第3章 歪んだ時針(4)
姫香は健康そのものだった。腐敗症で苦しんでいたあの頃が嘘だったかのようで、翌日から前と同じように元気に登校した。教室中が腐敗症完治に対して疑惑の目を持っていたが、以前と変わらない様子を見ると少しずつ信じていった。
「姫香ちゃん、腐敗症治ったんだって?」
俺が登校するなり桐斗が言った。
「そうだよ。完治したんだ。これで学校に通えるし病院に閉じ込められる必要もない」
「まさか、あの腐敗症を治しちゃうなんてな。その生命力に乾杯だな」
と、ゲームをグラス代わりに乾杯する。こういう時ぐらいゲーム置けよ。そう思いながらもこれといって怒りは無かった。どっちかと言うと日常が戻ってきた喜びの方が大きかったのだ。これで元通りだ。普通に授業を受けて、一緒に帰って、デートに行って、今までと変わらない日々が帰ってくる。その時、登校してきて隣にやってきた姫香が尋ねた。
「私、腐敗症だったの?」
どういうことか理解できないと言う顔だ。腐敗症だった頃の記憶は姫香にないのだからそう思うのも無理はないだろう。納得しているのはもちろん俺1人で、よくわからないだけの姫香に対し、桐斗は眉間にしわを寄せた。腐敗症が治ること自体理解不能なのに、記憶まで無くなっているのだから医大志望の秀才が理解できないのは当たり前だ。とにかく今話をややこしくされたら困るので、
「まぁ、いいじゃんそんなこと。それより今日の放課後3人でカフェでも寄ろうぜ」
と、話をはぐらかした。姫香が不安にならないように俺がフォローすればいいのだ。
しかし、姫香の記憶と俺達の記憶とのズレはそれだけでは終わらなかった。姫香にしてみれば、腐敗症だったという記憶がないため、いつも通り学校に来たにも関わらず突然何ページも飛ばして授業をしていることになる。姫香のノートには何も書かれていないが俺達のノートには板書が残っていて、授業があったことは明らかだった。周りの人達には腐敗症が治って良かったと言うが、姫香はその言葉の意味さえよく分からないのだ。
俺は1日何とか姫香をフォローし続けた。それでもこれからもフォローしきれるものではない。何とかしなければならないが、記憶がない姫香になんて言ったらいいのだろう。バイブしたことに気づいて携帯を取り出すと、たまたま貼っていたプリクラが目に留まった。あれから何度か撮りに行ったプリクラだが、それを見た瞬間あまりの衝撃に携帯を落としそうになる。
最初に撮ったものを除く全てのプリクラから姫香の姿が消えていたのだ。姫香の腐敗症が発覚してから3人で何度も撮りに行ったプリクラ。その度に貼って増やしていき、今や俺の携帯の裏には覆い尽くすほど貼られていた。不自然に空いた空間には元々姫香がいて一緒に写っていたのに、顔の横に書いた落書きも、姫香に関するものは全て消えていた。心臓の音が急に大きく聞こえて血の気が引いていく。
はっとして慌てて携帯の受信ボックスを開いてみると、姫香専用の受信ボックスにはある日を境にして、それ以降の保存メールが全て消えていた。不安になって手を開き、生命時計を出す。
「ケイ!」
凍りつき色を失った時間の中で、ケイは既に目の前に立っていた。
「どうした? 生命時計に何か不具合でもあったか?」
「違う! どういうことだよ! 姫香の記憶が消えるのは分かるけどなんで写真まで消えてるんだ!」
その問いに、ケイは表情一つ変えることなく淡々と話した。
「それは当たり前だろナオ」
当たり前? 一体どういうことだ?
