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エリックと先生の画集

そろそろ夕食の準備にとりかかろうかと考えていると、パスカルから電話が入った。

「先生だけど、今日はうちに泊まることになったから」

 具合でも悪くなったのだろうか。僕は心配で受話器を握りしめる。

「先生は?」

「機嫌よくしてるから心配いらないよ」

 明るい声でパスカルは答えた。先生と変わって欲しかったが彼にその気はなさそうだ。

「今日はゆっくり羽をのばすんだね。じゃあ」

 軽い調子で電話は切れた。僕は受話器を置き、ソファーに座りこんだ。

そうか。帰ってこないのか。一人分の夕食を作るのもなんだか寂しい。どうしようかなと思った瞬間、ふっとアレックスの顔が浮かんだ。

 久しぶりに行ってみようかな。

ちょくちょく顔を出すように言われていたのに、結局電話でやりとりしただけで一度も行っていない。

 昼間は喫茶店として営業しているアレックスの店は、夜になると一変しておしゃれなバーに変わる。照明は薄暗くランプの明かりがほのかに揺らめき、常連客がカウンター越しに、シェイカーを振っているアレックスと談笑している。ドアを開けて店内に踏みこむと、いくつかの視線が探るように向けられた。彼らは話し相手とつかの間の恋人を探している。女性客がやってくることもあったけれどほんの一握りだ。たいていは男性客、しかも同性愛者が多い。その筋では結構有名で客は多かった。

「どうしてたのよ。久しぶりじゃない」

 僕はカウンター席に座った。

「ごめんなさい。来なくちゃいけないと思ってたんだけど」

「どうせ先生とうまくいってたんでしょう。それで今日は? 出てきて大丈夫なの?」

「でかけてるんだ。帰ってくるのは明日」

「へぇーいいじゃない。今晩は俺と付き合わないか?」

 隣でカクテルを飲んでいたカールが、意味ありげな口調で僕の肩に手をまわしてきた。

 仕事がうまくいかずにしょんぼりしていた彼を、何度か体で慰めたことがある。

「そんなこと言っていいんですか? 家具職人見習をしているかわいい彼氏がいるのに」

以前店につれてきて、一緒に暮らしていると自慢された。

「彼とは一週間前に別れたよ。思っていたよりもがさつな子でさ。疲れちゃって」

 カールは深々とため息をつく。

「一人で部屋にいると寂しくてやりきれないから飲みに来たんだけど、君に会えるなんてついてたな」

 唇に甘い微笑を浮かべ、肩に置いていた手をゆっくりと動かした。

「ねえ。黙っていれば今の彼にもわからないって。跡が残らないようにうまくやるから、お互い楽しもうよ」

 首筋にまわってきた手を僕は押さえた。

「ごめんなさい。僕はそういうのできない性格だから。他の人をあたって」

「そうか。意外と義理堅いんだね」

 見るからにしゅんと肩を落としてカールは別の席に移っていった。

 悪かったな・・・とかわいそうになる。

「ミッシェルが気にすることないわよ」

 アレックスは切り分けたチーズとハムを盛り付けながら肩をすくめた。

「あの人飽きっぽいから長続きしないのよね。どうせまた、相手の子が本気になって面倒くさくなったのよ。悪い人じゃないんだけど、つきあう方は大変」

「でも」

「その気ないんでしょう? 彼氏がいるときは身持ち硬いもんね。だったらほっときなさいよ。また、元彼氏に殴りこまれたい?」

 確かにあんなめには二度とあいたくない。

 入り口のドアにつけられたベルがカランと鳴った。そちらに視線が集まるのを背中で感じながら、これからはごたごたに巻きこまれないよう自重しようと考えていると、弾むような足音がカウンターの方に近づいてきた。

「アレックス。何かおなかにたまるものある?」

 明るい声とともに僕の隣の席に座りこむ気配。僕は顎の下にあてていた手を離して視線を上げた。

 黒っぽい半そでのポロシャツに薄いグレーのズボン。足元には歩きやすそうな靴を履いている。二十代前半の男で、肩からかけていたバッグをおろして椅子の奥に勢いよく押しこんだ。体格はそれほど大きくなく小柄よりの中背。さわやかなスポーツマンタイプで、丸く愛嬌のある目には活力が溢れている。

