第4章 約束と願い(2)
「姫香」
姫香は泣き腫らした赤い顔で俺を見る。その顔は今まで見た中で1番悲しげで苦しそうだった。俺のせいだ。俺が君を傷つけた。拳を握りしめる。
「ごめん、姫香。俺のせいなんだ」
「どういうこと?」
俺は説明した。本当ならもう姫香は腐敗症で死んでしまっている事、時間を巻き戻して何度も姫香を助けようとした事、そのせいで姫香以外の時間だけが進み、姫香の記憶はずっと同じだから時間が突然過ぎ去ったように思える事。俺が知っている事を包み隠さず、丁寧に姫香に伝えた。
「俺のせいだ。俺はただ姫香に生きてて欲しかった。だから、何度も時間を巻き戻して、結果的に姫香を傷つけた。ごめん、姫香……」
謝っても謝りきれない。姫香の大切な財産である記憶を奪ったのだから。そのせいで姫香は必要以上に苦しむことになったのだから。夢のような話を、姫香は何も言わずにただじっと聞いてくれたけれど、俺は姫香を見ることが怖くて俯いたままだった。俺のせいなのだ。俺がバカだったんだ。こんな話を信じられるはずがないと思っていた時、不意に優しいものが俺を包み込んだ。
「姫香?」
姫香は俺を抱きしめてくれている。ただ静かに涙を流して、姫香は言った。
「そうだったのね。私、ひどい事を言ったわ」
「信じて、くれるのか?」
俺が尋ねると、姫香は笑った。
「直人君が私に嘘をついたことないもの」
そうして姫香は少し間を空ける。
「ごめんなさい。私のせいで、直人君に何度も苦しい思いをさせていたのね」
「そんなことない。姫香は悪くない。全部俺が――」
そう言って姫香を見た瞬間俺は言葉を失った。何かを決心した顔。決心したことを聞いてしまうのが恐ろしい。話させたくないのに言葉が支えて出てこない。その間に姫香は微笑んで言った。
「でも、もういいのよ。私、直人君の事も、羽鳥君と3人で笑ったりしたことを忘れてしまいたくない。忘れてしまうぐらいなら、死ぬ最後まで楽しかった思い出を覚えていたい。生きていて楽しかったことを思い出していたい」
姫香は俺を離すと、涙に濡れた顔で言った。
「だからもう時間を巻き戻さないで。これがあるべき姿なのよ」
「でも、俺は――」
失いたくない。
「だからもう、苦しまないで」
こらえきれずに俺は姫香を抱きしめた。死んで欲しくない。傍にいて欲しいんだ。そんな気持ちを胸の中に押し込める。
「姫香がそれを望むなら……俺は2度と時間を巻き戻したりしない」
口にしてみると、その瞬間これが最後の時間なのだと実感した。もう2度と戻らない。俺が弱っていく姫香を見るのはこれが最後ということになる。俺は強く姫香を抱きしめた。この温もりも、抱きしめ返してくれる腕もいつなくなってもおかしくない。2度と時間を巻き戻さない、これが姫香との約束だった。
俺と姫香はできる限り多くの時間一緒にいた。今まで一緒に行ったところを巡った。遊園地で観覧車に乗って一緒に写真を撮り、ゾンビ映画を見に行き、一緒に焼肉を食べに行って姫香推しの肉を食べ、桐斗と3人でプリクラを撮りに行った。1日に何枚も写真を撮り、毎日放課後は一緒に行動した。桐斗はなんだかよくわかっていなかったが、俺に合わせて思い出作りに協力してくれた。
買い物に行けば絨毯を見て腸みたいだと喜んだり、ポンプと聞いただけで心臓を探したりする。両親に勧められて旅行にも行った。部屋に露天風呂がある旅館に泊まって交替で入って景色を楽しんだりした。
そんな中で姫香がやりたい事があった。それは都会では見られない星を見に行きたいと言うものだった。俺達は田舎町へと向かい、宿をとってから夜、星を見に行った。有名な展望台がある所で、普段は昼間に海を見る為に観光客が訪れるところだった為、訪れた時には誰もいなかった。
