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第1章 優しい人(10)

 迷子の1件が終わり、ようやく映画館へ向かい始めた。周囲は高いビルが立ち並び、車が何十台も走っていく大通りを歩いて映画館を目指した。


 まだ時間は間に合う。焦る気持ちを抑えて歩いていた時、誰しも1度は聞いたことがある、並んでいたものが次々倒れていくあの音がして思わず足を止めてしまった。嫌な予感がして振り返ると、1列に並んでいた自転車がドミノ倒しになっていた。自転車を取ろうとして誤ってぶつかってしまったらしく、女性が困った顔で1台ずつ立てているが倒れた自転車は10台を超える。1人じゃ重労働だ。映画の時間も迫っているがやっぱり見捨てられず、岸さんに待っていて欲しいと言ってから手伝いに行った。結局岸さんも手伝ってくれて、自転車を並べ終えてから時間を見ると10時30分。映画館は歩道橋を超えてすぐだから間に合うだろう。何度もお礼を言われながら足早にその場を去る。急いでおくに越したことは無い。


 岸さんに謝りながら歩道橋を上がっていると、前方にミカンがたっぷり入ったビニール袋を持つおばあちゃんが一歩ずつ登っているのが見えた。階段は大変だろうし、家までは無理でもせめて歩道橋を過ぎるくらいなら持ってあげようかと思ったその時、ビニール袋が音を立てて真っ二つに裂けた。袋からミカンが零れ落ちて歩道橋の上からミカンが大量に転がってくる。


「あぁ、ミカンが」


と、声を上げるおばあちゃんの姿に俺はもう動いていた。落ちてくるミカンを必死で拾う。持ち切れなくなると岸さんにミカンを預け、転がっていくミカンを拾い集めていく。おばあちゃんがミカンを大量に買い込む理由なんて大体孫だ。それが分かるからこそ、ここでミカンを1つでも無駄にするわけにはいかないのだ。このミカンにはおばあちゃんの孫への愛がこもっているんだ!


「岸さんこれも持ってて!」


最後の1つが階段を転がっていく。もう1度岸さんに持っていたミカンを渡して夢中で階段を駆け下りていく。もう少しでミカンに手が届くというところで足がもつれ、体が前のめりになった。


「藤沢君!」


という岸さんの悲鳴に似た声が聞こえた直後、顔面を地面に強打した。あまりの痛みに数秒倒れたまま動けなかったが、何とか顔を上げて自分の手を見てみる。涙目になっているせいでかすんでいるが、ちゃんとミカンが握られていた。俺の目線の先には水溜り。何とかミカン全員救出である。安堵のため息をついてから痛みをこらえて何とか立ちあがった。


 おっとりしたおばあちゃんは俺に何度も礼を言いミカンを受け取ろうとするものの、ビニール袋が破れてしまって持ちきれない。家はこの歩道橋を渡ってすぐだというので、岸さんと一緒におばあちゃんのミカンを届けることにした。


 おばあちゃんの家までミカンを届けると、何度も頭を下げた。


「本当にありがとう。あなたは本当に綺麗な心を持っているね」


おばあちゃんにそう誉められて、照れ隠しに頬を掻きながら言う。


「いや、そんなことないですよ」


おばあちゃんは首を横に振る。


「本当にありがとうね。何かお礼をさせておくれ」


おもむろに鞄の中から財布を取り出そうとしたおばあちゃんの手を俺は素早く制止した。


「いや、それはいいですから! ただミカンを拾っただけですから!」


何度財布に手を伸ばそうが頑なに拒否する俺に、おばあちゃんは少し考えてから2つミカンを取りだすと、俺達にミカンを手渡した。


「2人のおかげで孫達が喜ぶよ。これぐらいはお礼させておくれ」


そう言って笑顔を向けてくれるだけで胸がいっぱいだった。俺達はお礼を言ってそのミカンを受け取った。どこにでも売っているミカンなのに、特別な気がした。


「本当に、ありがとう」


胸が温かくなる言葉。それだけで十分だ。幸せな気持ちのまま何気なく腕時計を見ると、時刻は10時50分を指していた。10時50分だと!


「おばあちゃん、俺達はこれで!」


「ありがとうね」


おばあちゃんと別れて俺達は走り出した。上映まであと10分。映画館までは近いから走れば何とか間に合う。余裕をもった集合時間だったはずなのに、時間ギリギリで何とか映画館に到着した。


 岸さんは桐斗からあらかじめゾンビ映画を見ると言われていたようで、チケット購入はスムーズだった。俺達が座席に座ってすぐ映画が始まったから本当にギリギリセーフと言った所だ。映画館まで走って何とか間に合ったはいいが、岸さんは楽しんでいるのだろうか。結局ほとんど話せていない。

買い物に行く予定も崩れたし、岸さんの好みを知ることもできなかったが、俺には最後の楽しみが残されていた。岸さんが怯えて頼ってくるという桐斗一押しの状況だ。俺自身ホラーは苦手なのだが岸さんが腕に掴まってくると思えばなんてことはない。


 映画が進むにつれて俺は映画どころではなかった。いつ腕に抱きついてくるのかと不純な事ばかりが頭の中で広がっていく。なかなか掴まってこないのでちらりと岸さんを見てみると、そこには笑顔の岸さんがいた。まさか、楽しんでいるだと!


 スクリーンには悲鳴を上げながらゾンビに襲われている人が映っているというのに、岸さんはまるでコメディー映画でも見ているかのように楽しそうに笑っている。目をこすってみた。今見てるのってコメディーだっけ? もう1度スクリーンを見てみる。ゾンビのお食事シーンだ。隣を見てみる。岸さんは輝くような笑顔で食い入るように見ている。俺はそっとスクリーンに目線を戻した。


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