「なーにエリック。やってくるそうそうおなかすいたって。私はあなたのママンじゃないのよ」

 アレックスはどこかうれしそうな顔で、親しげに言った。店では一度も見たことのない顔だ。

「確かにそんな年じゃないけどさあ、気持ちの温かさはママン並だよ。料理も極うまだし。バーじゃなくて絶対レストランをやるべきだね。それで、がっつりと食べられるボリューム料理を出してよ」

 エリックは相当おなかがすいているらしい。

「わかったわ。何か作ってあげるわよ」

 アレックスはそう言って僕に視線を向けた。

「ミッシェル、あなた初めてでしょう。彼、エリックよ。こう見えても建築家なの。あなたの部屋を今使ってる」

 アレックスが言っていた知り合いか。

「よろしくミッシェル。部屋、すごく助かってるよ。ずいぶんきれいにしてあったから、女の子の部屋なのかと思ってた」

 彼は明るく言いながら片手を差し出してきた。

「こちらこそ助かりました。かわいい女の子じゃなくて悪かったですね。想像を壊して」

 僕は彼の手を取って握手をした。

「いや。女の子だと気を使うし、君みたいな子の部屋だとわかってうれしい誤算だよ、ってね。実は写真を見て事前に知ってたんだ。アレックスがことあるごとに君のことを手紙に書いてよこすから」

 いたずら好きの子供の顔で、エリックは肩を揺らした。

「人が悪いな」

 つられて僕も笑顔になる。

「写真を見て女の子かと思ったのは本当だよ。でも実物はもっとかわいいね」

 さらりとそんなことを言う。

「おかげではじめてあった気がしないよ。ずっと会うのを楽しみにしてた」

 会えて本当にうれしいと感激したらしい彼は、僕に抱きついてきて頬にキスまでしてくれた。初対面の挨拶にしてはずいぶん情熱的だ。きっと感情のふり幅が大きいのだろう。

「ミッシェル。あなた食事まだ食べてないでしょう? エリックの分と一緒に作るから、ゆっくりしていきなさいよ」

 アレックスはウエイター兼バーテンダーのジュリオを呼び寄せて、盛り付け終わったつまみの皿をカウンター越しに手渡した。

「これ運んだら、しばらくカウンターをお願い」

 そう言い置いて、奥の厨房に入っていく。

「・・・そうなんだ。中央駅の近くに建てるビルの設計を頼まれて。そのつど出張してくるのも大変だからね。こっちには有名な建造物も多いし見たいものもたくさんあるから、しばらく腰を落ち着けることにしたんだ。本当はアレックスの所に泊めてもらおうと思っていたんだけど、なんだか愛想のない男と一緒に住んでて。すごいやきもち焼きなんだ彼氏」

 エリックは僕の耳元に手のひらを立てて声をひそめた。

「あの、アレックスとはどういう?」

 元彼にしては色っぽい感じがまるでない。

「同郷なんだ。ご近所同士。年は離れてたけど仲がよかった。俺にとっては本当の兄さん・・・いや、姉さんか、みたいな人」

「へえ」

 アレックスは田舎の家族の話はしない。

「世話好きなところは全然変わってないな。思いきってこっちに来てみてよかったよ」

 うれしそうに顔をほころばす。

「そうだ。よかったら君の連絡先を教えてくれない? 何かあった時、すぐ連絡できるように。僕が故郷に帰っている時は、アレックスに鍵を預けておくから。これ、僕の自宅と事務所の電話番号と住所」

 エリックはそう言って取り出した手帳にさらさらと書きこみ、ページを破って僕に渡した。

 僕はペンを借りて空白部分に連絡先を書きこみ、一センチくらい上に折れ目を付けて破り取った。エリックに手渡すと、彼はじっと僕が書いた文字をみつめて大事そうに手帳にはさんだ。 

「今日は古書店めぐりをしたんだ。どうしても欲しい本が何冊かあって。すでに絶版になってるから探さないと手に入らない。それでさあ、思いもよらない掘り出し物があったんだ」

 僕にはそこまでして読みたい本はない。大叔父の家にいる時は罰を受けるのが怖くて必死に勉強していたけれど、彼の家から逃げ出した後は学校にも行ってなかった。そのせいで勉学の楽しさを身につけることがなかったけれど、生きていく上で困ったことは特にない。読み書きが出来て簡単な計算ができれば十分だ。

