ようやく届いた彼の言葉
「おい」
頭と首がぐらぐら揺れて捻挫しそうだった。誰だよ。せっかく眠れたのに。僕は心の中で愚痴った。っということは起きてるのか。でも、視界は暗くって。
「大丈夫か?」
頬をぴしりと叩かれ、反射的に目が開いた。白くもやがかっているが視界が広がる。端整な顔立ちの男が、もう一発いってみようかと片手を振りあげていた。
「先生」
できればもっと優しく起こして欲しい。手をのばしかけたが体が動かなかった。視界がかすれ、再びとろとろとどことも知れないところへ意識が流れていく。
待って。せっかく会えたのに。消えてしまう。
「行かないで」
会いたくて。会いたくて仕方がなかった。今度こそ一緒に連れて行ってよと必死に叫んだ。夢の中ぐらい、本当のことを言ってもいいよね。もう、自分がどう感じているかさえ忘れてしまいそうだ。笑顔が張りつきすぎて、本当に笑いたいのかもわからない。
「かろ・・・とひん・・・ですね」
遠くで声が聞こえていた。途切れ途切れに響きのある低い声も。川底から遠く離れた水面を眺めるのと似ていた。景色はゆがんではっきりせず、音もくぐもって聞き取れない。意識もゆらゆらとうごめいて、留まろうとしない。
「・・・」
目が、覚めてしまった。
正気に戻った僕は思った。そのことにがっかりしたのだろうか。敗北感がかすかに漂う。
覚めてしまったからには起きなきゃならない。笑って、動き出さなければ。
ぬっと、端正な若い男の顔が視界一杯に現れた。僕と目が合うと、とたんに張りつめていた表情が緩んだ。
「ヴィクトール」
先生とよく似た顔立ちをしているが、いつもかけられていた眼鏡がない。いちいちどきりとしなくなったのは、彼を見慣れたせいだろう。彼は僕のことを嫌っているのに、不思議と縁がある。神様が嫌がらせをしているとしか思えない。しかし彼は、相手の好き嫌いは別にして、弱った人間を心配できる。僕をみつめる瞳には素直にほっとした表情が浮かんでいた。根は優しい人なのだろう。
僕は頬に意識を集中して笑って見せた。
「ごめんね、またがっかりさせて。目、覚めちゃった」
きっとうんざりしているだろう。
「馬鹿野郎!」
ヴィクトールは瞬間的に何重ものしわを眉間に刻んで大声で怒鳴った。ぴしりと鞭で一打ちされたように鋭い。僕はびくりと背を振るわせた。
「お前あのまま死ぬつもりだったのか!」
「そんなつもりは・・・」
ただ、お腹がすかなかっただけだ。
「おかげで目が離せなくなるだろう。お前のことなど見たくもないのに。また馬鹿なことやってないか気になって」
それって。いままでその場に居合わせたのは偶然だと思っていたけど、もしかして僕のこと心配して見てくれてた?
「これ」
ヴィクトールはベッド脇の小さなテーブルに置かれた、厚手の黒い手帳らしきものを取りあげ、僕がけている毛布の上に落とした。
彼の考えがわからず、僕は手をのばしてそれをつかむとヴィクトールを見あげた。
「お前なんかに見せるのはものすごく不本意だがすぐに読め。ロランの気持ちを知ったらそんなこと絶対できないはずだ」
先生の?
