エピローグ 「小さな忘れもの」
あの日以来、あの幽霊少女ユレリアは、俺の前に姿を現すことはなかった。
しかし、そんな不思議な出会いからしばらく経ったある日のことだ。
*
俺は、学校からの帰り道を自転車で走っていた。
赤信号で止まる。すると、ふと右手に雫が落ちた。
空を仰ぐ。
「ついてないなぁ……」
空は明るく、所々澄んだ青色も見える。天気雨だ。
「洗濯物干しっぱなしだったっけ……」
と何気ないことを考えていると、不意に肩をやさしく叩かれた。
「海人、雨だよ」
俺は驚いて後ろを振り返ると、見間違えではない、そこにはユレリアが立っていた。
「……ユレリア」
心臓がドキンと跳ねた。
「雨……、そうか、雨か」
思えば、ユレリアが現れるときはいつも雨が降っていた。もしかしたら、彼女が幽霊になった理由と関係があるのかも……。
「海人、青」
「ん? ……ああ」
信号のことらしい。俺は、降りて自転車を押しながらユレリアの隣を歩くことにした。
しばらく無言で歩き続ける。ときどき横顔をチラッと覗きこむと、ユレリアがこっちを向いてニコッと笑う。
……なんだろう、初々しいカップルみたいだ。恥ずかしい。
「海人、私の話、聞きたい?」
突然、ユレリアがそんなことを聞いてきた。一体何の話だろう。
「うん、聞かせて」
「幽霊って、何だか知ってる?」
それをユレリアから聞かれるとは思わなかった。彼女に会うまでは、幽霊なんて信じていなかった。いや、きっと今もまだ、信じきることはできていない。
しかし、一般的にいわれる「幽霊」の知識はもちろんあった。
「死んだ人が、成仏できずに、この世を彷徨ってる姿……、かな」
「うん、合ってる。だから幽霊は、この世に何か強い未練を残していることが多いの」
「……そうだな」
それなら、ユレリアは、一体どんな未練を残して……。
その時、俺はどきりとした。どうして今まで気が付かなかったのだろうか。そうだ……、死んだのだ。ユレリアは。こんなに小さなうちに命を落として……、ずっとこの世を彷徨っていたのだ。
「でも私は……、思い出せないの。どうして私は幽霊になったのか……、分からない」
そんなことが、あるのだろうか。
「だから私は、ずっと幽霊であり続けた。……辛かった」
それは本当に辛かっただろう。自分の声は誰にも届かず、自分の姿は誰からも見えず……。その寂しさは、俺には想像できない。
ユレリアは語り続ける。
「もう、どのくらい時間が経ったのかなんて、だんだん分からなくなってきた。でも、でもそのうち、これには何か意味があるんじゃないかって……、そう考えるようになったの」
「意味?」
「そう、もしかしてこのままずっと待っていたら、何か良いことがあるんじゃないかって」
「……」
「そしたら、あのどしゃ降りの日に……、海人が」
ユレリアは泣いていた。俺には、分からない。ユレリアが今どんな気持ちで涙を流しているのか。だから……、掛ける声なんて、あるはずがなかった。
不意に、ユレリアが抱きついてきた。
「……ユレリア」
雨で髪が濡れている。
「海人?」
「その……、ありがとう。話、聞かせてくれて」
「うん、私も」
「……え?」
「ありがとう、海人」
「ああ……、会えてよかったよ」
「うん……。ねえ、海人……、私の名前、もう一回呼んで」
「……ユレリア」
「ありがとう、海人」
「見つけられるといいね……、幽霊になった理由」
「ふふっ、もう、見つけたよ」
「えっ?」
*
それから、また俺は退屈な毎日に戻った。
ただ雨の日になると、いつも彼女のことを思い出すようになった。もう二度と会えないかもしれないけれど、またいつか会えたらいいな、とそのたびに思う。
そして、最後に別れのキスでもしておけばよかった、なんてささやかな後悔をするのだ。