第9章 知り合いの人(2)
私が聞かされた話はまるで夢物語のようだった。全部理解するためには時間が必要だったけれど、その話は聞けば聞くほど納得できるものだった。食べ物だけでなく、内臓という風変わりな物を好きだと知っていた事が何よりの証拠。そして、タイミング良く私の元に腐敗症に効くかもしれない薬があると話がきた事もそうだ。認可が下りていない薬を体に入れたけど、副作用なんてなかった。
「姫香ちゃんはもう会ってるはずなんだ。俺の知り合いに」
過去私が付き合っていて、私に毎日のように好きな物を贈ってくれた人。そんな人と私がもう既に会っていた? 思いつかず、羽鳥君を見る。
「隔離病棟にいた頃の病室の中で……。名前は、藤沢直人」
藤沢直人? どこかで聞いたことがある名前。そうだ。突然病室に来たと思えば、顔も合わせず会話して、私の体調を気遣ってくれたのに、また突然病室を飛び出してしまった不思議な人。一体誰なんだろうって思ってた。ぶっきらぼうでほとんど会話してないのに、言葉の端から優しさが漏れていて、もう1度会いたいと思っていた人。その人が私のために時間を戻した? その時、私の頭の中に1つの言葉が蘇ってきた。
俺のこと、本当に何も知らない?
悲痛に満ちたあの声のことをすっかり忘れていた。そしてその言葉の裏にあった気持ちに、私はようやく気がついた。
藤沢君は私と一緒にいた記憶があって、私にはなかった。大切な人に忘れられるなんて、死ぬことよりもずっと苦しいことなのに、藤沢君は辛いなんて一言も言わなかった。一緒にいた記憶があるのに、私とは初対面での会話しかなくて辛かったはずなのに、それでも私の体を気遣ってくれた。それでもきっと辛かった。自分の気持ちを押し殺して、ただ私に気を遣わせないように……。
私は無意識に藤沢君を傷つけてたんだ。だから彼はあんなに辛そうに訊いたんだ。
羽鳥君は続ける。
「直人はさ、本当に優しくていいやつなんだ。俺が1番よく知ってる。優しすぎてむしろ空回りばっかりしてるし。今回だってそうだ。姫香ちゃんに生きていて欲しいって、その為だけに何年も勉強してきたくせに、自分の姿が周りの人と違うってだけで、姫香ちゃんが幸せになれるように俺は手を引くんだって頑なに会うのを嫌がってたんだ。誰よりも姫香ちゃんが好きで、傍にいたいくせに……ほんとにバカだよ」
だからずっと会いに来てくれなかったんだ。ずっと私のことを想い続けてくれて、長い時間を私のために使ってまで助けてくれた。それなのに、あなたはまだ私の幸せを想ってくれるって言うの? 私が倒れた時に助けてくれた優しい人は藤沢君だったのね。優しかった。温かかった。でもどこか悲しそうだった。
そんなことを考えたら、もう涙が止まらなかった。貴方が私を救ってくれた。私に未来をくれた。その代わりにかけがえのない大切な物をたくさん失って……。
涙が止まらない私に、羽鳥君は優しく言った。
「姫香ちゃん、あいつに会いに行ってやってくれないかな。本当は今話したこと全部口止めされてるんだけどさ、俺の親友だから、これ以上苦しんでるの見てられないんだ」
そう言った羽鳥君の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。私の答えは1つだった。
私はすぐにベッドから立ち上がる。ふらつくけれどそんなこと今は関係ない。大丈夫。
私は藤沢君の傍に行きたい。ずっと支えてくれてたんだ。私の幸せを願ってずっと。
「直人はきっと芦野宮公園に行くと思う。南口はいつも人がいないから」
私は頷いて走り出した。久しぶりだから転ばないように気をつけなきゃいけない。
会いに行くわ。今苦しんでいるあなたの元へ。私に未来をくれたあなたの元へ。




