第6章 桐斗と直人(2)
桐斗は振り返ると俺に言った。
「俺が教えてきたのは基礎なんだよ直人。基礎は受験において1番大切な根の部分だ。1番大変で1番時間がかかる。高校の勉強なんて簡単だってぐらい勉強した奴が受験しに来るんだから、それに追いつこうと思ったら1年じゃ足りないんだ。もちろん、受からないと思いながら直人に勉強を教えたんじゃない。受かるかもしれないが、受かる確率は低いってことだった。1年間頑張ってきたって気持ちはよく分かるけどな、医学部に合格するっていうのはそういうことなんだよ。それに見合う努力が必要なんだ。医学部を目指すやつらは大体が小さい頃から医学部を目指して高い意識を持って学校に通ってる。直人はまずその差を埋めないといけないんだ」
「じゃあ、そもそも俺は1年で医学部になんて行けなかったのか」
ふてくされたように言った俺に桐斗は怒鳴るように言った。
「直人! 医学っていうのはな、研究職も含めて命を預かる学問なんだ! 命を預かるってことは命を預ける人間もいるってことだ。そんな簡単に医者になった奴に命なんて預けられるわけないだろ! 医学なめんなよ!」
忘れていた。桐斗は小さい頃母を失い、それからひたすら医者を目指してきた。医者になって命を救うのだと言って必死に勉強してきた。桐斗は天才なんかじゃない。桐斗の努力の結果なのだ。
「姫香ちゃんが腐敗症になったのが悔しかったんだろ? そこから腐敗症と戦うって目指したんじゃないのか? お前の覚悟はそんなものなのかよ!」
そう言われて、俺の頭にケイの言葉がよぎる。
ナオ、君にその覚悟があるか?
覚悟。そうだ。俺は姫香を助けたい一心で頑張って来たんだ。ここで戦意喪失なんてばかげてる。俺は涙を拭いて桐斗を見た。
「そうだよな。1回失敗しただけじゃないか」
少しでも早く、姫香を助けたい。俺には凹んでいる時間だって惜しいのだ。そう思って顔を上げると、桐斗が頷いた。
「そうだ。でも誤解しないで欲しい。直人が今までやってきたことは無駄なんかじゃない。直人はこの1年で基礎を固めてきた。やっと医学部を狙っている連中が受験勉強を開始するラインに立てたってことだ。直人、1度浪人して一谷塾に行け。直人の父ちゃんと母ちゃんに相談してからになるけど、土下座してでも行かしてもらえ。俺が世話になっていた先生が沢山いる。力になってくれるはずだ。この1年で基礎を散々鍛えてきたから基礎はもう十分だ。それに、直人の驚異的な頑張りのおかげで応用にも手を伸ばせてたんだから今度こそ絶対にできる」
俺の目を真っすぐ見てそう言ってくれる桐斗に、俺は素直に感謝した。桐斗は元々俺がたった1年で合格できるほど簡単ではないことを知っていた。俺に勉強を教えてくれると言った日も、2年かかる可能性を考えた上でいつも勉強を教えてくれていたのだ。俺が仮に落ちても、次の年で絶対受かるように必要なことを叩きこんでくれたんだ。
「ありがとう、桐斗」
「いや、俺もちょっと言い過ぎた。ごめん。でも、直人が素直な奴で良かったよ。じゃなきゃ今頃大喧嘩して口もきかなくなってただろうし」
俺が深々と頭を下げると、ちょっと照れ臭そうに桐斗が笑って言った。
「受験大変だけどさ、俺は一足先に医学部で勉強頑張ってる。直人が医学部に入って勉強に困ったら俺が教えられるように必死に勉強するから」
俺が顔を上げると、桐斗が笑顔で俺の目の前に拳を突き出した。
「だから絶対追いかけてこいよ」
これから互いの生活リズムがズレてしまうから毎日一緒に勉強したり、朝から蹴飛ばされたりすることはない。それを知っても桐斗は俺を応援してくれる。だから俺もその気持ちに応えたい。姫香のために頑張るというだけだったはずが、いつしか桐斗の期待に応えたいという気持ちも芽生えていた。だから俺は自分の拳を軽くぶつけた。
「凄まじい勢いで追い抜かしてやるからマユミンと待ってろ」
「お、言ったな? 追い抜かされないように俺も頑張るよ。絶対にできる。なんたって、桐斗の「と」、が名前に入ってるんだからな」
「と、だけじゃんか。しかもそれ意味あるか?」
俺達は笑った。これからは別々の場所で頑張ることになるけれど、俺が合格したらまた会える。途中からまたカリキュラムは変わってしまうが、それでもまた同じ場所に立てる。困った時にはいつでも俺を助けてくれる、応援だってしてくれる、桐斗は俺の自慢の友達だ。だから俺も頑張る。今度こそ姫香を助ける為に。桐斗、君の期待に応える為に。
両親は俺が塾に通ってもう1度御崎大学を目指したいと言うと応援してくれた。姫香の両親もまた俺の事を応援してくれたし、俺は桐斗の言っていた一谷塾に通うことになった。
塾の講師達は俺が御崎大学に行きたいのだと言うと、その為にどんな勉強をすればいいのかを教えてくれたし、講師達は俺の学力を知るなり、基礎がしっかりできているからこのまま頑張れば御崎大学にも合格できるから頑張ろうと言ってくれた。1年間必死に頑張ってきた日々がここで俺を救ってくれたのである。鬼のようにノルマを課してきた桐斗のおかげで、俺はいきなり上位のクラスでの授業を受けることができた。難易度の高い問題も案外解くときに必要なのは基礎だ。突き詰めてみれば簡単な基礎問題を難しそうに見せているだけなのだ。
新しい日々が始まった。傍にいつも応援してくれた桐斗はいないけれど、その代わり桐斗が師匠と呼ぶ講師の先生が俺をバックアップしてくれた。桐斗も、俺の両親も、姫香の両親も、受験合格を応援してくれた。姫香を救い、桐斗の期待に応える。それ以上に俺は俺の両親と姫香の両親の期待を一身に背負っていた。何が何でも受かってやる。絶対に姫香を助けてやる。そんな気持ちが受験勉強に対するやる気を更に上げてくれる。俺はもっと賢くならなければならない。確実に今年で受験を終わらせて、次のステップに進むために。
寝る前と起きた後は必ず姫香の写真に声をかけた。大好きな姫香。君に会いたい。だから俺は頑張るよ。絶対に諦めたりしない。どんなに辛くたってその笑顔があれば俺は頑張れるから。
そうしてまた訪れた受験勉強の日々。それは大変ではあったが更に上を目指す向上心でできていた。もっと上を。さらに上を。絶対に合格するのだ。