僕は手の中にある黒い手帳をしげしげ見た。
ばたんとドアが閉まる音がした。ヴィクトールの姿はすでにない。
表紙に印刷された型押しの文字を読む。どうやら日記らしい。僕は毛布に手帳の背をもたれさせ、おもいきって表紙を開いた。
中に並んだ肉厚の字には見覚えがあった。大きさも間隔も装飾写本にかかれた文字のようにきちんとそろった美しい字。一度目にしたら間違えようがない特徴的な先生の字だ。
一ページに二日分書きこむ欄がある。日付を書きこんで使うタイプの日記帳だ。
書きこまれた文字は、日付とたった一行だけという日があれば、何日分にもまたがってかかれている日もある。日記の日付は月半ばの中途半端な時期から始まっているので、一年ごととか特に区切りをつけて使っていたわけではなさそうだ。僕は文面に視線を落とした。日記は僕が、先生の家で暮らすようになった頃から始まっていた。
『ミッシェルはクラウスによく似ている。いてくれるだけで心が休まる。今度こそ大事に愛したい。長く続かないことはわかっているが』
短い文章が続き、日付が六月に変わった。僕は息をつくのも忘れて、視線を動かす。
『六月十日。日記がかけなかった。前の分をまとめて書くことにする』
そう説明された後八日の日付が記され、文章が続いていた。
『ミッシェルと初めて出かける。画材屋の親父に子持ち扱いされたのにはむかついたが楽しかった。久しぶりに歩いたせいかやけに疲れる。休めば持ち直すかと偶然入った店に、左上の葡萄があったのには驚いた。パスカルに知られたらおおうけしそうなので黙っておこう。夜、熱が出て寝こむ』
あの日のことが鮮明に思い浮かんだ。先生はいつも通りの不機嫌顔だったけど、嫌がらずに腕を組んで歩いてくれた。何気ない話をして。平凡でなんでもないことだ。でも、先生は僕と同じように特別なことだと思ってくれたらしい。それがうれしかった。
『六月九日。ひどい話だ。彼の明るさはいったいどこから来るのだろう。過去に戻ってミッシェルのことを守ってやりたい。ミッシェルがあれほど人の死に敏感な子だとは思わなかった。また同じことを繰り返させることになるのかと思うと、胸が締めつけられる。約束一つできない自分に腹がたつ。この愛を始めたのは間違っていたのだろうか。自分がいなくなったあとのことを考える。午後、パスカルと出かけた。定期的に病院で検査をするのをサボりまくっていたつけか、いつもより時間がかかる。夜、発作が起きた。ミッシェルの声を聞きたかったが熱っぽい声を聞かせたくなくて、パスカルに電話してもらう』
パスカルが電話を変わろうとしなかったのにはそんな理由があったのか。今さらながら納得する。十日の日も寝こんでいたらしく、厳密に言うと十日の日記は十一日の朝に書かれたようだ。十一日日付の日記はなく、次は十二日にとんでいた。その間に起こったことはすぐに思い出せる。エリックに抱かれて、先生を傷つけた日だ。先生は僕の裏切りを、文字にできないほど怒っていたのだろう。書かれなかった日記のことを考えて、僕は先生が受けた傷の深さを思い知った。次の日の日記を読むのが怖くなった。そのときの辛さがよみがえって、僕の気持ちを重くした。でも、先生はもういない。謝りたくてもできない。僕にできるのは、先生の気持ちを知ることだけ。僕は、座りこみたくなる気持ちをふるいたたせてページをめくった。
『六月十二日。自分がこれほど最低な人間だとは思わなかった。ミッシェルとまともに目を合わせられない。どうしてあんな残酷なことができたのか、思い出しただけで自分に吐き気がする。力ずくで無理矢理されたことはわかっていたが、気持ちが治まらなかった。他の男が抱いたのだと激しい嫉妬に焼かれているうち、こんなひどい気持ちにさせるのはお前のせいだと理不尽な怒りがわきあがってきて、この苦しさを思い知らせようと彼が一番嫌がる方法でわざと抱いた。性欲ではなく怒りだった。お前は俺のものだと体の奥までわからせたい。俺の中には独占欲しかなかった。懇願も悲鳴も無視して傲慢に抱いた。口がきけなくなるほど怯えさせて。俺の中にある自分でも押さえきれない心の暗さが、いつかミッシェルをこなごなに砕いてしまうのではないかと、得体の知れない自分が恐ろしくてたまらない』
先生がそんな風に思っていたなんてちっとも知らなかった。エリックのことで怒って口をきいてくれないのだとずっと思っていた。もっと僕たちは、話し合うべきだったのだろう。先生の気持ちに気がついていれば、先生は悪くないのだと言ってあげられた。そのことがよほどショックだったのか日記はしばらく書かれず、エリックが先生に家の中へ招き入れられた日付まで飛んでいた。
