第3章 歪んだ時針(1)
第3章 歪んだ時針
姫香は学校を休むようになった。感染力を持たないとはいえ、腐敗症に感染しているということをクラスメイトが知るのも時間の問題だし、怖がるだろうと考えて自ら休んだのだ。そのため授業が終わればすぐに姫香の家へ向かい、できる限り傍にいた。
医学部を目指している桐斗は腐敗症がどのように感染するのか、いつ感染力を持つのか、俺が調べる以前に全て知っており、俺達は授業終わりに姫香の家に行くのが日課になっていた。テレビを見て笑って、桐斗が持ってきたゲームをして、どうでもいい話をしてみたりして。姫香の状態はほとんど変わりがなく、今までとなんら変わりがなかった。
そのため、3人でゲームセンターに行ってもう1度プリクラを撮った。姫香を真ん中にして3人肩を組む。顔の横に名前を書いて、それぞれが落書きをして完成させる。俺達はそのプリクラを前に撮ったものの横に貼り付けた。少しずつこういうものが増えていけばいいなと思う。その第1歩だ。
姫香が倒れたのは俺達が腐敗症の進行など忘れかけていた時のことだった。突然家で倒れたらしく、メールに気がついてすぐに両親に連絡してから姫香が搬送された病院へ向かった。
姫香は隔離病棟に入院を余儀なくされた。隔離病棟の病室は他と違った構造になっており、姫香のベッドがある部屋と一般人が入れる場所までは2重の分厚い壁に隔てられていた。そのせいで姫香の様子を見ようにも壁にある分厚い特殊ガラス2枚越しだと細かな表情までは分からなかった。
声が全て壁に吸い込まれていくようで、直接話すことはできず、俺達を繋ぐのは病室の内外に設置された電話だけとなった。姫香のベッドにはマイクとスピーカーが取り付けられているようで何もしなくても会話ができている。俺は受話器を耳に当てながらガラス越しに姫香を見て声をかけた。
「姫香、聞こえる?」
「受話器から聞こえる直人君の声、なんかいつもと違うね」
それが隔離病棟での俺達の初めての会話だった。受話器から聞こえてくる声はどこかこもったように聞こえるが、それでも今話しているのが姫香だということは手に取るように分かる。
「あれ? 誰の声だろ。分かんないなー」
自分でも棒読み過ぎて笑えてくるが姫香は真に受けたようでガラス越しの俺に慌てて手を振ってくる。
「直人君! 私だよ。今話してるの私なのよ」
どうやら真に受けてしまったようで、慌てて俺に向かって手を振ってくるところがまたかわいい。そんな姿を見て吹きだした。
「冗談だって。姫香だってわかってるよ」
「もう、嘘ついたのね!」
きっと今頬を膨らませて怒り顔なのだろう。ガラス自体は透明だというのに微妙な歪みからか姫香の表情をはっきり見ることはできなかった。それでも分かる。君は今かわいい顔で怒っているんだ。
「ごめんごめん。機嫌直してくれよ」
「そんな意地悪する人、私知りませんよーだ」
そう言って1度窓の方に寝返りをうつが、数秒してチラリと俺の方を見てはまた窓の方に体を向けるのを繰り返している。無視していたいが俺の事が気になって見ているようだが本人は気づかれていいないと思っているようだ。怒っていないのは見え見えなのだが、ここはあえて気づいてないフリをしてあげる。
「怒らないでくれよ。ほら、今度大好きな卵黄たっぷりプリン、持ってきてあげるから」
「私は食べ物に釣られるような女じゃないもん」
と、言いながらチラチラ見てくる頻度が増えている辺り、実は食べたいのだろう。
「じゃあ、今度一緒に肝臓のクッションも持ってきてあげるよ」
「ほんと!?」
勢いよくこっちを見てきて、俺はまた吹きだした。
「あ! また笑ってる!」
恥ずかしそうに声を上げる姫香に笑いが止まらない。
「だって、食べ物に釣られないって言ってのに内臓には釣られるんだもんな」
「それとこれとは話が別なの!」
顔が真っ赤なのがここからでも分かった。
「分かったよ。絶対持ってくるから」
姫香が笑っているのがかろうじて分かった。本当は隣で笑っていて欲しい。両の頬を引っ張ったりしてじゃれていたい。暗くなりかけた俺に、姫香が恐る恐る言ってきた。
「直人君、あのね、怒ってないからね。私、その……」
思わず笑ってしまう。あんなことで俺が怒るはずないじゃないか。
