第1章 優しい人(2)
そう言えばそんな日だった、と曖昧な記憶をたどりながら席に座る。俺は窓の外を見た。
空には球形の液晶画面が浮いている。ヘリコプターのようにプロペラが回転しており、安定した状態で空を進んでいる。まるでボールにプロペラをつけて飛ばしたようなもので、空上モニターと呼ばれていた。除染後に地上で発生した未知の病が流行した際、このモニターから最新の予防方法や対応の仕方を流して各自の予防を徹底させることでパンデミックが食い止められたのだという。緊急時、より多くの人に情報を届けられるようにと、今でも全国の至る所で空上モニターが飛び交っている。今では予防法のために使われると言うよりも、毎朝ニュースを流す単なる無料放送の機械でしかない。
空上モニターでは、終戦して1000年目というニュースが流れていた。音声は一切なく、代わりに字幕が付いているため、通勤通学の暇な時間に見る人が多い。
今日は「腐敗症研究行き詰る」という文字が大きく映されていた。字幕を読んでいくと、腐敗症の研究は常に進められており、一時期特効薬完成への進展が見えていたものの、今になって急に問題が発覚して研究が滞ってしまっているようだ。核戦争なんて1000年も昔のこと。正直核戦争時代を生きていた人なんてもういないし、誰もその時の事を知らないのに戦争のツケは未だに払い切れていない。俺は黒板に書かれた腐敗症の文字に目線を戻した。
昼休みに入ると、岸さんの周りには人だかりができていた。男女共に放っておけないのだ。もちろん今すぐその話に入りたいのは山々だが、正直あの集団の中にねじ込んでいけるような度胸は無い。特に周りを取り囲む女子陣を敵にすると厄介だ。
「藤沢直人!」
人の間からたまに見える岸さんを眺めながら紙パックのジュースを飲んでいた俺は、突然大声で名前を呼ばれて我に返る。いつの間にか購買で昼食を買って帰ってきた桐斗が隣で不満そうな顔をして立っていた。
「あ、おかえり」
とりあえずそう言っておく。
「全く、俺が何回お前に声をかけたと思ってんだよ。ことごとく無視しやがって」
桐斗は隣の席を勝手に借りて机におにぎりを並べた。桐斗はそのうちの一つを手に取ると、個装を解きながら言う。
「お前さ、姫香ちゃんのこと好きだろ」
あまりの唐突さに飲んでいたジュースを盛大に噴きだしてむせた。桐斗が腹を抱えて笑いながらティッシュを渡してくる。
「お前分かり易すぎなんだって。ずーっと姫香ちゃん見てるんだからミミズでも分かるわ」
「え? ミミズも? 俺ってそんなに人間とかけ離れてんの?」
桐斗は俺の言葉を自然に無視して囲まれている岸さんを見る。
「でもいいじゃん。普通に可愛いし、今まで全く興味なかったお前がついに大人になったってことだろ?」
しみじみと頷きながら言う桐斗にさりげなく小声で訊いてみる。
「そういう桐斗は、その、どう思ってるんだよ」
あんなに可愛いのだから桐斗も同じように好きだとしてもおかしくない。桐斗も岸さんの事が好きだとしたら確実に負ける。俺には学年トップを取る賢さも、チームを勝利に導くスポーツの才能も何一つない。平凡すぎるぐらい平凡で何が長所なのか訊かれたら目立たないことだとか言ってしまいそうだ。
「俺? 俺はもう彼女いるから興味なし」
桐斗は自慢げに言いながらいつの間にか取り出していたゲーム機に映った2次元の女の子に話しかける。
「俺達ラブラブだもんな。そうだよな~、マユミン」
鼻の下を伸ばしてデレデレしている桐斗に、ゲームの画面からマユミンことマユミは投げキッスをした。
「私も、キリタンのこと大好きよん!」
彼女の何が良いのかさっぱり分からないが、桐斗はご執心だ。
桐斗は勉強もスポーツもできるまさに文武両道な男。背も高いしルックスも悪くない。そんな桐斗がモテない理由は、2次元しか愛せないということだろう。確かに最初こそ桐斗に好意を寄せる女子が何人もいたが、その度に桐斗はマユミンがいるからごめんと断って来た。俺は一体何人女の子とは思えない衝撃的な表情を見てきただろうか。偏見かもしれないが、あれは女の子がするような顔じゃなかった。完全にあれはホラーだった。
「まぁまぁ、恋愛に関してはプロの俺に任せろよ」
「お前2次元しか知らねーだろ」
そう言った俺の肩を掴み、桐斗は急に真剣な顔で言う。
「まず、今日の帰りにやっとけ。これで姫香ちゃんも落ちること間違いない」
数秒間たっぷりと間をとり、言った。
「まずは手始めに壁ドンだ」
「断る!」
「なんで?」
「なんでじゃないわ! それ完全にゲームのやり過ぎだろ!」
間髪いれずに却下した俺に、桐斗は理由がわからないという顔をする。
「女性陣はこれされたらイチコロだってマユミンが言ってたから間違いないんだって!」
「色々間違っとるわ! 初対面の相手に壁ドンしたら警察呼ばれるわ!」
俺は額に手で押さえてため息をついた。
「お前って本当に恋愛に関しては残念だよな」
この時、桐斗の意見は参考にしないでおこうと誓った。