先生の絵
買い物をすませて大急ぎで家に帰った。玄関のドアを開けて中に飛びこむ。
「ただいま」
先生の姿を探すと、食堂のテーブルに突っ伏して眠っている。かけたままの黒縁眼鏡が皮膚に食いこんでちょっと痛そうだ。
「先生」
僕は先生の肩を揺さぶった。いつもならそっとしておくところだけど、おあずけ状態が長かったのでとても待ちきれない。見せたいものっていったい何?
「う・・・んっ」
先生は軽くうなって頭をあげた。
「いったいどこをほっつき歩いていたんだ。待ちくたびれたぞ」
起きたなり小言が言えるってすごいかも。起きぬけの僕はたいていぼんやりしている。
「これでも急いで帰ってきたんですよ。それで、お楽しみってなんですか?」
「絵が完成した。見たいだろう?」
「本当ですか?」
僕は興奮気味に先生の腕をつかんだ。
「早く見せてください。アトリエですよね」
走り出しそうになるのを必死に押さえて先生をせかした。
「ちょっとおちつけ。その前にお茶を入れてくれないか。喉が渇いた」
先生はのんきにあくびをしている。
「もう。じらすのは抱く時だけにして下さい。先行っちゃいますからね」
僕は頬をふくらませて抗議した。
先生は眼鏡の中央を押しあげて、僕の腰を引き寄せた。
「今からおもいっきりじらしてやってもいいよ」
僕のお尻をつかんで耳元で囁く。甘やかな声に一瞬そちらへかたむきそうになったけど、絵を見たい気持ちの方がさらに強かった。
「すごく魅力的ですけど後にして下さい」
僕は先生から身を離す。
「お茶を飲むまでは一歩も動かない」
先生はだだっこのように椅子に座ったまま腕を組んだ。
「昼だって飲みたかったのに我慢したんだ。アールグレイがいい」
いいかげんにしてくださいよ。僕はそう叫びたい気持ちだったけど、冗談抜きでアールグレイを飲むまでは座りこみを続けそうだ。説得するよりもさっさと入れてしまうほうが早い。
「アールグレイですね。ケーキを焼けって言うのは絶対受け付けませんからね」
たとえ今がアフタヌーンティーの時間帯でも。
「お前、お菓子も作れるのか?」
足早にキッチンへ向かう僕に、先生は数歩で追いついた。
「作りませんからね。なんと言われても」
投げつけるように言い返すと先生はむっと唇を引き締めた。
「そうじゃない。技術があるか聞いているんだ」
「スコーンとかサブレとか簡単なものだけですけどね」
田舎のおやつ程度のものだ。
「何か作ってくれ」
「だから作りませんって」
いったいどれだけじらせば気がすむんだ。
「すぐにとは言わないが」
「だったらいいですよ。マカロンなんてどうですか?あれはケーキ型が要らないから」
「ケーキ型か。マカロンならマカロンメゾンにしてくれ」
アーモンドは買い置きがあるので大丈夫だ。
紅茶を入れてる間に先生はキッチンから姿を消し、入った頃を見計らって戻ってきた。
今あるお菓子を要求し、いつにもましてまったりとお茶をしたあと、アトリエに移動する。
アトリエは家の中で一番明るい場所にある。バレエのレッスンでもできるんじゃないかというほど広い板張りだ。大きな一枚ガラスがはめこまれた白い木枠の窓には白いレースのカーテンがかけられ、入りこんだ柔らかな光が部屋全体を照らし出している。部屋の中にはほとんど物がなく、ポツリと置かれてたイーゼルと椅子が、誰かが作ったオブジェのように見える。キャンバスに描かれた絵はイーゼルの向こう側に置かれているので、ドアの方からはまるで見えない。ただ骨組みの隙間から後ろの木枠が見えるだけだ。
「目をつぶって」
先生は手を引いてキャンバスの前まで連れて行ってくれる。
「いいよ。開けてごらん」
先生の瞳の色みたいな深い藍色の闇の中に、月の光を浴びて淡く浮き出した黄色いミモザの花が、画面を明るく彩っていた。その根元には、ふわりとベールを揺らしてたたずむ人。月の光の中に溶けこむようにはかなげで、そっと地に足先が触れ、たった今舞い降りたような不思議な空気感を持った、どこまでも幻想的で美しい絵。
「どうだ?」
僕はぽかんとしたまま、絵から目が離せなかった。
「先生って本当に画家だったんですね」
「それはどういう意味だ」
先生は口を尖らせた。
「だって今まで一枚も見たことがなかったから」
画商のパスカルから若くして大きな賞をいくつもとった天才画家だと教えてくれたけれど、あの人の話し方はいちいち大げさで頭から信じる気になれず、ぴんとこなかった。
「語りの画家だと思っていたのか?」
「うーん。その点はあまり気にしていなかったから」
先生が語りだろうが本物であろうが先生であることは代わらない。とにかくパスカルが言っていたことは本当だったようだ。
「それで?」
先生は腕組みして神経質そうに僕の感想を待った。
「僕、絵のことは詳しくないですよ?」
「かまわない。お前がどう感じたか素直に言ってくれ」
「僕なんかをモデルに使ってよくここまで綺麗に描けるなって感心しました」
さすがプロの画家だ。
「全然似てないじゃないですか」
輪郭や体型に面影が残る程度であまりに美人過ぎる。と言うより妖精か天使レベルで人から程遠い。まあ、そのまま僕を描きこんだら思いっきり浮きまくっていただろうけど。
先生はどうやら不服そうだ。
「なんだか綺麗過ぎて恐い気がします。このまま吸いこまれて帰って来られないような」
「気に入らなかったか?」
「そうじゃないです。ただ、圧倒されちゃって」
人の手で描かれた生の絵を目の前にすることが、これほど現実感を損なわせるとは思わなかった。自然と僕の心の中に入ってきて、今まで思い描きもしなかった光景を目の前に作り出す。手をのばせば満開に咲き乱れるミモザの花に触れ、そこに流れる風の音や匂いまで感じられる。まるでそこにあるかのように。僕の感覚を狂わす。
要領を得ない僕の言葉に、先生が内心いらだっているのはわかっていた。でも、本当にすごいものを見ると、話す言葉をなくしてしまうものなのだと知った。
「どうせリハビリがてらに描いた絵だ」
わっ先生すっかりすねちゃった。よくないなんて一言も言ってないでしょう!
