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第4章 約束と願い(3)

 星を見に行った日から数日が経ち、姫香が倒れたとの連絡が入った。隔離病棟での入院を余儀なくされて、俺は過去何度も通った隔離病棟に行くことになった。前と同じようにガラス越しに目を合わせ、電話を通じて会話する。ベッドから起きられない姫香のために何度も空の写真を持って行った。その度に姫香は嬉しそうに笑ってくれたけれど、明らかに衰弱していった。


 いつしか俺が話しかけても上手く答えられないようになっていた。戻してしまいたい。姫香には元気でいて欲しい。それでも、姫香はもう時間を巻き戻して欲しくないと言っていた。巻き戻さないと約束したから、せめてその約束だけは守りたい。毎日会いに行けばいくほど、嫌でも姫香の衰弱を理解してしまう。それでも姫香の前でだけは必死に笑顔でいた。姫香の記憶ができるだけ笑顔で、幸せな思い出でいっぱいでありますように。最期は泣き顔じゃなくて笑顔で溢れた楽しい思い出であって欲しかった。そのために、泣きそうになればトイレに行くと言って1人声を押し殺して病室の外で泣いた。





 そんな日々が続いていたある日、見舞いに行く前に家に寄って冷蔵庫から梨を取りだした。姫香は何度も嘔吐を繰り返していたけれど小さいものなら何とか食べることができたから、好物の梨を切って持って行けば食べられるかもしれない。潰してスムージーみたいにしてもいい。昨日買っておいた梨を手にとってどんな形状で持っていくかを考える。全部は無理だろうか。全部食べられたらいいな。


 携帯がバイブして画面を見てみると姫香の母さんからだった。


「こんにちは。今日は姫香に梨を持って行こうと思ってて、すぐに行きますから――」


携帯から聞こえてきたのは悲鳴に近い声で、ただ一言


「もうダメかもしれない」


という事だった。いつの間にか梨は手から滑り落ちていて、床に当たって小さく跳ねた。俺は拾うこともなく家を飛び出すと、病院まで全速力で走った。ダメかもしれない。聞きたくなかった言葉。姫香の命が終わろうとしていることを意味する言葉。悲しみを感じるどころではなく、病室に向けて駆け抜ける。


 息も絶え絶えになんとか病室に着いた俺が見たのは、防護服を着た医療関係者に囲まれ、目が閉じかけて力が入っていない姫香の姿。医療関係者にされるがままといった状態で横たわっており、その様子を姫香の両親が泣きながら見ていた。


「姫香!」


ガラスの向こうで力なくベッドに横になる姫香を見るなり、届くはずがない声を俺は必死で張り上げてガラスにぶつかるようにして張りついた。このまま2度と目が合うことがない気がして、無我夢中で名前を叫んだ。


「姫香!」


受話器は医療関係者が内外での連絡のために使用しており使えない。できる事と言えば声を張る事だけだった。目を開けてくれ。頼むこっちを見てくれ。俺はここだ。ここにいるんだ。このまま目も合わせないなんて嫌だ。これが最期なんて絶対に嫌だ。


「姫香!」


必死で叫んでいたその時、姫香の目がゆっくりと動いて俺を見た。俺はここにいるんだ。ほとんど動かない体をぎこちなく動かしながら俺に顔を向け、なんとか笑みを作る。傍に行きたい。そしたら抱きしめてあげるのに。絶対に離さないのに。


 そんな俺に姫香はにっこりと笑って口を動かした。声は一切聞こえなかったが、ずっと一緒にいたから何を言っているのかくらいなら理解できた。


「好き」


俺も大好きだ。そう返そうと笑顔になった瞬間、姫香の体から完全に力が抜けた。


「ひ、姫香……?」


体が突然動かなくなった。音が遠のいて、脳が思考停止しそうになる。


「ま、待って。待ってくれ。まだ何も……」


好きだと言ってくれた姫香に対してまだ何も言えていない。


「姫香! 頼むもう1度目を開けてくれ! 俺の話を聞いてくれ!」


何度叫んでも声は取り囲む壁に吸い込まれるように消えていく。


「俺も好きなんだよ! 好きだ! 逝かないでくれ! 俺を残して逝かないでくれよ! 頼むから、死なないでくれ!」


医療関係者が心臓マッサージを開始する。心拍を示しているらしいモニターは依然直線を記録したままだ。


「姫香、頼むから目を開けてくれよ!」


何か薬剤を注射するが姫香は力なく横たわったまま。ただ心臓マッサージの力に揺れているだけ。


「好きなんだ。一緒にやりたい事いっぱいあるんだよ。姫香、お願いだ……」


必死の呼びかけも虚しく、遂に医療関係者の手が止まり、モニターが直線を記録した。ベッドの上で人形のように横たわる姫香の周りから下がっていく。


「姫香? そんな、嘘だろ。そんなはずが……」


医療関係者が完全に姫香から手を引いた。受話器を通じて声が聞こえてくる声は、姫香の死を両親に伝えるものだった。


「まだ生きてるかもしれないんだ! お願いだ、やめないでくれ。頼む。あと5分でもいい。あともう少しだけでも……」


医療関係者は既に次の行動に移り始めている。蘇生ではなく、死体の処理に向けて。


「姫香! 姫香! 姫香!」


もしかしたら目を覚ますかもしれない。もしかしたらもう1度息を吹き返すかもしれない。必死で呼びかけた。


 その間も頭の中には出会った頃からの姫香との思い出が次々蘇って来ていた。直人君と呼ぶあの声が鮮明に思い出される。出会った頃の恥ずかしそうに目を伏せる仕草も、付き合い始めて嬉しそうに隣を歩く横顔も、腐敗症だと知って涙を流す儚さも、怒ったフリをしては不安そうに俺の様子を窺ってくるかわいさも、全部鮮明に覚えている。


 死こそが自然で、最期まで楽しかったことを覚えていたい。それが姫香の願いであり、俺達の約束。それに、もう2度と姫香の生命時計を戻すことはできない。生命時計は完全に止まってしまったから。


 名前を呼ぶ声は徐々に小さくなり、涙が混じっていった。嗚咽がこみ上げて、ガラスに手をつけたままずり落ちていくように座り込んだ。


「直人君」


姫香の母さんが俺を抱きしめてくれた。耳元で泣く声が聞こえて、姫香は本当に死んでしまったのだと理解した途端、感じたことがない胸の痛みに襲われた。このまま胸が裂けてしまうような痛み。涙が絶え間なく流れて、俺は声を出して泣いた。

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