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新たに進み始めてはみたけれど

 目が覚めるとお腹いっぱい食べてたっぷり眠ったおかげか、立ち上がる元気を取り戻していた。あまりの単純さに自分のことながらあきれてしまう。

 僕はシャワーを浴びて身支度を整えると朝の散歩をかねてパン屋まで歩き、コーヒースタンドで飲み物を買って、近くの公園のベンチで食べた。

 一時期お金も住む場所もなくてこの公園で野宿していたことがある。寒くて吐く息が白く凍っていた。前日降った大雨のせいで落ち葉の中にもぐりこむこともできず、僕は手に息を吹きかけながらベンチの上で丸くなっていた。

「坊やお食べ」

 通りがかりのおじさんが、手に持っていた焼き栗を袋ごとくれた。受取った焼き栗はまだ熱々で、かじかんだ指先を温めてくれた。このまま自分は凍え死ぬのではないかと思っていたのに、僕は身を起こして新聞紙で作られた紙袋を傾けていた。手のひらに栗の実がコロンと転がり出た。僕は殻を割って無心に食べた。舌の上に甘さが広がり、幸せな気分になった。お腹いっぱいになるほどの量はもちろんなくて、事態は何も変わっていなかったけど、食べ終わった僕は立ちあがって動き出した。

 生きるために。

もともと僕は、そういう風にできているのだろう。死なないように自然と体が反応する。あの時と比べたら今のほうがずっとましだ。落ち着く場所はあるし、朝食を買うお金だってある。仕事をするあてもある。やることがあるのはいい。忙しくしていればあっという間に時間が過ぎる。顔見知りの客たちとどうでもいいような他愛のないことを明るく話せば気もまぎれる。どうにか自分はやっていけるだろう。今までそうだったように。


プロと家庭料理の違いはどこにあると思う?

バイトを始めた僕に、アレックスはまず聞いた。

「料理のおいしさ?」

「もちろんそれは大前提だけど常に味を安定させるのが大切だと思うのね。飛びぬけておいしい日があれば、残念な日もあるじゃせっかく来てくれるお客さんに悪いでしょう?あの味を食べたいってイメージで来てるのに、全然違ってたじゃがっかりじゃない。おいしくするための改良は必要だとは思うけど、店で出す料理の味にはこだわりたいのよ」

 見た目は柔らかくても、中身は頑固な職人気質だ。

「私が知ってるパン職人は、触っただけで生地の状態がわかるすごい人だったんだけど、毎日同じパンを焼くためにその日の天気や気候に合わせて水の量や温度を変えていたわ。

ミッシェルにもそうなってもらいたいの。味見をしなくても、イメージができるように。元がきちんとしていれば、お客さんの要望にもこたえやすくなるでしょう。まずは今までの知識は忘れて私のレシピを覚えて頂戴」

 それから特訓が始まり、どうにかパンと焼き菓子を任せてもらえるようになったのは最近のことだ。

「ミッシェルは手の温度が低いからクロワッサンやパイ生地を作るのに向いてるのよね」

 アレックスはクロワッサンの焼き上がりをチェックしながら、満足そうにうなずいた。

 僕が駆け落ちした見習いのジャンの変わりにアレックスの店で働くようになってから数ヶ月がたった。彼女のレシピはどれも文句なくおいしい。

僕はいい色に焼けたクロワッサンを眺めながら、先生に作ってあげたらどんな顔したかなと無意識に思い浮かべた。きっと薄い表情のまま、瞳の奥に驚きを浮かべてうれしそうに目を細めるんだ。そんな夢想をしている自分に気がついて、僕は呆然とした。いつまで未練がましいんだろう。僕は小さく息をつく。あとどれだけの時間がたてば、先生のことを思い出さなくなるのかな。

「ミッシェル、カウンターに出てもらっていい?紅茶の注文入ったから」

 僕は洗い物の手を止めて、厨房を出た。

 最近メニューにのってないにもかかわらず、紅茶を頼む客が増えた。ポールが生きた広告塔になっているせいだ。彼は本当においしそうに紅茶を飲む。それにつられて紅茶を頼んだお客さんが気に入ってくれて、その後も頻繁に飲みにきてくれるようになった。それを見たお客さんがまた・・・という感じで、常連さんの間でもどんどん広がっている。

「ここの近くにある大学の学生さんの間で、紅茶を飲むのがはやっているみたいだよ。クールでかっこいいんだって。紅茶なんて年寄りが飲むものだって言う人もいるけれど、彼らには逆に新鮮に見えたんだろうね」

 ポールは毎日のように店の中の指定席に座っているので、客たちに起こった事件や噂話に詳しい。アレックスは客の反応を知りたい時、まずはポールに尋ねる。彼はこの店の隠れブレインなのだ。

