ミモザの夜
先生が前に進みだす回です。
ただぐうたらした画家じゃなかった。(笑)
夜。すっかり泣いたダメージも消え去って、ようやく先生のお許しが出た。
「ランプを持ってついて来い」
言われるままに、僕は先生の後をついていく。
先生はアトリエの前を素通りして建物の外に出た。僕がハーブ畑をみつけた庭だ。月の光が明るい。外に引き出されたサイドテーブルの上にいくつものランプが赤々と燃えていた。その横にはキャンバスが置かれたイーゼルがたてられている。イーゼルには手元を照らすために特別に作らせたらしい蝋燭たてがついており、火をつけられた蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。丸く咲き誇ったミモザの前に僕を立たせ、白いベールを頭からかけた。細かく顔の角度や体の角度をチェックした後、僕の前から離れていってキャンバスの前に座る。炎に照らされた先生の真剣なまなざしがはっきり見て取れた。視線は僕とキャンバスの間を何往復もし、できるだけ正確な形を写し取ろうと目を細めている。黒縁眼鏡の奥にある先生の目が見えるはずがなかったが、そんな気配を感じた。銀の砂のような月の光がきらきらと降り注ぎ、地上に長い影を作り出していた。闇の中に咲く黄色いミモザの花は、けぶるように光を反射させて浮かびあがっている。日の光の下にいる時よりも強く、光と影の存在を感じた。肌寒いほどに冷えた空気はピンと澄みきり、物音を立てたら甲高く響き渡りそうだ。
「ミッシェル」
同じ格好をしつづけて体が痛み始めた頃、先生は僕の名前を呼んだ。
「休んでいいぞ」
僕は大きく息をついて首をまわしながら、先生の方へ歩み寄った。
「見てもいいですか?」
どんな絵なのだろうとわくわくしながら正面に回りこもうとすると、先生はキャンバスをさっと取り上げランプの光の外に出た。
「そこにあるもの全部アトリエに運んでおけ」
絵から追い払うように用事を言いつけてくる。休んでいいじゃなかったっけ?出来上がるまで見せてはくれないようだ。
結局そのまま先生の家に泊まり、すぐに使えるベッドがなかったので長椅子で寝ていた僕は、朝一番でたたき起こされた。
「ミッシェル。昨日と同じポーズだ」
目を開いただけでぐったり横になっている僕を、先生はもどかしげに両手をつかんで無理矢理引っ張りあげた。長椅子の上に座らされた僕は、ぼんやりとしたまま先生のベッドに視線を向ける。僕がベッドメイクしたまま乱れ一つない。
まさか徹夜で描いてた?
荷物を運びこむと先生はそのままアトリエにこもってしまい、先に寝ていろと言うありがたい言葉にしたがたのだけど。
「言ってくれたら夜食ぐらい作ったのに」
「夜食はいいから早くしろ。ほらシャツ」
昨日寝る前に脱いで椅子の背にかけておいた服を投げてよこす。
僕はせかされながら、下着の上にそれらを慌てて身につけた。ぐずぐずしているとそのまま引っ張っていかれそうな雰囲気だったからだ。
先生と一緒にアトリエに行き、先生の細かい修正の後、同じ格好で数時間。ちらりと先生の方を見ると、真剣な顔つきでキャンバスに向かい、絵筆を動かしている。朝食ぐらい食べた方がいいとわかっているけれど、声などかけたらせっかくわきあがっているイメージを邪魔することになるだろう。絵のことは詳しくないが、今はそうすべきじゃないという勘は働いた。
「ああもういい。行っていいぞ」
目の奥に焼き付けて形になったので、最後までつきあわなくてもいいらしい。
僕はアトリエを出て、先生がいつ来てもいいように朝食の準備した。しかし洗濯物を干し終わっても姿を現す様子がない。さすがに気になってアトリエへ見に行くと、先生はさっきと同じ姿勢でキャンバスの前に座っていたけれど、ちょうど一段落ついた感じだったので、朝食にしないかと声をかけてみた。
「ミルクたっぷりの紅茶が飲みたい」
すぐに返事が返ってきた。
「すぐに準備できますよ。卵はどうします?」
「サニーサイドにしてくれ」
絵は順調に進んでいるらしく、声に張りがある。
「じゃあ僕、先に行って準備しておきますから手を洗ってきてください」
先生の機嫌がいいと僕もうれしくなる。自然とキッチンに行く足取りも軽くなった。
目新しいものはなかったが、先生はいつもよりたくさん食べてくれた。絵を描くのは見た目以上に体力を消耗するようだ。
さしあたり僕にできるのは、食事面でのサポートくらいだ。
「買い物に行ってきます。ついでにアパートによって着替えてこようと思うんですけど」
「面倒くさいな。部屋は腐るほどあるんだ。いっそのこと住みこみで働いたらどうだ」
さらりと先生は言う。
「住みこみ?」
そうしてもらえれば、毎日通う手間は省けるけど。
すでに先生と一線を超えてしまったので、逆に僕は躊躇する。帰る場所がないと、お互いうまくいかなくなった時に追い出しにくくなるんじゃないかな?
「嫌か?」
「いいえ。とってもありがたいです」
慌てて僕は首を振る。
「じゃあ、さっそく行って荷物をまとめて来い。帰ってきたらいいものを見せてやる」
「え?何です?」
僕は興味をひかれて問いかけた。
「帰ってからのお楽しみだ」
なんだろう。すごく気になる。
「ヒントとかないんですか?」
「うるさい。さっさと行って来い」
先生は眉間にしわを寄せて片手を振った。
「昼食用にサンドイッチ作っていきますね。ちゃんと食べなきゃだめですよ」
食堂のドアの前で立ちどまりさらに声をかけると、先生は顔をあげてじろりと睨みつけてきた。そんな恐い顔しなくても行きますから。僕はそそくさとその場から立ち去る。




