついに生き物を飼うところまで来てしまった。

 五年後はどうなるだろうか。室内に池でもできているのだろうか。

 アンはそこで考えるのを止めた。


「あの、アンさん」リーランだ。「お二人が付き合ってると知らなかったもので。今さらですけど、この部屋に私たちが来ない方がいいですか?」


「ここは、私が解放させた。私とロネスはもう昔からそういう仲」アンは次の言葉を迷う。オブラートに包むのは苦手だ。「勘違いしてるみたいだけど、昨日、セックスしてない」結局、直接口にした。「というか、ここに来てから一度もしてない。万が一するとしても、さすがにここじゃやらない。と思う」


「それなら、こちらも心置きなく使えそうです」


「あれくらい遠慮がないのはどうかと思うけど」アンは水槽を指差した。


「あれ、今晩お嬢様が食べる予定だった魚らしいですよ。料理長に頼み込んでもらったとか。色は確かに綺麗ですよね」


「まぁ、派手だけど」その魚の色は摩訶不思議で、水色、ピンク、黄色、の三色がバランス良く配色されていた。


 アンは最初に受けた質問を思い出す。


『ロネスさんの好きな色は何ですか?』


『一番は多分、黄色。足のミサンガとか黄色だから。他の色についてはよくわからない』


 あの時知らないと答えたが、本当は「覚えていない」だった。アンも黄色が好きだったので、何となく頭に残っていただけなのだ。

 ちなみに、ロネスが足に付けているミサンガは、アンとお揃いだ。


「彼、喜ぶ。絶対」


 アンはそう言って、小さく息を漏らす。

 簡単に想像できたからだ。起きたばかりで寝惚けた彼が、照れ隠しをしながら「ありがとう」と言って、はにかむ姿が。


「ん?」


 アンは異変に気付く。

 部屋にいる従者全員が立ち尽くしていた。ある者は空になった箱を持ったまま、ある者は尖り帽子を被ったまま、ある者はちょうど部屋に入ってきたのか、ドアを開いて顔を出したところで固まっている。

 全員の目線は、アンに集まっていた。


「なに? 問題が起きたの? ごめん、違うこと考えてたから」


 周りの変化に気付けないほど考え込むのは久方ぶりだった。普段、どんなに深く思考していても、重要な周りの動きには反射的に気付ける。

 それがアンの才能、直感だった。

 しかし、今の状況は全く意味がわからない。


「アンさん、笑ってました。初めて見ましたよ。すっごく控えめな笑い方でしたけど」リーランが言った。「もう一回見せてください」


 従者たちが、小さな声で騒ぎ始める。ハイタッチをしてる者さえいた。驚きのあまり興奮状態に入ったのだろう。

 だが、とアンは思う。一番驚いてるのは自分だ。

 アンの記憶のなかに、自分の笑顔はない。


「何を考えてたんですか?」


 リーランの質問を、アンは目を背けることで黙秘した。

 彼女は言った。控えめな笑い方だったと。これ即ち、ニヤニヤしていた、ではないだろうか。

 だとしたら、言えるわけがない。ずっと、ロネスのことを考えていたのだから。

 上手くいかないな。アンはそう思いながら、どこか心地良さを感じた。もしかしたら自分は、こういう明るい雰囲気の場所が好きなのかもしれない。

 あの殺伐とした、戦場ではなく────。


   ・


 午前六時半、朝のロネスへのサプライズは上手くいった。だが、早い者は七時半から仕事が始まる。アンもロネスもこの時間からだ。そのため、おめでとう、とロネスに一言だけ言ってすぐ一時解散となった。