「紅茶もメニューに入れたらどうなの?」

 今日は開店時間から夕方のお茶の時間まで長居したポールは、ウバとダージリンをすでに堪能し、本日三種類目のヌワラエリアをゆっくり味わっていた。

「そうなんだけど。メニューに入れたらやめられなくなるでしょう?」

「どうしてやめるの前提なんだい?ミッシェルの紅茶なら、十分店の看板になるだろう?」

 二杯目の紅茶には、たっぷりミルクを注いでいる。

「まあね。でも、ミッシェルがいつまでうちの店にいてくれるかわからないし。そう思うとなかなか思い切れないのよ」

「今のところはやめる予定ないけど?」

 ここの仕事は気に入っている。

「そんなのわからないじゃない。いつどこで恋に落ちて遠くに行っちゃうか」

「ジャンの例もあるしね」

 直接さよならを言う間もなく突然駆け落ちか。

「今はとてもそんな気力ないよ。特定の人とつきあうのはしばらくやめておこうと思ってるんだ」

「そうなの?」

 アレックスは意外そうな顔になる。

「最近男と出歩いてるって聞いたわよ。どんな人って聞くと、みんな違う答えを返してくるからイメージがわかないんだけど」

「わかなくて当然だよ。いつも違う人だから」

 夜の間の寂しさだけを癒してくれればいいんだ。

「あんまりそういうのは感心しないわ。ミッシェルはそういうタイプじゃないでしょう。自分をすり減らしてむなしいだけじゃないの」

 アレックスは険しい顔になる。

「なかには危ない男だっているんだからね。ひどいめに合わされないとも限らない。他の人だったらとやかく言うつもりはないのよ。ミッシェルだから言うの」

 彼女の声が熱を帯びた。

「わかってるよ。それに痛い目には何度もあってる。面倒には巻きこまれないように気をつけてるし、ちゃんと人は見てるから心配いらない」

 僕は安心させようと腕に置かれていたアレックスの手をなでた。

「それに好きなんだもん。禁欲なんて今さら無理」

 僕はおどけてウインクする。

「まったく」

 アレックスは仕方がないわねと息を吐き出した。

「私はそろそろ帰ろうかな。もう閉店だから」

 ポールはテーブルの上に広げていたノートを閉じて、鞄の中に入れた。

「あら、もうそんな時間?」

 アレックスは壁にかけてある時計を振り返った。

 ポールを見送って店を閉めた。洗い物や掃除をすませ、バーの開店準備をする。ウエイター件バーテンダーのジュリオがやってきて、一緒にまかない料理を食べる。その片づけが終わったら僕の仕事は終わり。誰もいないアパートの部屋に戻る。

 通勤時間はたったの二分だし、夕食も済すんでいるのですることはほとんどない。おかげで夜がやけに長かった。眠ろうと思っても目がさえて、僕のまわりだけ静寂が深まっていく気がする。しんと耳鳴りが聞こえ、くだらないことばかり繰り返し考えた。僕にもっと勇気があれば、先生の隣にいられたかもしれないのに。あそこでああしておけばよかったなんて、今さらどうしようもないことを。後悔なんてしたくないのに、僕の気持ちを鬱々とさせる。僕はそこから這い出ようと身悶える。しかしもがけばもがくほど、底なしの沼の奥底に引きずりこまれるだけだ。

 夜は毎日やってきて、終わりのない絶望感を僕に与える。静けさの中はっきりと聞こえる呼吸音が、ここには僕以外誰もいないのだと教える。手をのばしても、握り返してくれる人はいない。孤独が僕の正気を奪っていく。

誰か助けて。

 一人でいることに耐え切れなくなり、僕は部屋を飛び出した。肌寒さを感じる夜の闇は、変わらず僕を捕らえようとしたけれど、みつめるほど頭の上にのしかかってきそうな天井や、まわりを取り巻く冷たい壁に閉じこめられない分いくらかましだった。自然と足は、人が多く集まっている通りに向く。閉店した店の前の短い階段に腰をおろして行きかう人たちの気配を感じながら、この世界にたった一人取り残されたわけじゃないと確認する。

「ねえ。具合でも悪いの?」

 声に反応して顔をあげた。見知らぬ鷲鼻の青年が僕を見おろしていた。

「ずっとそこに座ってるね。誰かを待っているの?」

 鼻の上に乗った黒い縁の眼鏡が、先生がかけていたものとよく似ていた。

「よかったら俺の部屋に来ない?狭いけど、ここよりずっと暖かいよ」

 肩を抱えられて立ちあがる。青年に連れられるまま、意識もなく足を動かす。

 部屋につくなり服を脱がされ抱き合った。体は反応するけれど、心はうつろなまま満たされない。でも、隣に誰かがいるだけで偽りの安心感は得られる。先生と会うまでは、こんなに頼りなく生きていなかったのに。一人でもどうにか耐えられたのに。僕は弱くなってしまった。

「明日また会えるかな」

 青年は裸で横たわったまま、ベッドの縁に座って服を着ている僕の背中に話しかけた。

「明日は明日のことだよ。約束なんてしない」

 僕は振り返りもせずシャツのボタンをはめる。

「そう言わずにさ。君、すごくよかったよ」

 青年は身を起こして僕の首に腕をまわした。

「あなたとはこれきり。誰とも縁を持ちたくないんだ」

 僕は彼の腕の中から抜け出して立ちあがった。上着を着て玄関に向かう。

 慌てて青年は僕を追ってきた。

「これ、少ないけど取っといて」

 彼は僕の上着のポケットに紙幣を押しこむ。

「約束できないって言うなら仕方ないけど、気が向いたら訪ねてきてよ。待ってるから。必ず、必ずだよ」

 僕は何も答えず部屋を出た。外は白みかけている。アパートに戻る途中、建物の陰で身を縮めて眠っている薄汚れた男を見た。僕はポケットに入ったままの紙幣を、卵をつかむように丸められた男の手の中に滑りこませた。男は何も気づかず、眠り続けている。


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