『あいつが面の皮厚くやってくるたび今すぐ首をしめて切り刻んでやりたかったが、ミッシェルのことを本当に愛しているのならこのまま任せるべきではないかと思い始めていた。誰かにミッシェルを渡すなど正直死んでも嫌だったが、それほど遠くないうちに彼のそばから離れなければならない。思いが強ければ強いほど、痛みを味わうことになるだろう。そうなる前に彼を支える別の手をみつけられれば、受ける傷はわずかですむんじゃないか? どんな人間なのか見極めようと、気持ちを落ち着け冷静に奴の話を聞こうとした。しかし、だめだった。ミッシェルが奪われることが耐えがたかった。また残酷に、彼を傷つけてしまうかもしれないのに。本気でミッシェルを愛する気があるのかだって? その気持ちの深さは誰にも負けない。彼を守りきる長い時間があれば、こんな奴にいいようには言わせないのに。病気なんかにならなければ、愛していると何度も誓うのに。そうできない自分がもどかしかった。気がついたら俺は、あいつを家から追い出していた。ひつこくミッシェルをかきくどく男の声が聞こえてきた。いっそのことここから連れ去ってくれたらいい。そうの方がすっきりする。こんな男からはさっさと逃げ出した方がいい。そうすれば、俺から別れを告げなくてすむ。でも、ミッシェルは出て行かなかった。俺は心の底からほっとしていた。まだ彼と一緒にいることができる』
『夜発作が起きた。薬を飲んだがおさまらない。ミッシェルは気づいていないようだ。別の部屋で寝るようにしておいてよかった。クートから手紙が届く。帰国しないなら殴ってでも連れ戻すと書かれていた。彼ならきっとやるだろう。ほっとけば近いうちに押しかけてくる』
『ドクターの診察を受ける。発作はひどくなる一方だ。薬が効かなくなったことを告げると渋い顔をされる。これ以上誤魔化しきれない。夜、熱で寝こむ』
読み進めていくごとに、僕は自分の不甲斐なさを何度も思い知らされた。どうして、どうしてと、取り返しようのない思いが途切れることなく続いて苦しかった。でも僕はそんな気持ちを押さえながら、日記を読むのをやめなかった。
別れた日の記述はなかった。その後数日、「アトリエでベルガモット」と同じ文章が続く。どういう意味だろうと考えながらさらに進むと、「ベルガモット完成。家を出る」と記されていた。僕が出て行った後も、先生はあの家にしばらく残って絵を描いていたようだ。僕は先生のことを忘れようと必死にあがいていた。先生はまだそこにいたのに。すぐに戻っていれば、まだ間に合っていたのだろうか。僕はめそめそ悔やみ始める。先生と別れた時に感じた胸の痛さが再びよみがえってくる。
『サナトリウムの生活にも慣れた。頭の中に次々と描きたいイメージがわいてくる。私が生きている間にどれだけのものが描けるだろうか。何より今は時間が惜しい』
日記に記される先生の字が、この頃になると大きさもばらばらでひどくゆがんでいた。力も弱く見ていて悲しくなる。
『明け方ミッシェルの夢を見た。あの家の庭でハーブを摘んでいた。甘い花の香り。吹き抜けるそよ風が日の光を浴びて白く透けている亜麻色の髪をふわりと揺らしていく。明るい空色の瞳は成長したハーブの枝に注がれ、口元にはまろやかな微笑。穏やかで優しい風景。窓辺に腰かけて、ミッシェルを眺めているのが好きだった。こういうことを幸せというのだろう。ミッシェルのことを思うと暖かな春の日差しを思い出す。暗い心を照らし、そっと包みこんでくれる。あの庭にもう一度戻りたい。ミッシェルがいるあの風景の中に。彼が幸せに生きてくれることを祈る』
目の奥が熱くなって、先生の字がかすんで見えた。
最後の日記にたどりついて、僕は大きく息をついた。読み終えてしまうことを躊躇していた。先生をもう一度なくしてしまうような気がして。いや、厳密に言うとそうじゃない。頭ではわかっていても、心の中ではまだ、先生の死を受け入れていないんだ。日記を読んで、それを受け入れなければならなくなるのが怖いんだ。本当に先生が死んでしまうのが。僕は目を閉じて自分に言い聞かせた。しっかりしろよと。先生が残した言葉だろう。僕は全て聞かなくちゃならない。いままで聞かずにいた言葉の分を。
僕は目を開いた。最後の日記に日付はなかった。ベッドの上で書かれたのか、乱れて力のない細い文字が並んでいる。
