死神
先生が死んだ……
混乱が収まるとその真実だけが、心の中に居座ってじわじわと僕を打ちのめした。
先生がいない寂しさに閉ざされた心の傷を癒すかすかな光をようやくみつけたところだった。しかしそれは、あっという間に掻き消えた。
僕はどうにか店に戻り仕事をしたが、その間の記憶がまるでなかった。気がつくといつも通りエプロンをはずし、裏口のドアを出ていた。
真っ暗な部屋に戻る気になれず、ふらりと歩き出した。行きかう人たちは寒そうに背をかがめ、足速に歩き去っていく。僕はまるで影のように人々の合間をすり抜ける。時間の感覚もなく、ただただ足を動かし続けた。気がつくともう、ほとんどの店は閉店して、夜の中に沈んでいた。闇の中に、ぽつんとついた明かりをみつけた。まだ、営業している店がある。吸い寄せられるように近寄っていった。その店が酒屋だということに気がついたのは、店の中に入ってからだった。
「いらっしゃい」
気のよさそうなおじさんが、棚の陰から顔を出した。入ってきた僕を見ると、一瞬怪訝な顔になる。
「おつかいかい?」
いちいち説明するのも面倒だったので、僕は適当にうなずいた。ヴィクトールに殴られた跡も手伝ってか、とたんに同情的な顔になった。横暴な父親に殴られ、寒さの中酒を買いに走らされた息子とでも思ってくれたのだろう。あまり幸せそうには見えていないらしい。そんな想像を疑わせさせないほど、ひどい顔をしているのだろうか。
「何をあげようか?」
親切におじさんが聞いてくるので、何か買って出ないと悪い気がした。僕が適当に指を差した先にあったのは、盛り場のアルコール中毒者が御用達にしている、質の悪い安酒だった。
金を払って外に出ると、ちらちらと粉雪が舞い落ちていた。この冬初めての雪だ。どおりで寒いはずだ。息を吐いて、空気を白く濁らせた。僕はセーターを着ただけで、上着さえ着ていなかった。仕事場が近いのでたいした防寒対策をしていなかったから。うちよせる寒さに身震いした。片手に持っていた酒瓶が重く感じて、通りからそれた小道の奥の階段に座りこんだ。瓶の蓋を開け、一気に中身を飲みこんだ。かっと喉を焼きながらひどい味の液体は、体の奥に滑り落ちてきた。刺激で舌がぴりぴりする。味は二の次だが度数の高さにはこだわっていた。これなら確かに即行で悪酔いできそうだ。酒瓶を空にして立ちあがり数歩進むと、急に酔いがまわってきた。頭が朦朧として真っ直ぐ歩けない。それほど弱くはないのに。すきっ腹に一気に流しこんだのがいけなかったのか。
ふらふらしたままいつのまにか川べりまで歩いてきていた。雪はさらに降り続き、闇を白く染めていた。古い石橋が対岸に向かってかけられている。流れは穏やかだがかなり深そうだ。
そういえば先生の画集の中に、これとそっくりな橋を描いた絵があった。白く降り積もる雪の中、橋の欄干に立つ男。川側に面した隣にはなにやら耳打ちしながら寄り添う、黒いマントを着た美しい死神が浮かんでいる。男の目にはまばゆい天使にでも見えるのか、恍惚とした表情を浮かべ、片足を前に踏み出している。
僕は橋の欄干に両手をかけた。勢いをつけてその上にのぼる。立ちあがると一気に視界が高くなった。僕は平均台の上を歩く要領で足を進めた。酔っ払っていたせいか怖いとは思わなかった。川側の視界の隅に、黒い陰が動いていた。僕が足を止めるとその陰も動きを止め、動き出すと僕についてきた。
ああ、あの死神か。僕は一人で納得していた。僕に寄り添う死神がいるんだ。その姿をよく見ようと身をねじった。陰はぼんやりと形を取った。背が高くて細身のシルエット。
先生?
手をのばしてバランスを崩した。欄干から足を滑らせ、空中に放り出される。落ちる時間が長いところをみると川の方に落ちたのだろう。そう思いついた瞬間、叩きつけられる衝撃と大きな水音があがった。勢いよく川底に引きずりこまれる。たくさんの水の泡が、水面に向かってのぼっていく。僕は取り残されるように、どんどん暗い場所に沈んでいく。ゆらゆらと揺れながら。僕は身を任せる。その心地よさに。美しい死神が僕の頬をそっと包んだ。
迎えに、来てくれたんだ。やっと。
安堵感が広がる。僕は抗うことなく目を閉じた。闇が全てを包んでいく。




