第5章 覚悟(1)
第5章 覚悟
姫香が死んでどれぐらい経っただろう。俺はいつの間にか大学1年の秋を迎えていた。やることもなく、将来の夢もなく行けそうな大学になんとなく入学して、ただぼんやり過ごす毎日。連絡を取ると言ったら両親から1人暮らししていて不便はないか、とか、医大に行った桐斗から飯に行こうと誘われるぐらいだった。食べに行くなんて気持ちじゃなくて適当に断ろうとするが桐斗は俺を無理矢理家の外に連れ出すことがあった。面倒見がいいから、姫香を失ってふらふらしている俺の事が放っておけなかったのだろう。桐斗はバカに見えるけど結局仲間思いのいいやつなのだ。
その日も授業中に何気なく外を見ていた俺は、空を浮かぶ空上モニターが目に入った。字幕には
「芦野宮研究所の小山秀樹教授らにより腐敗症の特効薬完成」
という文字が出ていた。それを見てももはや何も感じなかった。腐敗症。姫香の命を奪った病だけれど、姫香はもういない。こんな薬完成した所で姫香はこの世にいないのだ。今さら遅いんだと鼻で笑う。いつの間にか目に涙がうっすらと溜まっていた。遅いんだ。今さら……。そう思っていた時、ふと思った。
もし今の情報を過去に持って行ったら、腐敗症の特効薬ができるのではないか
その瞬間空上モニターに釘づけになった。
「小山秀樹教授の論文により特効薬の開発が著しく進展」
という内容だった。小山秀樹教授。この人の論文を姫香が生きていた頃に戻ってこの人に渡せば特効薬の開発は進展するんじゃないか。記憶をたどってみる。腐敗症の特効薬開発が進まなくなったと、だいぶ前に空上モニターで知らせていた。俺はそれを見ていた。その頃に戻って助言してやればきっと特効薬を作ってくれる。そしたら、姫香は助かる!
授業中ということもあり、教授が俺を指差して注意しているがそんなことどうでもよかった。荷物をまとめて教室を飛び出す。
姫香は腐敗症になってしまう運命だった。なら、腐敗症を治す方法があれば姫香は助かる。腐敗症の治療法について調べる為学校のパソコンルームへ向かっていたが廊下で急に足を止めた。
でも、どうやって過去に戻す? 俺ができるのは生命時計を操ることだけ。過去に戻るということはできないんじゃないのか? 周りの人達の生命時計を逆回りさせれば……。ダメだ。姫香はもう死んでしまっているんだから周りの人の生命時計を戻したところで何も起きない。
必死に方法をひねり出すものの、どれも結果は同じだった。姫香の生命時計は完全に止まっているし、1度停止した時針は動かせない。つまり、死者の生命時計は動かすことができないのだ。
全身から力が抜けて、涙がこみ上げてくる。結局何もできないという無力感に苛まれ、悔しくてたまらなかった。俺はやっぱり姫香を救えないのかよ……。
携帯がバイブして、桐斗から電話が来ていることに気がついた。電話に出てみると、桐斗の上機嫌な声が聞こえてくる。
「やっほー直人。元気してる?」
桐斗だったら、もしかしたら過去に戻る方法を見つけられるかもしれない。可能性こそ低いが、桐斗の頭の回転の速さは俺が良く知っている。もしかしたら、という微かな希望に飛びついた。俺にはどうしたらいいか全く分からないが、桐斗ならできるのではないかと。
単刀直入に尋ねてみる。
「桐斗、もしお前が命の時間を自由に操れる力を持っていたとして、過去に戻りたいならどうする?」
「何? 急にそんなファンタジーなこと――」
「答えてくれ!」
半分笑ったような声で言ってきた桐斗の言葉を遮って声を張ると桐斗が黙った。数秒の沈黙の後、不意に問い返してくる。
「それって誰の命でもできるのか?」
俺の真剣さが伝わったのか、桐斗の声もいくらか真剣味を帯びた。
「できる。事故に遭いそうだった人間を助ける事も、事故を起こしかけたトラックを止める事も、腐敗症だった人間を健康な頃に何度も戻すことだってできる」
この事実を聞いて分からないはずがないという予想通り、桐斗は戸惑った声を出した。
「そんな、まさかな。嘘だろ」
携帯の向こうからそんな声が聞こえてくる。
