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中世警察が来たぞー!

作者: そらが

 中世フランスにおける公的な警察機構は、12-13世紀の頃に設立された。パリではパリ代官(プレヴォ・ド・パリ)の権限の下で、14世紀になると警察中尉(ルテナン・ド・ポリス)が捜査を指揮するようになる。当初の成員は騎哨・歩哨各80名で、14世紀末には各220名に増員された。騎哨は町から町へと犯人を追跡することができ、歩哨は町の中でのパトロールを主にした。

 彼ら警察は日中に行われる不正に対応する。しかし眼前で事件が起きるということはあまり無いから、近所の人間が現行犯で捕らえることが奨励された。そうでなければ捜査が執り行われたり、犯人の追跡が行われた。

 計量詐欺や商品詐称などの商業的な不正も彼らが誣告に応じて取り締まった。



 それとは対照的にイングランドで警察組織が設立されるのは18世紀頃のことで、それまで民間の自警団に任せられていた。イングランドの自警団は、農村ではアングロサクソン時代に領主の私兵として、都市部では10世紀頃より自発的に作られた。


 イングランドでは農村か都市かに関わらず犯罪が発生したとき、犯人を発見した者は叫び声を上げて(内容は地域毎に異なるようだ)、近隣住民に追跡を呼びかけた。近隣住民にはこの呼びかけに応え、仕事や睡眠を中断して駆けつける義務があった。

 犯人を確保すると、それからは裁判を担当する治安官が巡回してくるまで逃がさないように投獄する。確保した後に犯人が逃げてしまえば住民に対して罰金が課せられた。また変死体を発見した場合にもその保管が義務付けられ、勝手に埋葬してはならなかった。

 逮捕の権利はコロナーまたはエスチーター、バイリフといった治安官(時代に合わせて変遷する)にある。現場で治安官による鑑識が行われた後、12名または24名の近隣住民からなる陪審への質問を行い、疑わしい容疑者たちが全て集められて、全員逮捕される。そして州代官のシェリフや荘園領主、市長または14世紀以降に設置された治安判事に通告した後に、裁判が行われた。治安判事が現れるまで、窃盗とかの軽犯罪以外は大体縛り首だった。

 重犯罪者が逃亡すると、今度は武装民警団の出番が来る。即ち武装した市民だった。彼らはシェリフの指示によって出動し、逃亡者を追跡する。その構成は一教区或いは一荘園につき12(または15)歳から60歳までの壮健な男子10人ないし12,15人からなり、彼らの中から選ばれたリーダーを中心にして行動していた。活動範囲は同じ州内に限られる。武装していたといっても所謂戦争用の武器は無く、着ていたものも私服だった。


 逃亡者を匿う聖域はイングランドにもフランスにもあった。

 フランスの聖域(アジール)は一部の教会に限られた。また開墾を理由とした南フランスへの逃亡が許されていた。

 イングランドの聖域(サンクチュアリ)は修道院の多くであり40日間だけ滞留が許されていたが、一部の大規模な修道院では永続的に滞留することが許された。犯罪者は聖域で武器を捨て罪を告白する。

 40日間が過ぎると、裁判に出頭するか国外追放(フランス、フランドル、スコットランド)するかの選択を迫られ、大抵は後者が選ばれる。そこでイングランドの民警団は聖域に入ることを防いだり、聖域に辿り着く前に犯人を処分することもあった。そもそも民警団と犯人(及び被害者)は知り合いになりがちだから、お互いの都合に左右される。復讐を狙う者は当然居て時には聖域へと無理矢理押し入ったし、逆に加害者に対して出頭するよう促す友人も居た。

 他方フランスの場合は金が物を言った。



 今も昔も夜中は危険だったから、警吏を常備させる必要があった。

 イングランドの夜警はウォッチマンと呼ばれる。

 勿論、自警団だった。1285年のウィンチェスター法により夜間警備が法制化されると、法律で夜間(日没から日の出まで)の外出は禁止され、市の門は閉ざされ、人々は家に帰り、宿屋もドアを閉めた。そして外出する者は彼ら夜警によって捕縛され、宿無しの余所者は町から追い出された。

 夜警は片手にランタンやトーチを持ち、もう片方の手には何も持たないか、または棍棒や何らかのポールウェポン、或いは鈴を携えていた。16世紀に入ると彼らの衣服は規定され、武装はより権威を強調するハルバードに代わる。

 夜中に鈴を鳴らしたり叫んだりして時刻を知らせる役目は、大体一晩に六回くらい実行された。

 彼らは通りをパトロールし、犯罪や火事が起きたり、あるいは何か目覚める必要があるときにも、鈴を鳴らしたりホルンや警笛を吹いたりして町の人を起こした。犯罪や火事の時には協力を仰いだ。消火活動には水と梯子と革バケツが用いられていて、消火ポンプが使われるようになるのは16世紀以降になる。この時代、藁葺きは禁令によって使われなくなっていたが、家屋は依然として木造で燃えやすかった。

 ロンドンでは200人の夜警が居て、各地区と各市門に6人ずつ配備されていた。夜警は大都市でも100人を超えることは滅多に無く、人口四桁程度の中小都市だと通常4-6人程度が配備される。


 パリの夜警も元々は自警団で、各ギルドの成員が10人ずつ提供することが定められていた。しかし1254年には王立夜警が設立される。

 当初は20名の騎哨、40名の歩哨、さらに棍棒を持った市民60名の奉仕によって構成されていた。国王から任命された騎士隊長は見張りの騎士(シュヴァリエ・ド・ゲ)と呼ばれ、12名の直属の護衛を付けている。

 夜間外出は禁じていなかったものの、イングランドの夜警と同様に犯罪や火事に対処した。

 彼らの詰め所は(シャトレ)にある。騎哨と歩哨が定時毎にホルンを吹いたり叫び声を上げながら町を巡回する一方、奉仕する市民は3週間交代で詰め所に待機していた。シャトレには詰め所だけでなく牢獄と裁判所がある。犯人は聖職者かどうか審問された後、裁判を待つ間も投獄されていた。聖職者は比較的安穏な修道院の牢獄送りになる。自白の強要は中世後期から行われるようになった。

 地方都市でも壮健な男たちが数十人雇われて巡邏を行っていた。人手が足りないので、いつでも市民の力が頼られた。暴力と窃盗、誘拐だけでなく、喧嘩や夜遊び、青姦や浮浪者が逮捕の対象になった。


 夜警はリスクがあり、日没から明け方まで警備する苦労があり、そして見返りの少ない義務だけあって、イングランドでもフランスでも金持ちが免除金を支払って役目を放棄することは多々あった。その代わりに役目に就くのは荷運びや水運びなどで生計を立てているような低賃金の労働者であり、彼らは徒弟並みの賃金で警備につき、時には専業の守衛になったが、本業と副業が入れ替わっただけかもしれない。だから賄賂を受けての見逃しや不正、警吏による暴力も行われた。

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― 新着の感想 ―
 レンブラントの絵画「夜景」を彷彿とさせる内容にちょっと興奮致しました(※あれは本来昼の絵ですが)。応援させてください。
[良い点] とても興味深く、面白い内容でした。 国別、時代別の差異への言及も良いですね。 [気になる点] こういった性質のものには、参考文献を記すべきです。 文章を読めば、きちんとした知識に基づいたも…
[一言] タイトルにつられて読ませていただきました。 大変よく調べられているのですが、もっとストーリーがあるのかと思ったのが、ドキュメンタリーでしたので、ストーリー評価は残念ながら2を押させていただき…
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