俺が怒ったのは1度だけ。今の時代厳禁とされているレバーの生食をこっそりしようとした時だけだ。核戦争前は食べることができたらしいが、今では禁止されている。原因は確か放射能による細菌の突然変異だった気がする。詳しくは知らないが人体にかなりの悪影響があるらしい。それでも1口食べてみたかったようで食べようとしたところを俺が偶然発見した。あの時はそれから1週間内臓に関わるもの全て禁止のペナルティーを課したんだった。
「分かってるって最初から」
「え! 知ってたの?」
「当たり前だろ、それぐらい分からなきゃ彼氏失格だ」
特に打ち合わせもしていないのに同時に笑いだした。普通同い年の女の子とこんなに内臓の話をしないだろう。引きかけた時は何度もあったが、今となってはかわいい姫香の1面である。
笑いが納まると、手を振ってみた。それを見て姫香も笑顔で手を振り返してくれる。こんなガラスさえなければ今すぐ抱きしめるのに。今すぐ傍に行くのに。受話器を握る手に力を入れた。
「大丈夫? 窮屈じゃない?」
姫香は頷いた。
「大丈夫。心配しないで」
ガラスに手を触れる。そこに姫香がいるのに、こんなにも遠い。前はいつもすぐ隣にいたのに。
病室の中にある電話で話すことが限界だったが、直接でなくても、姫香の声が聞けるだけましだった。歯がゆさを感じながらもその気持ちを隠して毎日欠かさず姫香の見舞いに行った。長い1日の中で1番楽しい時間ではあるが、その分時間が経つのは早かった。姫香の気持ちが弱った時は励まし、一緒に病気と戦おうと鼓舞すると、いつも頷いて笑顔を向けてくれていた。
それでも、その声は時間が経つほど徐々に元気を失っていった。最初の頃は内臓の話をすればどんなにしんどくても食いついていたのに、その内力なく笑うのが精一杯になっていった。
少しでも病気の事から気を紛らわせてあげたくて、授業が終われば病院まで走り、面会時間終了まで居座った。少しずつ弱っていく姫香にしてあげられる事なんてそれぐらいしかなかったから。
ガラス越しに互いを見ながら話すが、出会った頃の元気な姫香の姿とは一変していて、声も次第にかすれて顔を動かす力もなくなり、目だけが俺を向いている状態になった。心配すれば、姫香は今にも消えそうな声で大丈夫だと言った。気遣いなんていらないのに。苦しかったら弱音を吐いたっていいのに。
出来ることと言えば姫香に話しかける事だけ。傍で手を握ってやることも、抱きしめてやることももうできない。弱っていく姫香を見ていることしかできない自分の無力さに腹が立って、情けなかった。何かできないか、何かしてあげられないか、どれだけ考えても思いつかず、ただ時間だけが過ぎていく。姫香が弱っていく程に俺は結局無力なのだと思い知った。
姫香から腐敗症だと聞かされて2カ月が経った5月のある日のことだった。いつも通り授業が終わって姫香の病室まで来ると、白い防護服に身を包んだ人が中へと入っていくのが見えた。嫌な予感がして小走りで中に入って見たのは、姫香を取り囲む何人もの防護服の人達だった。何が起こったかぐらい分かる。遂に腐敗症が最終段階に入ったのだ。感染力を持ち始めたことで俺と姫香を隔てる分厚い扉に挟まれた一室は消毒や感染源の始末といった空間に変わっていた。
姫香の周りにいるのは、危険を理解した上で症例の少ない腐敗症の勉強をしに来た医学生だ。それはこれからの医療に必要なことだと分かってはいるが、正直そんなことはやめて欲しかった。姫香は研究材料じゃない。そっとしておいてやって欲しかったし、何より姫香の気持ちを考えてやって欲しかった。
ガラス越しに見えた姫香は目が虚ろで、体のあちこちに包帯が巻かれ、顔も半分が包帯で隠れていた。
この頃、姫香はもうほとんど話す事ができなかった。俺の発する言葉に時折小さく頷くくらいで、受話器を耳に押し当てても一言すら声は聞こえなかった。姫香は今何を考えているのだろう。苦しくても泣くことすら叶わないなんて残酷で、何もできないことが一層悔しかった。
防護服を着た1人が周りに分かりやすいように姫香の手を持ちあげて周りに見えやすいように包帯を取り替えている。そんな光景が不快でつい声を上げそうになったが、包帯が取れた姫香の手を見て何も言えなくなった。指先から見えた白いもの。それを見た瞬間、俺はその場に力なく座り込んだ。指先が溶けている。骨が見えていたのだ。血管が徐々に後退して壊死が進む。生きながらにして腐っていく。
腐敗症にかかった人は手足の先から溶けていくと言葉では理解していたものの、実際目にしてみるとショックは大きかった。姫香の体に巻かれた包帯はどれも滲み出した体液で濡れているのだろう。体が震えて止まらず、心の整理をしたくて病室を後にした。




