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第2章 姫香の告白(3)

 寒い。それは今がまだ冬だからってことじゃない。上着のポケットに入っていた検査結果の用紙を取りだした。どの紙にも腐敗症という文字が書かれていた。何度見なおしただろう。別の病院に行って何度も検査してもらっても、医師に何度確認しても腐敗症だという診断を変えることもなかった。


 腐敗症だと理解してまず考えたのは、私は近いうちに独り先に死んでいくのだということだった。保育園の保母さんになるという夢は叶えることもできないのだと考えると同時に、直人君と一緒にいられる時間は残り少ないのだと思った。私が腐敗症だと知ったらどれほど悲しむか想像はつく。あなたは優しい人だから、傍にいて欲しいと言えば傍にいてくれるだろう。


 最初はいいかもしれないけど、私が少しずつ溶けていくのを見たらきっと苦しむ。私の事なのに、自分の事みたいに苦しんで何もできないってきっと自分を責める。


 拳を握りしめた。私、死ぬの? そう思うと急に自分の死の実感がわいてきて、悲しみが押し寄せてきた。私、死ぬんだ……。自分の両手を開いてみた。いつもと何も変わらないはずなのに、この体はもう腐敗症に蝕まれている。


「姫香」


突然かけられた声に驚いて顔を上げる。6時だって言っておいたのに、まだ30分も前じゃない。いつもそう。デートの時も私が行った時にはもう来てるんだから。どうしても直人君より先に待っていたくて30分前に行った時も、もう待ってたのよね。私に会うのを楽しみにしてくれてたことも、待たせたくないって気持ちも全部知ってるよ。私も楽しみなのよ。直人君に会えばそれだけで幸せなの。


「微熱があるっていうのにいつから待ってたんだよ。ただでさえ冷え症なのに、こんなところにいたら体が冷えるだろ」


直人君は自分の上着を脱いで着せてくれた。伝わってくる温もりや匂いに安心する。あと何回この温もりを感じられるんだろう。この温もりも優しさも手放さなくちゃいけないのね。


 ふと直人君を見てみれば辺りを忙しなく見回している。


「大丈夫か? ここじゃ寒いよな。もう少し温かい場所で――」


「ねぇ、直人君」


私、あなたが好きよ。優しくて、明るくて、たまにドジをするあなたが大好き。大好きなのに……。


「どうした?」


直人君が優しい声で聞いてくれる。私は直人君が好きだから、あなたに言わなくちゃいけないことがある。1度目を伏せ、直人君に気づかれないように深呼吸して心を落ち着けてから、精一杯の作り笑顔を向けた。


「あのね、今日病院行ったら腐敗症だって言われちゃった」


「え?」


目を見開いたまま直人君は固まった。ほら、やっぱりあなたはそんな顔をする。誰よりも優しいから人1倍苦しみを感じてしまう。それは分かっていた。それでも私は言わなくちゃいけない。どれだけあなたを傷つけても、直人君の人生を奪うようなことは絶対にしないって決めたから。


 今だけでいい。後で泣いたっていいから今は笑顔でいなければ。


「直人君、別れましょ」


その瞬間、直人君の顔が真っ青に変わっていった。直人君が傷ついている。私が傷つけている。その事実に胸が苦しくなった。今すぐ嘘だと言ってしまいたいけれど、無理やりその言葉を抑え込んで心の中で謝罪した。


「姫香……? な、何言って――」


嘘だろうと言いたげな顔をする直人君に胸が痛む。でも、きっとあなたは私の病気の事を知って不安だろうから私がしっかりしなくちゃいけない。直人君が支えなくても大丈夫なんだって示してあげなくちゃ。


 心配してほしくなかった。少しずつ弱って死んでいく姿を見せたくなかった。私のために貴重な時間を無駄にしてほしくなかった。私にとって本当に大切な人だからこそ、これ以上傷ついてほしくなかった。


 涙が溢れてきそうなのを必死でこらえながら笑って力こぶを作る。私は大丈夫だから、私は隣にいられないから、他に素敵な人を見つけて楽しい日々を過ごして。


「もし入院しちゃったら、隔離病棟行きらしいけどその時はまとまった時間もとれるわけだし、今まで読みたかった本を読んで、見たい映画だって1日見てやるの。もうDVDになってレンタルされてる頃だし見放題」


なんで私は今こんなこと言ってるの? 本当は隣にいてほしいのに、誰にも渡してくなんてないのに、私はどうして今直人君を突き放そうとしているの?


 本当は、同じ本を読んで感想を言い合ったり一緒に家で映画を見たり、2人で同じ時間を過ごしたかった。2人でやりたいこともいっぱいあった。同じ時間を一緒に歩んでいきたかった。そんなことが心の中でこみ上げるけど、口からはあらかじめ決めておいたセリフが機械的に出てきた。嘘なんてついたことなかったのに、つきたくもない嘘を必死で言って胸が痛む。締めつけられるように苦しくなる。


「だから私は大丈夫! 付き合ってるって事実があるだけで一緒にいないといけないとか、気を遣っちゃうでしょ?」


本当は傍にいて欲しい。私独り死んでいくのはどうなっちゃうのかわかんなくて、怖くてたまらないから傍で手を握っていて欲しかった。でも、腐敗症が感染力を持ってしまったらもう同じ部屋にいる事も出来ないのね。今こうやって話しているのが最後になるかもしれないのね。


「それなら友達に戻っていた方がいいと思うの。ね?」


付き合ってるっていう言葉だけで私達は特別だったし、形だけでもそれが私の自慢でもあったから、友達になんて戻りたくない。


 必死で笑顔を作っていた時、急に直人君の姿がぼやけて何かが頬を伝った。何が起こったか分からず驚いて手で触れてみると、それは透明な水の粒。まさか、泣いてるの? 今泣いたら全部無駄になっちゃう。直人君に心配かけちゃう。涙をすぐに拭って平気な顔をしたいけど次から次へ溢れてきて追いつかない。


「お、おかしいな。大丈夫なのよ。本当よ。目にゴミでも入ったのかな。大丈夫。大丈夫だから」


だから心配しないで。悲しい顔をしないで。


 必死で笑った。顔がくしゃくしゃになるのはわかったけれど不格好でもかまわない。笑顔でいなくちゃ。私がしっかりしなきゃ。それなのにどうして涙は止まってくれないの?


 笑っていてほしいの。傷つかないでほしいの。だって私は直人君の笑顔が大好きだから。


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