展望台は海を一望できる所で、俺達はそこにあったベンチに腰掛けて頭上に広がる星空を一緒に眺めた。都会ではほとんど見えない星も、ここでは綺麗で瞬いているように見えた。宝石がちりばめられたような綺麗な星空に見惚れていると、姫香が指差した。
「見て。あれって冬の大三角じゃない?」
姫香が指す先には星が巨大な三角形を作っていた。俺は少し離れたところにある星座を指差す。
「ほんとだ。じゃあ、あれがオリオン座か」
宿で一緒に下調べしていた星座を2人で見つける。ふと隣で楽しそうにしている姫香を見た。腐敗症のせいで体がしんどいようにも見えない。腐敗症なんて全部夢だったらよかったのに。
「綺麗ね、直人君」
「あぁ、綺麗だ」
月光に照らされた姫香の横顔が綺麗だ。穏やかなその顔を眺めながら、一目惚れした時の何倍も姫香の事が好きになっているのだと感じる。腐敗症だなんて分からないくらい元気なのに、今も姫香の体では少しずつ病が蝕んでいる。どうして姫香だったのだろう。姫香は今まで一生懸命頑張ってきた。保母さんになるという夢も叶わない。俺は、この人が死んでいくのを救えない。どうして俺は何もできないんだ。せっかく手に入れた特別な力も結局何の意味も成さなかった。
「晴れてよかった。今度はいつ一緒に星空を見れるか分からないもんね」
「そうだね」
返事をしながら必死で涙をこらえた。君が笑っているのに俺が泣くなんておかしい。頼む。もう少し俺達に時間をくれよ。そのためならなんだってするから。俺から姫香を奪わないでくれ。唇を噛みしめた。
なぁ、姫香。俺がどれだけ君のことを好きか分かる? 俺、初恋だったんだ。誰も好きなったことなんてなくて、一緒にいた日々はドキドキして楽しくて、幸せで、世界ってこんなに幸せに満ちてるんだって思えたんだよ。世界中で何よりも姫香が大切だった。傍にいてくれるだけでいい。当たり前だと思ってたあの頃自分を叱ってやりたい。一緒にいられることが当たり前のはずがない。全てには終わりがあるんだ。だから今と言う時間を精一杯大切にしなくちゃいけないんだ。その時しかないのだから、伝えたいことはその都度伝えるんだ。こんな大切なことを今さら気づくなんて、なんて俺はバカなんだろう。
この気持ち全部は言わないようにする。優しい姫香の事だから、きっと俺の気持ちを痛いほど理解してまた涙を流すんだろう。それがわかっているから、俺は言わない。姫香が泣くのを見たくないから。だからこの気持ち全部こめて言うよ。
「姫香、好きだよ」
腐敗症などなければよかったのに。姫香でなければよかったのに。どうして姫香なんだ。なんで俺は何もしてやれないんだ。隣で見ていることしかできない。そんな俺に姫香は笑顔を向けてくれた。俺の気持ち全部見透かしたみたいに言う。
「直人君、傍にいてくれてありがとう。それだけで私は幸せよ」
姫香は優しい。そのことは傍にいた俺が1番知っている。でも、今そんなことを言われたら苦しくて、胸が締めつけられて、目が熱くなる。姫香、君はきっと俺の事を誰より理解しているんだろう。人を見る目があるから、俺自身よりずっと俺の事を理解してくれているんだろう。
「こんなことになっちゃったけど、直人君がいなくちゃ私不安で塞ぎこんでたわ。傍にいてくれるからこうやって前を向けるの。だから自分を責めないで」
本当は不安だろう。怖いだろう。だから責めて俺がしっかりして支えなくちゃいけないのに視界がぼやけてしまう。
「私も、直人君が好きよ」
両目を潤ませて笑う姿を見て、俺は強く姫香を抱きしめた。時間よ止まってくれ。これ以上進まないでくれ。神様お願いだ。優しい、いい子なんだよ。俺には必要なんだ。姫香がいてくれたら俺はもう何もいらないから、だから、この子だけは連れて行かないでくれ。涙はこらえきれなかった。やがて姫香を失ってしまうという悲しみを抱きながら、今だけは絶対に離さないように強く抱きしめた。誰にも連れて行かれないように腕の中に閉じ込めた。




