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マヨイガ

作者: blazeblue

 山の端に陽がともる。陽はやがて緋になり日になり、そう時が経たず日の下から陰の下へと世界を変えるだろう。


 山の奥の奥、人気などとうに消えた土地に佇む一軒家。日中は穏やかな光が射す一室の窓際で、細い銀縁の眼鏡をかけた青年がパチパチと目を瞬かせた。低い文机の前で座るに相応しく藍の着物を着た青年は、瞬きで目の潤いを取り戻すと同時に、柔らかそうな茶髪をガシガシとかき回す。その一連の仕草は骨太で長身の体格に見合わない子供らしさを見せていたが、あいにくと独り暮らしの家でそれを目にする者、もしくはそれを愛おしく思ってくれる存在は今のところ皆無だ。


 いつから手元を見続けていたのか。一度の瞬きで後から水分が溢れて、長時間にわたって目を見開いていた瞳の乾燥度合いを今になって伝えてくる。



 はらはら、はらはら。

 ぽろぽろ、ぽろぽろ。

 それとも、ぼとぼと、の方が良いだろうか。



 身に起こる事象の擬音に意識が触れた流れでぼんやりと物思いに突入しそうだった彼は、眼鏡を伝った涙が頬に落ちる感触でハッとした。落ち着いている場合でない。このままでは大事な”成果物”にまで水分が落ちてしまうだろう。

 側に置いてある手ぬぐいで目元を押さえ続けてどうにか涙を落ち着かせると、その頃にようやく室内の状況が意識に入ってきた。穏やかな窓辺だった室内は気づけばすっかり日陰になっており、そう時間をかけずに本格的な陰が訪れるだろう。彼がせっかくこだわって購入した年代物の文机も新たにした畳の色も、いつの間にか陰が勝っている。道理で手元が見え辛いはずだと青年は納得した。


「う……うぅぅ……っ」


 腕を振り上げて体を伸ばせば、この世のものとは思えない音が次々と響く。破滅的な音色と引き換えに体の自由を取り戻して、集中力もここまで、と青年は眼鏡を銀縁から太い枠の四角い眼鏡へ掛け替えた。

 昼間はそう気にならなかったが、何しろ雪が頻繁に降る山奥ではいくら火鉢をそばに置いていても寒いものは寒い。邪魔になるからと置いていた茶の羽織を肩にかければ幾分はマシになったろうか。立ち上がろうかと机に手をついたその時、玄関からチャイムの音がした。訪問の約束は誰ともしていないはずと首をひねりつつも青年は立ち上がる。隣近所まで車で二、三十分のこの家だから、心当たりがなくとも訪ね間違いということはないだろう。

 付け加えるならば駐車場に辿り着くにも徒歩で三十分はかかる。大半が獣道という念の入りようだ。


「すみません、開いていますので居間まで上がってお待ちください」


 低くよく通る声を張り上げれば、訪問者はわずかに怯んだようだ。返事があるとは思わなかったのだろうか。しばらく迷うような間があり、玄関の戸を少し開けたかと思うとすぐに閉じ、歩き出す音がした。帰ってしまったわけではない。家主が居間に向かえば、風通しに開けていた縁側の向こう側、垣根に沿って中庭へ移動する微かな音がした。



 ——さくり、さくり。



 少しずつ近づくその音は小さいまま、しかし規則正しい。やがて垣根の向こう側から現れた訪問者は、音の通りに軽やかな足運びの灰色の狼だった。体高はおよそ一メートル、立ち上がった青年の腰と同じか少し低いくらいだろうか。驚くほど澄んだ青の瞳と鋭い牙に爪。堂々とした体躯の割に前足を揃えてきっちりと座っている。

 一度その気になれば人間など一裂きにできる存在へ青年は何を思ったのか。口を開いた彼が声を出すよりも早く、狼が大きく口を開けた。


「バカか!」

「えぇ?」


 勢いよく叩きつけられた罵声に家主は心外そうに眉を顰める。


「来たやつに勝手に玄関を開けさせるなって何度言わせれば気がすむんだこのポンコツ! 先週も言ったよな! 先月も言ったよな!」

「あれ、そうだっけ」

「あれ? じゃねーよこのスカポンタン! それに何だあの出っ張りは!」


 青年が傾げた頭に合わせて、太いフレームの無骨な眼鏡がずり下がる。純和風建築、平屋造りの素敵な我が家は、玄関扉も当然のように昔懐かしい引き戸だ。それが文句の対象となると。


