第3章 歪んだ時針(3)
「君、面白いね。上手くいきすぎる世界なんてもう飽きてたから丁度いい。君にこの力を貸そう。いらなくなったら言ってくれ。それまでその力は君のものだ」
少年がそう言って俺の頭に手を触れた。その瞬間何か冷たいものが全身を駆け抜ける感覚があった。目の前が真っ白になり、少年の声だけが聞こえる。
「僕に会いたい時は力を使って周囲の時間を止めて呼べばいい。そうだな、名前はケイでいい。そしたら君の前に現れてやる」
気がついた時には隣をトラックが通り過ぎていった。地面に膝をついた状態でいた。夢でも見ていた気がして、俺は体の前に拳を突き出した。手の平を空に向け、一気に開く。
直後、手の平の上に時計が現れた。懐中時計に似ているが、まるで時計が粘土でできているようにぐにゃぐにゃに曲がってしまっている。宙で浮く時計はその針さえも波打った状態で、でたらめな文字盤の上をゆっくりと時計回りに動いていた。現実だったのだ。少年ケイがやっていた事は現実に起きていたのだ。つまり、今手の平で宙に浮いているこの時計が俺の生命時計。これが俺の命の時間を表す時計ということだ。
生命時計の文字盤は円を描くように並ぶわけでもなくただ数字が散らばっていて、どこをどう示しているのかは全く分からない。ふと周りを見てみると、景色は白黒に変化していて、固まっている人達の頭の上にも俺と同じような時計が浮いていた。違うと言えば時計の針が俺以外の全員止まっていた。今ここでは、俺だけが流れる時間の中に生きている。周りの人は写真と同じだ。時間が戻るわけでも進むわけでもなくただその一瞬に繋ぎとめられているのである。
ケイが力を貸してくれた時に使い方も一緒に教えてくれていたようで、ここからどうすればいいのかは頭で理解していた。範囲もどれだけ時間をいじるのかも自由自在。
自分の生命時計を宙に浮かせたままペットボトルを落とした女性の時計を指差し、クルリと回すと、針は少しずつ反時計回りに回り始めた。すると、ペットボトルは逆再生するように手元に引きつけられていき、飛び散った水の粒が飲み口に吸い込まれるように戻っていく。ペットボトルは全ての水の粒を集め切り、女性の手元に戻ると、女性の表情もまた驚きに満ちたものから真顔へと変化して俺はそこで戻すのを止めた。
女性から目を離し、手の平で押し上げるようにして生命時計を頭上へと飛ばすと、時計は光の輪へと変わり、ゆっくりと落ちながら景色に色をつけていく。輪が地面に落ちて地面が色づくと、突然周りは動き始めた。時間が進み始めたのだ。
「この力があれば姫香を助けられる」
俺は姫香の元へと駆け出した。
肩を上下させながら姫香の病室に到着した俺はガラス越しに姫香の姿を確認してから、先ほどと同じように手の平を開いた。手を開いたその一瞬で景色が色を失い凍りつく。その光景に目もくれず、姫香の頭の上に浮く生命時計を指差して反時計回りに回した。
歪んだ針が少しずつ逆に回り始める。それに伴い、虚ろだった姫香の目も徐々に開き始めた。みるみるうちに腐敗症になっていない元気な頃へと戻っていく。目は輝きを取り戻し、笑顔が戻ってきた。
その頃まで戻ってくると、自然に針は止まった。これで姫香は隔離病棟から出ることができる。間に合ったんだ。これで、姫香は助かる。時間を進ませると、まるで一時停止していた映画を再生した時のように止まっていたものは同時に動きだした。
数秒も経たないうちに防護服を着ていた内の1人が声を上げた。その声に周囲の人達も次々驚いた声を上げる。
「まさか、そんな……」
「信じられない」
そんな声が病室の電話を通じて聞こえてくる。
「治っているなんて……」
その声に、俺は思わずガラスに張りつくようにして中を覗いた。何が起こっているのかいまいち理解できていない姫香を手分けして観察している。包帯はきれいなままで、驚きに満ちた声が何度も上がった。
「何もない……」
防護服を着ている人達は狐につままれたような気持なのだろう。だって、姫香の時間を腐敗症の症状なんてない健康な時まで巻き戻したのだから腐敗症の痕などあるはずがない。
医療関係者がパニックになっているのを姫香が不思議そうに見ている。立て続けに質問されて驚きながらも答える元気な姫香の姿を見るなり体から力が抜け、そのまま座りこんだ。良かった。姫香。君はこれで救われたんだ。
「直人君、そこにいるの?」
久しぶりに聞く元気な声。もう聞けないと思っていた大好きな声。姫香は助かった。そう思うと安堵のため息と一緒に涙が溢れた。両手で顔を押さえて数秒泣いてから無理矢理涙を拭う。
立ちあがると、ガラス越しに微笑む姫香がいた。あぁ、良かった。本当に良かった。今すぐ触れたい。今すぐ駆けつけたい。そんな気持ちでガラスに手を触れる。
「いるよ姫香。いつだって姫香の傍にいるよ」
と、返した。良かった。それだけでいい。生きていてくれたらそれだけでいい。俺はガラス越しに姫香を見た。姫香が手を振っている。
「私どうしてこんなところにいるの?」
そうか、姫香の時間そのものを巻き戻したから姫香の中から腐敗症だったという記憶は無くなるのだ。それでも構わない。俺は涙目で笑った。
「何でもないよ。何かの間違いさ」
姫香はその後何度も検査をされ、結果は全て陰性だった。医療関係者は信じられないと言っていたが病気でない以上必然的に退院という形になった。
隔離病棟から笑顔で出てきた姫香を見た瞬間、俺は人目も気にせず姫香に抱きついた。恥ずかしいと離れようとする姫香を決して離さなかった。温かい。生きている。立っている。ここにいる。本当に腐敗症は治ったのだ。目は虚ろで今にも息絶えそうだった姿など見る影もない。
1度体を離して指先を見てみると、細くて綺麗な手があった。本当に良かった。手を握りしめ、額に押しつけるようにして大きく息を吐く。また涙が出てくる。嬉しいのに涙が止まらない。
「どうしたの直人君」
姫香が恥ずかしそうに言うが俺はもう1度無視して抱きしめた。もう抱きしめる事も出来ないと思っていたのに、今俺はこうして姫香を抱きしめることができるんだ。姫香が元気でいてくれたらそれでいい。それだけでこんなに幸せなんだ。
病院側からすぐに姫香の両親に伝えられ、両親は仕事そっちのけですぐに駆けつけた。何事もなかったかのように自分で立って笑っている姫香を見るとどちらも泣いて喜んだ。
「良かった、姫香!」
両親に抱きしめられながら、何が起こっているのかよくわかっていない姫香が俺を見るが何も言わずに笑った。また涙がこみ上げてくる。わけが分からないかもしれないけれど、今は何も訊かないで欲しい。1人1人が姫香の退院で胸がいっぱいなのだ。