 午後四時、アンとロネスが仕事(と言っても、最近はヌヌの剣術指導が多い)を終了する時刻だ。

 アンは、従者室の前の廊下でロネスと遭遇した。


「おめでとう」アンは、何の前触れもなく彼に伝える。「言ってなかったから」


「ありがとう。祝ってくれると思わなかったよ。いつから企画してたの?」


「知らない。私は今朝から参加した」


 そんな会話をしながら、従者室に入る。中にはまだ誰もいなかった。


「今日のあの子を見て、やっぱり違う武器を試させてみる。念のために応用が効くよう教えてきたから、また一からではないと思う」アンは自分の準備したソファに腰掛けた。


「新しく武器を買ってあげた方がいいね。おれが子供の頃に使ってた武器じゃ、さすがにかわいそうだ」ロネスも、アンの正面の席に、遠慮がちに座る。


「確かに。あれ、若干刃毀(はこぼ)れしてる」


「じゃあ、明日の午前中に適性を見て、午後買いに行こうか」


「お金は私たちで出す。プレゼント」


「アン、変わったね」


「今日の朝、あなたが嬉しそうに笑ってたから。変わったんだとしたらあなたのせい」


「せい?」


「………おかげ」


 何だか雰囲気が良い。アンがそう思うと、ロネスが立ち上がって、一歩で間合いを埋めた。

 彼は、アンの座るソファに片膝を乗せ、彼女の頬を両手で小さく持ち上げる。お互いの顔は、すでに三寸ほどの距離にあった。

 アンは目を(つむ)る。もう、ロネスのことしか頭になかった。


 ────ガチャ


 その音を合図に、アンの頭は高速に回転を始める。答えは間を置かずにわかった。明らかにスピードオーバーだ。

 アンは目を開け、ロネスの背後、ドアの方を確認する。彼も体ごとそちらに向けた。

 数名のフットマンとメイドがいた。彼らは自分たちの失態に気付いたのか、帰りましょうか、とジェスチャーで聞いてくる。

 ロネスが、アンの顔を確認してから首を横に振った。


「すいません。間が悪かったみたいで」一人のフットマンが言う。入ってきたものの、どこか気まずそうだった。


「別にいい」アンが答える。「いつでもできるから」


 ロネスを含めた従者たちが吹き出す。真面目に答えたつもりだったが、こういうのが面白いのかと心のなかで首を傾げる。

 しかし気まずさは取り除けたようなので、結果オーライだ。


 それから徐々に従者が集まってきて、午後七時には遂にケーキが運ばれてきた。アンが想像していたより遥かに大きかった。ロネスだけでなく、従者の皆、さらには調理場を貸してくれた料理人たちにも食べてもらった。

 気付けば、館は軽いパーティーのような騒ぎになった。従者や料理人たちの表情は、アンたちが就任して以来最も明るかった。館でパーティーを行う場合、彼らは楽しませる側なので、楽しむ側に回って羽目を外せたのだろう。

 館主たちは空気を読んだのか、特に何も口出ししてこなかった。それどころか、「月に一度、従者たちだけのパーティーを開催してはどうか」と提案された。予算も出してくれるという。

 その話は、年に一度、この日に開催することでアンが決着を付いた。ありがたいことが頻繁に起こると、感謝の気持ちを忘れてしまうからだ。


「もう、おれの誕生日は関係ないみたいだね」アンと同じソファに座るロネスが言った。


 二人は、従者室の隅にいつの間にか設けられた、二人用のソファと一つのテーブルが置かれたスペースにいた。

 すぐ隣の背の高い机には、例の魚が泳ぐ水槽が置かれている。近くで見れば見るほど大きい。


「どう?」アンは短い言葉で聞く。


「嬉しいよ。祝ってもらえて。アンは?」


「わからないけど、こういう明るいのも良いかなと思ってる。私、たるんでる?」


「楽しんでるんだよ。きっとね」


「そう」


 アンとロネスは、しばらく何も喋らずに従者室で騒ぐ皆を見つめていた。

 誰かがふざけ、皆が笑う。

 誰かがチェスで見事な一手を披露し、周りが(うな)り声を上げ、相手が頭を抱える。

 とある料理人がお洒落な料理を持ってきて、全員が群がる。


「………昔から、ここで働けばよかった」


 アンは言ってすぐ、失敗したなと思った。どう考えても、今の雰囲気には似つかわしくないネガティブな内容だ。しかも、このパーティーの主役に向かって。


「好きだったろ? 戦うのもさ」ロネスが言った。


「ごめん」


「気を使いすぎだよ。昔からそうだ」ロネスがアンの手に触れる。「アン。変わるにはいい機会だと思うよ。ここじゃ、毎晩気を張って寝なくていい。味方同士で罵り合うことで気持ちを高める、なんてことをしなくていい」