「あぁ、あのハンドル? いいでしょう、あれ。君も開けられるようにって思って、昨日のうちに工作しておいたんだよ」

「何が工作しておいたんだよ、だ! バカかお前は本当に! 俺に開けられるってことは他の奴だって開けられるじゃねーか!」


 先ほどまでは青年以外の生物の気配がなく、まるで時間から取り残されているような空気だった一軒家。それが狼の怒鳴り声ひとつで一気に賑やかな空気となった。


 都会であれば。いや、近隣にある鄙びた田舎の村でさえ、狼が現れるどころか、ちらりと見かけられただけで住民全員が恐慌状態だろう。それをこの青年は気にしないどころか“よくあること”として扱い、縁側に狼を招く始末だった。とはいえ会話が成立している時点で、青年だけではなく狼もまた普通ではないことは明らかだが。

 そんな普通ではない青年は自分へ唸って威嚇する普通ではない狼に、再びきょとんと小首を傾げた。


「だってお客さんも来るから」

「フツーは本当に安全な客かどうかわかるまでは開けねーんだよ!」

「え、でも、そうは言うけれど、大丈夫でしょう」

「こ、の……もう一度子供からやり直せこの現代社会不適合者!!」









 都心から車でおよそ十時間、最寄り駅からですら二時間の位置にその家はある。元は打ち捨てられた村のさらに外れにあったその家は、四十年前に最後の持ち主が不動産屋へ売って以来買い手がつかず、ほとんど忘れ去られた物件であった。土地の広さにしてはありえないほどの安値だが、その金額ですら損をしたような気になるくらいに不便な土地には、何しろ家まで直接繋がる道すら無いのだ。

 購入者が若い独身男の上どれだけ不便さを説明しても聞き入れないことで、随分と不動産屋を心配させたらしい。無理やりに電話線とインターネットの回線と電気、水道、ガスを引くと、名残惜しそうに担当者は帰っていったものだ。


 自分の持つ人間を見る目も捨てたものではないと、青年は数年経った今でも満更でもない気持ちである。何件か入った不動産屋のうち、最初の会話からその担当者を見込んで選んだ店だった。


「それで? 今日はどうしたの。一昨日きたばかりだし、もう少し先になると思っていたけど」


 居間のコタツに入り込んで、ぬるめに淹れた緑茶を啜りながら眼鏡の青年は目の前の“青年”に向けて尋ねた。一人と一匹だった一軒家は、今は不思議なことに二人の男がいる。家主と同年代に見える青年もまたコタツに入り、出された湯呑みを吹いて冷ましながら茶を啜っていた。


「俺も来るつもりはなかったがな。お前のところに伝えに行けって言うからよ」

「何を?」

「客がくる」


 茶色の天然パーマと対をなすように、灰色の髪をまっすぐに伸ばした青年。髪の色が示すように、彼はあの口うるさい狼が人へと転じた姿だった。顔立ちは瓜二つ、その色の対比や禰宜のような袴姿のせいで二人は兄弟のようにも見える。出された饅頭を一口かじると狼は満足げに頷いた。


「お前は今日の夜、出歩くなってよ」

「まぁ、こんな場所だし特に予定はないけれど……」

「あと、誰も招くな。声をかけられても無視しろ」

「え……それは難しいな。結構いろんなヒトが来るからね」

「その大半どころか全部が断らなきゃダメなやつだろ。お前は自分が雑魚にもなれないという自覚はあるのか」


 こんな山奥に住んでいるくせに驚くほど危機感が薄い奴だと、狼は何度目かも分からない呆れたような視線を向ける。今回だけではない。いつもいつも、この眼鏡の家主は来訪者を確かめもせずに扉を開いてしまうのだ。自分のような“違う世界”に生きるモノだけではない。例え自分と同族である人間が訪ねてきたとしても誰彼構わず招いてはいけない時勢だと、本当ならヒトではない狼よりも家主の方が理解しているべき事柄にもかかわらずだ。


「雑魚以下なんてひどいなぁ。まぁ、否定はできないけど」


 ほのぼのと笑う家主を狼は胡乱な目で見つめた。この家主は玄関を叩く存在に疑いを持つということをしない。いくら神が住まう山だとはいえ、むしろ“そう”だからこそヒトにとって友好的な存在など一握りしかいないのだと、うすぼんやりとした男は理解しようとしないのだ。

