“良くないモノ”
それは、想像していたものとは正反対の光景だった。
ソルの説明から、“良くないモノ”は危険なもので、出会ったらすぐに逃げなければいけないようなものなのだと思っていた。
心配だと言っていたのも、大丈夫と言いつつ「ヘルツが“良くないモノ”に取り込まれる可能性」を心配していたのだと思っていた。
しかし実際はどうだろう。
ヘルツは、“良くないモノ”を足蹴にしている。
全身が影のように真っ黒だが、髪型やマフラーのようなものをしている事から、それは“ヘルツの良くないモノ"なのだろう。しかし大きさは本人より少し小さいようだ。
「あれ、こんなところでどうしたの?」
心底不思議そうな顔でヘルツが言う。
「それはこっちの台詞だ。日頃あれほど奥には行くなって言ってるのに、何やってるんだお前は」
それに対し、ソルは怒りというよりも、呆れた声で返した。
「あはは、ごめんごめん。蝶々を追いかけてたらこんなところまで来ちゃった。でも大発見!こんな場所があったなんて初めて知ったよ!」
「それはいいから、早くその足を退けろ」
ソルがヘルツを咎める。イオリには何が起きているのかさっぱり分からない。
隣でステラが「可哀想…」と呟いたのが聞こえた。この場合、可哀想なのは“ヘルツの良くないモノ”で合ってるだろうか。
『欲しい…痛い…痛いィ……』
足蹴にされた“良くないモノ”が、身体を震わせて呻いた。声変わり前の子供のような、若干高めの声だが、なんとなくヘルツの声と似ている気がする。
その悲痛な呻き声に、イオリは胸に何かが刺さるような痛みを感じた。
「煩いよ」
ヘルツの足が、容赦無く“良くないモノ”を蹴りつける。
「止めろ!」
「あれだけ“良くないモノ”は危険だって言うわりには、“俺の良くないモノ”は擁護しようとするし、ソルは何がしたいのさ。俺は怒ってるんだよ!」
声の調子が変わらないだけに、その行動が異様に際立って見え、イオリはヘルツが恐ろしく感じた。
ソルが言っていた「悪い意味で人とは違う」という言葉。
その意味が、なんとなく分かった気がした。
「だっておかしいでしょ? 俺は今好きな事して、友達もいて、好きなものに囲まれて生活してるのに、分身のこいつはいつまで経ってもこんな泣き虫でさ。俺の分身なら、本体がこんなに満たされてるんだから、こいつももっと幸せそうな顔して然るべきだよね? まあ顔分かんないけど」
「無駄だ。お前がどんなに満たされていようが、それはお前の分身である以前に一つの“負の塊”なんだからな。けれどお前の分身である事も事実」
ざわり、と森が揺れる。
「それ以上自分を虐げるな」
「…分かったよ。俺がどう思うかはともかく、暴力振るってるところは見せちゃうのはまずいよね。ソルは別にいいけど」
「おい、僕にだって良くないだろ」
「イオリごめんね、あとそっちの子も。怖いとこ見せちゃってさ」
「いえ、大丈夫で…」
「大丈夫じゃないだろう」
「え?」
ざわり、ざわり、ざわり。
森が騒ぐ音が一層大きくなる。
同時に、周りの空気がずっしりと重くなったように感じたのは、きっと気のせいではない。
「ヘルツを怖がったな」
「あ、いや…」
「おい蝶々馬鹿、お前のせいだぞ。森の入り口まで走れ!!」
言うや否や、ソルはイオリとステラの腕を掴んで走り出した。
森のざわつきはさらに大きくなり、奥からどろりとした黒い何かが凄い勢いで現れる。
“ヘルツの良くないモノ”は、いつの間にかいなくなっていた。
ソルの言う通りだ。イオリはさっき、ほんの少しでもヘルツを怖いと思ってしまった。
自分勝手な考え方で、自分自身に暴力を振るう、その姿に。声も表情もそのままに暴力を振るうその姿に。
まさか。イオリの頭に、ある考えが浮かぶ。
「まさか、私が怖がったから…」
「…そのまさかだ。心の隙間を嗅ぎつけられた。しかしあんなでかい“良くないモノ”は初めて見るな…」
走りながら、ソルはチラリと後ろを見た。
「で、でも“良くないモノ”って人の形をしてるんじゃないんですか!?」
「普通はな。あれは“良くないモノ”が“良くないモノ”を取り込んで出来た集合体だ。負の要素が増えた分、心の隙間にも一層敏感になってる。“良くないモノ”の厄介なところは、でかくなればなるだけ、かえって動きが速くなる事だ」
それは確かに厄介以外の何物でもない!