「でも、ずっとそうやって」


「元々、アンにはこっちの世界の方が向いてたんだ。今までがおかしかったんだよ」


 アンは何も言わなかった。どうしても、最近の自分は浮かれてると思ってしまうのだ。確かに、義勇兵時代は過酷だった。

 だが、どうだろう。その過酷さのなかに、自分は苦を感じていただろうか。

 答は否である。

 死を身近に感じる瞬間が、なぜか好きだった。自分より強いやつがいる。そう思う度に胸が高鳴り、背筋が震えるような感覚に襲われる。

 あの高揚感が、緊張感が、体に染み付いて忘れられない。

 もう戻れないと、わかっていても。


   ・


 翌日の午前八時。パーティーの余韻(よいん)がまだ漂っているものの、どの従者も真面目に仕事に取り組んでいた。

 アン、ロネス、ヌヌの三人は、広い裏庭に集まっている。

 アンとロネスの手にはそれぞれ槍と二本の刀があり、ヌヌはいつものように一つの刀を握っていた。

 その顔はどこか不思議そうだった。なぜアンたちが他の武器を持ってきたのか、疑問に思っているのだろう。


「槍と二刀流、どっちがかっこいいと思う?」アンは単刀直入に聞いた。


 ヌヌはその問いだけでアンたちの考えを察したのか、途端に真剣な表情になる。


「えっと────」


 そして、すぐに答えた。


─────────────────



 私が何をしたの?


 この仕打ちはなに?


 誰か、教えて────。


    ・


 ロネスの誕生日会と称した従者のパーティーが開かれた、その翌日の午後。ヌヌは武器を買いに街へ下りていた。もちろん、アンやロネスも一緒である。

 アンやロネスだけでなく、ランテンザールク家の次期当主であるヌヌも、街の人々と似たような格好をしていた。ヌヌ本人がお願いしたのだ。恥ずかしいから普通の格好で、敬語も使わないでほしいと。


「ここ。私たちが利用してた武器屋」


 大通りからはずれた路地の奥、そこに到着すると、アンが顎で目の前の店を差す。

 ヌヌは拍子抜けした。もっと立派なお店に来ると思っていたが、ここはかなり古い。悪い言い方をすれば、ボロボロである。


「大声はあんまり出さないように。店主はうるさいの苦手でさ、大きい声で喋ると値上げするんだ」


 ヌヌは、ロネスにそう耳打ちされる。

 思わず身構えてしまう。だがそんなヌヌの想いを露知(つゆし)らず、アンはドアを開けて入っていく。ロネスも続いた。ヌヌは深呼吸を挟んでから、二人の後を追う。

 中に入ると、奥行きがあって、外見以上に広い印象を受ける。武器がひたすら並び、一番奥にカウンターがあって、そこに年配の男の人が立っていた。店主だろう。こちらを見て、いや、アンとロネスを見て、目を丸めている。


「おりゃ驚いたのぅ」店主は、細くて小さい声で話す。「お前さんたち、戻ってきたんかい」


「久しぶり、店主。今日はこの子の武器を買いにきた」アンは、ヌヌの肩に手を置く。


「そうかい。少し寂しいのぅ。で、どんなのをお探しかな?」店主の目が、ギョロりとヌヌを捉える。


 鋭くはないが、力強い目だとヌヌは感じる。彼が首から下げる黒い石が、何故か少しだけ気になった。


「槍が欲しい。あるでしょ?」


「重さは? 重心は?」


「軽めから平均的なの。なるべくバランスの取れた形のやつがいい」


「わかった。ロネス、手伝っとくれ」


「客に手伝わすようじゃ、リピーターは少ないままだね」ロネスはそう言いながら、店主と共に店の裏へ消えていく。


 彼の言う通り、店の中にはヌヌたち以外居らず、また店の外にも誰もいなかった。まず立地が悪いのだ。人通りが少な過ぎる。


「槍、私は苦手だった」アンが口を開く。「もしかしたら、私より強くなるかも」


「い、いや、そんなこと………っ」ヌヌはフードを引っ張り、赤くなる顔を隠した。


 昨日のパーティ以降、どうもアンが明るくなった気がする。従者たちのみで主催したらしいので、ヌヌは参加どころか一切口出ししなかった。故に、何があったのかさっぱりわからない。