まずい・・・と青ざめた時、玄関から陽気な声が聞こえてきた。
「せーんせぇいっ!従順なパスカルが来ましたよ。どこにいるんです?」
廊下をうろうろ歩きまわる音がして、アトリエに姿を現す。
「ああここでしたか。ふうっ、すぐに来いって電話してくるから慌てましたよ。これ、頼まれてたお菓子の型です。マドレーヌ型にパウンド型・・・目についたものを適当に買ってきました。画家辞めてお菓子屋にでもなるつもりですか」
やめてくださいよねぇ・・・と、パスカルは泣き声になる。
「いつ俺が使うといった。菓子を作るのは俺じゃなくてこいつだ」
先生はむすっとして僕の方を指差す。
「ですよねぇ。料理さえまともに出来ない先生がお菓子作りなんておかしいなと思ったんですよ。いやぁしかし、僕の人を見る目もたいしたもんでしょう。田舎のママンを思い出しますねぇ。よく作ってくれたんですよ。ガトーショコラとか」
「いつだったかのタルトタタンは絶品だったな」
「でしょう?いつかまた差し入れしますよ」
「ああ。台所に荷物を置いたらさっさと帰れ。用はそれだけだ」
自分で用事を言いつけておきながら、そのまま帰してはあんまりだろう。
「お茶くらい飲んでいってください」
僕は気の毒になって呼び止めた。
「ありがとう、ミッシェルぅ。できればコーヒーにして」
「コーヒーですね」
「俺の目が黒いうちは家の中でそんなもの飲ませないぞ」
僕がうなずくよりも前に先生は僕を押しのけて申し出を却下した。
「せっかく買い物をしてきてくれたんだから、今日ぐらいいいじゃないですか」
僕はパスカルを援護した。
「だめだ。甘い顔をするとこいつはどんどんつけあがる」
「そんなことないでしょう?いつも従順な羊ちゃんみたいな僕に」
パスカルは両手をかわいく頬に添えて、まつげをパチパチさせる。
「気持ち悪いことをするな。そういう人を食ったところが信用ならないんだ」
「ひどいじゃないですか。僕はいつも先生に尽くしているのに」
パスカルはわざとらしく泣きまねをした。
「ミッシェル。パスカルが荷造りの手伝いをしてくれるそうだ。一人じゃ運び出せないものもあるんじゃないか?」
働きが足りないと言わんばかりに決めつけた。
「その必要はないです。今日アパートに行って掃除まで済ませてきたんで」
「それにしては荷物が少なすぎはしないか?」
先生は食堂に置いたままになっている僕のバッグを思い出して怪訝な顔になる。
「部屋はしばらくそのままにしておくことにしたんです。偶然借りてくれる人もみつかったし」
「引っ越してこないのか?」
「先生の家には住みこみますよ。でもほら、気が変わることだってあるでしょう?止めればよかったって後悔した時、追い出しやすいじゃないですか」
「お試し期間ってこと?」
パスカルが横から口を出す。
「そんなものです」
僕はうなずく。先生の眉間のしわの本数と深さがさらに増した。
「俺が信用できないのか?」
「そういうわけじゃないです。逆に先生に気を使わせたら悪いなって」
ぎろりと先生が目をむいた。僕は見入られた蛙状態で身を強張らす。
こっ・・・怖い。
そんなに怒らせることを言っただろうか。
「ちょっと来い」
僕は襟首をつかまれて強制的に歩かされる。
「お前は帰れ」
ちらりとパスカルに顔を向けて僕を引っ張っていく。そのまま先生の部屋に連れて行かれた。
「保険をかけずにいられないほど俺はいいかげんな男か」
僕の肩をつかむと乱暴に壁に押しつける。
「お前は何もわかっていない」
先生は僕の心に踏みこむように真っ直ぐ僕を見た。
「俺がどれほど本気か、お前の体に直接教えこむしかないようだな」
先生はするりと、僕のズボンの中に左手を滑りこませる。きゅっとつかまれ、僕は身じろぎした。
「先生っ」
「先生と呼ぶな。名前で呼べ」
さらに力が加わる。
「ロ・・・ロラン」
体に力が入らない。
「どんなに逃げ出したくとも、俺から逃れられはしない。お前はとらわれてしまったんだ。俺の、檻の中に」
熱く激しい先生の手が、僕の体をくまなく愛撫する。打ちこまれた欲望は火のように焼けついて、いつまでも消えない刻印を残した。僕はなすすべもなく激情に押し流されていく。体が二つに裂けてしまいそうな衝撃にまともに口をきくことも出来ず、乱れた息づかいとあえぎ声だけが押し出される。このままされたら気がおかしくなる。いつもの余裕はまるでなく、声にならない悲鳴をあげた。




