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第4章 約束と願い(1)

第4章 約束と願い


 それからしばらく経ったある日、姫香が学校を休んだ。携帯には1通、微熱があるから休むという内容のメールが届いており、文字を読んだ瞬間全てを悟った。これから何を言われて、どんな日々を送り、姫香がどうなっていくのか。それは俺にとってトラウマでしかなかった。それでも初めて言われた時と同じように話が進み、6時に芦野宮公園に集合ということになった。足取りは重く、どうしたらいいのか分からないけれど、行くしか思いつかなかった。


 あの日と同じように姫香は既にベンチで座って待っていた。そうしてまた俺に笑顔を向けるのだ。


「あのね、今日病院に行ったら腐敗症だって言われちゃった」


胸をえぐるような痛みだった。時間を戻しただけだからまた腐敗症を発症する時期になればこうなることは当たり前なのに俺は姫香を助けたとばかり思っていた。違う。姫香は腐敗症になってしまうんだ。


 あの時と同じように姫香を抱きしめた。ごめん。ごめんな。こんな苦しい思いをさせて。どうして俺はこんなに無力なんだろう。助けられるなんて嘘じゃないか。時間を戻しただけということはただ苦しい事を先延ばしにしただけ。それだけなのに勝手に姫香を助けたと思っていた。俺はどうしたらいい? このまま姫香に何もしないのか? 分かってる。それが自然なんだってことぐらい分かってる。


 その日から、俺はまた桐斗と姫香の家に通った。姫香に会う度、この先どうなっていくかが思い出されて苦しくなる。


「直人君、卵黄たっぷりプリン買ってきてくれたの?」


「好きだろ?」


必死に笑顔を作って、俺は姫香に何も知らないフリをし続けた。プリンを片手に幸せそうに笑う姫香を見ると胸が痛む。今も少しずつ死に近づいているんだ。


 やがて姫香が倒れて隔離病棟に入院し、迷いはさらに増していった。戻すだけなら結局姫香を救うことはできない。戻せば戻しただけ姫香は時間を失っていくんだ。それでも、姫香の目から徐々に輝きが失われれば失われるほど俺は失ってしまう恐怖に駆られた。死に近づいている。


 家に帰れば部屋で小さくなった。


 姫香の時間を戻すべきか。


 姫香が死ぬのを見届けるべきか。


「俺は、俺はどうしたらいい?」


頭を抱えてただその問いの答えを探すのだ。答えなどないのに。


 その問いが1日の大半を占めるようになり、姫香に会うほどその苦しみは増していった。会話をすればするほど死を間近に感じてしまう。戻せば姫香は一時的に助かるが、結局それは死を先延ばしにしているだけなんだ。何をしても姫香には思い出すら残らない。その事実を知って傷つくのは姫香だと理解していても、どうしても俺は姫香を失いたくなかった。


 優しくて、思いやりがあって、俺のことを理解してくれて、笑顔を見ているだけで幸せだから。そんな人がこの世界からいなくなってしまうことがどうしても受け入れられないのだ。


 体が溶けはじめれば近いうちに姫香は死ぬ。それが分かっているからこそ、姫香の体が溶けてきた時点で姫香の時間を巻き戻した。分かっていた。それをすることでさらに姫香の記憶と俺達にギャップが生まれてしまう。俺がフォローしきれる範囲を超えてしまうことも。


 それでも俺はやっぱり生命時計に頼ってしまった。生きていて欲しい。君の傍にいたい。その笑顔を見ていたい。その声も、優しさも全部手放したくない。事情を理解しているのは俺だけだった。姫香の記憶がない事も知っていた。一緒に撮った写真から姫香が消えてしまうことも分かっていた。俺には時間を戻すことしかできなかった。姫香は同じ時間を何度も生きる。同じことを言って、同じように笑って、そして同じように失っていく。


 日々苦悩しながら、俺は遂に生命時計を巻き戻して3度目を迎えた。死にかけた姫香がまた元気になった姿を見ると自分勝手な都合だと分かっていても安堵してしまう。姫香は生きている。それだけで十分だった。抱きしめることができる。話すことができる。傍にいることができる。その全てがどれだけ大切なことなのか痛いほどに分かる。どうして俺は今までこの事を疎かにしてきたんだろう。




 そんなある日、訪ねた姫香の部屋で、姫香が泣きそうな顔をした。


「どうした?」


恐る恐る尋ねる。


「私、記憶がないの」


心臓が一際大きく跳ねた。姫香は俺の貸したノートを開き、どこからか手に入れた写真も広げていく。


「授業、こんなに聞いたことがない。体育祭があったことも、文化祭があったことも、2年生になったことも、何度も入退院を繰り返している事も全部知らない。私、どうしちゃったの?」


いつしか姫香と俺達の記憶の差は半年を超えていた。姫香からしてみれば目を覚ませば半年以上時間が流れ、その間の記憶が全くない状態なのだ。自分が過ごしてきた時間を周りだけが覚えているのは恐怖だっただろう。


 姫香の両目に涙が溢れ、


「腐敗症は記憶まで消してしまうの? 私、どうなってるの?」


と言って姫香は両手で顔を覆い、泣きだした。今の姫香は腐敗症だと診断されて経過観察の状態。不安が限界を超えたのだろう。姫香の時間は進んでいないから、巻き戻せば巻き戻すほど姫香は突然世界が何カ月も経ってしまったということに苦しむことになる。広がっていくギャップが姫香により大きな不安をもたらしているのだ。


「私、忘れたくないよ。だって、直人君は知ってるんでしょう? 私と何をしたか、どんなことを話したか全部知っているのに私だけ忘れちゃうなんて、こんなの嫌だよ」


姫香は限界だった。追い詰められて、記憶を失う恐怖に苛れて、初めて腐敗症になった時以上に苦しんでいた。俺が苦しめている。言ってしまおうか。本当は俺が時間を戻していたのだと。きっと俺が真剣に言ったら姫香は信じてくれる。でも言ってしまったら姫香はなんて言うだろうか。勝手に時間をいじって記憶が無くなったことに怒ってしまうだろうか。


「どうして私こんなことになるの? どうして私だけ、こんなことになるの……?」


それでも目の前で苦しむ姫香をこれ以上放っておけなかった。もう言うしかない。真実を言わないと、本当に姫香が潰れてしまう気がして、姫香に向き合った。

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