 『真実の板』に何か書かれてないかと今朝こっそり見たが、アンとロネスが幼馴染でない(即ち、幼馴染である、だ)という誰でも知ってるような情報しか載っていなかった。


「おーい。娘たち、持ってきたぞい」


「持ってきたのはおれだよ。全く」


 店の奥から店主とロネスが出てきた。ロネスは槍を四つほど抱えている。対して店主は何も持っていなかった。

 ヌヌとアンはカウンターまで行き、それらを手に取った。ヌヌが真っ先に手を伸ばしたのは、黒で統一された双頭刃式(両端に刃が付いているもの)の槍だ。

 両端からの中点を基準に点対称な作りで、無駄な凹凸がなくシンプルなデザインだ。百四十センチしかないヌヌの一、五倍ほどの長さがあり、重々しい雰囲気を放っているが、持ってみると驚くほど軽かった。


「おやおや。一番高いのを真っ先に選ぶとはのぅ。義勇兵になるなら割引くが、どうかね?」店主は、再び力強い目でヌヌを見る。


「あ、えと、かっこいいと思っただけで、わたしはよくわからないので、アンさんたちに決めてもらいますっ」ヌヌは早口で返した。


「いや。いいんじゃない? これでさ」ロネスはそう言いながら、ヌヌから黒い槍を取ってしばらく眺めた。それから、一ヶ所を指差してアンに見せる。


「これ、あなたが作ったの? いつ?」アンは店主に言う。


 ヌヌには何が起きているかさっぱりわからず、全くついていけなかった。


「もう二十年くらい前かのぅ。わしの最期の作品じゃ。いやー、若い子が一番に取ってくれるとは、嬉しい限りじゃ」


「あなた昔、自分の作品はもう一つも無い、って言ってなかった?」アンが聞く。


「刀はな。槍はある。お前さんたちは刀にしか興味なかっただろうに」


「そうじゃない、あなたの打った作品が欲しかった」


「世の中は不思議なもんじゃなぁ。この子はお前さんたちの弟子なんじゃろ? お前さんが見付けられんかったものが、今、巡り巡ってこの子の手に渡ろうとしてる」


 店主はヌヌを見ていた。しかしヌヌは、彼に見られているにも関わらず、彼がどこか違う場所を見ている気がしてならなかった。

 時の重ね方が違うと感じた。自分がこのまま生きても、彼のような力強さを持つことはないだろう。


「買うかね?」


「か、買いますっ。ちゃんと、この槍に相応しいような人間にも、なりますっ」多分、と付け加えそうになった自分を、ヌヌは気合いで防いだ。


「期待しとるよ。お嬢さん」


 店主はニッコリと笑った。親戚の優しいおじいさんみたいだ、とヌヌは思う。にしても、彼は鍛治師として有名なのだろうか。


「ところでこのお嬢さんは、ヌヌ様で合ってるかのぅ? 髪の毛が赤い人なんてランテンザールク家しか居らん。髪が長いせいで、フードだけじゃ隠しきれとらんぞ」


 心臓が跳ねたが、ヌヌは平穏を装う。アンとロネスに修行を付けてもらってから、こういう場面で露骨に慌てることが無くなった。恐らく、感情の起伏が少ない二人から影響を受けたのだ。

