森の先客
「森にはこの町にしかいない蝶々がいるんだ。すごく綺麗な蝶でさ、イオリも気に入るといいんだけど」
森へ向かう道中、ヘルツがそんな事を話していた。相当好きなようで、それのおかげか会話が途切れるという事はなかったが、聞いている側としては若干引き気味である。
森に近付くにつれて木は増え、それと一緒に地面という地面に赤色が敷き詰められるように咲いている。彼岸花だ。
「こんなところにも咲いてる…」
「あぁ、彼岸花? この町のどこにでも咲いてるよ。一応、名前の由来らしいしね」
という事は、やはりヒガン町のヒガンは彼岸花から来ているという事か。
町と違い舗装されていない道を歩いていると、次第に道には雑草が目立つようになり、やがて道ではなくなった。
ヘルツは構う事なく彼岸花を踏み折って進んでいく。
「まだ行くんですか?」
「うん、この先に少し開けた空き地があるから、そこまで。イオリは平気? 慣れない場所だろうし、疲れたりしてない?」
「それは大丈夫です」
草だらけで足元は見辛いが、前を歩くヘルツの歩いた跡が道のようになっている。
イオリはその道を辿りながら歩いた。本当にそこら中彼岸花だらけで、赤ばかりの視界に目がおかしくなりそうだった。
不意に、ドンッと何か壁のようなものにぶつかる。ヘルツの背中だ。どうやら彼が立ち止まったようだった。
「ついた、けど、先客がいるね」
後ろからひょっこりと顔を覗かせると、確かに先ほど聞いた通り少し開けた空き地があった。
先客とは、誰だろう?
空き地の向こう側に、誰か人が座っているのが見える。
「…また蝶々でも採りに来たのか? 物好きだな」
「残念ながら今日は違うんだよね。ほら、お客さん」
「客?」
木に寄りかかり座っていた先客は、身体を傾けてヘルツの後ろに隠れるイオリを見た。
「…!」
先客が息を飲む音が聞こえる。しかしイオリがその姿を見た時、表情を確認する事は出来なかった。
表情の代わりに見えたのは、黒いガスマスク。
「…外から来たのか?」
声から判断するに、先客は男性のようだ。
ガスマスクの男は立ち上がると、二人の側まで歩いてきた。
「客って事は、帰るんだろう? なんで森に近付けたんだ」
「行きたいって言われたから案内しただけだよ」
「…いいか、森にはあまり近付かない方がいい。森には“良くないモノ”がいるから。それと、この男にもな」
「何それ、酷いなー」
…仲が悪いと言うよりは、ガスマスクの男が一方的にヘルツを嫌っているように見える。
マスクのせいで顔は見えないが、その下の表情は歪められているのだろう。何故かは知らないが。
「昨日来たばかりだから今日は来ないと思ってた」
「確かに今日は来ない予定だったけど、ボーイと遊ぶ約束がキャンセルになっちゃったからね」
「あの、いつもここにいるんですか? それに良くないモノって…」
「“良くないモノ”は、“良くないモノ”だ。何も聞いてないのか?」
イオリが首をかしげると、ガスマスクの男は頭を抱えて溜息をついた。
なんで誰も教えないんだ。そう言いたげだ。
その“良くないモノ”とは、知っていなければまずいものらしい。
「…しょうがない、僕が説明する」
「えー、俺が一緒に来たのにー」
「お前は蝶でも追いかけてろ」
ヘルツが文句を言うのを無視して、ガスマスクの男はイオリの手を取り歩き出す。と言っても空き地の真ん中辺りに移動しただけで、イオリに座るよう促すと自分もその場に座った。
ヘルツは完全に置いてけぼりだ。
「この町が普通の町とは違うっていうのは、なんとなく分かるだろう? なんせ町長が透明人間だからな。それで、“良くないモノ”っていうのは、元町の住人だとか、町の住人の“分身”みたいな存在だ」
「住人の、分身?」
「自分の本音が具現化したような…そんな存在。この町の住人は、誰もが必ず、それぞれの事情で強い後悔と悲しみの心を抱えている。その心が具現化したのが、“良くないモノ”だ。奴らは自分の本体を自分に取り込もうとする」
「その“良くないモノ”が森にいるのに、貴方はいつも森にいるんですか? その、危険なんじゃ…」
「僕? 僕は平気だ。僕は奴に付け入られない自信があるし、ここは森の入り口に近いから、奴らはあまり出て来ない。夜になったら危ないけど、日が高い間は奴らは森のずっと奥にいるからな」
一通り話して、ガスマスクの男は区切りをつけるように空を仰いだ。
「…悲しみの心の塊だから、奴らはすごく寂しがり屋で、誰彼構わず引きずり込もうとする。あんたはこの町の住人じゃないから尚更狙われるだろう。帰れる可能性を持ってる奴ほど、引き留めたくなるものだ」
「あー、それはあるかもね」
