第1章 優しい人(1)
第1章は、まだ何も知らなかった頃の出会いと日常の章です
第1章 優しい人
時間が凍った。その場で俺以外で動いている人間がいたなら、皆そう表現したはずだ。楽しげに笑いながら走っていく子供も、手から滑り落ちたペットボトルも、その飲み口から飛び出す水の粒達でさえ宙で停止している。全てが突然白黒写真のように色を失い、その場で凍りついていた。
そんな世界の中で、色づいた何かに目が吸い寄せられる。灰色のボロボロのマントを着て、フードを被った120センチ程の背丈の人型のものが目線の先に立っている。それは少年の姿をしていたが一目で人間ではないと分かった。フードから覗く金色の目は瞳孔が縦に長く、じっと俺を見ている。周囲に色がないせいか、それは際立っていて目を放せない。止まった時間の中でそれは問う。
「君に、その覚悟があるか?」
俺は目を放さなかった。目を放したその瞬間消えてしまう気がした。
そうして彼は怪しげに笑った。
手元からシャーペンが落ちていったことに気がつかなかった。理由は明確だ。教室に入って来た真新しい制服に身を包んだ女子生徒に一瞬で目が離せなくなったからである。心臓が急に飛び跳ねて、止まったとさえ思った。
クラスメイト全員が注目する中恥ずかしそうに目を伏せ、胸元まであるストレートな髪が微かになびく。身長は150センチほどの小柄な女の子。教室の前に先生と並んで立つと、恐る恐る教室内を見渡していた。隣で話す先生の声は全く入ってこなかったが、その女の子の声だけははっきりと聞こえた。
「私、岸姫香って言います。あの、皆さんこれからよろしくお願いします」
自信がないようで、詰まりながらも精いっぱいそう言ってから頭を下げた。髪が肩から垂れる。その姿から目をそらせない。まるで自分が石にでもなってしまったようだ。
教室中から拍手がして、岸さんがゆっくりと顔をあげた。拍手も忘れてじっと見ていた俺と偶然目が合うと、嬉しそうに小さく笑う。その笑顔がかわいくて、胸が痛くて、顔が熱い。俺はその日、転校してきた岸姫香に恋をした。
頭の中は岸さんでいっぱいで何も手につかない。斜め前の席で授業を受ける岸さんは姿勢が良く、たまに髪を耳にかける仕草がなんとも可愛らしい。ペンを握る指は細くて綺麗だし、見ていて全く飽きないのだ。なんてかわいいんだろう。そう思っていた俺の頭に突然衝撃が加わった。
「藤沢! 何をボケっとしてるか!」
反射的に頭を押さえると、いつの間にか目を細めた高堂先生が立っていた。着古したスーツと白髪交じりの頭。顔には深いしわが刻まれている。もうそろそろ定年退職するからはりきっているんだろう。最近の授業は熱すぎてやや生徒が引いている。
「高校生にもなって、こんな大切な話をボーっと聞きおって!」
生徒の頭を教科書で叩くなんていつの時代の注意の仕方だよと思いながら、仕方なく高堂先生に目を向けた。眉間にしわを寄せ、ふんっと鼻を鳴らし、
「立て藤沢。復習だ」
と、俺を無理矢理立たせた。軽く教室を見回してみると、周囲の視線が俺に集中しており公開処刑のようだ。とんだ災難だと目を伏せようとして、視界の隅で俺を見る岸さんの姿を発見した。
俺見られてる? お、俺、見られてる!
「今日は何の日だ?」
突然そう訊かれて、俺は一瞬忘れていた目の前の高堂先生に慌てて顔を向けた。耳に残っていた声を頭の中で再生しながら頭を回転させる。いいところを見せたい。藤沢君かっこいいとか思わせたい。そんな事ばかりが頭の中で渦巻いた。
「今日は……」
生まれて初めてここまで頭を使ったと思うほど、頭はフル回転してオーバーヒート寸前である。考えろ俺。今日は何の日だ。祝日? あ、今日祝日じゃん。なんで登校日になってんだよ。今日はマンガの新刊発売日なのに。
「さっさと答えんか!」
いつの間にか思考回路が脱線していた俺は無理矢理引き戻されて、教室にヒントがないかと目で見回す。特に手がかりになるようなものもなく、
「今日は祝日だったのに登校日になりました?」
と、半ば問うような形で答えた。
「違うわ馬鹿もんが! お前はそのままの姿勢で聞いていろ」
今日は確かに祝日だった。それなのになぜか登校日になった。その事実に間違いは無いはず。何が違うのか理解できない俺をよそに、周りからは笑い声が聞こえてくる。
なんだよ。お前らには分かったのかよと心の中で悪態づきながらちらりと岸さんを見ると、口元を手で隠して小さく笑っていた。あぁ、なんてかわいいんだろう。笑われているのに、岸さんの姿を見た瞬間なぜか俺がにやけそうになる。
「岸、分かるか?」
そう訊かれた岸さんは頷いて答えた。
「今日は核戦争が終わって1000年目です。核戦争により汚染された地球が完全に除染されて150年目でもあります」
その答えに俺はようやく気がついた。そうか今日はその日だ。
1000年前地球上で大規模な核戦争があった。それによって地球上はほとんどが放射能で汚染され生き物の多くは地下へと避難した。自然の浄化力と人類の技術で何とか除染が完了したのはつい150年前。そこから怒涛の勢いで人類は再復興し、今に至る。
核戦争からもう1000年経つのだ。今朝のニュースでその放送してたのに何で忘れてんだよ俺。いいところを見せられなかったと、心の中で自分に文句を言う。
「その通り。じゃあ藤沢、腐敗症は分かるな?」
「え!」
もう質問が来ることは無いと思っていたため、突然訊かれて頭が真っ白になる。その間に斜め後ろからの声が答えた。
「核戦争後の放射能によって突然変異を起こした細菌による新しい病気。その多くが抗生剤や新薬によって完治可能になりましたが、腐敗症だけは未だに新薬が研究段階。治療法が発見されておらず、今の医学では100パーセント死に至る危険な病、ですよね?」
高堂先生が満足げに頷く中、振り返ると得意げな顔をした羽鳥桐斗がウインクしてきた。常に学年トップで、高校の勉強なんて簡単とか言い出すこの男なら簡単な質問だっただろう。高堂先生は俺に座るよう指示し、話しながら教卓に向けて歩いていく。
「羽鳥の言う通りだ。腐敗症は未だに治療法がない国の難病指定がされている病気で、今の時代で最も恐れられている。全ては1000年前の核戦争の影響であり、今日は核戦争終戦1000年という、忘れてはならない日だ。絶対テストに出すから覚えておくように」
そう言えばそんな日だった、と曖昧な記憶をたどりながら席にり、窓の外を見た。