初めての夜と先生の名前
今回は甘い雰囲気の話です。
ミシェルのいつもの病気も再発。
そして悪い男に引っかかって深みにはまるわけです(笑)
先生の部屋に行くと画商はすでに姿を消していた。
「遅かったな」
トレーにのせていた皿から直接プラリネ入りのチョコレートをつまみあげ口に入れた。僕はお茶入りのカップを先生に差し出す。
「パスカルの分はお前が飲め」
受取るなり一口飲んでテーブルの上に置いた。先生は立っていた窓際からゆっくりと離れ、長椅子に体を投げ出すように腰をおろす。長い足を組んで肘掛けに頬杖をつき、カップを取り上げた僕の顔を上目遣いにみあげた。
「俺が病院から逃げ出してきた入院患者だって言ったらどうする?」
「そうなんですか?」
紅茶を飲んだあと僕は尋ねた。先生は面白くなさそうに息を吐き出す。
「もう少し驚けないのか?」
この謎だらけの関係で、いまさら何を驚くというのだ。
「どこか悪いんですか?」
このままほっといてもいいのかと心配になって、かすかに口調が固くなった。
「どうなんだろうな」
先生は自嘲げに肩をすくめる。
「親戚たちは俺がまともじゃないと思っている」
先生は頬杖をやめて左袖のシャツのボタンをはずした。差し出された左手首には醜い傷跡がくっきりと横たわっている。
「俺を病院に隔離して厄介払いがしたいのだろう。遠巻きに俺が死ぬのを待っている。そんな期待に誰が黙って答えてやる?俺は俺の好きにやる」
それで先生は誰にも居場所を教えずここに隠れ住んでいるのか。それが本当の話なのか僕にはわからない。でも、手首を切るほど悲しいことがあったんだ。
「その傷、クラウスっていう人が死んだせいですか?」
先生はほとんど表情を変えなかったが、奥歯を強く噛み締めた。
「その話はしたくない」
静かだが、それ以上の立ち入りを許さない拒絶に満ちた顔。その中に心の傷が透けて見えて胸が痛くなる。
自然と僕は先生に歩み寄っていた。冷たい頬を両手で包み、眼鏡の奥の揺れる瞳をみつめる。悲しみで閉ざされた心に少しでも近づきたくて、そっと唇で触れた。薄い皮膚越しに、先生の心の震えを感じる。
先生は僕を引き離すことなくかといって答えもせずに、じっと長椅子に座りされるがままになっていた。
「どういうつもりだ?」
僕が唇を離すと、先生は静かに尋ねた。綺麗で淋しげな藍色の瞳が僕を捕らえる。
「そういう目をしている人に弱いんだ」
僕は泣きたい気持ちになる。
「先生があんまり淋しそうな目をしてるから、キスしたくなったんだ」
僕は素直に気持ちを告げた。長椅子の縁に手を置いて体重をかけ、先生の上に覆い被さった。唇の端から端までをゆっくりと味わい、閉じられた薄い唇に舌を差し入れた。
薔薇のようなウバの香りとチョコレートの甘さ。
僕は先生の首筋をなで、襟元に指を這わせる。シャツのボタンをはずし、鎖骨をたどる。引きこもっている割には意外と胸板は厚い。僕は先生の体に擦り寄り、先生のものにズボンの上から触れた。
冷たい彫刻のように座っていた先生は、僕の手を押さえて身を起こした。両腕で僕の体を抱えあげ、そのまま立ちあがる。片手で器用にドアを開け、僕を隣の寝室に運びこむとベッドの上に投げ出した。体が弾み、一瞬目をつぶって再び目を開けると、宝石のような深い藍色の瞳が、間近に僕をみおろしていた。
「俺が恐くないのか?」
低い深みのある声で、先生は問うた。
「名前さえ知らない男だぞ」
僕は先生の腕の中にとらわれ、首を横に振った。
「このままお前を刺し殺すかもしれないぞ」
透明に張りつめた孤独な魂が、僕にははっきりと見て取れた。その純粋さが僕の気持ちを揺さぶって、このままほっとけない気持ちになる。たまらないほど愛しくなり、僕を突き動かした。
「そうしたければしてもいいよ。僕は先生を愛したい。先生の瞳の中から一瞬だけでも淋しい光を消し去りたい。先生の心が少しでも和らぐなら僕はかまわない」
僕は両手を伸ばして先生の首を引き寄せた。
「気持ちよくしてあげるよ」
甘く耳元で囁く。
「そんな余裕は今のうちだけだぞ」
先生の瞳がきらりと光った。
「ミッシェル」
はじめて先生が、僕の名前を呼んでくれる。
「俺の名前はローランドだ。ローランド・ブルクハルト。ロランと呼んでくれていい」
「ロラン」
声に出して響きを確かめてみる。その余韻がまだ残っているうちに、お互いの唇を重ねあった。庭に咲くミモザの甘い香りがふわりと漂う。小鳥の鳴き声がかすかに聞こえた。




