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祈り

 仕事が終わって一人になると、ケーキを食べて先生のことを思い出したせいかいつにもまして気が滅入って仕方なかった。僕の足は自然と先生と暮らしていたあの家に向かっていた。門は堅く閉ざされ、中をうかがい見ることもできない。もうここに先生がいないことはわかっている。でも、先生の気配を求めて訪ねられる場所は限られていた。しばらく僕は門の前に立っていた。余計に寂しさが増して、僕は歩き出した。日中は市で賑やかな広場もすでにスタンドは片づけられ誰もいない。僕は上着のポケットに両手を入れて、少し背を丸めながら足早に横切る。左上の葡萄の絵が見たくて緑色の窓枠のケーキ店に行ってみたが、予想通り店の明かりはおとされて闇の中に沈んでいた。僕はため息をついて店をみあげた。もっと明るい時間に来ればこんな肩透かしを食らうこともないだろう。しかし、思い出にすがりつくには太陽の光はまぶしすぎる。僕の弱さがあからさまになりすぎて、姿を隠せる陰がなければ一歩も進めない。

「君は」

 店の前から立ち去りかけた時、裏口から出てきたらしい人影が足を止めた。

「やっぱりそうだあの時のお客さん」

 近づいてきた人影は、あのギャルソンエプロンの店員さんだった。

「こんばんは。もしかして店に来てくれたの?」

 違うと否定しかけて、僕は言葉にする前にやめた。

「絵を見たかったんです」

「絵?」

 彼はぴんと来なかったらしく首を傾ける。

「左上の葡萄です。喫茶スペースの壁にかかっている」

「ああ。そういえば二人で見てたね。この前こられたお連れさんはどうしているのかな」

 二人と言う言葉に胸が締めつけられた。涙があふれそうになって、僕は唇を引き締める。彼はそんな僕の様子をじっとみつめ、僕を誘導するように顔をあげた。

「こっちに」

 手をのばして行く手を示しながら、喫茶スペースに案内するような気軽さで先に立って歩き出した。彼はドアの鍵を開けて中に入ると部屋の明かりをつけた。鍋や道具類が並ぶ厨房を通り過ぎて暗い喫茶スペースに入る。明かりがついてまわりが見えるようになった。

「ここに腰かけて」

 テーブルの上にひっくり返して置かれていた椅子を床の上に降ろして、一番絵が見やすい場所に置いてくれる。僕はふらりとそこに腰かけ、左上の葡萄を見あげた。

 石の床にひざまずく一人の男。一心不乱に両手を組んで顔を伏せている。打ちひしがれているようにも許しをこうているようにも見える。その澄んだ祈りの姿が、僕の心を捉える。じっとみつめているうちに、僕の心は絵の中に描かれた男の中に入りこみ、同じように祈りを捧げていた。僕の目には彼の姿が、大切な人の幸せを祈っているように思えて仕方がなかった。

 僕は椅子に腰かけたまま、両手を組んで額に押しつけた。

 先生は、元気でいるのだろうか。毎日を楽しく過ごせているのだろうか。怖い夢を見ていないだろうか。返ってこない質問を頭の中で繰り返し、先生の幸せを祈っている自分に気がつく。どこかにいる先生のことを。

 そうだ。

 僕は顔をあげた。

 先生は僕の目の前からは去っていってしまったけれど、この世の中からいなくなったわけじゃない。

 僕の知らないどこかで眠って、朝を迎えて、生活してる。そんなことも忘れていた。生きていなければ祈ることさえできない。僕は先生との間に残されたつながりを見えない蜘蛛の糸のように頼りなく思いながらも、そこに確かに横たわる存在を感じていた。先生も今の僕と同じように、僕のことを思い出しているかもしれない。そう思うだけで、心の中の乾いた部分が癒されていく。絵の中の男も祈ることで目の前にいない誰かとつながっている心の一部と一緒にいるんだ。きっとそうにちがいない。しっかりしなくちゃと僕は思う。先生が僕を思うとき、その思いにふさわしい自分になりたい。

「どうぞ」

 目の前にことんとカップが置かれた。ゆらゆらと温かそうな湯気がたちのぼっている。この香りはルフナだ。

 僕は反射的にカップを取りあげ口をつけた。渋みの奥に甘さを感じる。

「おいしい」

 僕はカップを両手で抱えて中に入った紅茶をみつめた。黒みがかった深い赤色。

「この絵はおじの家にあったものを兄がもらってきたんだ。店を引き継いだ時のお祝いに。ここには昔、小さな修道院が建っていた。誰もすむ人がいなくなって荒れ果てていた建物を、僕の祖父が買い取ってケーキ店を開いたんだ。このあたりの床は当時のままなんだ。兄もそのことを聞いていたから、店に合うと思ったんだろうね」

 まるで祭壇画のように夜の中にとけこんでいる。

 僕がカップを空にすると、彼はポットを手にとって紅茶を注いだ。ミルクと砂糖を入れ、差し出してくれる。

 ほっとする甘さが、体に染み渡る。

「気に入ってくれたかな」

 僕は無言でこくりとうなずいた。

 仕事時間でないからか、彼の口調はこの前店であったときよりもくだけている。お互いの距離が、ぐっと近くなった気がする。

「紅茶を習いにいったんでしょ? カールが話していました」

 突然出てきた兄の同級生の名前に彼は驚く。

「彼を知ってるの?」

「ええ」

 短く僕は答える。

「ああそうか。あのケーキは君のところに行ったんだね。甘いものは苦手だと、あとで兄から聞いたんだ」

 無事落ち着き場所を得たらしいケーキの行方にほっとしたようだ。

「ケーキを食べて、ここのことを思い出して」

「君たちにとって特別な絵なんだね」

 痛みをなだめる優しい声に、僕はうなずいた。

「すみません。閉店時間なのに入れてもらって」

「来てくれてうれしかったよ。特訓の成果を披露したかったんだ。あの人にも、一度来てくれるように伝えてくれないか? 自慢の紅茶を用意してますからと」

 ひたむきで真っ直ぐな眼差しが印象的だった。

「会えたらきっと」

 そんな日がきてくれるならうれしいのだけれど。


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