何処かへ行ったかと思いきや、話を聞いていたらしいヘルツが会話に割り込む。
ストン、とイオリの隣に座り込んだ彼を、ガスマスクの男は彼に対するイライラを隠す事なくぶつけた。
相当嫌いなようだ。
「おい、近いぞ。そんなに近付くな」
「ちょ、痛い痛い!なんでそんなにイライラしてんの!? しかも会ったばかりなのに妙に過保護だし、普段はそんなに誰かを気にしたりしないくせに!」
「うるさい、僕の勝手だろう」
「なんか今俺すっごい理不尽な扱い受けてる」
「この町に来たって事は、役場で世話になるんだろう? 町長に、夜は出歩くな的な事言われなかったか?」
「え、無視? 無視なの?」
ガスマスクの男はヘルツに対して無視を決め込む事に決めたらしい。
イオリはヘルツに対して若干の苦手意識を持っていたが、これは流石に可哀想になってくる。
拗ね出したヘルツを気にしていると、ガスマスクの男に、
「気にするな」
と言われてしまった。
「で、言われたか?」
「夜は出歩くな、ではなくて、早く帰ってこいとは言われました」
「一応注意はされてたんだな。奴ら、昼間は基本森にいるけど、夜になると町に出てくるやつもいるんだ。それでも建物の中には入ってこれないけど。だからだよ」
「そうなんですか…。ありがとうございます」
「いや、この町に住む者としてすべき当然の忠告だ。けど町長が先に言わなかったのも、そのうち帰ってしまうなら知らない方がいいと思ったからかもしれないし、その気持ちは少し分かる」
マスクのせいでくぐもった声の後に、また小さく溜息が聞こえた。
ガスマスクの男が無視を決め込んだ後、ヘルツは会話に入る事を諦めてフラフラと森の奥へと言ってしまった。“良くないモノ”は森の奥にいると言っていたが、ヘルツは大丈夫なのだろうか。
森に向けたイオリの視線の意味に気付いたらしく、ガスマスクの男も同じように森の奥を見た。
「あいつなら、大丈夫だ。よくこの森に出入りしているから慣れてるだろうし。奴らは心の隙間を突いてくるけど、付け入られるようなヘマもしないだろ。あんたも、もし出会っても付け入られないようにしろよ」
「…でも、やっぱり少し心配です」
ガスマスクの男の声が面倒臭そうなのは、ヘルツの心配をするのが無駄だからなのだろう。
嫌いだからというのもあるかもしれないが、取り敢えず彼に限って取り込まれる事はないという信用の証として受け止めておく。
しかしいつも森にいるらしいこのガスマスクの男とは違い、会ったばかりのイオリには「大丈夫だろう」と言えるだけの信用もなければ、ヘルツの事すら全く知らないのだ。不安な気持ちは消えなかった。
その様子を見かねてか、ガスマスクの男は観念したように項垂れて、ボリボリと頭を掻いた。
「…そんなに心配なら探しに行くか?」
「いいんですか?」
「ああ。僕も少し心配なところはある。でもあんた危なっかしいから、森にいる間は僕が一緒に付いてってやるよ。せっかくの客を、いきなり黒くされちゃあたまらないからな」
スクッと立ち上がり、ガスマスクの男は森の奥を見据える。
森の奥は木が鬱蒼と生い茂り、開けている空き地から見ると大分暗くなっていて、今にも“良くないモノ”が飛び出してきそうな不気味な雰囲気だ。
この奥に、ヘルツは平気で入っていったというのだろうか。
イオリの身体がぶるりと震えた。恐怖ではない。武者震いだ、多分。
「…怖いならここで待っててもいいんだぞ。その場合は、まぁ僕も行かないけど。どうせあいつもしばらくしたら戻ってくると………戻って………くる、か?」
「すごく曖昧ですね…」
「あいつ、ここの蝶が本当に好きらしくてな。見つけたら追いかけ回して、戻るのが遅れるっていう可能性は大いにある」
仕方ない、行くか。そう言って、ガスマスクの男はヘルツのようにイオリに手を差し出した。おそらくこの森で迷ったりしないようにという意味合いだろう。うっかりはぐれて迷子になったりしては困るので、素直に握り返しておく。
「絶対に離すなよ」
「はい。…ガスマスクさんはどうして森にいるんですか?」
「…そうだな、僕は人を待ってるんだ。ずっと。ここで待っててねって言われたから待ってるんだけど、いつになったら迎えに来てくれるのかな」
顔も見えないし、こちらも向いてないので表情は全く分からない。だが、ガスマスクの男の声はどこか寂し気だった。
「ところで、僕はソルだ。決してガスマスクなんて名前じゃないからな。よろしく」
「あ、私は…」
「イオリだろ。知ってる」
「え?」
「…耳がいいんだ」
ガスマスクの男、もといソルの顔を見る。マスクの奥で、イオリを見るその目が細められた気がした。