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過去の男

 家に帰り着くと、先生は熱を出して寝こんでしまった。出かける前から具合がよくなかったのかもしれない。出かけに引き止められたことを思い出して、どうして気づいてあげられなかったのだろうと自分を不甲斐なく思った。

「すぐお医者さんを呼びますから」

 ベッドの脇に膝をついて先生の手を握りしめていた僕は、ようやくそのことを思いたち立ちあがろうとした。

「医者は嫌いだ」

 先生は僕の手をぎゅっとつかんで引き止めた。燃えるように熱い手だ。

「そんなこといってる場合じゃないでしょう」

「いやだ」

 熱に浮かされた震え声で先生は訴える。

「わかりました。でも、明日になっても熱が引かないようならお医者さんを呼びますよ。いいですね」

 先生はじっと僕をみつめている。

「なんですか?」

 僕は心配で仕方がなかった。先生はそのまま力なく目を閉じて、すっと意識を失った。

 夜中中熱にうなされて苦しそうに息をつぎ、うわごとを言ったりしていたが、朝になるとうそのように熱が引いた。規則正しいリズムで繰り返される先生の呼吸を聞きながら、僕はほっと胸をなでおろした。

「ミッシェル」

 先生がけだるげに、うっすらと目を開いて僕の名を呼んだ。

 身をのりだして顔を近づけると、先生はかすれた声で

「医者はいらないからな」

 と真面目な顔で念押しする。

「・・・」

 いったいどれだけ医者嫌いなんだ。しかも意識がなくなる前の話題のままだし。僕はあきれてその場でぐったりしてしまった。

「どうした?」

 問われて僕は起き直る。

「ほっとしてただけです。先生の目が覚めて」

「・・・悪かったな」

 先生は手をのばして僕の頭をなでた。

「ついはしゃぎすぎたようだ」

 僕に触れる先生の手。どうしてこんなに安心できるんだろう。

「本当ですよ。僕に心配かけないでって言ったばかりだったのに」

 感傷的になる気分を言葉の軽さで誤魔化そうとした。

「何か食べられそうですか?」

「ああ」

 先生はうなずく。

「糊みたいなかゆはやめてくれよ。腹が悪いわけじゃないんだからな」

「わかりました。すぐ用意します」

「お茶も入れてくれ」

「はい」

「あと果物」

「果物ですね」

 僕の背中を追いかけるように注文が増えた。

 食事をとってそのままアトリエに向かいそうになる先生を、僕は無理矢理ベッドに戻した。

「まだ微熱が残ってるんですから絶対安静です」

「もう大丈夫だから」

 先生はそう言って起き上がろうとする。

「だめって言ったらだめです。お医者さんは嫌だって言い張るのならこれくらい聞いてください。昨日はこのままほっといて手遅れにならないかって、本当に生きたここちがしなかったんですからね」

