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黒づくめの男

 次の日、僕は朝の仕こみをしながら、おもいきってアレックスに話を切り出した。

「メニューに紅茶を入れて欲しいんだ」

 パン生地をこねていたアレックスは、ふっと視線をあげた。

「お客さんも増えてきたし、アフタヌーンティーのセットを出したらと思って。サンドイッチは店の定番メニューだし、スコーンだって毎日じゃないけど作ってるから、それほど負担にならないと思う」

「やってみたいの?」 

 作業の手は止めず、アレックスが問いかける。

「うん。試してみたい」

 力をこめてうなずくと、彼女はあっさり許してくれた。

「いいの?」

 あまりのあっけなさに思わず聞き返す。

「もちろんよ。あなたからそう言い出してくれるのをずっと待ってたの」

「え?」

「あなた自身が始めようと思ってくれるのをね」

 何も言わず、僕のことを見守ってくれていたんだ。そんなこと、全然気づかなかった。

「もっと真摯に生きたいと思ったんだ。僕は僕として、自分の足で立てるように。だから進んでいくために、何かを新しく始めたいって」

 僕は正直に自分の気持ちを話した。アレックスうれしそうに大きくうなずきながら、僕の話を聞いてくれる。

「そういうことなら私もちゃんと、紅茶が入れられるように特訓をしなくちゃね」

 アレックスは僕の気持ちを盛りあげるため明るい口調で腕をまくるまねをした。

「本当はそんな必要ないんでしょう?」

 僕は笑いながら肩をすくめた。

「知ってた?」

 アレックスはいたずらを見つけられた子供の目になる。

「だっておかしいじゃないか。あんなすごいお菓子や料理ができるのに紅茶が入れられないなんて」

 自分の手で納得いくものが出せなければメニューにはいれない。その信念を貫いているように見せかけて、僕を信じてくれたんだ。

「アレックスには本当に感謝してる。僕のこと、いつも見てくれて」

「それはあなたが一生懸命に生きているからよ。あなた自身が手に入れたものよ。私にそうしたいと思わせるものが、あなたの中にはあるの」

「うん」

 僕はうなずいた。いつもなら笑って誤魔化すか否定してしまう言葉を僕は受け入れた。少しずつでいいから信じてみよう。今の自分がいい方向に変わっていけるように。


 文学賞に選ばれたポールの小説が本になって出版された。ポールは長い間住み続けていたアパートを引っ越したらしい。

「アレックスの店も近くて気に入ってたんだけどうちの住所がファンの間に出まわったらしくて。四六時中誰か来てノックするし、部屋の前で待ち伏せされるし、うちに帰ってきて知らない人が、ソファに座って出迎えてくれたりしたらさすがにね」