「ローランド・ブルクハルトの画集」

「ローランド・ブルクハルト?」

 先生じゃないか。

「本当に希少なんだ。画集が書店の店頭に並んだとたん出版会社が倒産して。もともとの部数も少なかったから、今じゃ幻の一品さ」

 そうなんだ。

「結構好きなんだよね、ブルクハルトの絵。なんかこう、静かに怒りを秘めた感じが」

 エリックはきらきらと目を輝かす。身近にファンをかいまみて、先生は本当に有名な画家なんだとあらためて感じた。

「そんなにいいんですか?」

 まるで自分のことを誉められたようにうれしい。

「ああ」

 エリックはうなずいて身をかがめると、足元に置いていたバッグから画集を取り出した。

「ほら、この絵のタッチの巧みさ。神がかりとしか言えないよ。実験的な絵もたくさん描いていて常に進化してる。だけど特に気にいってるのはこの絵だな」

 エリックは一通り目を通したらしく、迷いなく中ほどのページを開けた。亜麻色の髪のほっそりとした少年が、優しく微笑んでいる。

 もしかして先生の弟のクラウス?

「弟を描いたこの絵だけは他の絵とはまるで違ってる。愛情が画面の外にこぼれ落ちそうだろう?こんな絵も描くんだって意外だったけど、生き生きとしていて一番感情がこもってるって思わない?」

 ふわりとした笑顔が似合う人だな。

 絵の下には数行の解説と、クラウスの写真がのせられている。先生が描いた絵とそっくり同じだ。僕は食い入るようにその絵と写真をみつめた。

「よかったら貸してあげようか?」

 すっかり黙りこんで瞬きすら忘れていると、エリックが気をきかせて言ってくれる。

「そんないいです。大事な本なのに」

 とんでもないと、僕は勢いよく手を振った。

「遠慮しなくていいよ。君なら大切に扱ってくれるだろうし、部屋を貸してくれているお礼だと思ってくれ」

 そう言ってエリックは、僕の手に画集を強引に押しつけた。そこまで言われるとさすがに断りにくいし、好奇心が勝った。

「じゃあ、ありがたくお借りします」

 僕はエリックに礼を言い、ほくほく顔で両手に抱きしめた。

「近いうちに必ず返しに来ますから」

「いいよ、そんなに慌てなくても」

 エリックは小さく肩をあげてみせる。

「なあに、私がいない間にずいぶん仲良くなったみたいじゃない」

 料理の皿がのったトレーを抱えて、アレックスが厨房から出てきた。

「ミッシェルにはちゃあんといい人がいるんですからね。手なんか出したらだめよ」

「ずいぶん信用ないんだな。どんな人? 年上?」

「ええ」

 僕はうなずいた。

「画家の先生なのよね。しぶくてかっこいいんですって」

「ふーん。絵に興味があるのって、その彼氏の影響なんだ」

 エリックは頬杖をついて呟いた。

「その画集何? ローランド・ブルクハルトじゃないの。エリックの?」

「そう。古書店で偶然みつけたんだ。今ミッシェルに貸したところ」

「えーいいんだ。次私にも貸してよ。ファンなのよ、私」

 アレックスも知ってたんだ。

「もちろんいいけど、その手に抱えてるのは俺たちの夕食なのかな。腹へって死にそうなんだけど」

「ああごめんなさい」

 アレックスはトレーに視線を向けた。

「今日もうまっそうだな」

 エリックは皿が並び終えるのを待ちきれずにフォークを持ってスタンバイしている。

「いっただきます」

 アレックスが最後の皿を置くと同時にエリックは料理に手をのばした。

 牛肉の赤ワイン煮。野菜と豆の煮物。蒸鳥入りのサラダ。オニオンタルト。アスパラと空豆の炒め物。スープもあっという間に平らげ、一緒に出されたパンも次々なくなり、そのあまりの勢いのよさに、僕は片手にパンを持ったままみとれてしまった。小食な先生との静かな食事に慣れてしまったので、人間離れしたものを見た気持ちになっていた。だけど、よく考えてみればこっちの反応が普通?

「アレックスおかわり」

 いや、やっぱり度を越している。

「どうしたのミッシェル。具合でも悪い?」

 手つかずの料理に気がついて、アレックスは心配そうに眉を寄せる。

「そんなことないよ」

 僕はようやく我にかえって、手に持っていたパンにバターを塗った。


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