 子供は、尊敬できる人の背中を無意識に追う。


「平気。対策はちゃんと考えてある。あなたは口が固いでしょう? だから対策する前にここに来た」アンは店主をじっと睨んだ。


 脅しだ、とヌヌは直感する。きっとアンは、ヌヌを喜ばすために、最初にここへ連れてきたのだろう。事実、ヌヌは家を出たときから楽しみで仕方がなかった。


「ヌヌとロネスはここで待ってて。ヘアーエクステンション買ってくる」アンはそう言って、出口から去っていった。


「あの、ロネスさん」ヌヌは彼を服を軽く引っ張る。「ヘアーエクステンションって何ですか?」


「髪の毛用の付け毛だよ」


 ヌヌは不安になった。決して、アンのセンスを疑っているのではない。

 ヌヌの髪の毛は、ランテンザールク家の血を継いで深紅色だ。合う色があるのだろうか。


「そうだ、お嬢さん。あ、いや失礼しました。ヌヌ様」店主が頭を掻きながら言い直した。


「あ、いや、そんな、普通に話してください」


「了解したよ。ではお嬢さん、この槍についてじゃ。真ん中をよーく見てみぃ」


 ヌヌは店主に言われた通り、黒い槍を手に取り、中心(両端からの中点)を凝視する。そこには、持ち手を一周するようにまっすぐな筋が一本入っていた。


「何か、彫ってあるんですか?」


「違うよ」店主はヌヌから槍を貰い、三回ほど腕に力を込めた。


 すると、槍が真ん中で綺麗に割れた。双頭刃式の一本の槍が、二本の短い槍に変化する。


「えっ!?」


「誰に使って貰えるかわからんからな。持ち運びしやすいように作ったんじゃ」店主は割れ目部分を付けて、再度三回ほど力を込める。すると、今度はしっかり繋がった。「簡単じゃよ。それに、三回連続で、別々の決まった方向に、決められた力を込めないと外れん。付けるのはもっと簡単じゃ」


 ヌヌは店主からやり方を詳しく教えてもらい、 二回ほど実践すると、もうすんなり実行できるようになった。

 正直、ヌヌはありがたいと思った。彼女は、去年から一センチも伸びていない。もう、百四十センチで生きていくしかないのだ。

 割った槍は、二本重ねて背中に収めれば、低身長のヌヌでも違和感なかった。


「な、なんか、槍を背負ったら、緊張してきました」


 ヌヌがそう言うと、ロネスと店主の二人から笑われた。

 その直後、アンが帰ってくる。手には、黒い付け毛が六束ほど握られていた。

 彼女は、折れた槍を見ても驚かなかった。それどころか、第一声が「何で中心に亀裂が入ってたのか納得した」だった。ヌヌが凝視しなければ見えなかったものが、アンには手に取らずとも見えていたらしい。


「髪の毛、少しいじる」アンはそう言いながら、六つの付け毛をヌヌの髪に付けた。「鏡、見てみて。嫌だったり違和感があったら言って」


 ヌヌは、鏡に映る自分に見とれてしまった。

 黒髪がメッシュ柄に配置され、毛先に向かうにつれて割合が増す。先っちょはほとんど黒髪だった。それに、付け毛が真っ黒なせいか、自分の赤髪が多少明るく見えた。

 何より、頭に違和感が無かった。


「何と言うか、凄いです! ありがとうございますっ」ヌヌは自分の語彙力を呪いつつ、アンに精一杯の感謝を伝えた。


「でも、変装にしては少し甘いかな」ロネスが言う。


 確かに、とヌヌは思った。目的は可愛くなることではなく、ばれないことだ。そう考えると、髪の色だけでは足りない。目元を隠すために手っ取り早くフードを被ると、視界が狭まってしまう。


「口だけの仮面付ける?」アンが問う。


 ヌヌの頭のなかを、ハテナマークが支配した。何を言ってるのかわからない。


 ヌヌの顔で察したのか、アンが答える。「下半分しかない仮面。さっき変な出店に置いてあった。上半分のもあったけど、それだと視界が絞られる」


「とりあえず、見てみたいです」


「わかった」アンは(きびす)を返し、足早に店から出る。槍のお金は払っていない。「それじゃ」


「ありがとう」ロネスはポケットから大金を取り出し、それを全てカウンターに置いた。「気持ち分も受け取っといて」


「おやおや、老いぼれにこんな大金はいらんよ。感謝を伝えたいときは、お金じゃないものの方がいい。そっちの方が上手く世を渡れるぞい」


「それじゃあ、お金はついてだと思ってほしいかな。また来る。感謝の伝え方はこれでいいかな?」ロネスは問いかけたが、答えを聞く前にカウンターから離れる。


 ヌヌは店主にお辞儀をしてから、二人の後を追った。

 店を出るとき、店主の口が動いた気がしたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。


   ・


「頼んだぞ、ヌヌ様や」


 店主は出ていくヌヌにそう呟いてから、札束の中に一枚だけ別の紙が入ってることに気付いた。

 それを抜き取り、確認する。


『あの事件以降、アンの記憶に混乱が見られる。


 自分の過去を忘れているようだ。


 しかし、最近は明るくなっているので、このままでもいいと思っている。


                 ロネス』


 店主は、アンのフルネームを知っている。

 アン・カウグスト・ランテンザールクだ。ランテンザールク家でも知っている者が少ない、もう一つのランテンザールク家である。店主は、そこでアン姉妹(・・)専属の従者をしていた。