意味が理解できていない俺に、ケイは続ける。
「考えてみろ。例えば、仮に午後3時にナオが図書館に行って本を借りたとする。そこからナオの生命時計を逆回転させて午前9時まで戻せば、図書館で本を借りるどころか、図書館にすらいない。それはナオが図書館に行く前に戻ってしまうからだ。同時に図書館に行く前なのだから本を借りたという事実は無くなるわけだ。さぁここで問題だ。午前9時の直人の手元に午後3時に借りた本はあるか?」
答えは明らかだった。
「ない……」
ケイはゆっくり口角を上げて怪しげな笑みを浮かべた。
俺はいつまで時間を戻した? 急に恐ろしくなって頭の中で整理してみる。姫香は腐敗症になっていない、桐斗を知っている、かつ俺と付き合っているという認識があることから大体2月くらいの頃だと仮定できた。2月頃を仮に「前の姫香」、俺が時間を戻す直前の衰弱しきった姫香を「戻す直前の姫香」と呼ぶことにしよう。ケイの話を当てはめてみると、午前9時が「前の姫香」で午後3時が「戻す直前の姫香」ということになる。「戻す直前の姫香」が経験していた事は「前の姫香」にとって未来に起こる出来事であり、「前の姫香」まで時間を戻せば経験していたという事実は無くなってしまうと言うわけだ。
「午前9時のナオに午後3時の記憶はあるか?」
他の選択肢を探すが、あるのはただ1つの答え。
「ない……」
「分かってるじゃないかナオ。そうだよ。答えはない、だ。生命時計で時間を戻されると戻された分の記憶と存在していた証拠はなくなる。まぁ、今回はあの女の子の時間だけを戻したから他の人間の記憶から消えたりはしないが、あの子がやっていたはずのことは消失している。それはナオだってもう分かってるはずだ。だから僕を呼んだんだろう?」
プリクラの事だ。3人で撮りに行ったのはまだ姫香の腐敗症が発覚していない時に撮りに行った1枚と、発覚後に撮りに行ったものがある。姫香が消えていなかったのは発覚前の1枚だけだった。他はケイの言う通り、時間を戻したことで姫香は行っていないことになり消えていた。今の時間の流れの中で姫香だけが時間を戻されている状態なのだ。
「時間を戻して、戻す前にやったことと違うことをすれば行動は上書きされる。僕がトラックに轢かれそうになっていた子供を助けた時のことをナオは見ていただろう?あれはつまりトラックの運転手の生命時計を戻し、子供の生命時計を進めることで子供と運転手どちらの行動も事故は起こらなかったという事実を上書きしたということだ。考えてみれば当たり前の事だろう?」
ケイ声の調子を一切変えることなくそう言った。
「ナオ、ついでに教えてやる。生命時計ができるのは時間を進めるか戻すか、だけだ。ナオがしたのはあの子の生命時計を逆回りさせて時間を戻しただけ。意味、分かるよな?」
「待ってくれ。じゃあ姫香はこれから――」
「残念だ」
その言葉に心臓が凍りつく。
「そ、そんな! これじゃあ何も変わらないじゃないか!」
と、ケイに声を上げると嘲笑するように鼻を鳴らした。
「ナオ、誰が運命を変える力だと言った? 都合のいい解釈をするな。できることは2つだけ。進めるか、戻すかだ。それで何を得ようが何を失おうが僕には関係ない。うまくできたこの世界がうまくいかない様子を見たいだけだ」
ケイはそう言い残し半透明になって消えていくのと同時に時間もまた動きだした。周囲に気を配る余裕などなく、ケイに言われたことを頭の中で整理する。
ケイは間違ったことは言っていない。時間を巻き戻したり進めたりすることだけだと確かに言っていた。勘違いしていたのは俺の方だ。俺は姫香の時間を戻して救った気でいた。本当は違うのだ。俺達が立っているこの時間軸から姫香はずれた。つまり時間そのものから姫香が存在していた証拠が消えたのだ。
「どうしたの? 直人君、帰らないの?」
突然間近で声が聞こえてビクッと肩を震わせた。
俺の目の前にいつの間にか姫香が立っていた。下校支度を整えていたクラスメイトは既にいなくなり、オレンジに染まった静かな教室で動かない俺を心配してくれたのだろう。
「あ、ごめん」
姫香に悟られないように慌てて平常心を装い鞄にノートや筆箱を押し込んだ。忘れているだけじゃない。その時の全てがこの世界から消失している。一緒に過ごした時間がなかったことになっている。その事実にようやく気がついて、冷や汗が吹き出す。俺は間違っているんじゃないのか? 何か大変なことをしてしまったのではないか?
「大丈夫? 顔が真っ青よ」
いや、今姫香の力になれるのは俺だけなんだ。俺がなんとかすれば姫香は大丈夫だ。そう言い聞かせて必死に笑った。
「財布、落としちゃったか心配になってさ。ポケットに入ってたよ」
無理矢理話を作って笑った。俺がなんとかしなければ、と気持ちだけが焦る。そんな俺の気持ちなど露知らず、姫香は笑顔で手を差し伸べてくれた。
「帰ろう直人君」
それでも隣に姫香がいる。それだけが俺の支えだった。




