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帰ってこない先生

 次の日、先生は帰ってこなかった。

 夜には帰ってくるかと夕食の準備をし、エリックに借りた画集を眺めながら待っていたが、待ちくたびれていつのまにか眠ってしまっていた。目を覚ますと、窓の外は明るくなっていて、すでに部屋に戻ってきてるんじゃないかと見に行ってみたけれど、先生の姿はなかった。

仕方なく僕はリビングに戻ってきた。

 どうして帰ってこないんだろう。最後に先生は何といって出て行ったっけ?

 はっきり思い出せない。

 まさか、このまま帰ってこないなんてことないよね。

 開いた窓から甘い薔薇の香りが漂ってくる。外を眺めると、庭の片隅に白い薔薇が一輪咲いていて、かすかに風に揺れていた。

 花びらをむしりとられた薔薇。偶然開いていた画集のページに描かれていた絵だ。ガラスのコップに一輪だけ入れられた薔薇の残骸。画面の端に消えていく男の指先。そして、コップの下に散った二枚の花びら。

 不安な気持ちが増す。僕は画集を閉じて、テーブルに突っ伏した。

 先生、早く帰ってきてよ。

 ふいに、車のエンジン音が聞こえてきた。続けて玄関の前で響くブレーキ。ドアを開け閉めする音がして、玄関に近づく足音。

 僕は自然と立ちあがっていた。

 玄関のドアが開いて、玄関ホールを横切っている。

 ドアを開けると背の高い先生の姿が見えた。艶やかな黒髪と黒縁眼鏡の奥の濃い藍色の瞳。そして、薄く形の良い唇。

 僕は先生が話し出すより前に駆け寄っていって抱きついた。背中にまわした手の感触。頬を押しあてている胸の厚さ。とくとくとリズムを刻む心臓の音。先生だ。僕のロラン。

「どうした?」

 先生は鼓膜を震わす低く深みのある声で尋ねると、僕の髪をなで、そっと後頭部に右手を添えてあおむかせた。じっと僕をみつめるきれいな瞳。

「なんでもない、です」

 少し会えなかっただけでなんだこの慌てぶりと恥ずかしくなって、僕は目をそらした。でもすぐに、先生の顔が見たくなる。

 僕は背伸びをして唇を合わせた。先生の唇は冷たく、夏草のような苦さを感じた。

「ミッシェル」

 先生は僕の腰に手を置いて、戸惑ったように名前を呼ぶ。

「あーごめんね。昨日帰れないことを連絡するの忘れて」

 ふいにあがった第三者の声に、僕はギョッとして体を離した。

 パスカルは面白がるような人の悪い笑顔を浮かべ、僕たちを見ていた。

 先生はじろりとパスカルを睨みつける。

「すみません。夜にしようと思っていたんですけど、またしつこい先生のいとこから電話があって」

 しどろもどろ言い訳をする。

「これ以上お邪魔はしませんので、ゆっくり続きを楽しんでください。それじゃあ」

 パスカルはそう言い残して逃げるように帰っていった。

「心配をかけてすまなかった」

 素直に、先生は謝る。その声を聞いていたら、涙まであふれてきた。

「なんだ、お前泣いているのか?」

 あきれのこもった先生の声。安心したら今度は涙腺破壊。

「誰のせいだと思っているんですか」

 僕はぐいっと涙を拭った。

「先生といると、自分がどんどん弱くなっちゃって……」

 たった一日連絡がなかっただけで、僕はこんなに動揺する。どうしてなんだろう。こんな気持ち、すっかり忘れていた。

「ごめんなさい。なんだか頭が混乱してる。顔洗ってきます」

「ミッシェル」

歩きかけた僕の背中が温かくなり、ぎゅっと抱きしめられた。

「うれしいよ」

 耳もとで先生が囁く。

「俺のことを思ってくれて」

 優しさが、鼓膜を通して僕の体に染みていく。

「愛してるよ。ミッシェル」

 ただそれだけの言葉が、僕の全てを震わせる。僕は言葉を返すことも出来ず、ただただうつむいていた。

「顔を見せて」

 先生は僕の肩に手をかけて自分の方に向かせようとした。

「こんな顔、みっともなくて見せられないよ」

 僕はうつむいたままいやいやする。

「きっとひどい顔してる」

 先生は僕の言葉などまるで無視で、かけていた手に力を入れた。

「いいよ。どんな顔でも」

 涙でぬれた僕の頬を、先生は両手で包んだ。

「ミッシェルの姿を、この目に焼きつけておきたい」

 まつげの陰が落ちこんだ深い藍色の瞳が、真っ直ぐ僕をとらえる。

「永遠に。すぐ思い浮かべられるように」

 先生の視線が熱くて、頬が赤くなっていくのがわかった。

「そんな理由ならなおさらです。もっとましな顔を思い出してくださいよ」

 照れ隠しに僕が文句を言うと、先生は親指で涙を拭った。

「だったらもっといい顔をしろよ。泣くのをやめて。笑って」

 僕は意識して、口元に力を入れた。

「硬いな、それでも笑っているのか?」

 先生は不服そうに息をついた。

「日差しの強い場所に放置された濡れ雑巾並にごわごわだ」

 いったいそれってどんな顔だ。

「ほら、もっと口元を上げて。眉間にしわを寄せない」

 先生は指先で僕の口元を押し上げ、理想の表情に近づけようとする。

「だからって人の顔を勝手にいじくらないでください」

「そうだな。もうあきた」

 あきたって、あなたって人は。

「お茶を入れてくれ。まずい薬草茶でずっと我慢していたんだ。あと、甘いものを。クリームとバターがどっさり入っているのがいい」

 キスした時に苦かったのってもしかしてその薬草茶のせい?