『アールグレイの香りは最後の夜を思い出させる。いつも笑顔しか見せないミッシェルが、広いアトリエの中にぽつんと憔悴しきった顔で膝を抱えていた。細い肩だ。首筋も胸の前できっちりそろえられた両足も。ただでさえ小さな体がさらに小さく頼りなく見える。ずっとそばにいたい。でも、これ以上の重荷を背負わせられない。もうこんなに無理させている。どんなに辛くても自然と笑顔を浮かべてしまうから。ずっと君に甘えてきた。君の寛容さに。君はけして怒らない。怒る前にすでに許している。君にはたくさんのものをもらった。別れた後も、君の思い出が俺を生かしてくれた。俺はどれだけのものを君にあげられたのだろう。せめて俺の死が、君の耳に届かないことを祈る。全ての思い出が悲しい思い出にならないように。勝手に捨てていってひどい相手だったと笑い話になるように。この日記は俺が死んだ後、燃やしてもらうように頼んである。君の目には触れないだろう。だから今だけは、素直な気持ちになって言える。ミッシェル。誰よりも君を愛している。始めは君の中にクラウスを見ているのだと思っていた。でもいつのまにか、こんなにも君自身を愛していた。泣き出したいほど君に会いたい。君の声が聞きたい。何度も君の名前を呼んで、あふれそうになる気持ちを押さえている。俺はもうすぐいなくなるが、君はゆっくりと生き続けてくれ。君の幸せを祈っている。いままでありがとう』
日記帳にはその言葉を最後に、永遠に埋まることのない真っ白いページだけが続いていた。その白さが、やけに目に染みた。ぼわぼわと視界がゆがんだ。涙があふれて止まらない。次から次へと頬を伝い、何も見えなくなる。先生の死を聞いてから、一度も泣けなかったのに。涙と一緒に今までの思いがあふれ出て、僕はまるで小さな子供のように思いっきり声をあげて泣いた。どんな辛い思いをしても、先生のそばにいたかった。一秒でも長く、先生の顔を見ていたかった。もっと二人の思い出を作れたはずなのに。どうしてそうできなかったんだろう。
「ミッシェル」
先生の日記を一人で静かに読めるように部屋を出て行ったヴィクトールが、いつのまにか戻ってきていた。なだめるように僕の頭を胸の中に引き寄せもたれかからせた。
「ロランは言ってたよ。伝えたい言葉がこんなにあふれているのに今の自分には絵を描くことしかできないって。だから直接声に出して言う代わりに、愛しているという言葉も、幸せになって欲しいという願いも、全て絵の中にこめるんだって。死ぬ直前まで、一枚でも多く描きたがってた。まるで人が変わったように。始めはまた手首でも切るんじゃないかって心配してたんだ。クラウスが死んだ後、本当にひどい状態だったから。俺はロランに口止めされていたけど、どうしても彼の気持ちを伝えたかった。ロランを最後まで生きさせてくれた人に。だけど、ここまで来てずっと悩んでた。ロランが自分の気持ちを押させてまで守りたかったものをぶち壊すだけじゃないかって。だけどお前は、ロランのことなどすっかり忘れたように別の男と遊びまわっていた。ロランの気持ちを受ける資格などないように見えた。俺はそのまま何も言わず、帰るつもりだったんだ」
「どうして教えてくれる気になったの?」
突然殴られて驚いたが、彼がそうしたくなった気持ちはよくわかる。
「目の前で濡れ場を見せられて頭に血がのぼったからさ。たんなる話の流れだ。何も知らずにのんきにしてるお前が腹だたしかった」
「その仕返しはきいたよ」
僕の心を立ち直れなくさせるほど。
「お前があんなに馬鹿じゃなきゃ、何も気づかず終わっただろう。ロランが心配していた理由が今はよくわかる。自分が死んだ後、お前は自覚がないまま静かに自分を殺していくんじゃないか。自分の存在がお前の全てを奪うのではないかと恐れていたんだ。そんなことロランは望んでなかった。ロランが望んでいたのは、お前がこれから生きていく力になることだ。お前がロランに力を与えたように、ロランもお前に与えたかったんだ」
ロランと別れた時、僕はロランを送り出したと思っていた。でも、新しい世界に送り出していたのはロランの方だった。自分の考えに凝り固まって見えなくなっていた。ロランの気持ちも願いも。
先生、僕はちゃんと役に立ってた? 先生の気持ちに答えられてた?
問いかけても、答えは返ってこない。僕はこれから、その答えを探さないと駄目なんだね。僕が幸せになることが、そうなんだという答えなんだね。先生の存在が今は身近に感じる。目には見えないけど。
そう思ったとたん、お腹が大きな音をたてた。
せっかくのふいんきぶち壊しじゃないか!
しんみりした気持ちはどこかに吹っ飛び、恥ずかしさで顔が赤くなった。
「何か用意させるよ」
ヴィクトールは半笑いを浮かべながら部屋を出て行った。
車で送ってもらってアパートに戻ると、ちょっとした騒ぎになっていた。ヴィクトールは倒れた僕をそのまま抱えて病院に連れて行ったらしく、何も知らされていなかったアレックスは忽然と店から消えた僕を探して警察に通報し、危うく誘拐事件にされそうになっていた。必死に事態を説明してヴィクトールを留置所送りにせずにすんだけれど、アレックスには散々説教をされた。そのうち事件を知って集まってくれていた人たちも安心して散っていき、アレックスの気もすんで解放された僕は、部屋に戻ってぐっすり眠った。
目が覚めれば新しい朝が始まる。僕は止めていた一歩を踏み出していく。