「そんなことがあったの?」

 アレックスは目を丸くする。

「あったんだよ。まわりが急に騒がしくなって、まいってるんだ」

 あんなことは二度とごめんだよとポールは息を吐き出す。

「有名になるのも大変ね。無名過ぎるのも困るけど」

「こんな風にもてはやされるのも一時的なものだから、しばらく我慢すればいいんだろうけど、取材の問い合わせや雑用におわれて書くことに集中できないんだ」

 ポールはよほど参っているらしい。朝からアレックスを相手にしゃべり続けている。

「ミッシェル、悪いんだけど配達に行ってくれる?」

 客が帰ったテーブルから汚れた食器を回収してきた僕を呼び止めて、焼きたてのブリオッシュが入ったバスケットとメモを手渡した。

「これ住所ね」

 歩いて八分ほどの場所だ。基本的に配達は受けていないのだけれど、目的地にたどり着いてドアを叩くと水曜日に必ずやって来るおばさんが松葉杖をついて中から出てきた。

「うれしいわ。無理なお願いだと思ってたのに来てくれたのね」

 おばあさんはとても喜んでくれた。僕もうれしくなって、帰り道は自然と足取りが軽くなリ、子供のようにスキップまじりになった。

「待って!」

 僕は足を止めて声がした方に目を向けた。鷲鼻の青年が慌てて走り寄ってくる。誰なのか思い出せなかった。たぶん行きずりで関係した誰かだろう。僕の顔は自然と強張る。

「探してたんだ。ずっと会いたくて」

 息を切らせながら強い口調で訴える。

「どうしてあの日、来てくれなかったの? 一晩中待ってたのに」

 恨みがましさがにじむ目で、僕をみおろし詰問した。

「約束はしなかった」

 ようやく彼のことを思い出す。

 早く話を終えて店に戻りたい。

「そうだった。そのことはもういいんだ。君にまたこうして会えたから」

 彼は感情を高ぶらせ涙目になる。

「用件はなんですか?」

 僕の中には何の感情もわいてこなかった。

「僕の恋人になって欲しい」

 彼の言葉はシンプルだった。

「君と一緒に暮らしたい。あの夜からずっと、君のことばかり考えている。このままじゃ君に焦がれておかしくなりそうだ」

 ストレートな分、素朴で激しい彼の気持ちがかいま見えた。

「誰とも縁は持ちたくないんです」

 僕は冷たく顔をそむけた。

「そんな答えは聞きたくない。お願いだからうんと言ってくれ」

 彼は僕の肩をつかんで揺さぶった。

「あなた一人では我慢できないのに?」

 僕は挑戦的に彼を見た。

「他の男の間を渡り歩いても平気でいられる?」

「それは・・・」

 彼は口ごもり、血の気のない顔になる。

 僕は彼の頬をつかみ寄せ、わざと乱暴にキスした。

「さよなら」

 彼の胸をついて突き放すと、よろめきながら僕から離れていった。

 傷つけた彼の気持ちを思うと気が滅入った。このまま突っ立っていても仕方がないとどうにか思い直し、店の方に足を向けた。

 数歩歩いたところで不意に行く手が暗くなり不審に思って顔をあげると、二十代前半の背の高い男が進行を阻むように立っていた。仕立ての良い黒いコートに黒いズボン。磨きこまれた皮靴も黒色。全身見事な黒ずくめだ。漆黒の髪を短く切りそろえ、きりりとした眉の下には深い藍色の瞳が冷たくきらめいている。その容貌が先生にあまりにも似ていて一瞬僕はどきりとする。その感覚に記憶が刺激され、以前アレックスの店の前であった男だと気がついた。

 男が僕の方に身を乗り出した。鋭く空気がなって、僕は石畳の上に叩きつけられた。

 痛みより驚きが強かった。つっと生暖かいものが口元を伝い落ちた。僕は無意識にそこに触れた。指先が赤く染まる。

「恥を知れ!」

 食いしばった歯の隙間から吐き捨てる。大理石の彫刻のように整った顔は冴え冴えとした無表情に覆われていたが、いつ爆発してもおかしくない隠しきれない激情が皮膚の下から透けて見えた。その温度差が、彼の怒りの深さをうかがわせた。いくぶん押さえられているが彼の感情を真正面から受けた僕は、殴られた理由もわからずただ呆然と石畳の上に座りこんでいた。

「どうしてロランはこんな奴のこと」

 ぎりっと奥歯が鳴った。男は再び拳を振り上げる。こぼれた彼の言葉を耳にした僕は、恐れることも忘れて足元に縋りついた。

「ロラン。ロランを知ってるの?」

 ズボンの布地をぎゅっとつかむ。

「今、どうしているの? 元気にしてるんですか?」

 聞きたいことが次々とあふれてきて口から外に飛び出した。

 男は振り上げた拳をおろすタイミングを失って、何もしないままもとに戻した。

 彼は先生がクートと呼んでいたいとこだろうと僕は直感していた。彼ならきっと、先生の今の様子を知っているはずだ。

「ロランは死んだ」

 男の声は地を這うように低かったが、はっきりと耳に響いた。その言葉は僕の脳を素通りし、意味はまるで理解できなかった。黙りこんだまま何も発しようとしない僕を、彼はさげずんだ目で冷たくみおろした。

「お前にとってロランはその程度のものなのか。かける言葉一つもないほど軽い」

 何を言ってるんだ? ロランがどうしたって?

「さっさと逝って正解だったかもな。最後までお前の正体を知らずにすんだのだから」

「死んだ?」

 ようやく頭が動き始めた。噛み締めるように、彼の言葉を判読していく。

 ロランが死んだ?

 僕ははじかれたように目の前に立っている男をみあげた。

 そんなことあるわけがないじゃないか。頭の隅の冷えきった部分が告げていた。この男はうそを言ってるんだ。先生が死んだなんて、そんな馬鹿なことがあるわけない。まんまと騙されるところだった。一瞬でも信じて動揺した自分がおかしく思えた。

「謝ってください」

 僕は正面から男の目を捉えた。

「冗談でも言っていいことと悪いことがある。そんなうそついて、いったい何が目的なんです」

 一歩でもひきさがったら本当になってしまう気がして、僕は負けまいと頭をそらした。

「謝ってロランが生き返るなら俺は何度だってそうするさ。たとえ相手がどんなろくでなしでもな」

 感情が抜けきった抑揚のない声で男は言った。陰が落ちた深い藍色の瞳は相変わらず僕の方に向けられていた。しかしそれは何を映すわけでもなく、僕を素通りして何もない一点に固定されていた。

