第2章 姫香の告白(4)
姫香は笑っていた。そして、泣いていた。どうして今まで気がついてあげられなかったんだろう。姫香が平気なはずがないのに。大丈夫だと繰り返していたが、誰が見てもその姿は「大丈夫」ではなかった。一生懸命心配をかけまいと笑顔を作る姿があまりにも見ていて苦しくて、姫香を思わず抱きしめた。姫香は優しいから、俺の事を誰より理解してくれるから、俺ばっかり負担をかけてるんじゃないかって思う時がある。
「ごめん。俺、また自分のことばっかり考えてたよな。1番辛いのは姫香なのに」
「直人君?」
腕で俺を押した姫香を放さないように腕に力を込めた。
「姫香、泣きたかったら泣いていいんだ。辛かったら辛いって、言ってくれたらいいんだよ」
もっとわがままでも良いんだ。気を遣わないぐらいがちょうどいいんだ。
「俺は別れたくない。姫香が辛い時に傍にいたいし、傍にいられないほうがずっと辛い。これは姫香のためなんかじゃない。俺が傍にいて欲しいんだよ」
反応がないまま数秒が経った。急に姫香の体が震え始めたかと思うと遅れて腕の中からすすり泣く声が聞こえてきた。そっと頭に手をやり、撫でてやる。うまく声が出ない中、何度もしゃくりあげる。
「私、溶けていくのよ?」
不意に問いかけてきた。もちろん即答だ。
「構わない」
「溶けて、ドロドロになって、気持ち悪くなるのよ?」
「それでもいい」
「私、直人君を今よりもっと傷つけることになるわ……」
腕の中にいる彼女の表情を見てみると、姫香が何よりも悲しい顔をしていた。拳を握りしめた。ばか。ばかだ。自分が1番大変な時にまた俺のことばっかり考えて……。君はなんてばかで、優しいんだ。
「そんなこと、俺が気にするわけないだろ」
そう言ってもう1度抱きしめると、姫香は細い指で俺の服を握りしめ、声を上げて泣いた。
「私、死にたくない……」
ただ泣きながら弱音を吐くのを聞いて、ようやく俺は理解した。これは冗談でも間違いでもないのだ。姫香は本当に腐敗症に感染してしまったのだと。
「私、死にたくないよ……」
姫香は腐敗症なんだ。今泣いている姫香はいつもと変わりないのに。
「死にたくない。私、直人君と一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。どうして私なの? どうして他の人じゃダメだったの? どうして? どうして……」
それ以上言わせたくなくて、姫香を強く抱きしめた。涙が止まらなかった。好きだ。傍にいたい。それだけでいい。それなのに、なんで姫香なんだよ。こんなに優しくて思いやりがある子なのに、なんで姫香なんだ。そんな言葉ばかりが頭に浮かんできた。他の人に不幸になって欲しいなんてことじゃない。ただ姫香だけは見逃して欲しかった。俺が腐敗症になったっていいから、姫香だけは生かしてやってくれよ。俺と違って将来の夢も持ってるんだ。だから頼む。頼むよ。姫香は助けてくれよ。
不意に姫香が俺を見上げてきた。涙で濡れた顔で、すがるように問いかけてくる。
「直人君、一緒にいてくれる……?」
俺の事ばっかり考えて。俺の事ばっかり気遣って。優しくて、優しすぎて、かわいくて、愛しくて、そして何よりも失いたくなかった。
きつく姫香を抱きしめた。
「当たり前だろ。俺が一緒にいたいんだ」
立てなくなっても、体が溶けていっても、そんなの俺には関係ないよ。どんな風になっても姫香は姫香だ。絶対に姫香だって分かるから。
姫香をこうやって抱きしめる事も出来ない日が来るなんて信じたくない。姫香が俺の背中に手を回して大声で泣き出した時、何かの間違いかもしれないという小さな期待は完全に無くなった。残ったのは残酷な現実だけだった。
家に帰るなり埃をかぶっていたノートパソコンの電源をつけて腐敗症について調べ始めた。どんな情報でもいい。進行を遅らせることはできないか、少しでも体にいい方法はないか、どんな症状が出てくるのか、考えられる事は全て調べていった。
そんな中で分かったのは、腐敗症を遅らせる方法はないが、進行速度は個人によって違うということ。腐敗症は感染力が弱く、入院のタイミングは国の基準で決まっているということだった。
入院しなければならない症状としては、自立歩行の不可、激しい嘔吐と下痢、手足のしびれ。このうち1つでも当てはまれば即入院になる。入院先は隔離病棟で、入れば完治するか死ぬまで2度と出ることはできなくなる。
一方で、感染力を持つまではまだ時間があった。病気が進行すると手足の先が体液で濡れてくる、少しの事で皮膚がめくれる、爪が剥がれる、手足の先から壊死が始まるといった症状が出る。この時点で初めて感染力を持ち、感染拡大防止のために医療従事者もまた防護服と予防を徹底しなければならない。
患者の体液や組織が体内に入ってしまうことで初めて感染するため、体内に入りさえしなければ感染はしない。これこそが、腐敗症がパンでミックを起こさなかった要因なのだそうだ。空気感染でも起こしていたら世界中が混乱に陥っていただろうが、正しく処理していれば感染が拡大することはないのだ。空上モニターにより対処法が各地で伝えられたことで感染拡大が起こらなかったのだ。
「直人、ちょっと降りてきて」
母さんの声が聞こえて、パソコンを閉じて1階に降りて行った。
リビングに行くと、両親が机に座っていて座るように促された。緊張した空気の中椅子に座って両親と向かい合った。分かっている。姫香のことだ。
「姫香ちゃんが腐敗症だって、さっき姫香ちゃんのお母さんから電話があったわ」
父さんも悲しげにその言葉を聞く。
「父さんと話しあったの。直人、姫香ちゃんともう会わない方がいいと思う」




