予言?
身近にいるのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。
手をのばせば触れられる距離にいるのに、僕たちは硬く膝を抱きしめたまま座りこんでいる。どちらも身動きしないまま、腕をとこうとさえしない。
僕は怖いんだ。これ以上拒まれることが。今のバランスを壊して、こなごなにすることが。だから僕は動き出すことができない。先生に手をのばすことさえできない。その勇気がもてず、この寂しさに耐えている。
あの日以来先生は、僕に触れようとしない。それどころかまともに顔さえ見ようとしない。別々の部屋で眠って、僕が出した食事を黙って食べ、前と同じように身のまわりの世話をさせている。でも、子供のように屈託なくわがままを言ってくることもない。先生と僕の間には見えないカーテンが引かれ、一線を保っている。そうされても仕方がない。故意じゃなかったにしろ、先生を裏切ったことに違いはない。僕に寂しいなんていう資格はないんだ。先生を傷つけ、重い気持ちのまま一緒にいるのは正直苦しい。先生だってきっとそうだろう。僕がここにいることが先生を苦しめることになるのなら、ここにいる意味があるのだろうか。僕はここにいていいのだろうか。
玄関のベルが鳴っている。
僕は顔をあげた。訪問者が誰なのか、出て行かなくてもわかっている。それがまた、僕の気持ちを重くさせた。
「もう来ないでくださいとお願いしたじゃないですか」
玄関のドアの前にはエリックが立っていた。
「わかってる。わかってるけどもう一度チャンスをくれ。話を聞いてくれないか」
ドアを閉めさせないために縁に手をかけて、彼は懇願した。どんなに断ってもめげる様子はなく、もう八日も通い続けている。そのうち熱も冷めてあきらめるだろうと思っていた。でも彼は、外見以上に中身も体育界系だった
彼が熱く語りかけてくればくるほど彼の本気が伝わってきて、その気持ちをはねつけるたび胸が痛んだ。誰も傷つけずに生きていくことはできないのだろうか。罪悪感が僕をきりきりと締めあげる。毎回断る僕の身にもなって欲しい。彼はぐいぐと押してくるだけで引く様子はまったくなく、このままほっといても埒があかない。真剣な彼に対しても失礼だし、毎日来られると先生の制作活動の邪魔になる。断るだけでは納得いかないと言うのなら、彼の申し出を受けて一度ゆっくり話をするべきなのだろう。
しかし、二人でどこかに行くのは怖い。力でかなわないことは身をもって知っている。場所を変えて話そうという彼の最もな言葉にすんなりうなずけずにいると、いつのまにやってきていた先生が、
「話ならうちですればいいだろう」
と静かに提案してきた。
「俺にも聞く権利があると思うんだがね」
ちらりとエリックに視線を向ける。
「俺は別にかまわないですよ」
負けじとエリックは先生を見返した。
「どうぞ」
先生は気取ったしぐさで手招きした。
「おじゃまします」
エリックはずいっと家の中に足を踏み入れる。
なんだかおかしなことになってしまった。
リビングに二人を残してお茶とお菓子の用意をした。お湯が沸く時間がやけに長く感じる。できる限り急いでリビングに行くと、先生とエリックはテーブルをはさんでソファーに座り、腕を組んで黙りこんでいた。
僕が中に入っていくと、二人は同時に顔を向けてきた。トレーに乗せてきた菓子皿やティーセットをテーブルの上に置き紅茶を入れた。僕はどちらの隣にも座らず、自分の分のお茶をソーサーごと持って移動した。二人の横顔が左右に見える位置にあった椅子に、浅めに腰をおろした。
「それで?」
先生はエリックに視線を向けて、話をするよう促した。催促されたのが気に入らなかったらしいエリックは、一瞬むっとしたがすぐに気を取り直し僕の顔が真正面に見られるように体の向きを変えた。
「俺は本気なんだ、ミッシェル」
エリックは思いつめた顔で両指を組んで握りしめた。
「遊びのつもりはない」
紅茶を飲んでいた先生がわずかに目をあげる。
「たった二回会っただけで軽い奴だと思ったかもしれない。でも、君のことはアレックスから聞いてよく知っていた。出会うよりずっと前から君のことを思っていた。今の仕事を決めたのだって、君に会うチャンスがあるかもしれないと思ったからだ。実際あった君は、俺が想像していた以上の人で、君以外は何も見えなくなった。だけど君は、横暴そうな画家にけなげに義理だてして、俺の言葉に聞く耳さえ持たなかった。だから、ついあんな・・・」