「パスカルの奴覚えていろよ。体にいいからってとんでもないものばかり飲ませやがって。馬車馬のように絵を描かせて金儲けをしたい魂胆が見え見えだ」

 おまけに連絡まで忘れて・・・とぶつぶつ愚痴り始める。このまま放置していたら手がつけられないほど機嫌が悪くなりそうだ。

「先生、お菓子がダックワーズしかないんで、他のがよければ買ってきまけど」

 僕は先生の顔色をうかがう。

「それでいい。ジャムとクリームをたっぷりはさもう。紅茶はミルク入りのアッサム」

 先生はよほど待ちきれないのかキッチンまでついてきた。

「あ」

 昨日準備した夕食、鍋に入ったままだ。

「すみません。ちゃんと片づけます」

 でも、その前にお茶だ。僕はやかんに水を入れて火にかけた。

「必要ない。もうすぐ昼だ」

「時間たったから、味はいまいちかもしれませんよ」

「かまわない。出かけに食べたくそまずい白湯みたいな料理よりはましだろう」

 お湯は長時間沸騰させつづけてはいけない。ティーポットとカップを温め、ミルクジャーにミルクを入れる。ティーポットに茶葉を入れ、高い位置からお湯を注ぎ、茶葉が開いて飲み頃になったら出来上がり。

「別の部屋に運びましょうか?」

 キッチンのテーブルの上には、鍋や食器が出したままになっている。

「ここでいい」

 先生はカップをソーサーごと取り上げると、たっぷりのミルクを入れて一口飲んだ。

「この味だ」

 満足そうにうなって、さらにカップを傾けた。

 ダックワーズに手をのばし、うれしそうに顔をほころばす。

「よく焼けてる」

「初めて作ってみたんですよ。レシピを教えてもらったんで」

「ふーん。相変わらず器用だな」

 口調はそっけないが気に入ってくれたようだ。

「お茶のお変わりはどうですか?」

「ああ。入れてくれ」

 先生はカップを差し出す。

「お昼は昨日のローストチキンを使ってサンドイッチにしますね。天気もいいし、庭でピクニックしましょう」

 そう計画するだけで楽しい気持ちになってくる。

「なんだ。子供じゃあるまいし」

 先生は面倒くさそうに言った。

「楽しいですよ。家にいながらお出かけ気分です」

「俺は今、帰ってきたところなんだが」

「いいじゃないですか」

 僕がさらに言葉を重ねると、先生は好きにしろとお茶をぐっと飲み干し立ちあがった。 先生はキッチンから出て行き、僕はその場に残って昨日の夕食をどう有効的に利用するか考えた。

「おい」

 サンドイッチにはさむ具材をそろえていると、先生が足速にやってきて大きな声をあげた。

「これはなんだ」

 抱えていた四角いものをずいっと取り出し、僕の前に差し出す。なんだろうと僕は目を向けた。

「もう出版していないはずだぞ。何故ここにあるんだ」

 先生が両手に握りしめていたものは、エリックから借りてきた画集だった。

「僕の部屋を使っている人から借りたんです。一昨日の夜、アレックスの店に行った時に」

「こんなものはさっさと捨ててこい」

 ほっといたら火でもつけそうな勢いだ。

「やめてください。借り物なんですから」

 僕は先生の手から画集を奪って手が届かない場所に置いた。

「何をそんなに怒ってるんですか。懐かしいでしょう? 昔の絵」

「懐かしいものか! こんな勢いだけの恥ずかしい絵!二度と見たくない」

 眉間には何重もの深いしわ。握りしめた両手はプルプル震えている。照れてるんじゃなくて、本当に嫌なんだ。

「おまけに印刷の画質は最低。色なんかまるで違う。出版社が潰れてこれ以上出まわらなくてすむと喜んでいたのに!」

 先生は手を振り上げて声を荒げた。

「それほどひどい絵だとは思いませんでしたけど?」

 絵のことは詳しくないので、いまいち先生が騒いでいる理由がぴんとこない。

でも、人の目をひきつけずにはおれない魅力のある絵だということはわかる。

「お前にはそうでも俺の目から見たらくず同然だ」

「先生がどんな絵を描いていたのか知りたくって。昔の絵、あのケーキ屋さんで見たのが一枚きりだから」

 始めからうまい人なんかいない。昔は昔だと開き直って認めてあげればいいのにと思ってしまうけど、先生は自分に厳しいのだろう。

「先生がそんなに嫌がるんだったら、食事の準備して即行返してきますけれど?」

「せっかくお前と食事ができると思って帰ってきたのに、一人で食べろと言うのか? そんなの後にしろ」

 うれしいような面倒くさいような微妙な反応だ。


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