 害を為すモノが来ないのは狼たちが力を貸しているからだという事実だけではなく、どれだけ自分が危ない目に遭いそうだったのかですら認識しているかどうか。そもそも力を貸しているのもモノノケたちの気紛れだというのに。


「そうは言ってもお前が素直に聞くとも思えねぇ。だから俺がここに来たって話だ」

「君も主様も、本当に心配性だねぇ」


 家主の心外そうな表情が無性に腹立たしく、狼はなぜか今すぐに家主を殴りたい衝動に駆られた。それをどうにか押し込めて、深く深く息を吐く。狼が怒りに任せて殴りつけたとしたらきっと、この引きこもりの人間ではちょっとしたオブジェに変身してしまうだろう。


「……嫌なら、別にいい」

「まさか。久々に夕飯が二人分だし、嬉しいよ」


 袖に両手をしまいこんで立ち上がると、何を作ろうかなと鼻歌混じりに家主は台所へ消えていく。男二人で料理して飯なんてまったく色気がない。再びため息を吐くと、狼もまた茶色の羽織を追った。









 ふぅ、と一息をつきながら薄い光の空を見上げた。時刻は丑三つ、宵っ張りの家主はつい先ほど布団に入った。狼は人型のまま、居間から中庭に続くガラスを開けて濡れ縁に座り込む。カラカラという音は夜中にしては大きく響いて、また厄介な家主が起きてこないかと彼は身構えた。呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。微かな物音も家の中から聞こえないことを確認すると、肩に入った力を抜いた。先程よりも少しだけ乱暴に戸を閉める。


 捉えどころがなく他の存在に対して甘いように取られがちのあの男は、一度言い出すと人の意見を聞かない、自分の意見を曲げないという頑固で厄介な一面も持っている。現に今日もあれだけ怒鳴りつけたにもかかわらず、直後に、しかも二回にも渡ってモノノケの子供を保護したくらいだ。彼に危害を加えようとしたモノを含めればもう少し増えるだろう。そちらは意識を持つ前の何かだったらしく、やはり辺りに住むモノノケが始末をつけた。家主は訪いの音しか聞いていないが、愚かしいことに招き入れようとしていた。

 怪我をして泣いていた子供たちを見捨てろとは確かに言い難い。しかしこちらの舌の根も乾かない内に行動を起こされると、怒っていいのやら感謝をすればいいのやら、訳が分からなくなった灰狼はぐったりと脱力してしまった。


 ところで狼はヒトではないが確かに昼型の生活をしている。ヒトではないし生物的な意味での狼でもないのだが、家主にかかればすべて生きているものであり、衣食住はきちんとするべきらしい。

 つまり”人型なら人型らしく暖かくしろ、布団を用意するからちゃんと寝ろ。そして面白そうなことに自分も混ぜろ”ということだった。


「まったく、面倒なやつだ」


 寝かせるだけでどれだけの労力を使わせる気か。最終的に実力行使で意識を落とそうとする前に寝落ちしてくれただけで、むしろ感謝しそうになる。灰狼は手加減が苦手だった。


「しまった……つまみも持ってくるべきだったか」


 狼の姿でも楽しめるが、人の姿であるほうが酒は楽しい。そして悔しいことに家主の料理は嫌いではない。飲酒それ自体が目的ではなくとも狼は残念に思った。手の内の猪口に月を映しながらそっと闇空を見上げる。もちろん唯人よりは五感が鋭くはあるものの、普段から比べると心もとないほどに何も見えない。月の光が明るく照らしているが、ここは山奥だ。光の射さない深い闇など少し見渡せばいくらでもある。

 これほどに見えないからこそ人間は電気を操って闇夜を駆逐していったのだろうと、狼はいっそ感心してすらいた。


「おっ」


 さっと月が曇ったかと思うとチラチラと白いものが見える。山ばかりの地域だから雪は頻繁に降る。明日もきっと積もることだろう。雪月花。うつろい、一つとして同じものがない存在。ひとつ足りないが、それなりに灰狼は満足していた。