エリックは言葉を濁して目を伏せた。
「本当にすまなかった。君の意思を無視して力づくで思い通りにしようなんて最低だった。でも、そうせざるを得なかった俺の気持ちもわかって欲しい」
熱い気持ちを押さえられずにせっぱつつまってやってしまった。彼のまなざしは強く語りかけていた。真っ直ぐと曇りのないどこまでも前向きな瞳で。彼の中に満ち溢れている期待を今から打ち砕くのだと思うと、僕はまともに彼を見ていることができなかった。どう気持ちを言葉にすれば、傷つけずにすむだろう。傷を小さくできるだろう。僕にその知恵があればいいのに。自分の未熟さがもどかしい。
「ごめんなさい。どんなに想ってもらっても、僕は先生を・・・」
好きだと言っていいのだろうか。僕たちは一定の距離を保っていた方がいいんじゃないだろうか。つきあいが深くなれば深くなるほど、ごちゃごちゃと考え出してしまう。僕の悪い癖。
「たんに俺より先に、君と会ったってだけだろう。そんなくだらないことで俺から目をそらすのはやめてくれ。ちゃんと俺を見てくれ。君への気持ちがどれだけ深いかわかるはずだ。こんな奴よりずっと、君のことを思っているかが」
エリックは立ちあがって僕の肩をつかみ、ゆさぶった。
「座れ」
先生は神経質そうに眉間にしわを寄せている。
「恥ずかしげもなくそんな言葉を垂れ流すな」
ものすごく機嫌が悪そうだ。
「あんたに命令される筋合いはない」
エリックはぎんと目を怒らせる。
「おい」
先生はエリックの肩に片手をかけて、黒縁眼鏡の中央を押しあげた。
「こっちにだって言いたいことはごまんとあるんだぞ」
握りしめられた左手が勢いよく後ろに引かれ、エリックの頬めがけて叩きつけられた。
大きな音をたてて床の上に倒れたエリックを、さらに足で蹴りつける。
「ここは俺の家で俺はここの主だ。好きなように物も言うし、したいようにする」
ぐいっと胸を踏みつけて、先生は傲慢にエリックを見おろした。
「ふざけるな」
エリックは顔をあげて身を起こしかける。
「それはこっちのせりふだ。こいつを傷つける奴は誰であろうと許さない。お前なんかがいいようにしていい人間じゃない。殺されたくなかったら、今すぐ出て行って、二度と顔を見せるな!」
先生はさらエリックを踏みつけて、背中を床に張りつかせる。
エリックはかっとして先生の足を乱暴に押しのけると、全身のばねを使って立ちあがった。険悪さを漂わせ、拳をかためながら先生の方に踏み出してくる。
「やめて、エリック」
体育界系の彼が本気になったら先生が怪我をする。僕は彼の腕をつかんで引きとめた。
「どけよ」
乱暴に振り払われてバランスを崩した。そのまま前のめりに倒れてテーブルの角にぶつかる。
「ミッシェルをいいようにしてるのはどっちだよ。聞くけどさ、あんたはミッシェルのことをどう思ってるんだ?夜の相手もさせられる都合のいいお手伝い? 独占欲だけが強いだけで、恋人としてちゃんと扱ってるとは思えない。そうでなきゃ、あんたとの関係聞かれて戸惑いなくそう言うだろう。口ごもらせる時点で、恋人失格なんじゃないのか? 本気でミッシェルを愛する気があるのか? 一生笑顔を守る覚悟があるのか? あるなら今ここで約束しろよ。寂しい思いなんて死んでもさせないって誓ってみせろよ。あんたの本気を目にするまでは、一歩も引かないからな」
エリックはこの上なく真剣な口調で先生に迫った。
僕は固唾を飲んで返事を待つ。エリックの質問は、今僕が一番聞きたかったことだ。
「そんなことをお前に言う必要はない」
先生はいかにもくだらないという態度でそっぽを向いた。
「逃げるのか!」
エリックは声を荒げる。
「必要がないと言ってるんだ」
先生は頑として跳ねつけた。
愛してるとも言ってくれないのか。僕はがっかりする。
「こんな薄情な奴と一緒にいることなんかない。俺と一緒に行こう、ミッシェル」
エリックは僕に手をさしのべた。
「あいつはそのうち君を捨てるぞ」
その言葉が、まるで予言のように僕の中で響いた。 どうしようもない不安が僕を包む。
だけど僕は・・・
「ありがとう。でも僕は行かない。先生がここにいていいと思ってくれるかぎり、僕はここにいる。さよなら、エリック」
エリックは顔をゆがめた。唇を噛み、背中を向ける。玄関のドアが閉まり、とぼとぼと歩く彼の後ろ姿が門の外に消えていった。
次の日、彼はやってこなかった。