「いいかげんにしてください。僕がそんな話信じると思っているんですか?」

 目の前に僕がいることを思い出したかのように、彼の視線が動いた。

「うそだと思っているのか?」

 男の声は低くかすれていた。彼が何を考えているのか、押さえられた表情からはまるで読み取れなかった。わかっているのは、彼が僕を快く思っていないことだけ。

「あたり前でしょう!」

 僕は彼の全てを否定するように叫んだ。彼はとんでもない詐欺師だ。彼の言葉に耳を傾けては駄目だ。僕の心は頑固に固まっていく。

「幸せな奴だなお前は」

 男は皮肉げに暗い微笑を口元に浮かべた。僕は唇を引き締めて、男の顔を睨みつけた。

 そのまま二人でぎりぎりと睨みあっていると、見覚えのある小太りな背中が僕と男の間に滑りこんできた。

「パスカル」

 呟いた僕の声に気がついて、肩越しに顔を向けた。

「や。久しぶりだね」

 緊迫した場面には不似合いなの軽い口調。

「ごめんねぇ。彼が迷惑かけたんだろう? いるだけでも図体でかいから息苦しいのに。いますぐ回収するから安心して」

 愛想よく言って正面に向き直り、問答無用で男の腕をつかんだ。

「来るんだ、ヴィクトール」

 そう命じる声は、うって変わって厳しかった。ヴィクトールは表情を強張らせ、乱暴にパスカルの手を振り解いた。

「あんたの指図は受けない!」

 ぷいっと顔をそむけてそのまま立ち去ってしまう。

「わあ・・・いとこだけあって反応もそっくり」

 パスカルは遠ざかっていく背中を面白がるように、やけに感心しながら見送った。

「その顔、ちゃんと冷やした方がいいよ」

 ようやく振り返った彼は僕に一言言って、あっけなく歩き出した。

「待ってください」

 パスカルは踏み出していた足をおろした。

「ん?」

 いつもと変わらない笑顔。

「先生はどうしてます?」

 ありえないと打ち消しながら、ヴィクトールの言葉が耳の奥から離れなかった。

「怖いいとこ君に何か言われたの?」

 彼は僕の質問には答えずに、逆に問い返してきた。

「先生が死んだなんて馬鹿馬鹿しいうそを。元気にしてるんですよね?」

「うーん」

 パスカルは言いよどみ、口を閉じてしまった。

「パスカル?」

 その沈黙が僕にはやけに長く感じた。

「ロランは君に知らせるなって言ったけど、黙っていてもいずれはわかることだし、マスコミもかぎつけ始めているからこの際はっきり言ってしまうね。ヴィクトールが言ったことはうそじゃない。彼は先月の終わりに病気で死んだんだ」

「・・・」

 とっさに声が出なかった。瞬き一つできなかった。まるで時間が止まったかのように、しんと静まり返って凍りついた。

「長く生きられないことはわかっていたんだ。手首を切って運ばれた時に病気がみつかって。効果的な治療法はなかった。どんどん衰弱して死ぬのを待つだけ。彼の家族と親戚たちは本人に真実は告げず、精神的に不安定だからという理由で入院させた。実際ひどい鬱状態だったからあながちうそとは言えないけど。肉親たちの優しさから出たうそは、彼を疑心暗鬼に追いこみ孤立させた。病気のことを知った時、彼はほっとしていたよ。その時何かが吹っ切れたんだろうね。彼は再び立ちあがって言ったよ。俺は今から好きなように生きるって。彼はそのまま病院を出て、肉親たちに居場所も教えず暮らしだした。僕は、定期的に検査を受けることを条件に、彼の計画に手を貸した。彼には自由が必要だった。このままでは、心が先に死んでしまうのは目に見えていた。僕はかけてみたくなったんだ。彼は生粋の画家だったから、再び絵筆を持つことができたら、生きる力を取り戻してくれるんじゃないかって。おかげでヴィクトールには今でも恨まれているけど、僕の読みは間違ってなかった。病院を出て、君と出会って、彼は生き返ったんだ。短くても最後まで精一杯生き続けたよ」

 その長い告白が終わっても、僕は言葉を取り戻すことができなかった。頭の中は真っ白で、自分が今立っていることさえ忘れてしまいそうだった。事前にヴィクトールと話していなければ、とても信じられなかっただろう。こんなに衝撃を受けるのは、先生の死を認め始めているからだ。

「ミッシェル?」

 名前を呼ばれてようやく視線を動かした。

「本当・・・なんですか?」

 僕の中に別の人間がいて、勝手に口を動かしていた。

「こんなこと君に伝えるのは残念だけど。ロランはもう、この世にはいない」

 僕は無意識にあとずさった。支えをなくした人形のように。その場にしりもちをついた。足の下に地があるのだという感覚さえおかしくなっていた。そのままずぶずぶと沈んでいく気がして、ひどく頼りなかった。息が苦しい。さっきと同じように太陽は出ているのに、全てが薄暗く打ち沈んで見えた。

「君と別れた後入っていたサナトリウムで彼が描きためていた絵があるんだ。そのうち個展を開こうと思っている。その時は来てくれるよね?」

 僕はうなずくこともできずにうつむいていた。

「元気を出してっていってもすぐには無理か。ちゃんと決まったら招待状を出すよ」

 パスカルはいつにない真面目な口調で言って、慰めるように僕の頭をなでた。

「家まで送っていこうか?」

 いつまでも立とうとしない僕に手をさしのべた。

「行ってください。今すぐに」

 僕はのどの奥から声を絞り出した。

「わかった」

 パスカルは僕の高さに合わせてかがめていた背をのぼした。

「じゃあね」

 そう言った彼の横顔には、隠しようのない喪失感が漂っているように見えて、先生が死んだという事実を否応なく突きつけた。


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