 僕が必死に抗議すると、先生は仕方がないとため息をついた。

「じゃあここで俺の話し相手でもしてくれ。ただ寝てるだけだと暇すぎて死んでしまいそうだ」

「いいですよ」

 僕はベッド脇に置いていた椅子に腰をおろした。

「手を握っていてくれ」

 先生が毛布の中から片手を差し出してくる。僕はその手のひらに、そっと自分の手を重ねた。

「お前の手、冷たくて気持ちいい」

まだ熱が体に残っている。

「額冷やしましょうか?」

 僕が尋ねると先生は首を横に振った。

「必要ない。それよりここにいてくれ」

 病気で寝こむと人間気弱になるとは言うが、先生の場合はいつもがいつもなのであまりのかわいらしさに顔がにやけそうになる。

「ミッシェル」

「あっはい」

 不謹慎なことを考えていたことが見透かされたような気がして、僕は慌てて顔を上げた。

「お前に紅茶の入れ方を教えたのってどんな奴だった?」

「何をとうとつに・・・」

 そんな質問をされるとは思っていなかったので正直とまどってしまった。

「そいつのこと好きだった?」

 もしかして嫉妬でもしてるのだろうか。まさかねと思いながら僕は口を開いた。

「好きでしたよ。でも、ずっと昔の話です」

 不意に先生の表情がくもる。

「そいつがお前の初めての相手なのか?」

 話が変な方向に向いてきた。

「ち・・・違いますよ」

 僕はどうにか返事を返した。

 そのときのことを思い出すと今でも息苦しくなる。

「じゃあ、どんな奴だった?」

 僕は自然と先生の手を握りしめていた。

「そんな話聞いてどうするんですか。たいして面白い話でもないですよ」

 冗談めかして煙に巻こうとした。でも先生は、黙って僕が話し出すのを待っている。

「代りに先生の話も教えてくれないとな・・・」

 ぼくはわざともったいぶって、先生が黙りこむのを期待していた。

「美術学校時代のルームメイトだ」

「え?例の後輩?」

「違う。あいつと寝たりしてない」

 ほら話したぞと、先生が視線で催促する。

 これ以上逃げられないと覚悟を決めて、僕は喉に張り付きそうな声を搾り出した。

「僕の両親は早くに死んで、物心がついた頃には親戚中を渡り歩いていました。最後にたどり着いたのが一度も会ったことのない大叔父のところで。彼はしつけに厳しい人だった。すぐに手が出て、殴られることも珍しくなかった。あの日は何が原因だったかは覚えていませんが大叔父をひどく怒らせてしまって。いったんは許してくれたんですけど、夜中に寝ていたところをたたき起こされて、テーブルの上に手をついて立つように言われたんです。彼は僕のズボンを膝の下まで引きおろすとその場で無理矢理入ってきた。それも罰の一つだと思っていたからひどく乱暴で、初めてなのに慣らしてもくれなかった。痛くて血だらけになってこのまま死ぬかと思いましたけど、僕は死ななかったし、人間なんでも慣れるものだって学びました」

 明るい口調を保ちながら笑みを浮かべる。

 たいしたことじゃない。

いつでも僕は、自分に言い聞かせてきた。惨めだと思った瞬間、自分の価値もそこまで引き下げられてしまう。自分を惨めにしてしまう。だから、僕はそう思わなくちゃだめなんだ。

「フランツは・・・あっあの、紅茶の彼なんですけど、大叔父の家を飛び出して行き場をなくした僕を拾ってくれたんです。受け入れることは罰なんかじゃないって愛しあうことを教えてくれた・・・そう考えるとやっぱり彼が初めてになるのかな」

 時間がたてば痛みも薄れる。どんなことにも慣れていくように。

僕はただ、誰かのそばにいたいだけなんだ。そして穏やかに暮らしたいだけ。他には何もいらない。だけど、手に入れるのは難しい望み。一緒にいて居心地がよければ、僕なんかでも隣に置いてくれる。たった一瞬でも幸せになれば。だから僕は、寂しそうな人が好きなのかもしれない。心に踏みこむ余地がありそうだから。さもしく隙をうかがって、今も先生を利用しているのかもしれない。隣にいてくれる人が欲しくて。

 僕は、先生に対して申し訳ない気持ちになる。

「気に入らないな」

 心を読まれた気がしてどきんとした。

「他の男ののろけ話を聞くのは」

 なんだそのことか。僕は内心ほっと息をついた。

「自分できいておいてなんですか」

 僕は今があれば十分なのに。

「それに、フランツはもうこの世にいない人ですからおおめにみてください」

 会いたくても、もう二度と会えない人。

「死んだのか?」

「病気で。あっさり置いていかれました。どんどん悪くなっていくフランツを見守ることしか出来なかった。僕はしぶとく生き残ったのに、僕以外の人間は何でこんなにひ弱くできているんですかね」

 僕の好きな人は、次々いなくなってしまう。

「先生。僕は本気で先生を好きになってもいいですか?」

 僕の手を握りしめるこの大きな力強い手を信じていいのだろうか。

「いつも僕の隣にいてくれるって信じていいですか?」

 このままじゃ、心がとめられなくなりそうだから。

「そうするって、約束してくれますか?」

 僕はうつむいてつないだ僕と先生の手だけをみつめていた。まともに顔を見てはとても言えなかった。それが自分のわがままだとよくわかっていた。先生が迷惑する。気を重くされる前に冗談だと誤魔化そう。だけど、順番から言ったらそっちが先ですかね。なんてったって十歳も年上なんだから。そう言って微笑むんだ。

「約束は出来ない」

 沈んだ先生の声が、僕の鼓膜を震わせた。

「いつ死ぬかなんて誰にもわからないから、守れない約束はしない。すまない。ミッシェル」

 顔を上げて先生を見た。先生は口を閉じてうなだれている。実に申し訳なさそうに肩を落として。

「いやだな先生。そんなに真面目に受取っちゃったんですか?」

 僕は笑い声を立てた。

 心の中では、がっかりしきっていた。正直椅子に腰かけていてよかったと思った。立っているのはちょっときつかったかも。

「こういう時はうそだってわかっていても、いつまでも一緒にいるって言うものですよ。たんにそう言ってもらいたいだけなんですから」

 どれほどの言葉が秘めた思いを押隠して真実のないものになっていくのだろう。軽い口調と軽い態度と。見た目だけの僕に、重さなんてあるのだろうか。

「すまない」

 先生は再び謝る。

 僕が聞きたい言葉をうそでも言ってくれない先生を恨めしく思う反面、その誠実さを好ましく思う。やっぱり先生だって。僕が好きな先生だって。その不器用さが愛しくてたまらない。

「仕方ないですねぇ。じゃあキス一つで許してあげますよ」

 僕は身をかがめてベッドの上に手をついた。先生の唇が僕の唇と重なる。僕はいつも通りニコニコする。能天気にエッチが好きな僕になって。


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