 アンの姉の名は、ウルである。

 彼女は、世の人々が『魔王』と呼ぶ人物だ。


   ・


「ロネス、ヌヌ。私、館で仕事がある」大通りに出たところでアンが言って、二人に背を向けて館の方へ歩き出した。「そこをまっすぐ行った所にあるお店だから」


「あ、あの、槍、ありがとうございましたっ」ヌヌはアンの背中に向けて言う。


 アンは返事の代わりに軽く手を振ってくれた。珍しいことだ。


「じゃあ、行こうか」


 ロネスに先導されるように、ヌヌは彼の斜め後ろを歩く。

 この三ヶ月、以前と比べれば彼とは随分話すようになった。色んな彼を見れてると思う。微笑むか、真面目な顔か、基本は二択だが、極稀に寝惚けた顔や呆けてるような顔が見れたりする。

 そんな偶然に遭遇すると、ヌヌの心はギュッと締め付けられた。

 この感覚が全くわからないほど子供ではない。しかし、自覚しているからこそ、戸惑っていた。彼は公言してないが、きっとアンと恋仲だ。見ていれば、流石に察しが付く。


「うっわ。凄いお店だね。上半分か下半分のお面しかない」


 ロネスの声に、ヌヌは思わずビクッとした。いつの間にか、目的の出店の前に到着していた。

 彼の言う通り、目の前のお店には、半分のお面しかなかった。

 上半分のみのお面。目と額、それから鼻を隠せるタイプ。

 下半分のみのお面。口と(あご)、こちらも鼻が隠せる。

 どちらも狐を模したデザインだ。後者の口の部分は、本物の狐のように伸びている。色は白と、黒もあった。黒だと、狼の口に見えなくもない。


「付けるんはどっちだい? こっちでぴったりのサイズのを選ぶよ」


 店番が言った。声からして女の人のようだ。


「わ、わたしが付けます。下半分が隠れるやつがいいです。色は、黒が良いです」さっきまでアンやロネスに任せきりだったので、ヌヌは人見知りながらも、精一杯の頑張りで言った。


「あいよ。髪の毛も黒が混じってるみたいだね」


 女性の言葉で、ヌヌは付け毛をそのままにしていたことに気が付く。違和感がないのは良いことだが、忘れてしまうほど存在感がないのも、それはそれで不便だ。


「ロネスさん、ど、どうしましょうっ」ヌヌは、自分の顔が赤くなるのを自覚した。新しい自分を見せるのは、きっと誰でも恥ずかしくなる。


「似合ってるよ」ロネスが微笑んだ。


 ヌヌは素早く顔を(うつむ)かせる。赤面した自分を助けて欲しかったのに、ますます悪化してしまった。

 この段階までいくと、もう時間が解決してくれるのを待つしかない。

 せっかく、ロネスさんと二人きり────。

 ヌヌはそこまで考えて、頭を落とす勢いで首を横に振った。なぜ自分から墓穴を掘るような思考を歩んでしまったのだろう。


「わかりやすいね」


 ロネスの大きな手で、ヌヌは頭を撫でられた。深呼吸しながら、自分に言い聞かせる。

 ロネスさんはアンさんの恋人だ、と。

 だから、どうか、これ以上ドキドキしないで。


 ────させないで。



   ・


「良くなってますよ。両膝も、右の肩甲骨も」


 ランテンザールク家の敷地の最も奥にある建物のなか、そこに勤める専属の医者の一人が言った。

 ここには、男女三人ずつ医者が控えている。ランテンザールク家や、そこに仕える人も基本的にここで診てもらっているので、彼らはたまに(やつ)れている。


「わかった」アンはそれだけ言って立ち上がった。忙しい彼らの時間を取る方が失礼だ。


「従者になる前は何をしてたんです? そんな局所的に大怪我するような職種も事故も思い付きません」


「そう? 私は二つくらい思い付くけど」


「騎士や義勇兵ですか? 僕が言ってるのはあり得る範囲の話ですよ」


「そう」アンは適当に返事をしてから、ドクターに背を向けた。


 別に、真実を言う必要はない。彼の言う通り、義勇兵から従者へ転職する人など、今後もそうそう出てこないだろう。

 そんなことするやつは、余程の馬鹿だ。

 そう。例えば、ロネスとか。

 彼まで辞めることなかった。


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