“良くないモノ”は雪崩れ込むように木々の間をすり抜けてこちらに迫ってきている。走っているというよりは、流れているといった感じだ。
本当はもっと恐ろしいと感じるべきなのだろう。しかしあまりにも現実味のない光景に、イオリの頭は逆に冷静だった。
「俺も、よく森に入るしでかいやつは何回か見た事あるけど、あんなに肥大化してるやつ初めて見たよ」
「私も…」
「のんきに言ってる場合か!」
三人があまり慌てていないように見えるのは、三人にとって“良くないモノ”が日常の中にあるものだからだろうか。
頭だけは冷静だが、心臓の音がバクバクと煩い。
ふと振り返って“良くないモノ”を見る。よく見れば黒い塊の所々に、人の口のようなものが付いているのが見えた。パクパクと動いているものもあるが、声は聞こえない。
「ぅあっ」
不意に何かに足を取られ、グギッという嫌な音と共に盛大に転んだ。腕がソルの手から離れる。
足元を見れば盛り上がった木の根に躓いており、地面との間に出来た隙間に足が挟まっていた。
「イオリ!」
ソルの慌てた声が聞こえる。足は隙間に深く突っ込んでいて、急いで抜こうとするがなかなか抜けない。それに加えて足首がグロテスクなほど青紫色に腫れ上がっている。間違いなく捻挫だ。
“良くないモノ”はすぐそこだ。このままでは取り込まれてしまう。
ここで終わるわけにはいかないのに。
まだ墓参りが済んでいない。家に帰らなくちゃ。
取り込まれてしまったら、一体どうなるのだろう?
『怖い?』
金魚のように動くだけだった口から、初めて声が発せられる。男性のような女性のような、老人のような子供のような、はたまた機械音のような、一切の感情が感じられない声が、イオリの鼓膜を震わせた。
『怖イネ』
『怖いダロう』
『怖カッたロう』
『もう大丈夫ダヨ』
『皆んナでイレば怖くなイヨ』
『寂しくなイ』
『怖いノハ嫌ダよ』
『一緒になロウ』
『おイデ』
『おいデ』
『ヰオリ』
『オいデ』
『イオリ』
『ゐおり』
“良くないモノ”の身体から無数もの腕が伸び、イオリを絡め取ろうとする。
「ぁ――――――――」
「だめぇ!!」
突然、横から強い衝撃を受けたかと思うと、イオリは“良くないモノ”の目の前から跳ね退かされた。その勢いで挟まって取れなかった足がすっぽりと抜ける。
咄嗟に投げ出された身体を起こして見ると、自分がいた場所にステラが立っていた。
駆け寄ってきた誰かの手がイオリの肩に触れる。ステラは、イオリを見て微笑んだ。
「お友達になってくれてありがとう。町長さんによろしくね!」
届かないと分かっていながらも手を伸ばす。
何かを叫んだ気がするが、果たして言葉として成立していたかどうかは分からない。
自分の腕を引く誰かの手が疎ましかった。
「ステラ!!!」
名前を叫ぶのとステラが取り込まれたのはほぼ同時だった。