先生と悪夢
ミッシェルと画家先生の距離が精神的にぐっと近づく回です。
わっまずい。
次の日目を覚ますといつもならとっくに先生の家にたどり着いている時間だった。
起きぬけのけだるさが襲ってきたけど、慌てて飛び起きて着替えをし、部屋を出た。
買い物を済ませて先生の家に行くと、先生は私室の長椅子に腕を組んで横になっていた。いつもかけている黒縁の眼鏡は、はずされてサイドテーブルに置かれている。
この人、目を閉じるととたんに子供みたいな表情になるんだよな。
無心に閉じられたまぶたがぴくりと動いた。ナイフでそいだような痩せた頬に落ちかかった漆黒の髪を指ですく。
なんだかキスしたくなっちゃった。
僕は男っぽく引き締まった薄い唇をみつめた。どうしようかなと悩みながら眺めていると、先生の形のいい眉が突然苦しげに引き寄せられた。息づかいが荒くなり、額にじんわりと汗が浮かんでくる。
「先生?」
呼びかけてみたが反応はない。ただ低い唸り声が苦しげに漏れている。びくりと体が揺れ、両手が宙をもがいた。
「クラウス!」
彼は身をのけぞらして声をあげると、はじかれたように半身を起こした。怯えた目であたりをみまわし、僕と目が合うとはっと息を飲んだ。瞬きすら忘れたみひらかれた目で。
小刻みに震える先生の体を僕は抱きしめた。
「もう心配ないから」
先生の頭を肩にもたれさせ優しくなでた。
「今のは夢だから」
震えがゆっくりと治まっていく。ようやく気持ちが落ち着いたのか、先生はほっと息をついて僕の背中に両手をまわした。
「遅かったじゃないか」
先生は耳元で囁いた。
「すみません。寝坊して・・・」
僕が謝ると先生は肩に顔をうずめたまま、すがるようにしなだれかかってきた。
「そうだ。お前が悪い」
こちらから表情はまるで見えない。
「俺を一人でほっとくなんて」
「どうかしたんですか?」
悪い夢を見た後は誰だって気弱になるものだ。
「夢を見るんだ。同じ夢を何度も」
うなされ、目が覚めても震えが止まらないほどの恐い夢。
「クラウスが目の前で焼けていくのに指一本動かせない。何度も何度ももだえ苦しんで」
先生は痛みを堪えるように言葉を切った。
「夢から覚めてもクラウスは生き返らない」
一番ひどいのは目が覚めた瞬間。彼がここにいないのだと思い知らされる。その真実の方が辛くて痛い。その痛みは僕もよく知っている。
「よほど大事な人なんですね」
「ああ。俺の大事な弟」
優しく悲しげな声。その声を聞いただけでも、クラウスに対する愛の深さがわかる。
「俺の唯一の理解者だった。俺の絵を誰よりも好きで、画家になる力をくれた。クラウスの存在だけが俺の慰めだった」
自分の存在以上に。
「なのにもうどこにもいない。俺が描いたくだらない絵のためにあいつは死んだんだ」
閉じこめていた気持ちが、激流のように溢れ出す。無表情に構えるいつもの先生が別人のように思える。どれほどの悲しみを凍りつかせていたのだろう。そう考えるだけで、胸が詰まる。
「どうしてそんなことに?」
そういえばパスカルが、火事で死んだと言っていた気がする。
「クラウスが入っていた大学の寮が火事になったんだ。ひどく燃えて学生が何人も死んだ。あいつはちょうど校舎にいて難を逃れたが、火事に気がつくと燃え盛る建物の中にわざわざ飛びこんでいった。クラウスは俺が入学祝に贈った絵をしっかり胸に抱いて、燃え残った廊下の隅に倒れていたそうだ。連絡を受けて駆けつけた死体安置所で見たクラウスは、煤まみれであちこち焼け焦げていた」
先生はそれ以上言葉を続けられず、嗚咽を堪えながら大きく息を吐いた。僕にしがみつく指先が背中にきつく食いこんで痛かった。でも僕は、声も立てず先生を支えていた。
「俺がクラウスを殺した。俺があんなくだらない絵を贈らなければ。絵なんか描かなければ、クラウスは今でも生きて笑っていたのに。俺が。俺の呪われた絵が」
先生の頬が押しあてられた肩がしっとりと濡れていく。先生の痛みを少しでも引き受けられたらいいのに。そう思うだけでどうすることもできず、頬を近づけた。
「そんな風に言っちゃだめだよ。弟さんは先生の絵が大好きだったんだから、けなされたくないだろうし悲しむと思う。先生の絵はくだらなくなんかない。価値があるから守りたかったんだ」
「気休めを言うな」
先生は顔もあげずに押し殺した声で言った。
「先生こそ全然わかってない。弟さんが先生を苦しめたいわけがないじゃないか。先生は生きて、描きつづけなくちゃだめなんだ。弟さんだってそう望んでる」
炎の中に飛びこんで、先生の絵を助けに行くほどのファンだったんだから。
「もし彼がここにいたら先生は悪くないって言うはずだよ。弟さんをなくした時点で先生も傷ついてる。そろそろ自分を許してあげていいんじゃない?これ以上自分を追いこんで傷つけるのやめなよ。そんなのわからない先生は本当に大馬鹿野郎だ」
どうしようもなく涙が出た。
「ミッシェル?」
先生は不思議そうに顔をあげた。
「お前泣いてるのか?」
驚きとあきれの混じった声。
「見たらわかるでしょう!」
僕はしゃくりあげながら涙を拭う気にもなれず、流れるままに泣きまくった。
「すごい顔だな」
きっと涙でぐしゃぐしゃの赤らんだ顔になっている。
「いいんです。先生の弟さんの代りに泣いてるんだから。大馬鹿な兄貴持った悔し涙だ」
「クラウスはもっと落ち着いてたが」
「うるさいです。そうだって言ったらそうなんです」
僕はむきになって叫んだ。
「まったくお前は変な奴だな」
先生の瞳が優しく和らぐ。
「モデルをしてくれ」
「え?」
突然の言葉に一瞬意味がわからなかった。
「なんだ。描きつづけなきゃだめだって言ったのはお前だろう」
ぽかんとしている僕の額をからかって指ではじく。降りかかった痛さに額を押さえた。
「何か描けそうな気がするんだ」
いつにない切実な声。僕は先生を見あげる。ぎゅっと両手を握りしめ、やはりだめなんじゃないかという不安に背中を向けそうになる自分を必死に踏みとどまらせていた。その様子を見ているうちに、先生は絵を描かないんじゃなくて描けずにいたんだと思いあたった。そこから抜け出すための出口が不意に現れ、先生は今にも切れそうな救いの糸を必死に手繰り寄せようとしていた。
「いいですよ」
僕も先生の力になりたい。その気持ちをこめて真面目にうなずいた僕に、
「あ、でも今のこの顔じゃなあ・・・」
先生は批判的な視線を向けた。




