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第10章 同じもの

第10章 同じもの


「藤沢君!」


反射的に振り返ると、そこにはパジャマ姿の姫香が俺に向かって走って来ていた。まさか、そんなはずがない。だって姫香には俺との記憶が一切ないんだからここに来る理由がない。


 姫香はパジャマ姿のまま呆然としたままの俺に向かって走ってくると、肩で息をしながら俺の前で止まった。戸惑っていた気持ちから一転し、すぐに来ていた上着を脱いで姫香に着せた。


「ダメだろ。入院してるのにこんなところまで走ってきたりしたら。それに、まだ夜は冷えるんだからあったかくしてないと――」


「藤沢君は、私が冷え症だってことも知ってるのよね」


遮るように発されたその言葉に俺は一瞬固まり、慌ててつくろった。


「知らないよそんなこと」


知っているよ。姫香が冬、寒そうにしていた事も、手を繋いで、その度に幸せそうに笑っていたことも。


 姫香には姫香の人生がある。心身ともに同じ年頃の優しい青年が傍にいるべきなのだ。時間軸がズレて実年齢と外見が伴わない俺じゃない。既に老けて見えるという笑えるレベルじゃないのだ。俺は戸籍上同い年でも体の年齢は姫香と10歳ほど離れている。姫香にはたくさん時間があるのだから一緒にいるなんて釣り合わない。


 君が生きているだけで良かったのに、そんな風に追いかけられたら俺、期待しちゃうじゃないか。もっと一緒にいたい、抱きしめたいって思ってしまうじゃないか。


「いつも不思議だったの。どうして私が好きな物ばかり病室に届けてくれるんだろうって。羽鳥君に聞いたけど、それは知り合いからのプレゼントだ、しか言わないの。私はその人の顔も名前も知らなかった。でも、さっき羽鳥君が全部打ち明けてくれた。時間を戻して私を救おうとしてくれたことも、腐敗症の治療法を未来から持ってきてくれたことも、それから、私と藤沢君が付き合っていた事も全部よ」


桐斗が姫香に事実を話したのか。そして姫香もその事実を信じたのかと、俺は固まったまま聞いていた。


「言わないで欲しいって言われていたけど、これ以上苦しむ藤沢君を見ていたくなかったって言ってたわ」


桐斗は優しい。そして俺のことを本当に良く理解してくれているから、本当のことを言わずにはいられなかったのだろう。そう思うと桐斗を責める気にはなれなかった。


「時間を戻すなんて、突然言われた時は正直信じられなかったけど、私の好きな物を1度も間違えることなく当てて、何より私が誰にも言ってないはずの好きな物を知っていたのが何よりの証拠でしょう」


姫香が俺を真っすぐ見て話していると思うと急に目が熱くなる。


「羽鳥君は全然教えてくれなかったけど、毎日私を陰で支えてくれた人にずっと会いたかった。一生懸命傷つきながら助けてくれた藤沢君に、会ってどうしても伝えたいことがあったの」


俺は姫香を見た。


「長い時間をかけて、何度も何度も私のことを助ける為に頑張ってくれてありがとう。私の命を救ってくれて、未来をくれて、本当にありがとう」


涙が溢れてきて、俺は目元を手で隠すように押さえた。涙を流す俺に、姫香が優しい声で言ってくれる。


「藤沢君にはあって、私にはない思い出はいっぱいあるかもしれない。それを取り戻すことはできないけれど、これから作っていくことはできるよ」


その言葉に、咄嗟に顔を上げた。


「でも、俺は――」


「同情なんかじゃないわ。見た目なんて、そんなこと関係ないの」


そう否定しようとした俺に、にっこりと、優しい笑顔を向けて姫香は遮るように言った。


「私にとって、そんなこと些細な問題なのよ。見た目がどうか、年齢がどうかなんて事よりも私はあなたの優しさに惹かれたの」


俺は涙でかすんだ視界の中、前に立つ姫香に顔を向けたまま固まった。その笑顔が、10年程前に向けられたものと全く同じだったから。


「私、もっと藤沢君の事が知りたい。今までずっと支えてくれた藤沢君を今度は支えたい。今の、こんな私で良かったらこれからも一緒にいてくれませんか?」


にっこりとして、どこか恥ずかしそうに顔を赤らめて、姫香が俺にそう言った。


 あぁ、どうして君はそんなに優しいんだ。その言葉が俺をどれだけ満たしてくれるのか君は知らない。


 気がつけば、両目から大量に涙が零れて、涙の粒達が次々頬を伝って落ちていく。俺はたまらず姫香を抱きしめた。伝わってくる温もりが愛しくて、嬉しくて、俺の全部が姫香を求めていたんだって強く思った。


 身を引こうと決めたはずだった。姫香がこれから幸せに生きていくためにも、同じ時間軸で生きている人の方がいいんだと。


 それでも、もし姫香が俺にそう言ってくれるなら、俺はその言葉に甘えてもいいだろうか。一緒にいて良いのだろうか。また、あの日のように3人で笑っていられる日が来るかもしれないと期待してもいいだろうか。


 どうしてもこみ上げてくる気持ちにこれ以上嘘がつけなかった。やっぱり君だ。記憶がなくなっても、この優しさも、温もりも、全部姫香だ。


「一緒に、いたい……」


絞り出すように言葉を紡いだ。そう言って強く姫香を抱きしめた。腕にすっぽり収まってしまう小柄な体を強く、強く抱きしめた。そんな俺の背中に姫香が腕を回し、まるで小さい子を慰めるようにゆっくりとさすってくれる。まるで凍りついた思いが溶けていくように、次から次へと感情が溢れてくる。その感情をどう言葉で表現したらいいのか分からない。嬉しいのに涙ばかり溢れてくるんだ。


「一緒にいたい……」


 姫香の肩に顔を埋めるようにして抱きしめていた俺の頭を、ゆっくりと撫でてくれた。それだけで満たされていく。


「一緒にいましょ」


その言葉に、涙はさらに溢れだした。しゃくりあげる俺を姫香が何も言わずに撫でる。押し殺していた孤独が、苦しみが、癒されていくのが分かった。


「姫香、ありがとう……助かって、本当に良かった……」


姫香の両腕が俺を抱きしめた。


「ありがとう。本当に、ありがとう」


泣いたままの俺の背中を優しく撫でてくれる手から伝わってくるその優しさは記憶が違ってもやはり姫香だった。


「好きだ。今までも、今だって、ずっと好きだ」


きつく、きつく姫香を抱きしめた。声が震えて、涙が混じって上手く言えないけど、姫香は聞いてくれた。


 君を失ったと思っていた。もう2度と君の隣に立てないんだと。あの日に戻れないんだと……。


 過去を変えるのはリスクが伴い、やがて逃れることができない孤独に追い詰められる。だから俺も孤独になるのは仕方がないんだって思ってた。それなのに、姫香は孤独から助け出してくれたのだ。優しい姫香。大好きだ。俺は勘違いをしていた。たとえ君が俺のことを覚えていなくたって、姫香はやっぱり姫香なんだ。以前も、今も同じなんだ。


 俺は姫香を抱きしめる。もう2度と、この温もりを離さないように。

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