 家主がこの家に住み始めたのは狼にとっては最近のことだが、ヒトの時間ではそれなりに前だったか。あの面倒なヒトは既に成人から何年も経っていたこともあり、大人らしい——悪く言うならば腹の内に何かを持っているような、なんとも落ち着かない印象を狼にもたらした。全てを見通す”山の主”が気にかけていなかったら、狼は今でも家主を山から追い出そうとしていたことだろう。狼や仲間たちの在り方を含めてもここはよそ者が来るには閉鎖的すぎ、お互いのためにならない。


 つらつらと記憶をたどりながら盃を二つ、三つと重ねた頃だろうか。


「——本当にきたか」


 ゆるりと立ち上がった狼の目が薄く金に光り、それを突風が取り巻いた。周囲の雪を散らしきって風が収まると、そこには四つ足に戻った灰狼がしっかりと中庭の土を踏みしめている。鋭い視線はまっすぐ玄関の方角、灰狼の瞳と同じような”この世のものではない”色合いでいくつも浮かぶ小さな光を睨みつけた。

 山に住む化生が火や光を使うこともあるが、これは“光”そのものを自らの存在としていた。本日今夜に主を訪れた神の、その遣いだった。


「遣いか。何をしにここへ来た」

『魂ヲ喰イニ』


 聴覚ではない何かに直接訴えるような音が応える。人間ならば眉を顰めるくらいの力が五感を襲うが、狼は眉ひとつ動かしはしない。


「去れ。ここは狼の主が守護する神域だ。遣いは遣いらしく、主人にくっついてさっさと去るがいい」

『ケケケ、オカシナ事ヲ言ウモノダ』


 光は十、二十と集まり、狼を嘲るように明滅している。いや。真実、あの光は生意気にも灰狼を嘲笑っているのだ。


『神域ニ入ルニンゲンナド、ドウナロウトモ構ワヌガ在リ方ダッタロウ?』


 虫けら風情が知ったような口をきく。灰狼は相手をちらりと見た程度でしか知らないが、相手は灰狼を見知っているようだ。灰狼の目が凶暴に細められたその時、背後からガタンと音がした。


『チカラガシミツイタ、ヨイ匂イダ』


 寝巻き代わりに浴衣を着て、恐らくつい先ほどまで寝ていたのだろう。くしゃくしゃに髪を跳ね散らかした若い男がひとり。眠気とは違う足元の覚束なさは体の自由が奪われている証だが、その戸惑いの表情から、本人の意識はしっかりとあることが伺えた。


「チッ……匂いが移っていたか。面倒だな」


 どうやら山のモノノケたちに近づきすぎて、家主の青年にその匂いが移ってしまったようだ。モノノケの匂いはそのまま、彼が魂に自分では操れもしないくせに溜め込んだ力。狼にしてみれば弱すぎるため言われて初めて気づいたが、確かに家主の魂を喰らえば普通のモノノケが力を増す程に匂いが強くなっていた。

 おおかた寝たふりでもして、こちらの注意も聞かずに様子を伺っていたところで捕まったのだろう。いつかこうなることが分かっていたからこそ何かと口うるさく注意していたのだが、全く聞かなかった家主が悪い。


 実のところ灰狼はかの青年を無二の存在としているわけではないため、このまま喰われたところで一向に構わない。だいたい人間など大嫌いなのだから。しかし光虫のやり方は狼のカンに障った。


「わざわざ連れてきたのは、体を縛る方が魂を縛るよりも楽だからか。その上で自分の側まで動かしたのか……ふん。お前、見た目通り相当力が弱いな」

『何トデモイエ。取リ返セルナラ、取リ返セバヨイ』


 灰狼の金の目が光る。どう贔屓目に見ても灰狼の方が光虫よりも強い。それこそ片手間、爪ひとつで引き裂けるだろう。それにもかかわらずコケにされても反撃しなかったのは、単に山の主の顔を立てただけだ。この虫ケラは少なくとも他の神の眷属だから。

 一度は我慢した。二度目も我慢した。三度目はない。ここは灰狼の陣地だ。陣地にあるものの一つですら格下に勝手をされるなど、誇りにかかわるのだ。


 そして狼は、誇りを重んじる種でもある。


『オイシソウナ魂ヲヒトリジメスルナンテ、ズルイ!』


 狼の本気を取ったのか、幾分慌てるように光虫が”声”を上げる。しかし狼はもう何も返事をしなかった。するり、と怯えたのか見せつけたのか青年の頬に光が擦り寄れば、青年の眉が珍しくしかめられた。弱いモノノケたる光虫は近づけば近づくほど影響が大きくなり、弱くともモノノケである光虫による圧迫感が身を守る術のない家主にとって物理的な力となるのだ。