「桐斗、わけわからないと思うけどとにかく信じてくれ。力を貸してくれ。俺は時間を操れる力を今持ってる。姫香の時間を何度も巻き戻して延命してたのも俺だ。でも、時間が戻るってことは姫香がしたこともしてなかったことになってしまう。だから姫香は腐敗症だった事も知らなかったんだ」
「まじかよ……。はは、頭がパニックだぞ。とにかく直人、今から俺の家に来れるか? その質問に答える為にも情報が要る。詳しく話を聞かしてくれ」
「分かった。すぐに行く」
通話を切った。普通なら信じられない事だろう。簡単に信じられるような話じゃない。それでも今は桐斗を信じて頼るしかない。俺は桐斗の下宿先に向かって走り出した。
互いの大学がさほど離れていなかったことが幸運だった。ボロボロのアパートの2階にある桐斗の部屋の前で俺達はほぼ同時に到着した。桐斗は授業そっちのけで走って来たらしく、息を切らして笑った。
「それってお前の夢の話じゃないよな?」
「違う」
俺は否定しながら桐斗の部屋に上がり込む。狭い部屋の中には布団が綺麗に折りたたまれて置かれており、部屋全体が片付いていた。部屋の中央にあるちゃぶ台の上に置かれているパソコンを見つけて
「あれ借りる」
と一言断ってパソコンの電源をつける。必要なのは桐斗の考えと小山教授の論文だ。
「信じられない、けど信じるしかないよな。姫香ちゃんのあの様子見てたら」
桐斗はやはり姫香の状態に対して疑問を抱いていたようだった。何度も腐敗症を発症し、何度も完治した女の子。それは全国で放送されるほどの異例の事態。医療の道へ進むと決めて1度も揺れ動くことのなかった桐斗にとって今まで見てきたこと全てが認めざるを得ない証拠だ。
俺達は向かい合って座った。
「直人が姫香ちゃんの時間を戻してたってことか」
「そうだ。俺も最初は信じられなかったけどな」
俺は生命時計についての事を桐斗に順を追って説明していく。ケイに会ったこと、姫香の時間を戻してきたこと、姫香に打ち明けて巻き戻さないで欲しいと言われて死を迎えたこと、俺が知っている真実を全て話す。桐斗は信じられないと言いたげな顔で俺の話を聞いていた。頭がおかしいと思われたっていい。なんて言われようが構わない。今だけでいいから信じて欲しい。
「つまり、その生命時計を回せば時間を巻き戻せるのか」
「そうだ」
「はは、ほんとに頭おかしいよな直人。姫香ちゃんが死んで頭のネジ飛んだか?」
桐斗はそう言ってから間を空けて付け加える。
「俺も頭おかしいよな。そんな話信じちゃうなんてな」
目を見開いて桐斗を見た。
「本気で信じてくれるって言うのか?」
「姫香ちゃんの症状はおかしかった。腐敗症は不可逆的な、つまり、1度進行したら戻らないはずの病気だ。それは細胞自体が崩壊していく病気だからだ。1度死んだ細胞が生き返ることはできない。ましてや腐敗症が末期の状態にまで進行したら手足の先から毛細血管が後退することで細胞が壊死を起こして肉が腐り落ちていく。それなのに姫香ちゃんは突然体が元に戻って退院した。そんなことありえるはずがないんだよ。その代わり今までの記憶を丸ごと失って、だ。お前の力を信じるしか辻褄が合わないんだよ」
桐斗は俺を信じてくれていた。にわかに信じ難いこの話を、俺を信じてくれている。他の人に話しても恐らく俺は精神病院に閉じ込められるだけだろう。
「さっき、空上モニターでやってたニュース見たか?」
桐斗は頷いた。
「腐敗症の特効薬のことか」
「過去に小山教授の論文を持って行けば姫香が死ぬ前に特効薬ができるかもしれない。過去で特効薬ができれば姫香は助かるはずなんだ。姫香が腐敗症になる事は変えられなくても、腐敗症になった姫香を救うことができれば今この瞬間姫香は生きていることになるだろ。でも過去にどう戻ったらいいか分からない。俺にできるのは生命時計を進めるか戻すか。姫香は死んでしまってるから生命時計は戻せないし……」
俺が言うと、桐斗は頭を悩ませた。
「時間を戻すには戻したい者の生命時計が必要、か」
そう繰り返しながら口元に手を当てていた桐斗は急にひらめいたように顔を上げた。
「直人、地球自体の生命時計は操れるのか?」