 灰狼の尾が一度、二度と振られて、その背に力が溜まる。放たれる直前の弓矢のようになった、その時。



『ア、アルジ!!』



 ビクリと光虫が強く、弱く、明滅する。オロオロとするように光っては消えて、やがて光は消え失せた。何の挨拶もなしに無礼な虫は自分の領域へと戻ったようだ。今まで体を支配していた力が消えたことで膝から崩れ落ちる庵の主には一瞥だけくれて、灰狼は突然の変化に首を傾げた。


「一体なんだ? アレは簡単に獲物を諦めるようなモノだとは思えんが」


 灰狼にはわかる。今でこそ土地神の遣いなどというものをやっているが、あの虫は元々は厄を司る存在だったはずだ。その職分か元々の性質かはわからないものの、虎の威を借る小賢しさと虎の威を借りてでも欲を満たそうとする傲慢さを持っている。虎の威を借りた以上は自らの欲を、舐めきった相手——腹立たしいことに灰狼自身だが、その威嚇程度で引くとは考え辛い。


 とは言え、答えを持っている相手は既にいない。何度考えても分からないものは分からないため、苛立ちを舌打ちに混ぜた。


「おい、今のは何だ」


 生垣の上。硬い植物にとまるのは一匹の蝶。今は山を統べる存在となった馴染みからの遣いに、灰狼はぞんざいな声を投げた。虫は虫でどこから発したものか低く落ち着いた声で微かに笑う。


「狐の遣いだよ。その狐もついさっき帰った。庵の主に謝っておいて欲しいそうだ」

「あ?」


 山の主の言う狐は、主と同じく、別の土地を治める神だ。それがただ見鬼の才をもつだけで祓えもしない、雑魚にすらなり得ない人間に謝る——となると。


「お前、今度は何した。あれだけ俺が、何度も何度も、余計なことをするなと言っているのに!!」

「え、何、話が見えないのだけど」


 ヒトの構造など知らない虫が無理に力を入れていたのだろう。体の各所を曲げ伸ばしつつ話を聞いていた家主は、突然振られた話に目を白黒させる。その様子に蝶は再び笑った。


「そう怒るな。狐の神は、別の眷属が家主殿に救われたと言っていたよ。今夜のために先触れとして来た仔でね。可愛い可愛い、前足の白い赤茶の仔狐だ」

「……あぁ」


 少しだけ考えた後、家主もまた小さく笑う。


「昨日だったかな。旧い罠にかかって怪我をしていたので、手当をした子でしょう。そうか、迷子と聞いていたけれど。無事に帰れたようで安心しました」


 ふんわり、ニコニコと笑いあう——片方は本人の表情を伺うことができないが、それでも神になる前からの長い付き合いで間違えるはずもない——二人に、灰狼は眩暈を覚えた。一人でも面倒なのに、よりによって同じようなモノが二人も集まるとは。


 優しすぎる性質のせいで、山を荒らすものを排除する時もためらってしまう山の主。

 優しすぎる性質のせいか、訪れる者全てを受け入れてしまう庵の主。


 面倒な者に囲まれているせいで心が休まらないと、灰狼はため息を吐いて地に伏せた。



 ——彼は知らない。



 優しすぎるとは言え仮にも神である山の主が、なぜ眼鏡の青年だけは神域に住むことを許しているのかを。人に追われた過去の多いモノノケたちが、なぜ眼鏡の青年を片手間程度ながら助けるのかを。なぜ庵の主である眼鏡の青年が、本当は色々な事情をきちんと理解した上で敢えてモノノケを受け入れてしまうのかを。それは全て、口が悪くお節介な灰狼のためだということを。



 光虫に眼鏡の青年が喰われたところで一向に構わないと嘯いたところで、結局は助けに入る自分自身のことを。



 灰狼だけが、まだ知らない。




03.07/2015

——マヨイガ——



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― 新着の感想 ―
[良い点] こう言う、不思議な感じがする和風ファンタジーっていいですよね、好きです。 音の描写など緊迫感。やはり毎度、演出が良いなと思いました。 楽しませてもらいました! [一言] 何だか、続きがあ…
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